イギリス魔法省の闇祓い局を中心とした特別捜査本部による腐ったハーポの捜索は、誰の目にも分かるほど著しく難航していた。
ギリシャのグリフォン連隊による航空偵察を経てなお、捜索は混迷の一途にあった。
「――以上が、現在の捜索状況です。よいご報告ができないことを申し訳なく思います」
捜査本部長として捜索の指揮を担うスクリムジョールは、ドーリッシュ隊長から受け取った報告書に目を落としながら頷いた。内容はすでに口頭の報告で頭に入っていたが、失態を報告する部下の顔を見ない優しさがスクリムジョールにも備わっていた。
はっきり言って、状況は芳しくなかった。無駄足を踏み続ける捜索に各国から参戦した魔法戦士たちも不平をこぼしはじめ、早くも帰国を選ぶ者まで現れていた。
捜索を難航させている最大の理由が、アルバニア当局の協力姿勢だ。
「このレポートによれば、現地民との協力状況に問題があるとのことだが」
「は。この国ではマグル界、魔法界を問わず贈賄を前提とした社会が成立しており、現地魔法警察すらガリオン金貨をせびってくる状況にあります。貧民街と化した遺跡や盗人しか知らない施設など、地形的な問題にも直面しております」
「……ヨーロッパ一貧しい国、か」
その事実は、特別捜査本部に貸し与えられた建物にも顕著に現れていた。
質の悪いレンガを乱雑に積んだ隙間風がひどい壁に、家畜臭い絨毯。錆びたブリキの屋根には穴が空いており、捜索初日は総出でこの拠点を整備することに時間を費やした。
官僚たちは怠惰かつ強欲で、通行権や捜査権などありとあらゆる点で賄賂を要求してくる。労働党の一党独裁が終末を迎えた直後のこのアルバニア共和国では、民の大半が貧困を理由に何かしらの犯罪や汚職に手を染めている。
スクリムジョールたちにとってそれが厄介な障害であったとしても、アルバニア魔法族にとっては唯一の生きる術だ。魔法は万能ではない。今日の飢えを満たしてくれるパンとスープを出す呪文がない以上、彼らにはアロホモラを唱えて他人の金庫を開けるより他ないのだ。
「シックネス副長が現地の有力者であるカストリオティ家と交渉を進めてくださっていますが、その有力者も先の革命まで獄中にあったとのことで、どこまで影響力があるか……」
「統治者の不在、政治と経済の混乱、高い犯罪率に長い鎖国が生んだ独自の利権構造。どうやら、我々はヌンドゥの巣に分け入ったらしいな」
小さくため息を付くと、ドーリッシュが深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、私がもっと上手くやれていれば」
「誰に任せてもこうなったことは目に見えている。お前の責任ではない、ドーリッシュ」
そうは言いつつも、状況がよろしくないのは確かだった。
マグル界の革命と鎖国に巻き込まれたアルバニア魔法界は、ギリシャらバルカン魔法連合から取り残される形で衰退してきた小さな魔法共同体だ。それはつまり、アルバニア当局に顔のきく魔法族が国外に存在しないことを意味する。
その一方で魔法史的な観点では長い伝統を持つ地域であり、したがって遺跡や遺構など魔法的な力を持ったエリアが各地に点在している。そのいずれも土地に定着した盗掘家や盗賊に支配されたり、あるいは貧民窟になっている。
捜索は遅々として進まず、それなのに調査すべき地点が多すぎる。使える人員の大半は各国から送り込まれた有志の魔法戦士のみ。スクリムジョールをもってしても、この状況は厄介だった。
「やつがアルバニアに逃げ込んだのは偶然ではないだろう。我々は撹乱されつつある。人員の配置を効率化し、調査すべき拠点を見極めなくてはならない」
「は! 全力を挙げます」
「柔軟にやれ、ドーリッシュ。必要に応じて資金は本国から調達する」
勢いよく顔を上げたドーリッシュは、混乱の色を込めてスクリムジョールを見つめた。
この点において、ジョン・ドーリッシュという男を捜査隊長に任じたことは失敗な側面もあることをスクリムジョールは認めざるをえなかった。ドーリッシュの秩序において、捜査のために賄賂を贈るという行為はありえないことだった。
