「やあ、君もホグワーツかい?」
「うん」
ハリーは緊張していた。
自分以外の、同世代の魔法使い。そんなものは今までの生活のどこにもいなかった。もしいたら、バーノンがゴルフクラブを持って追い回していたに違いない。
「僕の父は隣で教科書を買ってるし、母はどこかその先で杖を見てる」
気だるそうな、気取ったような話し方をする男の子だった。
青白い肌。顎は尖っていて、神経質そうな印象を受ける。ホワイトブロンドの髪はしっかりとセットされていて、育ちのよさを感じさせた。
「これから、ふたりを引っ張って競技用の箒を見にいくんだ。1年生が自分の箒を持っちゃいけないなんて、理由がわからないね。せっかく僕が入学するんだ、このタイミングでチームの箒を更新すべきだ」
口ぶりはどこかダドリーに似てわがままだった。
しかし、どうやらこの男の子はダドリーとは少し違うようだぞ、とハリーは感じた。ホグワーツで箒を何に使うのかはハリーには皆目見当もつかないが、少なくとも彼はチームとやらのことも考えて言っているようだ。
「君は自分の箒を持ってるのかい?」
「ううん」
「クィディッチはやるの?」
「ううん」
クィディッチとはなんだろう。
ハリーはできるだけ疑問を顔に出さないようにしたが、男の子は得心がいったように頷いた。
「もしかして……マグル界から来た子だな? 親はマグルなのか?」
「うーん、魔法使いと魔女だったって聞いたよ」
男の子は少し気まずそうな顔で黙った。何かを思い出しているような、ここではないどこか、もしくは誰かを見ているような目をしていた。
親を知らないというのはもしかしたらまずかったかもしれない。
見るからに育ちのいい子だ、孤児には関わりたくないと思ったのだろうか。確かにハリーがつい先程まで着ていた服はお古のボロボロで、一歩間違えればストリートチルドレンのようだった。
それほど親しくなりたいという感じの子でもなかったが、少なくとも彼はハリーより魔法界に詳しいだろう。ハリーは彼ともう少し話をしてみることにした。
「両親は僕がうんと小さい時に死んじゃったんだ。それで、親戚の家で育てられた。だから、魔法界のこと何も知らなくて」
「それはご愁傷さま」
「その、マグルの家庭で育った子どもが来るのって珍しいの?」
「……まあ、珍しいというほどじゃない。色々と苦労すると思うけど……
男の子が差し出した手を、ハリーは思わず
「ありがとう! 僕、本当に心細くて……」
「新入りの面倒を見るのは僕のような名門の生まれにとっての義務みたいなものだ。それに、両親とも魔法族ならもしかしたら僕らは親戚かもしれないし」
ハリーが「どういうこと」と問いかけるよりも早くマダム・マルキンが「さあ、終わりましたよ、坊っちゃん」と男の子に踏み台から降りるよう促した。
男の子は踏み台から優雅に一歩ずつ段を踏んで降りたあと、ハリーに目をやって手を上げた。
「それじゃ、ホグワーツで会おう」
「待って、まだ君の名前を聞いてないよ!」
「ホグワーツに来ればわかるさ、必ずね!」
命綱を垂らされてすぐに取り上げられたような気分だった。
ローブの採寸が終わったあと、ハリーはハグリッドとフォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーに行き、ナッツ入りのチョコレートとラズベリーアイスを食べた。
「ねえ、ハグリッド。クィディッチってなあに?」
「なんと、ハリー……お前さんがなんにも知らんということを忘れとった……ジェームズの子がクィディッチを知らんとは!」
「落ち込ませないでよ」
ハリーはマダム・マルキンの店で出会った青白い子の話をした。できればハグリッドがその子のことを知っているといいなとも思った。
「その子が言ったんだ。ホグワーツに来ればわかるさって。名前を知らないのに、彼のことを見つけられるかな?」
「うーむ、そいつは純血の上流階級の子に違いねえ。あの連中は自分から名前を名乗ることが恥だと思っちょる。それが高貴な身分の人間のやり方っちゅうもんなんだそうだ。子どもにまで貴族ごっこをやらせて、何がしたいのだか」
