ハリーは固唾を飲んで見守っていた。
コンパートメントは緊迫感のある空気に包まれていた。山程積まれたお菓子が今はまるでプラスチックのように味気ない。
「それじゃ、こう言いたいわけだ。ハリー・ポッターと一緒に過ごすのは自分だと。隣を譲る気はないと」
「当たり前だろ。後から出てきてどういうつもりなんだ? 名乗りもしないで」
ホグワーツへの旅の中で出会ったロンはいい友達になれそうな男の子だった。あまり豊かではなさそうだが、魔法界のことを色々と教えてくれたうえ、気がよくて親切だった。
一方、そのロンと睨みあっている男の子にも見覚えがあった。マダム・マルキンの洋裁店で「困ったら頼ってくれ」と言ってくれた、気品のある男の子だ。ホグワーツに行ったらきっと見つけて自己紹介をしよう、そして友達になろうと思っていた。
まさか、そのふたりが睨みあうとは思わなかった。
後からやってきた男の子が「一緒のコンパートメントで過ごそう」と誘ってきたのが喧嘩のきっかけだった。ところが、喧嘩はどんどん脱線していった。
「君が誰だか聞く必要もないね。父上が言っていた。ウィーズリー家はみんな赤毛で、そばかすで、育てきれないほどたくさん子どもがいるってね。……やっぱりそうだ、僕が思うに下等な家柄というものはいつだって卑しい」
男の子の口ぶりはあまりにも冷たく、敵意に満ちていた。
それに、後ろに並んでいるボディガードのようなふたりといったら、まるでダドリーをさらに一回り大きくしたかのようで、表情もダドリーと同じくらい意地悪そうだった。
「よく言うよ! 例のあの人に味方してたくせ、やつが消えた時、魔法にかけられてたって言い訳して戻ってきた筆頭のくせに!」
「えっ、ヴォルデモートに?」
一瞬、コンパートメントの全員が沈黙した。
その沈黙のせいで、ハリーは自分の失言を理解した。ロンも男の子も、ヴォルデモートを名前で呼ぶことを気にしているのだ。ハリーはこれからの生活で何度同じ間違いを犯すのだろうと不安になった。
「……闇の帝王を恐れないのは、もちろん君の特権だと思う。だが、その名前を重く捉える人が多いということにこれから慣れていったほうがいいだろうね」
「あの、うん……ごめんね」
「いや、いいんだ。それで、ウィーズリー? お前はどうやら当家の名誉がお前達のしけた預金金額程度で買える安いものだと思っているらしいな?」
「何が名誉だよ、どうせ今だって闇の界隈をうろちょろしてるくせに」
「発想が貧しいな。小銭稼ぎに忙しいお前たちと違って、僕達のような家柄のいい人間は忙しいんだ。あまり余計な邪魔をしないでもらおう」
「……やろうってのか?」
「お前がその愚かさを認めないなら、そういうことになるだろうな」
恐ろしいほど直球の喧嘩だった。
困ったことに、お互いがお互いの家柄についての喧嘩をしているせいでハリーには口を挟む余地がない。魔法界のことを何も知らないハリーには口出しのしようがないのだ。
だいたい、ここでダーズリーを引き合いに出して何になる? マグルに育てられたハリーには家柄がどうこうという話はさっぱりだった。
そう考えて、ハリーはあることに気がついた。
「ねえ、ちょっと待って。ふたりとも、教えてほしいんだけど……ふたりがそんなに家柄で争うなら、僕の家柄ってどうなの?」
「ハリー、そんなことに興味持つ必要ないよ!」
「いや、彼には知る権利があるね。……ポッター家は非常に古い純血の旧家だ。君自身は半純血だが、君を魔法界の一員として歓迎する者は多いだろう。僕もまたそのひとりだ」
「それじゃ、その……」
ハリーがあることを言いかけた時、コンパートメントの外から足音が駆け寄ってきた。
「あらあらあら……喧嘩が起きているという噂を聞いて駆けつけてみれば、知った顔ばかりで驚くよりほかありませんわね」
「ダフネ!」
ようやくやってきた助け舟に、思わずハリーの声は上ずった。
艶のある黒髪を編んで垂らした大人っぽい姿。微笑みにうっすらとからかいの色が浮かんでいる。
もうローブに着替えたようで、黒い髪に黒いローブのなかで深いグリーンの瞳がキラキラと輝いていた。しかし、今日はそのきらめきにほんのりと怒りが滲んでいた。
ダフネがやってきたことで、男の子は思わずと言った様子でたじろいだ。後ろに並んでいるふたりも困惑した様子で数歩下がり、そこで初めて壁があったことを思い出したようだった。
「ごきげんようドラコ、説明していただけるかしら?」
「ぼ、僕はただウィーズリーに身の程を弁えろとだね……」
「身の程? お約束があるのに間に割り込もうとするのはどちらが身の程知らずなのか、言って聞かせなければわからないような人だったかしら」
ダフネはそうぴしゃりと言い放つと、ロンのほうに向きなおった。
「あなたも、法廷で無罪になっている以上その過去についてあれこれ言い立てるのはお行儀の悪いことですわよ?」
