その血は呪われている   作:海野波香

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 いくつもの罠をかいくぐって、ハリーはついに辿り着いた。

 チェス盤の部屋でロンが気絶し、魔法薬の論理パズルの部屋でハーマイオニーが引き返し、今もダフネが部屋で待っている。

 なんとしてでもスネイプを倒し、石を守らなければならない。

 しかし。

 

「あなたが!」

 

 そこにいたのは、クィレルだった。

 ハリーは息を呑んだ。

 落ち着いた、嘲るような笑みがクィレルの顔に浮かんでいた。引きつってもいないし、なにかに怯えたような気配もなかった。

 

「私だ。ポッター、君にここで会えるかもしれないと思っていたよ」

「でも、僕は……スネイプだとばかり……」

「セブルスか?」

 

 その冷たく鋭い声がハリーの背筋を凍らせた。

 ずっとこの男を侮っていた。臆病で、惨めで、哀れな存在だと。完璧に隠しきっていたのだ。その弱さを仮面にして、全ての先生や生徒を騙しきった男がここにいる。

 全ての答え合わせが始まった。

 ハリーの箒に呪いをかけた者の正体。

 トロールを招き入れた計画。

 グリンゴッツへの侵入。

 そして、クィレルの本性。

 

「スネイプは私のことをずっと疑っていて、脅そうとしていた。私にはヴォルデモート卿がついているというのに、それでも脅せると思っていたのだろうかね」

 

 クィレルは鏡を調べながら、こともなげにそう言った。

 

「『石』が見える……ご主人様にそれを差し出しているのが見える……でも、いったい石はどこだ?」

 

 ハリーは必死に考えた。

 今、何よりもほしいのは『石』だ。クィレルより先に『賢者の石』を見つけたい。そして()()()()()()()()。だから、もし今鏡を見れば、『石』を見つけた自分の姿が映るはずだ。つまり、『石』がどこにあるかが見えるはずだ!

 

「この鏡はどういう仕掛けなんだ? どういう使い方をするんだろう? ご主人様、助けてください!」

 

 その時、別の声が答えた。

 しかも、その声はクィレル自身から聞こえてきた。まるで、彼がふたつの声帯を持つかのようだった。

 

「――その子を使え」

「わかりました……ポッター、ここへ来い」

 

 ハリーを縛っていた縄が落ち、ハリーはのろのろと立ち上がった。

 そして、命令に従って鏡の前に立った。

 青白く、怯えた自分の姿が目に入った。次の瞬間、鏡の中のハリーが笑いかけた。鏡の中のハリーがポケットに手を突っ込み、血のように赤い石を取り出した。

 そして、鏡の端からダフネがやってきた。

 ダフネはハリーの頬にキスをして、賢者の石を受け取り、両手でぎゅっと握りしめた。すると、ダフネの全身が輝き、ダフネはまるで絵画で描かれる天使のような姿になった。

 

「どうだ? 何が見える?」

 

 わけがわからないまま、ハリーはクィレルから目を逸らして嘘をついた。

 

「僕がダンブルドアと握手しているのが見える。僕……僕のお陰でグリフィンドールが寮杯を獲得したんだ」

「――嘘をついているぞ」

 

 謎の声が再び響いた。

 

「俺様が話す……直にだ……」

「ご主人様、あなた様はまだ十分に力がついていません!」

「このためになら……使う力がある……」

 

 クィレルは躊躇しながら、ゆっくりとターバンを解いた。ハリーは金縛りにあったようにその場に縛り付けられ、動けなくなっていた。

 ターバンが解け、クィレルはゆっくりと身体を後ろ向きにした。

 

「ハリー・ポッター……」

 

 もうひとつの顔がそこにあった。

 蝋のように白い顔。飢えた獣のように血走った眼。鼻はなく、鼻孔は蛇のような裂け目になっていた。

 

「この有り様を見ろ。ただの影と霞に過ぎない……誰かの身体を借りて初めて形になる」

「ヴォルデモート……」

「命の水さえあれば、俺様は自分の体を創造することができるのだ……さて、もう一度鏡の前に立て。俺様の見込みが正しければ、お前は正しく鏡から『石』を取り出す才覚がある」

 

 ハリーは後退りした。

 どうやらクィレルは石を取り出せないようだった。それならば、たとえ魔法の炎に焼かれてもここから逃げてしまったほうがいい。そうすれば、ヴォルデモートは『石』を手に入れられない。

 

「馬鹿な真似はよせ。命を粗末にするな。俺様の側につけ……さもないと、お前もお前の両親と同じ目に合うぞ……ふたりとも、命乞いをしながら死んでいった」

「嘘だ!」

 

 邪悪な顔が嘲笑を浮かべた。

 

「胸を打たれることよ……俺様はいつも勇気を称える。そうだ、ハリー、お前の両親は勇敢だった。俺様はまず父親を殺した。勇敢な戦士だった……お前の母親は死ぬ必要はなかった。お前を差し出せば見逃してやると言ったが、お前を守って死んだ」

 