ハグリッドに言われて、ハリーは気がついた。まず自分が名乗るべきだったのだ。
ハリーは赤面したのを隠そうと、俯いてアイスを舐めた。アイスは絶品で、火照った頬も自然と冷めていった。
話題を変えようと、ハリーはハグリッドに質問を続けた。
「それで、クィディッチって?」
「俺達魔法族のスポーツだ。マグルの世界じゃ、そう、サッカーだな。クィディッチが嫌いなやつなんかひとりもおらん。箒に乗って空中でゲームをやるんだ」
ハリーは先ほど男の子が言っていたことをようやく理解した。彼はクィディッチチームの箒の話をしていたのだ。
「ホグワーツの寮対抗クィディッチリーグはすごいぞ、ハリー。お前さんもきっと夢中になる」
「寮対抗ってことは、寮がいくつもあるの?」
「そうだ。グリフィンドール、レイブンクロー、ハッフルパフ、スリザリン。お前さんはきっとグリフィンドールだ。ジェームズとリリーがそうだったからな。勇敢なやつが行く寮だ」
「勉強のできない子が行く寮はないの?」
「できるやつならレイブンクローだ。ハッフルパフには劣等生が多いとみんなが言うが、偉大で高名な学者先生の出身寮でもある」
次第にハリーの気持ちは重くなっていった。
ハリーには何もない。勉強の成績だってよかったわけではないし、運動神経が抜群にいいわけでもない。話し上手かと言われればそうでもないし、人に頼られるタイプというほど人と接した経験もない。
もちろん、自分を勇敢だとも思わない。
果たして、自分に合う寮などというものがあるのだろうか?
「――才能とは、自分自身を、自分の力を信ずることだ」
鈴のような声がそう囁いた。
まるで妖精がいたずらに囁いたかのような気配に、ハリーは一瞬道にそういう魔法がかかっていたのかとすら思った。しかし、それは確かに人の声で、女の子の声だった。
見上げると、建物の二階から突き出したテラスにいる女の子がたおやかに手を振っていた。
艶のある黒髪を編んで肩に垂らした姿は大人っぽく、それでいてグリーンの瞳は悪戯げにきらめいていた。
「マクシム・ゴーリキーの『どん底』ですわ。ロシア文学はお好きかしら」
「おお、ダフネ! ハリー、ダフネ・グリーングラスだ」
「ご紹介ありがとう、ルビウス」
ダフネは杖を取り出してなにか呪文を小声で唱えたあと、なんと、テラスから身を乗り出した。
間違いなく落ちる。
最悪の事態がハリーの脳裏に浮かんだ。
「危ない!」
ハリーは咄嗟に身を投げだして、ダフネを助けようとした。
その上を、ダフネはふわりと、まるで散った花びらが空気と踊りながら地面へと降りていくかのようにして降りてきた。
石畳の上で伸びて土埃だらけになっているハリーに、ダフネは嫌な顔ひとつせず手を差し伸べてくれた。
「あ、ありがとう」
「こちらこそ。私を助けようとしてくださったのですよね?」
「うん、まあ。だけど、君には必要なかったみたいだね」
「そんなこと仰らないで。助けようと思う心が大切なのですわ。私、とても温かい気持ちになりました」
ダフネの手は温かく、まるで彼女の言葉通りに気持ちの温かさが手まで伝わっているのではないかとハリーはドキドキした。
「はっは、相変わらずとんだお転婆だ。今日は新学期の買い物か?」
「アークタルス様のお見舞いの帰りですわ。いいところに通りがかりましたわね。お会いできて嬉しいですわ、ミスター・ポッター」
「え、なんで……僕、名前を名乗ってないよ」
クスクスと悪戯げに微笑んで、ダフネはハグリッドを見上げた。
「漏れ鍋はすごい騒ぎでしたわ。誰かがふくろう便を飛ばしたみたいで、一目でもハリー・ポッターを見ようとごった返していましたの。帰りは別のルートを使ったほうがよろしいかと」
「おお、そりゃいかん。ハリー、帰りは俺が知っちょる裏道を使おう」
「うん。……えーと、ミス・グリーングラス?」
「ダフネで結構ですわ。そのかわり、私もハリーとお呼びしてよろしくて?」