「そ、そんなこと言ったって、パパはそう言ってたし……」
「ならお父上にお伝えになることですわね。何のためにウィゼンガモット法廷があるのか、魔法省の人間としてよくよくお考えあそばせと」
ロンが気まずそうに俯いたところで、ダフネはぱっと笑みを咲かせた。
散々お世話になったハリーとしては、ホグワーツでダフネに会うのはとても楽しみなことだった。
「ごきげんよう。お騒がせしてしまったわね、ハリー。自己紹介はもう済んでいて?」
「あ、そうだ! あの、僕ハリー・ポッターです!」
「……ああ、そうか、名乗っていなかったな。ドラコ・マルフォイだ。こいつらはクラッブとゴイル」
ハリーがドラコと握手を交わすと、ロンが不愉快そうに鼻を鳴らした。
しかし、ロンが何か言うよりも早くハーマイオニー・グレンジャーがダフネの後ろから顔を出した。
「一体何の騒ぎでこんなに人が集まっているの?」
「ちょっとした諍い、行き違いですわ。人と人がいる以上、どうしても避けられない衝突があったというだけ」
「そう。そんなことより、早く着替えたほうがいいわ。私、前の方に行って運転手に聞いてきたんだけど、もうまもなく着くって」
「それなら、私達はお暇しなくちゃいけませんわね。そうでしょう、ドラコ?」
ダフネに促されて、ドラコは渋々といった様子でコンパートメントから出ていった。
「まあ、いくらでも機会はある。ホグワーツで会おう、ミスター・ポッター」
「うん、ありがとう、ミスター・マルフォイ」
ハリーが「ありがとう」とドラコに声をかけると、まるでハリーが犯罪の片棒を担がされている現場を目撃してしまったかのような顔でロンがドラコを睨んだ。
それから、ハリーはローブに着替えながらマルフォイ家の悪行について聞かされ続けた。
「闇の魔法製品を山ほど持ってるに違いないってパパが言ってた。立ち入り検査も一度や二度じゃないんだけど、うまく隠してるせいで有罪にできないんだって」
「うん……」
「それに、闇の陣営にずっといたくせに君が例のあの人をぶっ飛ばしてすぐにこっち側に戻ってきたんだ。魔法をかけられてたって言い訳してる」
「そんな魔法もあるの?」
「あるさ! でも言い訳に使ってるやつの方がずっと多いってパパが言ってたよ。証拠が残らないんだって」
その口ぶりは、ペチュニアがバーノンにご近所さんの悪口を聞かせる時によく似ていた。
ロンはドラコのことが心底嫌いなようだった。
より正確に言えば、ロンの父親がドラコの父親と不仲らしい。話を聞く限りでは、ふたりは仕事でもプライベートでも争っていて、父親どうしでいがみあっているようだ。
ハリーは内心でほっとした。
ダフネが現れる直前、ハリーはドラコに「ロンも君も僕の友達なんだから、仲良くしてほしい」と言おうとしていたのだ。ダフネの到着があと少し遅ければ、ロンとドラコの喧嘩はもっとひどいことになっていたに違いない。
「ハリー、家柄がどうこうなんて気にするだけ無駄さ。うちなんか、血を裏切る者って言われてるんだよ」
「血を裏切る者?」
「魔法族なのに魔法族の邪魔をする人とか、一族とかのこと。昔、純血のリストみたいなのが発表されたとき、うちのご先祖はリストに載ってたけど、本当は純血じゃないって言い張ったんだ。それでリストが気に入っている連中を怒らせちゃったってわけ」
「そうなんだ。じゃあ、親戚に魔法族じゃない人もいるの?」
「うん、まあ、一応。ママのはとこにね。でもあんまり詳しくないんだ」
それからふたりはホグワーツの話に話題を戻した。
一番不安なのが寮のことだった。ハリーは自分がどの寮にも相応しくないように思えてならなかった。組分けの儀式がどのようなものか、ハグリッドに聞いておけばよかったと深く後悔した。
ふたりが着替え終わったちょうどその時、車内に声が響き渡った。
「あと5分でホグワーツに到着します。荷物は別に学校に届けますので、車内に置いていってください」
残ったお菓子をポケットに詰め込み、ふたりはコンパートメントを出て通路にあふれる人の群れに加わった。
それからハグリッドの案内で1年生たちは森を抜け、湖をボートで渡り、ついにホグワーツへとやってきた。
「ハリー、大丈夫?」
「うん……」
興奮と緊張でどうにかなりそうだった。
魔法に出会ってから今日までの思い出が一気に頭の中で駆け巡った。ゆうゆうと這っていく大蛇、孤島の小屋でドアを打ち破るハグリッド、空から舞い降りてきたダフネ、屋敷と土地の写真……それら全てを超える始まりが、もうすぐやってくる。
「マクゴナガル先生、イッチ年生の皆さんです」
「ご苦労様、ハグリッド。ここからは私が預かりましょう」
エメラルド色のローブを着た、厳格な顔つきの魔女がハグリッドからハリーたち1年生を引き継いだ。