こういう時、ドーリッシュの同期ガウェイン・ロバーズならどうしただろうか。
その考えが頭によぎった時、スクリムジョールは己の醜さに呆れ返った。今更ガウェインに頼ろうなどと、考えるのも恥ずべきことだ。
ジャケットの内ポケットから小切手を取り出したスクリムジョールは、ドーリッシュにそれを差し出した。
「金であろうと、食料であろうと、他のなにかであろうと、要求されるものは差し出していい。我々には足踏みをしている時間などない。わかるか、ドーリッシュ。時には裏口をノックするべき瞬間もある」
「は……しかし」
「ドーリッシュ。このままではロバーズの復帰をお行儀よく座って待つことになるぞ」
ドーリッシュははっと息を呑み、渋々ながらスクリムジョールの小切手を受け取った。
この捜査には闇祓い局の、イギリス魔法界の威信がかかっている。ティーンエイジャーと老人に頼らずともイギリスは国難を払えるのだということを世界に示さねばならない。
思わず口調がきつくなるのを自覚しながら、それでもスクリムジョールは机の向こうに立つドーリッシュを厳しい視線で見上げた。
「期待しているぞ、ドーリッシュ隊長。魔法戦士たちの手綱をしっかり握れ。国際魔法界全体の安全と平和がかかっている」
「は!」
直してなおまだ建付けの悪い扉を押して退出していったドーリッシュと入れ替わる形で、今度はパイアスがこの臨時執務室に姿を現した。
珍しく眉間に皺を寄せていたパイアスは、スクリムジョールの視線に気がつくと困ったように首を掻いた。長い付き合いのスクリムジョールには、彼が本心から困り果てていることがよく理解できた。
「どうした」
「いくつか厄介な報告がある、ルーファス。すまないが、いい報告はひとつもないんだ」
「聞かせてくれ」
椅子を引いて座ったパイアスは、一瞬天井の角にある蜘蛛の巣に目をやってから口を開いた。
「有力者のカストリオティ家に会ってきた。今の当主はマリア・カストリオティという魔女だ。彼女の母は労働党政権下で投獄され、彼女を獄中で産んだ。自由主義革命で解放されてようやく屋敷を取り戻したばかりという状況だ」
「どの程度の力がある?」
「カストリオティ家はオスマン帝国に対抗した一族で、国内のカトリックやギリシャ正教の信徒には強い影響力を持っている。だが、今この国の大半はイスラム教を信じているんだ」
「宗教か。厄介だな」
イギリス魔法界は比較的宗教色の薄い魔法共同体だが、それはイギリスという国家の宗教的独自性によるものであって、魔法族自体が全く宗教に関心を抱かないわけではない。
むしろ、純血の力が弱い国ではマグル生まれや半純血の魔法族が多く、マグル界の政治や宗教思想が魔法界に強く影響を与えることも多い。このアルバニアという国もまさにそういった非純血的魔法共同体のひとつだ。
スクリムジョールは信じる神を持たない。しかし、闇祓い局の局長として宗教の力は重々承知している。もしハーポが宗教的な理由から匿われているのだとすれば、捜査はかなり厳しいものになる。
「それだけじゃない。今日屋敷を訪ねたけれど、マリア・カストリオティはかなり裕福な生活を送っている。銀の食器、大理石のテーブル、混ぜ物のない茶にバターをたっぷり使った焼き菓子まで出た」
「……どこかから金が流れていると、そういうことだな?」
パイアスは頷き、ローブの懐から一冊の帳簿らしきものを取り出した。薄汚れていて、表紙には呪文を受けたらしき焼け焦げもあったが、スクリムジョールは気にせずそれを受け取った。
どうやら、その帳簿は国境警備の入出記録のようだった。公的な記録ではない。誰がどのような賄賂を払い、どのような便宜を図ったかのリストだ。
「いざという時に当局のお目溢しをもらうための記録だろうね。出してもらうのに随分とガリオン金貨を吐き出させられた」
「請求は私につけてくれ。……今年に入ってから密入国が急速に増加しているな。賄賂の金額もこれまでよりはるかに多い」
