深夜、ハリーは禁じられた森にいた。
一緒にいるのはハグリッドの愛犬であるファング、そしてブレーズ・ザビニというスリザリンの男子生徒だ。ハリーは彼のことをほとんど知らなかったが、フィルチに言いつけてハリーたちを捕まえようとするあたり、相当嫌なやつに違いなかった。
しばらく黙って進んだあと、ハリーは沈黙に耐えきれなくなってブレーズに声をかけた。いくら嫌なやつでも、この森で恐ろしい物音に耐え続けるよりは幾分マシだろうと思ったのだ。
「どうして告げ口なんかしようとしたの?」
「……悪いことをするやつがいけないんじゃないか。お前が夜にベッドを抜け出さなければ済んだ話だ」
「お生憎様。それなら君はどうしてここにいるのさ」
ハリーが言い返すと、ブレーズは顔をしかめた。
「違う、僕はてっきりグリーングラスがいるものだと」
「……ダフネに悪さをするつもりだったの?」
ハリーは思わず頭に血が上るのを感じた。
ダフネは違う寮に組分けされたハリーにとても親切にしてくれている。それなのに、このブレーズという生徒は同じ寮の仲間であるダフネを傷つけようとしたのだ。ハリーには到底理解できない考えだった。
「悪さなんて、そんなつもりは……」
「じゃあ何をしようとしてたのか言ってみなよ。人の話を盗み聞きして、夜遅くに、女の子を付け回すつもりだったわけだ。到底紳士的とは言えない」
言ってから、少しドラコの口ぶりが移ったようだとハリーは気がついた。
暗闇の中でブレーズが何か言い返そうとしたが、それよりも早くハリーの持つ灯りが少し先の地面にきらめきを捉えた。
「見て」
純白に輝くそれを見つけて、ふたりは沈黙した。
樹齢何千年の樫の古木の枝がからみあうその向こうに、開けた平地が見えた。そこに続く大量の血痕を辿るまでもなく、平地に横たわっているそれが死んでいるのは明らかだった。
ユニコーンが死んでいる。
途方もなく美しくて、途轍もなく悲しいものだった。長くしなやかな脚が投げ出され、蹄に虫が這い、真珠色に輝くたてがみに暗い落ち葉が絡みついている姿は、絶望を絵画に起こしたかのようだった。
ハグリッドに信号を送ろう。
そう思いながら一歩踏み出そうとしたその時、ブレーズがハリーの袖を掴んだ。
「待って」
ブレーズが怯えた声で囁いた。
なぜ止めたのかはすぐわかった。平地の端に揺らめく影がある。頭をフードに包んだ何かが、まるで獲物を漁る獣のように地面を這ってきた。
その影はマントを身に着けていた。信じがたいことに、それは人なのだ。
そして、それはユニコーンに近づき、傷口から血を啜りはじめた。
「ひっ、ひい、ひいい!」
ブレーズが引きつった悲鳴を上げながら逃げ出した。ファングもハリーを置いて駆け出した。
それが顔を上げた。フードの下にあるのであろう顔から、ユニコーンの血が滴り落ちた。血を啜った生臭い吐息がここまで届くようだった。
ハリーは恐怖の中で必死に杖を握りしめた。
それと目が合った気がした。
気がした、というのは、直後にいままで感じたことのないほどの激痛がハリーの頭を貫いたからだ。額の傷痕が燃えているようだった。目が眩み、ハリーは古樹に倒れかかった。
痛みで思考がまとまらない。
その時、蹄の音が駆け抜け、ハリーの真上を飛び越えた。その音は影へと突撃していった。
1分、いや、2分は経っただろうか。
「――怪我はないかい?」
頭上から声がかけられ、ハリーが顔を上げて頷くと力強い腕がハリーを引っ張り上げて立たせた。若く、美しいケンタウルスが静かにハリーを見つめていた。
「ありがとう。あれは……なんだったの?」
ケンタウルスは答えず、ハリーの額の傷痕にじっと視線を注いだ。
「ポッター家の子だね? 早くハグリッドのところに戻ったほうがいい。いま、森は安全じゃない……特に君にはね。私に乗れるかな? そのほうが速い。……ああ、私の名はフィレンツェだ」
