おおよそ、箒で空を飛ぶということを最初に考えた魔法使いか魔女は、命が有限であるということを知らなかったらしい。
ハリーはダーズリー家に連れられて乗馬クラブに行ったことがある。もっとも、乗馬服を着るのはダドリーとバーノンだけだったが。それぞれあてがわれた馬はふたりの巨体に潰れそうだったのを今でも覚えている。
その時と比べると、ハリーは少しだけワクワクしていた。
「上がれ!」
ハリーの箒はすぐさま飛び上がってハリーの手に収まった。まるで主を待っていた名馬のように従順だった。
「握り方も……よし、結構ですポッター。腰はもう少し前でもいいでしょう。ええ、そうです」
「ありがとうございます、先生」
箒に跨ると、自然と心が落ち着いた。
腿に当たる箒の柄の部分は魔法がかけられていてクッションのように柔らかく、内股に力を入れることで制動が利くようになっている。これはハーマイオニーが散々読み上げていた『クィディッチ今昔』から知ったことだ。
「さあ、私が笛を吹いたら、地面を強く蹴ってください。箒はぐらつかないように押さえ、2メートルくらい浮上して、それから少し前屈みになってすぐに降りてきてください」
マダム・フーチが笛を唇に添える。
ハリーは一瞬空を見上げた。素晴らしい晴天だ。風はなく、空気もほどよく温かい。こんな日に初めて空を飛べるとは、なんという幸運だろうか。
「1、2の――」
その時だった。
緊張し、怖気づき、置いていかれたくないと怯え、完全に身体が強張っていたネビルが、思いきり地面を蹴った。
シャンパンの栓が抜けたような勢いだった。
「こら、戻ってきなさい!」
フーチの怒鳴り声は無力だった。ネビルがどうやって戻れるというのだろう。
恐慌状態のネビルに応じるように箒も暴れ、乗り手を振り回しながらぐんぐんと空高く上がっていった。
4メートル、6メートルと高くなっていき、遥か彼方へ見上げるところまで上がってから、ネビルが体勢を崩した。
まずい。
ハリーは直感した。あのまま落ちれば、怪我をするでは済まない。もし逆さに落ちれば、それこそ首の骨が折れるだろう。
「ネビル・ロングボトム!」
叫ぶことしかしない先生を見て、それからふとスリザリン生の方に目をやり、ダフネと目が合った気がした。
あの日、ハリーは空から舞い降りてきたダフネを助けるどころか、反対に助け起こされてしまった。それでも、彼女はハリーの勇気を称賛してくれた。
ハリーは箒に跨ったまま、地面を蹴った。
「ハリー・ポッター! なにをしている!」
フーチの叫びはもはやハリーに届かなかった。
向きを変え、空へと進む。ネビルの落下がやけにゆっくりに見えた。ハリーが本気で箒を飛ばせば、十分に届きそうなところにネビルはいた。
風が頬を撫でる。秋の空気がほのかに冷たく、ハリーの鼓動を落ち着かせてくれる。太陽はハリーの背にあって、まるで光がハリーを後押ししているかのようだ。
いける。ハリーは確信した。
「ハリー・ポッター!」
ぐんと加速して、空を駆ける。
ネビルまであと10メートル、5メートル――
「捕まえた!」
右腕を伸ばした。
落ちていくネビルの襟を掴む。人ひとり分のずっしりとした重さが肩にかかり、箒が傾きそうになる。
「う、わ……こうだ!」
ハリーは咄嗟に旋回することでそれを誤魔化した。まるで生まれたときから箒の乗り方を知っていたかのように、身体がよく馴染んだ。
螺旋を描くようにしてゆっくりと下っていく。
そのとき、ネビルのポケットから何かが落ちた。
キラキラと輝くガラス玉。思い出し玉だ。ネビルのお祖母さんが送ってきてくれた、大切なものだ。この高さからガラス玉が地面に落ちれば、きっと割れてしまうことだろう。
ハリーはネビルをぶら下げたまま急降下した。
「危ない!」
ハーマイオニーが叫んだ。
ハリーは箒を地面に突き刺す勢いで急降下した。そして、空いている方の手で思い出し玉を掠め取り、両腿をぎゅっと締めて箒を押さえつけることで上を向かせた。
箒の制動が効き、まるで急ブレーキをかけたようにハリーは揺さぶられた。
しかし、次の瞬間にはハリーを乗せた箒は草原に軟着陸していた。