先生が説明を終えて部屋を出ていくまで、誰も一言も話さなかった。間違いなく逆らってはいけない相手だということをきっと誰もが理解していた。
「いったいどうやって寮を決めるんだろう」
「試験のようなものだと思う。すごく痛いってフレッドが言ってたけど……きっと冗談だ」
冗談であってほしい。
ハリーには自信がなかった。自分は何も知らないという劣等感に苛まれて、気がおかしくなりそうだった。
その不安は、ただ帽子を被るだけでいいということを知っても少しも軽くならなかった。
「ただ帽子をかぶればいいんだ! フレッドのやつ、やっつけてやる。トロールと取っ組み合いさせられるなんて言って」
「うん……よかった」
確かに、呪文を唱えたり何か実技をするよりはずっといい。ペーパーテストなら少しはできるかもしれないが、それでもハリーは劣等生に分類されることだろう。
それと比べれば帽子を被るなどわけない。そう思いたい一方で、帽子が挙げた要求項目にハリーはひとつも当てはまっていないように思えた。帽子が試験官なら、結局ハリーは落第するのと変わりない。
帰れと言われたらどうしよう。
「ABC順に名前を呼ばれたら、帽子を被って椅子に座り、組分けを受けてください。……アボット家、ハンナ!」
頬をピンクに染めた金髪のおさげの女の子が、転げるように前に出てきた。帽子を被ると目が隠れるほどだった。帽子が置かれていた椅子に腰掛け、一瞬の沈黙の後――
「ハッフルパフ!」
帽子が叫んだ。
それから次々に組分けは進んだ。スーザン・ボーンズがハッフルパフに、テリー・ブートがレイブンクローに組分けされ、ラベンダー・ブラウンが最初のグリフィンドール生だった。ミリセント・ブルストロードはスリザリンだった。
順番がGまで進んだところで、知った名前が呼ばれた。
「グリーングラス家、ダフネ!」
ダフネは微笑んで、落ち着いた様子で前に進んでいった。
彼女の余裕をほんのひとかけでもいいから分けてほしいとハリーは願った。彼女のように堂々と自信を持って振る舞えればどんなにいいか!
組分け帽子はしばらくの間ダフネの頭の上で黙っていたが、ようやく叫んだ。
「スリザリン!」
ダフネは笑顔を深め、スリザリンのテーブルへと歩いていった。
その後、ドラコもスリザリンに組分けされた。
ハリーは悩みはじめた。スリザリンにはハリーに良くしてくれる人がたくさんいそうだ。もし行けるのなら、スリザリンがいいのかもしれない。少なくとも、ダドリー軍団にいじめられていたころのようなことにはならないはずだ。
しかし、ロンの説明を信じるのなら、スリザリンは闇の陣営とやらに与した人がたくさんいる恐ろしい寮でもある。しかも、その親玉を倒したのは赤ん坊だったころのハリーだというのだ。
敵討ちだなんだと狙われてしまったらどうしよう。
「ポッター家、ハリー!」
結論が出ないまま、ハリーの名前が呼ばれた。
大広間にざわめきが広がった。誰もがハリーの名前を囁きあっていた。自意識過剰でなければ、無数の視線がハリーに突き刺さっているのを肌で感じた。
あんなにかぶるのが怖かった帽子が、今はハリーを視線から守ってくれていた。
「フーム……難しい。非常に難しい。勇気に満ちている。頭も悪くない。才能もある。おう、なんと、なるほど……自分の力を試したいという素晴らしい欲望もある。いや、面白い……さて、どこに入れたものかな?」
帽子の評価はまるで他人にあてたものを聞かされているようだった。
ハリーは必死に椅子の縁を握りしめながら、どうか穏やかに過ごせる寮に行けますようにと願った。
「穏やかに。それは難しい注文だ。君はスリザリンに行けば間違いなく偉大になるだろう。信奉者にも恵まれる。しかし、偉大な魔法使いとは得てして孤独なものだ。敵も多い」
それは嫌だ。
ほしいのは友達であって、信奉者などというものではない。
浅い呼吸を繰り返し、椅子の縁を掴んだ指を震わせながら、ハリーは必死に考えた。自分はどの寮に行きたいのか。
そして、思い出した。
「なるほど、勇気。確かに君の勇気はずば抜けていると言える」
ダフネが2階から降ってきたあの日、土埃まみれになりながら咄嗟に彼女を助けようとして、それでハリーはダフネと仲良くなれた。
ダフネの言葉がこだまする。
必要なのは、それだ。
「よろしい、君が自分に必要なものを確信しているのなら……グリフィンドール!」
ハリーは帽子を脱ぎ、ふらふらとグリフィンドールのテーブルに向かった。
視界の端、スリザリンのテーブルで、ダフネが笑顔で拍手しているのが見えた。隣には双子の女の子がいて、ダフネに何かを話しかけていた。その近くにはドラコがいて、彼も難しそうな顔をしながらではあるが拍手してくれていた。
「ポッターを取った! ポッターを取った!」
歓声に囲まれ、肩を叩かれながら、ハリーはようやく実感した。
ホグワーツに入学したのだ。