明日にはホグワーツ行きという夜に、グリーングラス邸は窓を開けて夏の夜風を吹き込ませていた。風上の果樹園から吹き抜けてきた風は、緑を感じさせる爽やかな風だった。
パジャマに着替えたアステリアの髪を梳かしながら、ダフネは鼻歌を奏でていた。
もはや聴くことはないであろう前世の音楽だ。自分が前世でどういう人物だったかはわからないし、思い出すことにリソースを割こうとも思わない。しかし、未来で人気だったアーティストの名前を覚えていないというのは、少しだけ損なようにも思う。
しかし、それでいいのだ。
前世などというものは、ダフネ・グリーングラスが目標を達成するための道具箱でしかない。ただの小娘に過ぎないダフネが生きているうちに目標を達成するために前世の知識が役に立つのなら、前世が何者であろうと構わない。
「素敵なメロディですね、お姉様」
「詳しくは私も知らないけれど、マグルのロックという音楽ジャンルよ。反体制と反抗心の象徴のような音楽なの。私には似合わないかしら」
「お姉様に似合わないものなんてありません!」
「あら、嬉しいことを言ってくれるわね」
ヘアオイルを丁寧に浸透させていく。
このヘアオイルはハリーの祖父であるフリーモント・ポッターが開発した魔法薬で、魔法による髪質の変化をリセットし健康に整える効果がある。スリーク・イージーの直毛薬と併せて販売されていることが多い。
元来、ポッター家は薬草と魔法薬によって富を得た家系だ。
ハリーに魔法薬学の才覚があるかは定かではない。セブルス・スネイプという不適切かつ悪意ある指導者の下で上から2番目の成績である「良・E」を修めたことを考えると、十分な素養はある可能性がある。
「あの、お姉様?」
「どうしたの、アステリア」
「ハリーさんのお屋敷の件、本当によろしかったんですか? ルシウスおじさまにもお伺いを立てずに……」
今回の件はダフネの独断で動いた。
派閥の長であるルシウスには許可を取っていないし、他の派閥の長たちに話を通したわけでもない。ダフネは純血の代表者として赴いたかのような口ぶりで彼に語ったが、その実ダフネひとりの判断でことを成し遂げたのだ。
しかし、それには事情があった。
「一族のうちに愚者やならず者や大食らいがひとりもいなかったと語る人は、おそらく稲光りによって生まれたのだろう」
「誰の言葉ですか、お姉様?」
「トーマス・フラーの言葉よ。そうね……ハリーは少し複雑な立ち位置にいるの」
ダフネはサイドテーブルに積まれた何冊かの本の中から、特に分厚く豪華な装丁の一冊を引っ張り出した。背表紙には『ウィゼンガモット名鑑』と題されているそれは、英国魔法界が誇る賢人会議ウィゼンガモットの在籍者リストだった。
1921年までの任期の間ウィゼンガモットの裁判員を務めた魔法使いに、ヘンリー・ポッターという男がいる。
この男が問題を複雑にしていた。
「今世紀初頭、マグルの世界で第一次世界大戦という戦争があったの。それはひどい戦争だったわ。残酷な兵器が山のように使われ、蟻を踏み潰すようにして人が死んでいったの」
「それは……ひどいですね」
「そう。だから、魔法族の中にも自国のマグルを支援しようという動きがひろまったの」
「えっ……でも、それって」
「そうね、国際魔法使い機密保持法違反だわ。だから、時の魔法大臣であるアーチャー・エバーモンドは魔法族の参戦を禁止した。まあ、少なくない数の魔法族がそれを無視したのだけれど」
エバーモンドは妥当な判断を下した。ダフネはそう評価している。
しかし、結局魔法族の多くが第一次世界大戦に参戦した。それはどの陣営も同じで、マグルの戦争で魔法族どうしが殺しあうことになった。魔法族にとっては無価値で、無益で、無惨な戦いだった。まったくもって馬鹿げた戦いだった。
「ヘンリー・ポッターという男はね、マグルやマグル生まれのために魔法族が戦争に積極介入すべきだと主張したの。魔法を使うことで戦争を早期終結させるべきだとね」
「ウィゼンガモットの裁判員なのにですか?」
