毎日たっぷりの宿題をこなし、週3回もクィディッチの練習に参加し、ハリーは目の回るような忙しさで日々を過ごしていた。
あっという間に2ヶ月が経った。
ダーズリーの家などよりも、ホグワーツ城のほうがよっぽど我が家という感覚が強かった。それに、卒業すればハリーはポッター家の屋敷に住むことになるのだ。ハリーはダーズリー家とおさらばする日が待ち遠しかった。
ところが、授業の方は順風満帆とはいかなかった。
「ウィンガディアム・レヴィオサー!」
ロンが長い腕を振り回しながら叫んでいる。羽は風圧で少し動いたが、それを呪文の効果と言い張るのは難しそうだった。
癇癪を起こす者、うんざりして頭を抱える者、呪文を少し変えてみる者。浮遊呪文ウィンガーディアム・レヴィオーサに誰もが苦戦していた。
「言い方が間違ってるわ。ウィン・ガー・ディアム・レヴィ・オー・サよ。『ガー』と長くきれいに言わなくちゃ。それに、後半はレヴィオーサ。あなたのはレヴィオサー」
ハーマイオニーのキンキンと耳に障る声がロンの神経を逆撫でしたようだった。
ロンは顔を真赤にして怒鳴った。
「そんなに得意なら君がやってみろよ! さあ、どうぞ?」
ハーマイオニーは涼しい顔でガウンの袖をめくり、杖を構えた。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
すると、羽は机を離れ、頭上2メートルくらいのところまで浮き上がった。
こうなるともうロンの機嫌はどん底だ。フリットウィックがハーマイオニーに喝采を送るのをよそに、ロンはそっぽを向いてふてくされた。
授業が終わったあともロンの機嫌は最悪のままだった。
「だから、誰だってあいつには我慢できないっていうんだ。まったく悪夢みたいなやつさ。グリーングラスと交換できないかな」
ハリーは曖昧な返事をした。
気持ちがわからないわけではない。ハーマイオニーは仕切り屋で、馬鹿真面目で、まるで冗談が通じないやつだ。
それに、ダフネが同じ寮にいたらどれだけ楽しかったことか。どれだけスリザリン生が嫌なやつだという話をロンから聞かされても、ハリーはダフネと一緒に過ごせるというだけでスリザリン生が羨ましくてならなかった。
それでも、陰口に加担するのは気が咎めた。
マグル界でダドリー軍団にいじめられていたころを思い出すのだ。ハリーを助けようとする誰かが現れるたびに、ダドリー軍団はハリーの悪い噂を流した。そうすると大抵、人は離れていく。
そのとき、誰かがハリーにぶつかりながら追い越していった。
ハーマイオニーだ。
「今の、聞こえたみたい」
「それがどうした? 誰も友達がいないってことはとっくに気がついているだろうさ」
「でも、泣いてたよ」
ロンはいい友達だ。
しかし、陰口を言いたがる彼の気質は時折ハリーの神経を傷つけた。きっと彼は愛されて、誰にも悪口を言われずに育ったのだろうなと感じるからだ。ロンはいつだって言う側で、言われる側ではなかったのだろう。
ハリーは努めて嫌な言い方にならないように気をつけながら、こう続けた。
「陰口で人を泣かせるのは、あまり紳士的とは言えないと思うな」
「まあ、それは、うーん……確かに、いくらあいつだからって女の子を泣かせたって知られたらママがなんて言うか……」
「後で一緒に謝ろうよ」
「そうだな、そうしようか」
ところが、ハーマイオニーはその後授業に顔を出さなかった。
パーバティがラベンダーに話していた内容を小耳に挟んだ限りでは、ハーマイオニーはトイレで泣いていて、ひとりにしてくれと言っているらしい。
ハロウィーンの飾り付けと食事に夢中になっているロンを傍目に、ハリーは考えた。さすがに寝る頃には帰ってくるだろうから、今夜は談話室でハーマイオニーを待つことになるだろうか。
「ハリー、もっと食えよ。せっかくのご馳走なんだから」
「うん……」
ハリーが渋々ジャケットポテトを皿によそった、その時だった。
クィレルが今まで見せたことのない早さで部屋に駆け込んできた。ターバンは歪み、足はもつれ、顔は恐怖に引きつっている。
誰もが見つめる中、クィレルはダンブルドアの席までたどり着き、喘ぎ喘ぎ叫んだ。
「トロールが……地下牢に……! お知らせしなくてはと思って」
クィレルはその場で倒れ込み、そのまま気を失ったようだった。