前足を曲げ、身体を低くしてハリーが乗りやすいようにしながら、フィレンツェと名乗ったケンタウルスが言った。
次第に引いていく頭痛の中で、ハリーは様々な言葉を耳にした。
ケンタウルスたちの抽象的で、しかし熱のこもった口論。
ユニコーンの血の使い道と、ユニコーンを殺すことの罪深さ。
そして、力を取り戻すために長い間待っていた「その人」の存在。
「それじゃ……僕が、今見たのは、ヴォル――」
ハリーが言い終わるより早く、ハーマイオニーとハグリッドが道の向こうから駆けてきた。
「ここで別れましょう、ハリー。君はもう安全だ」
フィレンツェに促されて、ハリーは彼の背中から滑り降りた。
月光に照らされながら、フィレンツェは思い詰めたような表情をしていた。心配そうにハリーを眺め、また額の傷痕に視線を向けて、フィレンツェは頷いた。
「幸運を祈りますよ、ハリー・ポッター。ケンタウルスでさえも惑星の読みを間違えたことがある。今回もそうなりますように」
フィレンツェは森の奥へ緩やかに走り去った。
ハリーは取り残されたまま、静かに震えていた。
それで罰則は終わりになり、ハリーとハーマイオニーは寮に戻った。談話室で帰りを待っているうちに眠り込んでしまったロンを叩き起こし、ハリーは森であったことを話した。
「スネイプはヴォルデモートのためにあの石が欲しかったんだ……お金や永遠の命なんかじゃない、自分のご主人様を復活させたかったんだ」
「その名前を言うのはやめてくれ!」
ロンが叫んだ。
「フィレンツェが僕を助けるのはいけないことだったんだ。ベインがすごく怒っていた。惑星が起こるべきことを予言しているのに、それに干渉するなって。惑星はヴォルデモートが戻ってくると予言しているんだ……僕が殺されることも」
「頼むから、その名前を言わないで!」
「それじゃ、僕はスネイプが石を盗むのをただ待ってればいいんだ。そしたらヴォルデモートがやってきて、僕の息の根を止める。それで、そう、ベインは満足する」
ハーマイオニーは慰めるようにハリーの肩に手をかけた。
「ハリー、ダンブルドア先生は『あの人』が唯一恐れている人よ。それに、ケンタウルスが正しいなんて私思わないわ。マクゴナガル先生が仰ったでしょう、占いは魔法の中でも、とっても不正確な分野だって」
何か結論が出ることはなく、空が白みはじめた。
ハリーたちはベッドに入った。そのとき、ハリーはシーツの下に違和感を覚えて、シーツをめくってみた。
そこにはきちんと畳まれた透明マントが置いてあった。小さなメモがピンで止めてある。
必要な時のために
しかし、予想に反してヴォルデモートが襲ってくることはなかった。
試験期間が始まった。
いつ殺されるかもわからない緊張で心臓がうるさかったが、筆記試験では覚えていることを精一杯発揮した。カンニング防止の魔法がかけられた特別な羽根ペンで羊皮紙いっぱいに答案を記入したときだけは、ハリーも恐怖を忘れることができた。
実技試験ではダフネと復習した忘れ薬が出たし、ドラコが「去年も出たらしい」と教えてくれたパイナップルを机の端から端までタップダンスさせられるかどうかも出題された。
傷痕の痛みさえなければ、もっと好成績を収められたかもしれない。
試験が終わった。
なんとか寛ごうとした。ロンとハーマイオニーと他愛ない話をしていたその時、ハリーはあることに気がついて芝生から飛び起きた。
「どこに行くんだい?」
「すぐ、ハグリッドに会いに行かなくちゃ」
ハリーは駆けた。ロンとハーマイオニーは困惑した様子で、しかしハリーについてきていた。
「おかしいと思わないか? ハグリッドはドラゴンが欲しくてたまらなかった。でも、いきなり見ず知らずの人間が、たまたまドラゴンの卵をポケットに入れて現れるかい? ご禁制の品なのに? 話がうますぎると思わないか?」
「何が言いたいんだい?」
