グリンゴッツ魔法銀行は魔法界唯一の銀行である。
それはつまり、国際魔法界全体の中央銀行であることを意味する。造幣銀行であり、国の預金を受け入れ管理する政府の銀行である。
その中央銀行が今現在ゴブリンという敵対的中立の位置にいる異種族に全面的に任されていることは、魔法族の貨幣経済への無頓着さを如実に現している。事実、英国魔法省には金融を司る部局がない。
であれば、ゴブリンとの関係はそのまま魔法界の貨幣経済の安定状態を意味するのではないか。
「財宝は火のようなものである。非常に有益な下男であるかと思えば、いちばん恐ろしい主人でもある」
「どなたの言葉ですかな?」
「カーライルですわ、サー・グリンゴット。我が国で最も金言を生み出した男」
グリンゴット8世は奇妙なことに、マグル風のスリーピーススーツを着こなしていた。ゴブリンらしく黒一色のそれは白い大理石の床と不可思議な相乗効果を生み出していた。
アステリアがフォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーのサンデーにハマったおかげで、ダフネは安心してあの店に愛しい妹を預けることができた。今日は商談に集中しなくてはならない。
「興味深い。トマス・カーライルですかな、エディンバラ大学の学長だった」
「閣下はマグルの世情にもお詳しいのですね」
「市場を知る者は、まずなによりも生活を知らなくてはなりません。ロンドンにはロンドンの、パリにはパリの、ニューヨークにはニューヨークの暮らしがあります」
「それで全国行脚を? ご立派ですわね」
グリンゴッツ魔法銀行の頭取であるグリンゴット8世が帰国したのは、ほんの2週間前のことだ。直前までカイロ支店の視察に赴いていた彼からはどこか砂と神秘に溢れた彼の地の香りが漂う。
鋭い爪を撫でつけながら、グリンゴット8世は狡猾そうな笑みを浮かべた。
「当行で提供している商品は、私自らの目で確かな価値を確認したものばかりです。そうでなければ、魔法族の皆様に投資信託を提供し続けるのは無謀というものですよ」
「それは損失が出た時の
「お嬢様にはまだ難しい話かもしれませんが……我々は
ゴブリンは足で稼ぐ。それは確かだ。
まずなによりもゴブリンが恐れられているのは、その取り立ての熾烈さだ。ゴブリンに金を借りて返さないことは、自らの内臓に値札をかけているに等しい。
「なるほど、紛争の火種を抱えずに商売したいと。では、閣下は魔法族を相手にした鍛冶商売にはご興味がないのかしら」
「……杖持ちの皆様に我々の財産観を理解していただけない限り、意欲が湧くことはないでしょうな。今は個人用に細々としたものを作るばかりですよ」
少し不機嫌そうに鼻を鳴らしたグリンゴットは、しかし、さりげなく彼のはめた指輪をダフネにちらつかせて見せた。間違いなく、それはゴブリン銀製の細工品だった。
グリンゴットの言う通り、魔法族とゴブリンでは財産の権利について認識が異なる。
ゴブリンにとって、そもそも作品とは作り手に帰属するものなのだ。他者が金を払って借り受けることはできても、それはあくまで貸与であって、売却ではない。貸し出した作品は返されなくてはならない。
しかし、ゴブリンが魔法族に対して十分な説明をしているかと問われれば、大抵の場合、否だ。魔法族の多くはなぜゴブリンが自らの作品に執着しているかを理解できずにいる。
「ご安心なさって。私は閣下の作品を見てみたいとは思いますけれど、自分のために何かを鍛えてほしいと望んでいるわけではありませんから」
「ほう、それはそれは……今どき、弁えた鑑賞者というのは珍しい。お嬢様がご興味をお持ちなら、当行のコレクションルームをご案内することも吝かではありませんが」
「あら、興味がありますわ。でも、今日は別のお話に伺ったのです」
一旦話を切ってカップに手を伸ばす。
エジプト土産だろうか、香りの強い紅茶を濃く淹れてたっぷりの砂糖が入れてある。お茶というよりはソフトドリンクと呼びたくなるような飲み物だ。