大混乱になった。もはやご馳走どころではなかった。
ダンブルドアが杖の先から紫色の爆竹を何発か爆発させて、やっと大広間は静かになった。
「監督生よ。すぐさま自分の寮の生徒を引率して寮に帰るように」
パーシーに引き連れられて、ハリーたちは寮へと向かった。
教科書の内容を思い返す。
身の丈4メートル、体重1トンにも及ぶ巨体の怪物だ。肉食で、生肉を好み、野生動物からヒトまで何でも食べる。桁外れの力と並外れた愚かさが特徴で、暴力的であり、何をしでかすか予測できないことで有名だ。
そんな恐ろしい存在がホグワーツに忍び込むとは。
「一体どうやってトロールは入ってきたんだろう」
「僕に聞いたって知らないよ。トロールってとっても馬鹿らしいね。もしかしたらハロウィーンの冗談のつもりでピーブズが入れたのかも」
ロンは恐怖で少し苛立っているようだった。
恐ろしいのはよくわかる。ハリーもトロールと遭遇したらと思うと恐ろしい。トロールは人間の肉でも好んで食べるのだから、ハリーなどあっさり叩き潰されてタルタルステーキにされてしまうだろう。
そのとき、ハリーは気付いた。
「ちょっと待って……ハーマイオニーはトロールのこと知らないよ!」
ロンは唇を噛んだ。一瞬、ロンの瞳にためらいの色が滲んだ。
それでも結局、ロンはハリーと一緒に身をかがめて列から外れた。
「わかった。だけど、パーシーや先生に気づかれないようにしなきゃ」
ふたりは反対方向に行くハッフルパフ寮生に紛れ込み、誰もいなくなった方の廊下をすり抜け、女子トイレへと急いだ。
角を曲がった途端、後ろから急ぎ足でやって来る音が聞こえた。ふたりはグリフォンの大きな石像の後ろに隠れた。
石像の陰から目を凝らして見ると、パーシーではなくスネイプだった。スネイプは廊下を渡り、視界から消えていった。
「何してるんだろう。どうして他の先生と一緒に地下牢に行かないんだろう……スリザリンの寮は地下牢にあるんだから、寮監が行くべきじゃないの?」
「知るもんか」
ハリーの疑問に、ロンが半ば悪態をつくように答えた。ふたりとも意地悪で性格の悪いスネイプのことは大嫌いだった。
スネイプが4階のほうに向かっていくのを見ながら、ハリーとロンは廊下を進んだ。
「なにか臭わないか?」
汚れた靴下、掃除をしたことがない公衆トイレの臭い。つまり、発酵した排泄物のようなきつい、饐えた臭いがあたりに漂っていた。
次に感じたのは音だった。
低い唸り声。巨大な足を引きずるように歩く音。
「ハリー……!」
ロンが指さした。
月明かりに照らされて、それは現れた。
教科書に書かれているとおりの巨体に、岩肌のようにゴツゴツとした鈍い灰色の肌、そのうえに載った小さな頭。異常に長い腕が、巨大な棍棒を引きずってホグワーツの床に傷をつけていた。
トロールはそのまま、ドアの向こうへと進んでいった。
「鍵穴に鍵がついたままだ。あいつを閉じ込められる」
「名案だ」
その時は確かに名案だと思ったのだ。戦わずに無力化できれば、それが一番いい。
しかし、開けっ放しのドアに近づいた時、その声が聞こえた。
「――ミス・グレンジャー、私の後ろに。大丈夫です、あなたには傷一つつけさせませんわ」
「ダフネ?」
巨体の向こう側に一瞬、スリザリン生のローブがはためいたのが見えた。
そう、そここそが女子トイレだったのだ。
ハリーは咄嗟に女子トイレの中に飛び込んだ。一歩遅れてロンも続いた。
「ダフネ! ハーマイオニー!」
「あら、ごきげんよう。悠長に挨拶をしている暇はありませんわ、ねっ!」
ダフネが杖先から青白い閃光を放つと、その閃光はトロールの頭に直撃した。トロールは嫌そうに頭を振って、それから棍棒を構えた。
「危ない!」
棍棒が振り下ろされる。
ハリーは最悪の事態を想像して、立ちすくんだ。
「――
しかし、巨体の向こうから静かに呪文を唱える声が聞こえると、トロールはまるでゴム毬を殴りつけたかのように跳ね返されてのけぞった。
その時ようやく、ハリーは室内の全容が見えた。
手洗い場の奥でハーマイオニーが腰を抜かしていて、それを庇うようにダフネが立っている。ダフネは杖を構え、肩で息をしている。どうやら魔法で今の攻撃をしのいだらしかった。表情が苦しそうだ。
「……思っていた10倍は、重いですわね」
ハリーは杖を取り出した。
「こっちに引きつけろ!