「それだけ彼はマグルやマグル生まれに親しんでいたのよ。きっと、守りたい人がいたのでしょうね」
心中が理解できないわけではない。
しかし、ヘンリーの主張は「ウィゼンガモットの裁判員が参戦を支持した」という根拠を与えてしまった。これによって魔法族の犠牲は拡大した。結果的に少なくない数のマグルが救われ、魔法族の歴史に残るまでの死傷者を生んだ。
マグルのために魔法族を死なせた。
これが理由で、ポッター家には血を裏切る者の烙印が捺されている。
「血を裏切る者。魔法族、特に純血でありながらマグルやマグル生まれを贔屓したり、魔法族に不利益を与えたりする者。そういう人々とは、多くの純血の旧家はできるだけ接触せず、見下すような態度を取るようにしているわね」
「はい。でも、あの……ハリーさんは家のことなんて何も知らなかったんですよね? じゃあ、血を裏切る者じゃないんじゃ……」
「いい指摘ね。そこがまさに難しかったのよ」
そう、ハリー・ポッターにはいくつもの面がある。
ヴォルデモートを撃破し、世界に再び平和をもたらした英雄。
血を裏切る者ヘンリー・ポッターに連なる、血を裏切る者の家系。
スティンチコームのリンフレッドに連なる、古い純血の家系。
リリー・エバンズを親に持つ、半純血。
この多面性が、様々な旧家たちに足踏みを余儀なくさせた。
「知ってのとおり、今いる純血の旧家の多くは
「そうですね、そう思います」
「しかし、同時にハリーは血を裏切る者の血統で、半純血なのよ」
ハリーは多くの魔法族にとって救うべき存在だが、同時に懐に入れれば政敵から攻撃される弱点にもなりうる。
さらに言えば、ハリーを手に入れて何に使うのかという問題もある。万が一にも服役している死喰い人が脱獄することがあれば、真っ先に恨みを買うのは裏切り者だ。ハリーを手中に収めれば、恨みを買うリスクが高まる。
それに、ハリーがヴォルデモートを消し飛ばした魔法はほとんど知られていない。
赤子だったハリーが第二のヴォルデモートにならない保証はないのだ。自ら進んで火中の栗を拾うようなことは誰だってしたくないだろう。
誰も動かないわけにはいかない。
誰かが動いてくれれば丸く収まる。
自分でない誰かが。
「上は誰もが睨みあいを続けていたの。この10年間、全員がそれとなくハリーの所在を探らせながら自分以外の誰かに押し付けようとしていた」
「それって……無責任じゃないですか? ハリーさんはあんなに苦しんでいたのに!」
「そうね。でも、それで我が子が苦しむはめになったら。特にルシウスおじさまは悩んだでしょうね。一歩間違えれば、ドラコに同い年の義兄弟ができていたかもしれなかった。そうしなかったのは間違いではないと私は思うわ」
結果、誰もが座りたくない席――ハリー・ポッターの後援者という席にダフネが収まった。
きっと誰もが訝しむだろう。何の利益があるのか。あの小娘は何の得をそこに見出したのかと。そして、あわよくばそこからおこぼれに預かろうと考える者も湧いてくるに違いない。
しかし、そのころにはもうダフネはホグワーツにいる。
「私もハリーもホグワーツに行けば、クリスマスまではお預け。その間に味方を増やしてしまうわ。ハリーを抱え込むメリットに気づいた頃にはもう手遅れというわけ」
ハリーは6年後、再び英雄となる。誰もその可能性を見出していないからこそ、ダフネは一番にその果実を手に取ることができた。
これはホラス・スラグホーンが得意としている手口だ。有能な人材を見つけて支援し、後からその功績に自分が貢献したことをそれとなく主張して分け前を受け取る。
ダフネはもう少し抽象的な利益を見出している。
これから英雄になっていくハリーの周囲には、有益な人脈が無数に存在する。ハリーが人脈とも思っていないような関係をダフネが拾い上げていくことで、
「でも……あのダーズリーさんたち、大丈夫でしょうか。魔法の護りがかかっているんですよね?」