柔らかな草がハリーの膝を撫でた。風が火照った頬を冷ましていく。あまりにもうるさい太鼓のような音がする。心臓だ。激しすぎる心臓の脈拍音でハリーの聴覚はもう手一杯だった。
ハリーが呆然としていると、フーチが駆けつけてきた。
「ハリー・ポッター! まったく、なんという……見事でした。見事でしたが、軽挙妄動そのものです。死んでいたかもしれないのですよ!」
「ごめんなさい、先生。でも……」
「でももだってもありません! 一体何を考えて……」
フーチの説教はそこまでだった。
ハリーとネビルは生徒たちに揉みくちゃにされた。誰もが興奮している。ハリーも少し興奮が残ったままだった。
「すごいやハリー、最後のなんかウロンスキー・フェイントの完璧な変形じゃないか! 一体どこで覚えたんだい?」
「それより、あの旋回だよ! すごいなあ、公式試合でも中々あそこまで冷静な救助はお目にかかれないよ」
「一番すごかったのは最後の急ストップね! ねえ、私にも教えて!」
もう誰が何を言っているのかさっぱりだった。
ネビルが青い顔をして泡を吹いているのに気づくと、フーチはみんなを黙らせてネビルを担ぎ上げた。
「いいですか、私がこの子を医務室に連れていきますから、その間誰も動いてはいけません。箒もそのままにして置いておくように。特にハリー・ポッター、絶対に箒に乗ろうなんて考えないように!」
「はい、先生」
強めに言い含められてハリーがしょげていた、その時だった。
「――それでしたら、ポッターについては私が引き継いでも構いませんね?」
「ああ、お願いしますミネルバ」
「マクゴナガル先生!」
眼鏡を光らせて、マクゴナガルがそこに立っていた。
ハリーの気持ちは急激にしぼんでいった。その眼光を見る限り、ハリーにいい未来が待っていないのは確かだった。
脳裏に退学の二文字がよぎった。
「先生、ハリーが悪いんじゃないんです!」
「お黙りなさい、ミス・ブラウン」
「でも、そうしないとネビルが……」
「くどいですよ、ミスター・ウィーズリー。ポッター、さあ、一緒にいらっしゃい」
マクゴナガルは大股に城に向かって歩き出した。あまりに早いので、ハリーは駆け足にならないとついていけなかった。
退学になるのだろうかというハリーの心配は、しかし、全くの杞憂に終わった。
ハリーはオリバー・ウッドに引き合わされた。
「ウッド、この子は、20メートル上から失神した乗り手をスパイラル・フライトで救助した上に、そのまま今手に持っている玉を16メートルもダイビングして掴みました。考えられますか? 人ひとりを担ぎながらウロンスキーフェイントの応用に成功したわけですよ?」
「ポッター、クィディッチの試合を見たことあるかい?」
興奮した様子のウッドに話しかけられ、ハリーは首を横に振った。
グリフィンドール・チームのキャプテン、オリバー・ウッド。彼はハリーをシーカーに採用することを決めた。ハリーはまだ実感がわかないまま、首を縦に振っていた。
マクゴナガルはにっこりしてこう言った。
「あなたのお父様がどんなにお喜びになったことか。お父様も素晴らしい選手でした」
それから時間が経ち、夕食時。
マクゴナガルに連れられてグラウンドを離れてから何があったか、ハリーはロンに話して聞かせた。ロンはステーキアンドキドニーパイを食べている途中だったが、フォークは完全に止まっていた。
「まさか……シーカーだって? だけど1年生は絶対駄目だって……なら、君は最年少の寮代表選手だよ! ここ何年ぶりかな……」
「100年ぶりだって。ウッドがそう言ってたよ」
ハリーはパイをかき込むように食べながらそう答えた。大興奮の午後だったので、ひどくお腹が空いていた。
そんな時だった。
「――お見事でしたわ、ハリー」
「ダフネ!」
ダフネが笑顔を浮かべて、胸の前で小さく手を振っていた。
ハリーは慌てて口元を拭った。
「ロン、紹介するよ、ダフネ・グリーングラス。相続のこととか、色々助けてくれたんだ」
「グリーングラス?」
「あら、当家をご存知かしら。ミスター・ウィーズリーですわね、ごきげんよう。汽車ではドラコが失礼いたしました」