「こっちに引きつけるって言っても……引きつけてどうするんだよ!」
「ふたりが逃げられる隙を作るんだ!
杖先から放たれる閃光はダフネが放ったそれよりも細く弱々しかったが、それでも後頭部に何発か命中した。トロールは鬱陶しそうに振り向き、ハリーたちに棍棒を構えた。
ハリーは慌てて飛び退いたが、飛び散った土埃が眼鏡に当たって思わず目を閉じてしまった。
風圧で棍棒が振りかぶられたのがわかる。
「
弾けるような音がして、それから重いものが落ちる音がした。
ハリーが恐る恐る目を開くと、棍棒がトロールの足元に転がっていた。
「今です!」
ダフネが叫んだ。
隣でロンが腕まくりをして杖を構えていた。その表情には決意のようなものを感じた。
庇われて座り込みながら、ハーマイオニーがロンに叫んだ。
「ビューン、ヒョイよ!」
「……
次の瞬間、棍棒が浮遊した。
トロールは不思議そうに浮遊する棍棒を見上げ、掴もうと両手を伸ばした。
「ハリー、右手を!」
「うん!
ハリーとダフネが同時に放った魔法の閃光が、トロールの手を弾いた。
そして、天井まで上がった棍棒は――
「喰らえー!」
脳天を打った。
トロールは一瞬呻き、何歩かよろめいて、それからどうと地響きを起こしながら倒れた。
起き上がる気配はない。呻き声すら上げない。
倒した。
達成感や興奮よりも先に、どっと疲労が込み上げた。膝がガクガクと震える。眼鏡に罅が入ったかもしれない。
「……これ、死んだの?」
「いや、ノックアウトされただけだと思う」
ハーマイオニーがダフネの腕を借りて立ち上がった。
ダフネはそのままトロールの腕を跨ぎ、ハリーたちのところへやってきた。
「ありがとうございます、ハリー。それに、ミスター・ウィーズリーも。危ないところを助けていただきましたね」
「ううん、これくらい……あれ、ダフネ?」
その時、ハリーはあることに気がついた。
ダフネの深いグリーンだったはずの瞳が、
「目が……」
「目?」
しかし、次の瞬間にはダフネの瞳はいつもどおりに輝いていた。
目の錯覚だろうか。疲れているのかもしれない。今しがたトロールをやっつけたばかりなのだから、そういうこともあるだろう。もしくは眼鏡になにかついていたのかもしれない。
ハリーはハーマイオニーに声をかけようとしたが、それよりも早くばたばたと足音が駆け込んできた。
「一体全体……あなた方はどういうつもりなのですか」
唇を蒼白に染めたマクゴナガルが、声を怒りに震わせてやってきた。そのうしろにはスネイプとクィレルが続いていた。
「殺されなかったのは運がよかった……寮にいるべきあなた方がどうしてここにいるのですか」
ハリーはてっきり先生方に怒られるとばかり思って俯いた。つい先程までハリーを奮わせていた勇気はもうすっかり枯れてしまったようだった。
しかし、そうはならなかった。
「みんな私を探しに来たんです!」
ハーマイオニーが叫んだ。
目尻には涙が浮かんでいた。それはきっと安堵の涙だった。
「私がトロールを探しに来たんです。私……私ひとりでやっつけられると思いました。あの、本で読んでトロールについてはいろんなことを知っていたので」
まったくの嘘だった。
「もしみんなが見つけてくれなかったら、私、いまごろ死んでました」
マクゴナガルの後ろで、スネイプがじろりとダフネに冷たい視線をやった。
「慈愛に満ちた話だな、グリーングラス。わざわざグリフィンドールの女子生徒を探しにきてトロールと対決とは、命が惜しくないと見える」
「あら、誤解ですわ先生。私、ミス・グレンジャーがいらっしゃるなんてまったく知らずにこのお手洗いに来ましたのよ」
「ほう、なぜ」
「……言わせないでくださる?」
ダフネが困ったように頬に手を当てると、スネイプは何も言わず目を逸らした。
偶然にもダフネがいてくれたおかげで、ハリーとロンはハーマイオニーを助けることができた。もしダフネがいなければ、きっと大変なことになっていただろう。
こうして、ハリー、ロン、ハーマイオニーは友達になった。共通の経験が友情を育んだのだ。もちろん、そこにダフネも加わる。
誰も、ダフネがいたことに疑問など抱かなかった。