「コソボからの人間が明らかに増えているんだ。警備隊の魔法使いによれば、彼らは決まって大量の荷物を抱えていて、決まった額の賄賂を払うそうだ」
「コソボ自治州……厄介だな」
コソボとは、セルビアの南端に位置する自治州である。アルバニア北部と国境を接し、国民の大多数がアルバニア人で構成されている。
戦時下での分割統治や民族的な衝突が災いし、このアルバニアが可愛く思えるほどの混沌とした治安情勢にある。それだけではない。国家として承認されていない自治州という性質上、魔法省が設立されておらず、連携を取るべき当局が存在しないのだ。
パイアスは椅子に座り、大きくため息をついた。いつもオフィスの雰囲気に気を配る穏やかな彼には似合わない、くたびれきった態度だった。
「これは私の勘だ、ルーファス。でも間違いないと思う。何者かが我々より先にアルバニアに目をつけている。その人物はコソボを経由して足のつかない形で惜しみなく資金と人員を注ぎ込み、我々の捜索を撹乱している」
「官僚たちは非協力的なのではなく、サボタージュを行っていると?」
「なぜ彼らが現地通貨ではなくガリオン金貨を要求すると思う? すでにこの国ではガリオンが通貨として流通しつつある。その信用が短期間に成立するくらいにまで、膨大な額の金貨を注ぎ込んだ何者かがいるんだよ」
スクリムジョールはしばらく黙って帳簿を捲っていた。
食料、酒、女。そのラインナップにガリオン金貨が登場したのは比較的最近のことだ。しかし、すでに官僚たちはガリオン金貨に慣れきっている。
誰かがこの国をガリオン金貨で買い占めようとしている。
「この後、南部の貧民街でムスリムたちを指導しているイマームに会ってくる。そのエリアはここ数週間で人口が5倍になっているらしい。誰かが彼らを養っているということだ」
「……そして、あるいはその誰かが我々の捜査を妨害するために彼らを使っている」
「そのイマームが知っているとは思えないけれどね。彼らには匿名の喜捨システムがある。たとえば、高額の喜捨とともに指令が書かれていて、その指令を果たせば再び喜捨が行われる、みたいなことがあったとしたら」
「アルバニア内部、いや、コソボを含めたアルバニア人ムスリム全体に影響力を持つことになる、か……」
「それはつまり、アルバニア人の約7割を動員できる何者かがいるということだ。そして、残りの3割に影響力を持つカストリオティ家はすでに押さえられている。ルーファス、我々はもしかすると勝ち目のない戦いに挑んでいるのかもしれない」
とてつもない徒労感が、スクリムジョールの肩にのしかかった。
ポケットからシガーケースを取り出し、紙巻きたばこに火をつけたが、煙を吸ってもその徒労感は消えなかった。巨人に芯の通っていない棒きれ一本で挑んでいるような気分だった。
「本国の闇祓い局を仕切ってくれているアラスターに連絡して本国でも調査をしてもらっているが、このバルカン半島に野心を抱いている連中は少なくない。旧ソ連魔法族や、中国魔法界の共産系、オスマン魔法連合が動いている可能性もある」
「……だが、引くわけにはいかん。この一件には英国魔法省の威信がかかっている」
「他国の協力を仰ぐわけにはいかないのかい? ドイツ魔法大使から闇祓い局にかけあってもいいと連絡を受けているよ。マルフォイ家からも、ギリシャ魔法省に圧をかけてもらえる」
「パイアス」
最大の問題は、スクリムジョールとパイアスの間に方針の違いがあることだ。
「お前が私をグリーングラス閥に抱き込みたいのは理解している。ダフネ・グリーングラスがドイツ魔法大使と接触したのは把握済みだ」
「それは君が追い込んだからだろう、ルーファス。君はガウェインを使ってダフネを政治的に孤立させようとした、違うかい? だから彼女は国外の力に頼るしかなかった」
「そうだ。……この国を見ろ、パイアス。長く続いた独裁と鎖国、無責任で無秩序な革命が生んだのは、貧民が貧民を襲い殺し奪う国だ。混沌だよ。政治的な混乱が生じれば、明日のイギリスが同じ姿を迎えることも容易にありえるのだぞ」
