ダーズリー家を後にした帰り道のことだった。
アステリアが付き添い姿くらましで酔うので、たまにはいいだろうとロンドンまで電車で出て、そこから漏れ鍋で夕食を済ませ、暖炉を借りることになった。久しぶりの外食にアステリアはウキウキしていた。
話したいことは山ほどあった。
しかし、そのすべてが後回しになった。漏れ鍋のテーブルが4名ですでに予約されていたからだ。もちろん、予約など取ってはいなかった。
「こんばんは、ダフネ、アステリア、それにガウェインも。今夜はいい夜じゃ。もしよければ、わしもご一緒させていただきたいのだが、かまわんかのう」
半月型の眼鏡の向こうで、淡いブルーが微笑んでいた。
アルバス・ダンブルドア。
現ホグワーツ魔法魔術学校校長、国際魔法使い連盟上級大魔法使い、ウィゼンガモット首席魔法戦士。グリンデルバルドの欧州魔法大戦、ヴォルデモートの英国魔法戦争ともに光の陣営で魔法戦士として戦い、指揮を取った大英雄である。
その老人が、漏れ鍋のガタつく椅子に腰掛けてにこやかにダフネたちの到着を待っていた。
「わあ、もちろんです! いいですよね、お姉様?」
「ええ、ぜひ。入学前から先生と食事を一緒にできるだなんて、友達に知られたら嫉妬されてしまうかもしれませんわね」
「あー……面談でしたら、俺は帰ったほうが?」
「構わんとも、ガウェイン。君の話もたっぷり聞かせてほしい。先日はウェールズの鬼婆を見事に逮捕せしめたそうじゃのう」
こうして、ダフネたちはダンブルドアと夕食をともにすることになった。
漏れ鍋の使い込まれたテーブルで一番綺麗なものを店主のトムが用意してくれた。そこにまっさらなテーブルクロスが敷かれ、成人ふたりにはシェリー酒が、ダフネとアステリアにはぶどうジュースが配られた。
「さて、何に乾杯したものか」
「あら、もう決まっていると思いませんこと?」
「やはりそう思うかね」
ダンブルドアはクスクスと笑って頷き、グラスを掲げた。
「ハリー・ポッターに」
「ハリー・ポッターに!」
ぶどうジュースは食前用に水で薄められていたが、それでも濃厚で果実感をよく舌で味わうことができた。
それから順番に出てきた岩牡蠣のジュレもひよこ豆のスープも絶品だった。ダフネがいつもどおりの調子で食べているので、アステリアとガウェインも自然と緊張が解け、会話が弾みはじめた。
「では、もう新学期の準備は整っているのですね。いよいよ私もホグワーツ入学……」
「待ち遠しいかね?」
「辛いですわ! 1年間もアステリアと引き離されるだなんて!」
「もう、お姉様ったら!」
「でも先生、ダフネのアステリアに対する溺愛っぷりときたらすごいんですよ。俺なんかいっつも蚊帳の外なんです」
「それがあなたの仕事ではなくって?」
「ほっほ、闇祓いの護衛すら身内のようにしてしまうとは、ダフネは人に愛される才があるようじゃのう」
「そうなんです、お姉様はお友達を作る天才なんですよ!」
逃げ出そうとする魚料理をナイフとフォークで捕まえながら、テーブルは温かな会話に包まれた。
その温かさは間違いなく、アルバス・ダンブルドアの人心掌握術によるものだった。
当然ガウェインはダンブルドアに警戒などしていないし、アステリアもダンブルドアを恐れる理由などない。ダフネだけが、ダンブルドアを拒む理由があった。
「その愛される才は今日も存分に発揮されたようじゃのう。あの後、バーノンは癇癪を起こしてお気に入りのゴルフクラブを捻じ曲げてしまったそうじゃ」
「それは悪いことをしました。できる限り気を使ったつもりだったのですが」
「無論、君はとてもうまくやった。問題はむしろハリーの方にあったのじゃ。これまでかかった生活費分を支払うというハリーの申し出が、バーノンのプライドをいたく刺激したようでのう」
咎めるような言い回しだったが、ダンブルドアは全く気にしていないかのように朗らかに笑った。
「君が魔法運輸部に声をかけてくれたのは幸いじゃった。あのスティンチコームの美しい屋敷が再び主を迎える日が来たのは喜ばしいことじゃ」