 クィレルが後ろ向きのまま、ハリーに向かって近づいた。

 

「母親の死を無駄にしたくなかったら、さあ、鏡の前に立て」

「やるもんか!」

 

 ハリーは燃え盛る扉に向かって駆け出した。

 

「捕まえろ!」

 

 ヴォルデモートが叫んだ。

 クィレルの手がハリーの手首を掴んだ、その時。

 

「――手が、手が!」

 

 クィレルが苦痛に悲鳴を上げ、体を丸めた。

 見る見るうちに手は焼け爛れ、炭のように崩れていった。

 クィレルはなんとかハリーを捕まえようとのしかかったが、触れる先から彼の肉体はまるで見えない炎に舐められたかのように崩壊していった。

 

「それなら殺せ、愚か者め、始末してしまえ!」

 

 ヴォルデモートが鋭く叫んだ。

 クィレルが手を上げて何か呪いを唱えはじめた瞬間、炎の向こうから呪文の光が飛んできた。

 光はクィレルの口を塞ぎ、顔を覆って呪文を唱えられないようにした。

 その光を見て、ハリーは咄嗟にクィレルに飛びついた。

 

「あああアアァ!」

 

 クィレルはハリーの皮膚に触れることはできないらしい。触れればひどい痛みとともに焼け爛れて崩れていくようだった。

 それならば、触れ続ければクィレルの動きを封じられる。

 傷が痛む。

 それでもハリーはクィレルにしがみつき、その肉体が崩壊していくのを手で感じながら、歯を食いしばった。

 

「殺せ! 殺せ!」

 

 叫びがこだまする。

 握りしめていた何かが砕け、砂のようになっていくのを感じながら、ハリーの意識は闇の中へと落ちていった。

 

***

 

 そして、その一部始終をダフネは見ていた。

 クィレルが突破した後にハリーたちも突破したように、論理パズルに用いられている魔法薬には補充呪文がかけられている。ダフネはハリーのものと同じ小瓶を取り、一気に飲み干した。

 炎を渡る。

 ダフネは気絶したハリーを助け起こし、クィレルだったものを払い落とした。

 

「さて、と」

 

 ハリーを鏡の脇にもたれかからせて、ダフネは鏡の前に立った。

 想定外だ。

 まさか、ハリーが『賢者の石』を手に入れないとは。彼の心に何があったのだろう。『賢者の石』を使いたい理由ができてしまったのだろうか。それとも、まさか、()()()()()()()()と思ってしまった?

 鏡の中のダフネは、アステリアとともに林檎の収穫をしている。健康に、穏やかに。

 

「好奇心は力強い知性の最も永久的な特性の一つである。サミュエル=ジョンソンの言葉ですわ。的確だと思いませんこと、先生?」

「――おお、なんとも、君にぴったりの格言を聞けたようじゃのう」

 

 ダンブルドアが炎を跨いで悠々と部屋に現れた。

 

「君が期待していたものは見れたかね、ダフネ」

「察するに、この鏡は私の愛する日常を映すようですわね」

 

 ダフネが眉を上げて微笑んでみせると、ダンブルドアはクスクスと笑った。

 1991年から1992年にかけて起こる『賢者の石』事件。この物語において、たった一度だけ、最初から最後まで全てがダンブルドアの掌の上だった事件だ。もちろん、その掌の上にはダフネも乗せられている。

 だから、ダフネはこの事件で目一杯踊りきる必要があった。

 

「ハリーは無事ですわ。私のまだ知らない、高度な魔法の護りがハリーを守りました」

「ふむ、ではこの砂がクィレル先生ということかのう。なんとも、軽い姿になってしまわれた」

 

 ダンブルドアが杖を一振りすると、紫色の巾着が現れ、砂はその中に吸い込まれていった。

 

「ご家族に?」

「いや、クィレル先生は長らくご家族と連絡を取っておらなんだ。安全性を確認してから、クィレル先生の遺体は適切に埋葬されることになるじゃろう」

「そうでしたか」

 

 しばらく、砂が吸い込まれる音だけが響いた。

 

「クィレル先生はヴォルデモートに『石』を捧げようとしました。ハリー、ロン、ハーマイオニーはそれを防ぐためにここまでやってきた。ご存知でしょうけれど」

「まったくもって、ご存知じゃとも。君がこの1年頑張ってその一員に加わったことも、わしはよーく承知しておる」

「では、私が私欲でここにいることも?」

 

 ダンブルドアの瞳がキラキラと輝いた。

 ダフネは今夜、『賢者の石』を手に入れるつもりでここに来た。少し張り切りすぎて悪魔の罠を枯らしてしまったくらいに、気合が入っていた。

 その結果がこれだ。

 

「無限の黄金も、永遠の命も、私には身に余ります。でも、ひとつだけ、ひとつだけ試してみたかったのです。血の呪いを『賢者の石』で解呪できたら、そう思ってここに来たのですわ」

 