静かにスクリムジョールを見つめるパイアスの瞳には、一切の動揺も躊躇いもない。彼はダフネを信じている。それが羨ましく、腹立たしかった。
知っている。ダフネは優秀だ。彼女がいなければ、あと一歩でイギリスという国は陥落していた。その汚名を雪ぐためにスクリムジョールは自らアルバニアに赴いた。ダフネ・グリーングラスの名には今やう闇祓い局局長の名でしか対抗できない重みがあると感じたのだ。
しかし、14歳の魔女にイギリス魔法界が左右されるなどということは、責任ある大人として決して認められなかった。彼女は暴走する箒だ。力を取り上げる必要がある。
なるほど、実力はあるのだろう。信念も伴っているのだろう。今や支持基盤すら手に入れつつある。しかし、ダフネには経験が足りない。経験不足の夢見がちな14歳に預けていいほど、イギリス魔法界の舵は軽くはない。
政治は遊びではない。
失敗しました、英国魔法族が路頭に迷いますが責任は取れません、では済まないのだ。
「私はダフネ・グリーングラスの実力を疑っているわけではない。経験を疑っているのだ。彼女は若い。政敵と戦ったことなどほとんどないだろう」
「だから、君が彼女の敵になる……と言いたいのかい?」
「私はそこまで親切ではない。お前も知っての通り、私は政治家の器ではない。どこまでいっても私は闇祓い局の魔法使いだ。その程度も越えられないような人間に、イギリス魔法界の舵取りは任せられないということだ」
煙草の煙を大きく吸い込んだスクリムジョールは、灰皿に吸い殻を押し付けながら息を吐いた。
優秀なダフネなら、スクリムジョールが仕掛けた争いにはすぐに気がつくだろう。これで彼女は国際魔法政治に漕ぎ出すことになる。
成功すればよし、失敗すれば国難を招いたとして魔法法執行部の立場から糾弾することもできる。彼女が作った借りを返す代わりに、政界からは退場してもらう。
「そこまで彼女を警戒する必要があるのかい?」
「私の立場を教えてやろう、パイアス。しばらく仕事に集中しているうちに、一番目をかけていた部下と一番頼りになる副官を両方寝取られた男だ。これ以上の間抜けを演じてやるわけにはいかん」
しかも、スクリムジョールはダフネとの政争のために一番目をかけていた部下を労う権利すら失ってしまった。ドーリッシュがガウェインのために義手のことを調べているのを知っていて、それをやめさせすらした。
最低の上官だと自分でも理解している。そのうえで、それでもダフネ・グリーングラスという魔女にはそれほどの警戒心を向ける価値があると、闇祓い局局長としての本能がそう訴えている。
この一件でダフネの力を借りれば、闇祓い局はグリーングラス閥の統制下に置かれる。それはつまり、ひとつの派閥がイギリス魔法界内の法執行に強い影響力を持つということだ。そして、それはグリーングラス独裁の始まりになる。
法執行機関を預かる者として、急成長する権力に肯定的ではいられない。
「わかったよ、ルーファス。私も副長としての責務を全うする。君は少し休んだほうがいい」
「いや、それよりもこの後のイマームとの面会に同行したい。今夜の予定は?」
「コソボに行って夜市で現地の両替商に話を聞いてみるつもりだった。誰が金を流し込んでいるのか、早いうちに特定したいからね」
立ち上がってジャケットの襟を整えたスクリムジョールは、曇った窓ガラスの向こうに沈む夕日を見た。
あるいはダフネが政界の頂点に立つのならば、やがてスクリムジョールは排斥されるだろう。その未来は決して遠いものではない。スクリムジョールがダフネを警戒するのは、ダフネに実力があるからだ。
その時、少しでも魔法界の秩序を守りながら消えていけるように、今はできることをするしかない。
「では、今夜のディナーはコソボの夜市で決まりだな。デートに付き合ってくれるか、パイアス」
「もちろんだとも、ルーファス」
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