「彼とロンドンで出会ったあと、ハグリッドに手紙の送り先を聞きましたの。驚きましたわ、まさかマグルの保護者に育てられていたなんて」
「悲惨なことじゃ。ハリーの両親の親族で唯一子どもを預かれる伝手がダーズリー夫妻じゃった。君はダーズリー夫妻をどう思うかね?」
難しい問いかけだ。
ダフネはフォークを置いてしばし考えた。これは人格テストだと思っていいだろう。ダンブルドアはダフネの行動を訝しんでいるに違いない。
警戒される要素はいくらでもある。
グリーングラス家の外戚からは死喰い人が出ている。グリーングラス家に伝わる血の呪いの研究は生命に関するもので、ダンブルドアはヴォルデモートが死んでいないと確信している。つまり、ダフネがヴォルデモート復活を企図していないとする根拠がほしい。
そのうえで、ダフネは答えた。
「本来、愛のある方々なのだろうなと感じましたわ」
「ほう?」
「彼らの家、写真で溢れていました。日々の幸せを少しでも記録に残しておこうという、愛に溢れた振る舞いですわ。何かボタンの掛け違いがなければ、ハリーもあるいは愛の内側にいたのかもしれない……そう思います」
ダンブルドアはナイフとフォークを置き、ゆっくりと手を叩いて称賛を示した。
ダドリーをあそこまで愛せる人々だ。愛がないわけではない。魔法族でなければ、もしくは分霊箱でなければ、ダドリーほどではないにしろダーズリー夫妻はハリーを可愛がったかもしれない。
どうやら、その点についてダンブルドアは同意見のようだった。
「わしもそう思うのじゃ。ハリーは確かに今、苦しい環境に置かれておる。わしであればきっと3日とたたずに心が折れて泣き出すところじゃろう。しかし、ハリーは耐え、バーノンはそれを認めている」
「だから、引き離すべきではないと?」
「その点に関して、君の判断は褒め称えられるべきじゃとわしは思う。バーノンの言う通り、君はおとぎ話の魔女のようにハリーを攫ってしまうことだってできたのではないかね?」
そう茶化すように言ったが、目は真剣だった。
その一言でダフネにはダンブルドアの危惧するところが理解できた。ダンブルドアはハリーに魔法界への依存的帰属意識を持たせたいのだ。そのためには、ハリーの逃げ道は限定的でなければならない。
隠れ穴やグリモールド・プレイス12番地にハリーから赴くことはできない。招待されて初めてハリーはダーズリー家を脱出することができる。
魔法界に救われたという経験を反復させたいのだ。
問題は、ダフネがこれを
「確かにハリーは自分で何でもできそうな子ですけれど……だからといって、いきなり知らない土地で一人暮らしというのはまた別の苦難だと思いませんこと?」
「その通りじゃ。わしは一度、姿あらわしに失敗してコンゴの山奥に取り残されたことがあってのう。偶然にも親切な猿と出会わなければ、あそこで飢えながら捜索を待つ羽目になっておったじゃろう」
「あら、ダンブルドア先生にもそんなことが?」
「もちろんじゃとも。人は誰しも失敗する。ハリーの相続については、ハグリッドとわしが協力して進めるつもりだったのじゃ」
「ルビウスに?」
話が逸れはじめた。
原作を見る限り、これはダンブルドアの得意技だ。脱線して煙に巻き、困惑しているところで本質を一刺しする。それで狼狽えれば、あとはダンブルドアの思い通りだ。
そして、ダンブルドアはそういった隙を作ることへの余念がない。
ルビウス・ハグリッドを紹介してきたのは、他ならないダンブルドアなのだ。ホグワーツが夏休みの間だけの手伝いとして派遣されてきたハグリッドは、ダフネの見立てどおりならダンブルドアのスパイだった。それも、自覚のないスパイだ。
「そうじゃ。グリンゴッツの鍵をハリーに渡す前に相続を済ませておくはずだったのじゃが、ほれ、お役所仕事にハグリッドもわしも散々振り回されてのう。結局、家名義で直接相続できる金庫を先にということになったのじゃ」
「左様でしたか。私、差し出がましいことをしてしまったかしら」
「おお、そんなことを言われてしまってはもたついていたわしは顔なしじゃ」