 ダンブルドアは遠い目でみぞの鏡を眺めた。あるいは、そこに映っているであろう誰かを。

 ここに至って、隠す必要はない。ダフネは英雄になりたいわけではないのだから。ここまでの計画がダンブルドアに見抜かれている以上、選ぶべきはむしろ直訴だ。

 ダフネには勝算があった。

 ダンブルドアは、ダフネと同じ傷を抱えている。家族への愛という、絶対に失うことのできない傷を。

 

「多くの者が『賢者の石』に夢を見た。錬金術という学問は、さながら夢で紡いだコットン・キャンディのようなものじゃ」

「ええ。……先生、私、はしたなかったかしら。妹を救えると思って、こんなところまで来てしまいましたわ」

 

 ダンブルドアは黙って微笑み、杖を振って巾着を閉じた。

 

「わしもまた、今夜は期待していたものを見ることができなかった。そのかわりに、最も強い魔法をこの目で確かめることができた」

「最も強い魔法?」

「愛じゃよ、ダフネ。ハリーは君のことを本当に大切に思っておる。だから、君のために『賢者の石』を手に入れようとしたのじゃ。その愛と比べれば、『石』のなんとちっぽけなことか!」

 

 愛。

 ダフネは悩んだ。

 本当にハリーがダフネのために『賢者の石』を手に入れようとして失敗したのだとしたら、思っていたよりもハリーにとってダフネが重要な存在になってしまったことを意味する。

 何より問題なのは、これからの計画でそれが障害になるとわかっていて、それでも悪い気がしないダフネ自身の気持ちだ。

 もちろん、愛にも種類はある。当然、ハリーはダフネのことを()()()()()()()()()()()()()。しかし、ダフネは計画次第ではいつかハリーを裏切るかもしれない。その時、彼はどれだけ傷つくだろうか。

 なんとか考えを切り替えて、ダフネはダンブルドアに向き直った。

 

「先生。ご相談してもよろしいかしら」

「構わんとも。校長とは言え、わしも教師じゃからのう」

「ありがとうございます。では、()()()()()()()()()()()『賢者の石』を使わせていただくことはできませんかしら?」

 

 ダンブルドアはピクリと眉を動かした。

 確かに、ハリーは『石』を手に入れられなかった。ダフネの、『石』を使って血の呪いを解呪するという計画はこれで台無しになったわけだ。

 それで終わるほどダフネは無策ではない。原作で成功したから。それだけの保険で動くほど、ダフネは軽率ではないのだ。

 ここからがダフネのサブプランだ。

 

「ニコラス・フラメル氏は14世紀初頭の生まれ。ということは、フラメル氏が『賢者の石』を完成させなければ今の今まで存命な理由がつかない」

「そのとおりじゃ」

「しかし、先生はフラメル氏との共同研究で知られている。錬金術の共同研究で、蛙チョコカードに載るほどの成果と言えばつまり『賢者の石』を完成させること。そうでしょう? つまり……『賢者の石』は、ふたつあるはず」

 

 そう、『賢者の石』はひとつではない。

 ダフネはそれを知っていたから、ハリーが石を取り出せなくても焦らなかった。賢者の石は決して世界にひとつだけの宝物ではない。魔法によって生み出すことができる道具に過ぎないのだ。

 ダンブルドアは杖を振って巾着を消し、それからダフネに向き合った。その表情は穏やかだった。

 

「君の恐るべきは、その論理的な冷静さじゃのう。アーマンドも君を褒めておった」

「ディペット先生が?」

「そうとも。よいかね、ダフネ。そんなに難しい顔で交渉を頑張らずとも、わしは君にこの件で助けを与えたいと思っておったのじゃよ」

 

 笑って、それからダンブルドアは手を差し出した。

 そこには一枚の小さな羊皮紙が載せられていた。どうやら住所を記したもののようで、細長い独特の筆跡でデボン州のある土地について書かれていた。

 ダフネは呆気にとられて、ダンブルドアを見上げた。

 

「ホグワーツでは助けを求める者には、必ずそれが与えられる。君の予習状況を考えれば、ニコラスの個人講義に十分ついていけるじゃろう。わしと一緒に作った不完全な石でも、君が研究を完成させるまで彼を生きながらえさせるくらいはできる」

 

 つまり、ダンブルドアはこう言っているのだ。

 賢者の石を与えはしない。

 しかし、自分で学んで作る分については自由にしてよいし、そのためにニコラス・フラメルを延命させる準備もしてある。

 一見寛大で、しかし残酷な裁定だった。

 これでダフネは、血の呪いが取り返しのつかないところまで発症するよりも早く賢者の石を完成させなければならなくなった。

 

「……先生の意地悪。自分で作れとおっしゃるのね?」

「学び舎とはそういうものじゃよ、ダフネ」

 

 おそらく、ダンブルドアはこう言いたいのだ。

 賢者の石を自分で作ることに集中し、政治から離れろと。

 

「さて、いい加減ハリーをこんな冷たいところに寝かせておくのも可哀想じゃ。行くとしようぞ」

 

 賢者の石事件が終わった。

 不完全で、失敗だらけで、呆れるほど馬鹿馬鹿しい一年が、あっという間に過ぎていった。

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