ハリーが首肯すると、ダフネは嬉しそうに手を握りしめた。それでようやく、ハリーは自分がずっと彼女の手を掴んだままだったことに気がついた。
恥ずかしくて耳が熱くなる。
思わず手を離してから、失礼ではなかったかとそわそわしてしまう。
同世代の女の子とちゃんと話した経験など、ハリーにはほとんどなかった。ましてや自分に好意的な女の子と話すのは初めてだ。ダドリー軍団にいじめられているハリーと関わりあいになろうなどという女の子は今までひとりもいなかった。
ドキドキして何を言えばいいかわからず、ハリーはハグリッドを見上げた。
「ふたりはどういう知り合いなの?」
「毎年一度、当家の庭を手入れしていただいている仲ですわ。当家の庭は魔法生物が集まりやすいので、専門家に頼ることにしているんですの。傷つけるのも可哀想ですし、かといって放置すれば庭が荒れ放題になってしまうでしょう?」
「代わりに毎年、上物のシードルをもらっちょる。ここらじゃ一番味のいいシードルだ。ハリー、お前さんにはまだ早いがな」
ハリーは想像してみた。
大きな、宮殿のようなお屋敷の庭にたくさんの生け垣や果樹が植わっていて、そこに見たこともない生き物があちこちから顔を覗かせている。
そして、ハグリッドが大きな造園鋏を手に、厚い手のひらで動物たちを可愛がりながら庭の手入れをしていくのだ。コートのポケットにはシードルの小瓶が入っていて、いつでも楽しむことができる。
それはどこか、絵本に描かれる童話の世界のようだった。
「それって……すごく素敵だね。きっと立派な庭なんだろうなあ」
「いつでも遊びに来てくださいまし、歓迎いたしますわ。……名残惜しいですけれど、そろそろ行かないと。アステリアを待たせていますの」
「おう、またなダフネ」
「またね」
ダフネは優雅に会釈して、それからハリーの耳許で囁いた。
「助けようとしてくれてありがとう、勇敢でかっこよかったですわ」
ハリーが真っ赤になっている間に、ダフネは去っていってしまった。
ハグリッドが大笑いしながらハリーの背中を何度も叩くので、ハリーは危うく先程まで食べていたアイスクリームを吐き戻すところだった。
からかわれたのだろうか。
ハリーは悲しい想像をしそうになったが、ハグリッドの呟きがそれを打ち消した。
「一時は死に物狂いで心配しちょったが、今は明るくていい子になった」
「……死に物狂い? 何があったの?」
「いいか、ハリー……ジェームズとリリーを亡くしたお前さんにならきっと辛さがわかると思うが……あの子も両親を亡くしたんだ。それも、母親はあの子の前で自殺して、あの子が喪主を務めた。酷な話だ。普通、親なら自分の娘にそんなことはさせんだろうが」
ハリーは振り返ったが、もうそこには彼女の姿はなかった。
あんなに明るく、華やかに見えたダフネが、まさかそのような影を背負っているとは。ハリーには想像すらつかなかった。
親の死因すら知らずに親戚の下で過ごすのと、親の死を目撃したうえで孤独に過ごすのでは、苦しさの重みもかなり性質が異なってくる。それでも、彼女が抱えているであろう苦しみの一端はハリーにも理解できるような気がした。
「血の呪いっちゅう厄介な呪いにかかってる一族でなあ。妹の呪いを解こうと躍起になってあっちをちょこちょこ、こっちをちょこちょこ。最近はよその年寄りの世話までしちょる。一生懸命でいい子だ、仲良くせんとな、ハリー」
「うん……でも、僕、何かあの子の役に立てるかな」
「ハリー、ダフネが言っちょっただろうが。心だ、心。助けようっちゅう心が大事だ」
それならハリーにもできる気がした。
だんだんと、ハリーは魔法界に安堵を抱きつつあった。ハグリッドだけではなく、同世代の魔法族と出会ったことで「やっていけるかもしれない」という希望が胸に宿りはじめた。
それは間違いなく、マダム・マルキンの洋裁店で出会った男の子のおかげでもあったし、先ほど降ってきたダフネのおかげでもあった。
しかし、疑問もあった。
結局、ダフネはどうしてハリーの名前を知っていたのだろう?