握手を求められて咄嗟にロンは汚れたままの手を差し出した。
ダフネはそれに嫌な顔ひとつせず握手を交わし、そのあとにテーブルから紙ナプキンを手に取った。そしてそれを半分に分け、片方をロンに渡した。
「はい、どうぞ」
「ああ、ありがとう……」
ロンが気まずそうに手を綺麗にしている間に、ハリーはダフネに話しかけた。
「寮は別々になっちゃったね」
「なんとなくあなたはグリフィンドールだろうという気はしていましたの。残念ですけれど、寮が違ってもお友達でいてくださる?」
「もちろん!」
「それはよかった。実は、お誘いに来たんですの。ポッター家のご先祖のことをお話したくて」
「いいよ、ぜひ聞かせて!」
立ち上がろうとしたハリーを押し留めて、ダフネはちらりと教員席に目をやった。
その目はどこかいたずらげな光でキラキラしていて、面白いことを企んでいますというのが表情で丸わかりだった。ハリーは彼女の表情につられてワクワクしはじめた。
ダフネはハリーの耳許で囁いた。
「今夜12時、トロフィールームでお会いしましょう。よければお友達もご一緒に」
ハリーがドキドキしながら小さく頷くと、ダフネは身を起こして満足気に笑った。
ダフネがスリザリンのテーブルに戻ったあと、ロンはニヤニヤしながらハリーの脇腹を肘で小突いた。
「やるじゃん」
「何が?」
「デートのお誘いだろ?」
「違うよ、友達も一緒にって。僕の先祖について教えてくれるって言ってた」
「ふーん」
ダフネとはそういうのではない。
確かに彼女は美人だし、落ち着いていてかっこいいし、ハリーに親切にしてくれるし、ちょっといたずらっ子なところが茶目っ気があってドキドキさせられる。しかし、きっと彼女にとってはよくいる男のひとりなのだ。
なおもにやついているロンの口にロンが苦手なコンビーフを押し込もうとすると、ロンは両手を上げて降参を示した。
「わかった、違うよな、うん。でもさ、スリザリンの割には親切なやつだよ」
「うん。屋敷のこととか、僕、ダフネがいなかったらきっとなにもわからなかったよ。そのまま競売にでもかけられてたんじゃないかな」
「屋敷! おったまげー、君ってお屋敷を持ってるのかい?」
「まだ行ったこともないんだけどね。ほら、これ」
ハリーが写真を差し出すと、ロンが感嘆の声を上げた。
「うっわあ……」
「川沿いで涼しいところみたい。夏になったら一緒にここで川遊びしようよ」
「ハリー、それ最高だよ!」
ハリーとロンが楽しい未来の妄想に浸っていると、そこに割り込む咳払いの声があった。
ふたりが見上げると、今度はハーマイオニーが顰め面をしてそこに立っていた。
「ちょっと失礼。聞くつもりはなかったんだけど、あなたとグリーングラスの話が聞こえちゃったの」
「聞くつもりがあったんじゃないの。少なくともひそひそ話ではあったぜ」
ロンの指摘を無視して、ハーマイオニーは続けた。
「夜、校内をウロウロするなんて絶対に駄目。もし捕まったらグリフィンドールが何点減点されるか考えてよ。それに捕まるに決まってるわ。まったくなんて自分勝手なの」
「まったく大きなお世話だよ」
「バイバイ」
ハリーが言い返し、ロンがとどめを刺した。
その夜遅く、ベッドの垂れ幕を閉じ、ディーンとシェーマスの寝息を聞きながら、ハリーは不安定で不慣れな杖明かりだけでなんとか身だしなみを整えていた。
フィルチやミセス・ノリスに見つかる可能性もあった。
しかし、ダフネが待っている。
「ねえロン、もっとちゃんとした格好したほうがいいと思う?」
「うーん、微妙なとこだな。チャーリー兄さんならパジャマの上にガウンでも気にしなかったと思うけど……問題は向こうがどういう格好をしてくるかだよ。ハリー、グリーングラスはパジャマで来ると思う?」
「変なこと言わないでよ、ロン!」
結局、ハリーはパジャマの上にローブを引っ掛け、杖を手に寝室を後にした。
その先にハーマイオニーが待っていて、彼女の説教を聞き流しながら進んでいったらネビルがいて、一行はちょっとした大所帯になった。
そしてそれが、この一年を通しての大冒険の始まりだった。