わざとらしく嘆くダンブルドアの姿に、アステリアが笑い声を上げた。
原作ではスティンチコームの屋敷はハリーに相続されなかった。そのことをダフネは知っている。しかし、相続されなかった理由は想像の域を出ない。
それでも、あのダンブルドアが手続きの都合で相続させられなかったということだけはありえない。そこには何かしらの意図があり、相続させたくなかった理由があるのだ。
しかし、その割には屋敷や土地は処分されることなく、相続人を待ち続けていた。
「でも、実際のところ、ハリーがあのお屋敷で暮らすのはかなり先のことになるのではなくて? 学生のうちは屋敷の手入れに気を使っている暇などないでしょうから」
「目の前にお宝があるのに届かないというのは、少し苦しいかもしれんのう」
「それでも、いつかは救いがあると思えるだけで人はまっすぐ生きられるものですわ。私がそうですもの」
あえて自分から開示していく。
ダンブルドアはにこやかに、しかし礼儀正しい態度でダフネに続きを促した。
「先生も御存知のとおり、私達グリーングラス家の血は呪われています。でも、それで立ち止まってはいけないのだわ。信じられる友を増やし、たくさんの力を借りて、一歩ずつ生きていかねば」
「なんと……見事じゃ。わしの心配はどうやら杞憂だったようじゃのう」
「あら、ご心配いただいていたのですね。あのアルバス・ダンブルドアに心を痛めていただいたというだけでも、百人力のように思えますわ」
運ばれてきた肉料理にナイフを入れながら微笑むと、少しだけダンブルドアの瞳に影が射した。
原作を知っているからわかる、ほんの一瞬の影。それは間違いなくダンブルドアが抱える後悔であり、無力感だった。それはかつて妹のアリアナを喪って以来、ずっと彼の心を蝕んできた病だった。
なるほど、とダフネは理解した。
すべて杞憂だったのはダフネのほうかもしれない。最初からダンブルドアはダフネを警戒していたわけではなかった。むしろ逆だったのだ。
アルバス・ダンブルドアは、ダフネに若き日の自分を重ねている。病の妹を庇いながら、魔法界のためにと行動する野心ある若者。
もしかすると、彼はダフネをそのように見ているのかもしれない。
「私には家族がいて、信頼できる友がいます。それだけで全てがうまくいく、そうではなくて?」
「……そうとも。今日聞けるなかで最大の金言と言えるじゃろう。君の絆は美しい」
「金言ならこちらのほうが好みですわ。平等は愛の最も固い絆である」
「レッシングはドイツの劇作家でも飛び抜けて愛を知る人物だったとわしも思う。しかし、君もまた愛情深い、素晴らしい若者のようじゃ。……おお、なんと、このソースは香りだけでも食欲が100万倍になったような心地じゃ!」
ダンブルドアは鷹揚に頷き、肉料理にナイフを入れた。
アステリアとガウェインはふたりのやり取りを不思議そうな顔で見守っていたが、やがて関心は肉料理のほうに移った。
結局のところ、ダンブルドアはダフネを心配していたのだ。
若き日のダンブルドアはより「大きな善のために」という標語のもとに魔法族の
しかし、ダフネは違う。
ダフネもまた革命を志している。しかし、その本質は内向きであって、外向きではない。ダンブルドアの危惧するような争いにはならない。なにより、止めてくれる家族と、仲間がいる。
「君たちと食卓を共にできたことを、わしは誇りに思おうぞ。ダフネ、君のような生徒を迎え入れることができたのはホグワーツの誉れじゃ」
「あら、嬉しいですわ。張り切ってしまいます」
「では、先生たちにたっぷり課題を用意して待っておくようにと伝えておこうかの」
最後に提供されたチョコレートケーキまで完食して、ダフネたちはダンブルドアに別れの挨拶をした。
「ああ、それから、ダフネ」
「なんでしょう、先生?」
「わしに何か言いたいことはないかの?」
一瞬、背筋が凍った。
ダフネはうまく笑って、ダンブルドアにこう返した。
「そうですわね……おやすみなさい、先生!」
「うむ、おやすみ、ダフネ」
最後の一言。
あれは、トム・リドルにもかけたものではなかったか。