「どうして今まで気づかなかったんだろう」
ハリーがハグリッドの小屋に辿り着くと、そこには先客がいた。
ダフネが肩で息をしている。どうやら今駆けつけたばかりのようだった。
「あら……ごきげんよう、ハリー。できれば同じ用事に気づいたのだと、思いたいのですけれど」
「うん。ハグリッド、教えてほしいことがあるんだ」
「なんだ、揃いも揃って。茶でも飲むか、ん?」
ハグリッドは上機嫌で豆のさやを剥いていた。
「ノーバートを賭けで手に入れた夜のことを覚えてる? トランプをした相手って、どんな人だった?」
「わからんよ。マントを着ちょったからな。『ホッグズ・ヘッド』なんてとこじゃそう珍しいこっちゃない。もしかするとドラゴン売人だったかもしれん」
「その人とどんな話をしましたかしら。ホグワーツの話に興味は持ちました?」
「俺が何をしているのかってんで、森番をしているって言ったなあ。どんな動物を飼ってるかって聞いてきたんで、それに答えて……あんまり覚えとらん。なにせ次々酒を奢ってくれるんで……」
「少しでも覚えてることがあれば聞かせて」
「うーん……」
ハグリッドは困ったように髭を撫でた。
夏風がハリーの髪を乱していく。緊張で心臓がどうにかなりそうだ。変身術の実技を受けたときだって、ここまでの緊張はしなかった。
「ドラゴンの卵をトランプで賭けてもいいって言ったな、うん。でもちゃんと飼えなきゃだめだって。だから言ってやったよ、フラッフィーに比べりゃ、ドラゴンなんか楽なもんだって」
「それで、そ、その人はフラッフィーに興味あるみたいだった?」
「そりゃそうだ、三頭犬なんて、たとえホグワーツだってそんなに何匹もいねえだろう? だから言ってやったよ。宥め方さえ知ってればお茶の子さいさいだって。ちょいと音楽を聞かせればすぐねんねしちまうって」
足元から崩れ落ちたような気分だった。
ハリーは全速力で城のホールに戻った。もう試験のことなどすっかり頭から消し飛んでいた。
肩で息をしながら、ダフネが言った。
「ダンブルドア校長にご相談しましょう。ルビウスにこの件を任せたのは彼なのですから、彼の判断を仰ぐべきですわ」
「そうだね、うん、そうだ」
しかし、通りがかったマクゴナガルは非情にもこう告げた。
「ダンブルドア先生は10分前にお出かけになりました。魔法省から緊急のふくろう便が来て、すぐにロンドンに発たれました」
「先生がいらっしゃらない? この肝心な時に?」
ハリーは確信した。
緊急のふくろう便というのはスネイプの罠だ。今夜、スネイプは賢者の石を盗みに入るつもりなのだ。ハリーの心臓はもう破れそうなほどに脈打っていた。
なんとかしてスネイプの策を破らなければならない。そうしなければ、ヴォルデモートが帰ってくる。闇の時代が再びやってきて、恐ろしく残酷な行いが次々に繰り広げられるのだ。
そんなことを許すわけにはいかない。
「今夜だ。今夜、僕は仕掛け扉を開ける。君たちがなんと言おうと。透明マントを使っていく。もう、僕の両親みたいな犠牲は生ませたくない」
一瞬、沈黙の中で大階段が軋む音だけがこだました。
「そのとおりだわ、ハリー」
最初にハーマイオニーが賛同した。消え入りそうな声で、しかし確かに。
「でも、3人全員入れるかな」
「全員って……君たちも行くつもり?」
「バカ言うなよ。君だけを行かせると思うのかい?」
次にロンが賛同した。当たり前のような顔つきで、しかし少し脚を震わせながら。
「訂正してほしいですわね、ミスター・ウィーズリー。3人ではありません、4人ですわ」
「でも、ダフネ」
「あら、ここまで巻き込んでおいて最後だけ置いてけぼりなんていけずなこと、まさかしませんわよね? 私たち、お友達でしょう?」
最後にダフネが賛同した。瞳を輝かせて、手に力を込めながら。
最後になるかもしれない冒険は、こうして始まったのだ。