「あら、ダーズリーの心配をするの? 本当に優しい子ね。あんなに怒っていたのに」
「あ、あれはつい……」
寝る時専用の柔らかなシュシュで髪をまとめてやる。色はダフネの瞳と同じ深いグリーンだ。アステリアが自ら選んできた。
まとめた髪を手櫛で整えながら、ダフネは漠然とダーズリーについて考えた。
リリーの護りはハリーだけでなく、ダーズリー家を守っていた。死喰い人の残党やごろつきからハリーを隠し続け、守り続けた魔法だ。あの魔法がある限り、悪意ある者はハリーやダーズリー家に手出しできない。
しかし、今やハリーはホグワーツの生徒だ。
ハリーが護られているのは夏休みだけで、その夏休みすらダーズリーの家にいる期間は決して長いとは言えない。家の外にいれば護りが無力なのは5年生の夏休みで吸魂鬼に襲われたことが示している。
「でも、そうね。ダーズリーの心配をするあなたはとても優しくて、立派よ。私はあなたを誇りに思うわ、アステリア」
「え、えへへ……」
ダーズリー家の人々は被害者だ。
関わりたくもない魔法を押し付けられ、甥を育てるよう強制され、分霊箱によって精神を歪められ、今やその甥が魔法という彼らにとって未知の武器を持ってうっすらと悪意を向けている。これほど恐ろしいことがあるだろうか。
同情はする。
しかし、ダーズリー家の人々が苦しもうが、死のうが、ダフネの計画に一切の支障はない。
リリーの護りを失って困るのはダーズリー家だけだ。
運が悪ければ、ここ数年のうちにダーズリー家が熱心なポッター信者やダンブルドア信者に襲われてひどい呪いを受けたり、最悪の場合死に至ったりするかもしれない。ダドリーに豚の尻尾が生えるでは済まないことが起きるかもしれない。
だからなんだというのだ。
「私にとって大切なのはあなただけよ、アステリア。それはそれとして、ハリーとはいいお友達になれればいいと思っているけれど」
この考えをダンブルドアに見透かされなかったか、それだけが気がかりだった。
ダンブルドアに翻弄されるディナーだった。結局彼の意図は読めないままだった。過去の自分と重ねてみているのではないかという疑惑すら、実際はダフネの妄想にすぎないのかもしれない。
そもそも、ダンブルドアの考えを読もうというのが無駄だったのだ。ダンブルドアには隙というものがない。グリンデルバルドとの決別以来、彼は私人としての生活を捨て去っている。彼にプライベートな隙などありはしない。
それなら、ダフネはどうするべきか。
「まあ、やりたいようにやりましょう。ホグワーツでは自由な学びが許されるのだから」
「お姉様が自由に学んだら、最強になってしまいますね!」
「俗っぽい言い方ね。でもあなたらしくて可愛いわ、アステリア」
ダンブルドアを警戒する最大の理由、それは開心術だ。
しかし、ダンブルドアは一生徒に軽率に開心術をかけるほど非人道的にはなれない。どこまでいっても、彼は教育者の模範であろうとし続けている。それがいかに虚しい努力であろうともだ。
いきなり開心術をかけてくることはない。警戒していたトム・リドルにすら対話を望んだのがダンブルドアという男だ。
それならば、いっそ彼がダフネを計画の一部に取り込もうとするほどに動いてやればいい。協調路線に立つことができれば、ダンブルドアはそれほど難しい相手ではない。
「それはそれとして、次に一緒に寝ることができるのがクリスマスだと思うと、たまらなく寂しいわ。こんなに可愛い妹をひとりで置いていかなくちゃいけないなんて」
「お姉様……実はアステリアも、寂しくて」
ベッドに腰掛け、隣を軽く叩く。
アステリアが隣に腰掛けると、ベッドが静かに沈んだ。かつては両親の寝室だったここは大きなベッドが備え付けられていて、姉妹がふたりで眠るにはちょうどよかった。
「あなたの可愛いお顔をたくさん見せてちょうだい。今のうちに目に焼き付けておかないと」
「お姉様、恥ずかしいです」
両頬に手を添え、その熱と柔らかさを確かに感じながら、ダフネは誓った。
計画は必ず、ホグワーツで結実する。