喉に絡みつく甘ったるさを飲み込んで、ダフネはゆったりと笑みを浮かべた。
「魔法族を代表して、ある作品を貴方がたの手元にお返しすることを検討していますの」
「ほう! あなたは素晴らしい考えをお持ちだ。話によってはグリーングラス家の定期預金について金利を優遇することもできるでしょう。それで、その作品とは」
「非常に古い作品ですわ。長らく歴史から失われていた、幻の逸品」
もう一口甘い紅茶を飲み下す。
グリンゴットはいかにも期待しているような表情で、しかし目だけは冷めたままゆったりと椅子に腰掛けていた。おそらく、こういった話はさほど珍しくないのだろう。
しかし、何の話か理解した瞬間、彼の余裕は消し飛んだ。
「名工ラグヌック1世の作品、ルビーの柄に純粋なゴブリン銀の刀身……おわかりかしら?」
「まさか……ゴドリック・グリフィンドールの剣だと……?」
グリンゴットは身を乗り出した。
「嘘を仰っている。あの作品は失われて久しい」
「どこに隠されているか知っていますの。もし隠すとしたらここ、というのは閣下もお察しでしょうけれど」
「そんな……では……ホグワーツにあると? 馬鹿げた嘘だ、そんな話は聞き飽きている」
ダフネが頷いてみせると、グリンゴットは不快そうに鼻を鳴らした。それでも、瞳の奥には隠しきれない期待がちらついていた。
グリフィンドールの剣。ゴブリン銀を鍛えて創られたそれは一切の不浄を寄せ付けず、自らを強める力を吸って育つ。バジリスクの毒を吸ったことで、分霊箱すら破壊する神秘の刃と化した。
その剣は今はまだ隠されている。組分け帽子の内側から剣を取り出せるのは、真のグリフィンドール生だけだ。
「今、ホグワーツでは剣を利用したある計画が秘密裏に進められていますの。結実するのはおそらく、5年後。5年後にグリフィンドールの剣はこの世に再び現れます」
「なぜそれをご存知なのです?」
「私の後見人についてご存じないようですわね。ホグワーツの情報について私の耳に入らないことはありませんわ」
もちろん、嘘だった。
ディペットはよい後見人としてダフネとアステリアを世話し、杖魔法の練習を見守ってくれるが、ホグワーツについて教えてくれることは滅多にない。彼にとってホグワーツとは後悔に満ちた場だからだ。
それでも、前校長を後見人に持つ子どもという地位は便利だった。グリンゴットを納得させる程度には。
「では……仮に、グリフィンドールの剣が見つかるとして……我々にどうせよと?」
「回収の手段はお任せしますわ。正面から権利を主張しても結構ですし、鑑定なり修繕なりの名目をつけて接収されても結構です」
「ほう……あなたの手は汚さないと?」
「5年も準備の時間があれば、小娘ひとりよりももっと強い力を使うことができるでしょう? たとえば、そう……魔法省の官僚に借金を作らせておくとか」
グリンゴットは嫌な笑みを浮かべた。
ギャンブルで最も儲かるのは胴元だが、次に儲かるのは金貸しだ。そして、この国はギャンブル大国でもある。少し揺さぶればゴブリンに借りを作ってしまうような魔法族は山ほどいる。
世情に通じるグリンゴットは、おそらくその点についてとびきりのやり手だ。
たとえば、ルード・バグマン。元は有名なクィディッチプレイヤーだった彼は、官僚としては平凡だったかもしれないが、少なくともゴブリンたちのカモとしては優秀だった。
「いいでしょう。あなたは見返りに何を求めるのです?」
「そうですわね……」
わざとらしく爪をいじって間を作ると、グリンゴットはじれったそうに身じろぎした。
ゴブリンはプライドが高い。彼らは金融家であると同時に職人でもある。魔法族に翻弄されることを好まないのは、長い歴史に度々刻まれる「反乱」や「暴動」が証明している。
「前回の戦争であなたがたは魔法省に協力してくださった」
「同じ社会の一員として当然のことです」
「それでも、ノッティンガムの虐殺が起こらなければあなたがたは中立を貫いていた。ああ、責めるわけではありませんわ。賢いと思っただけです」
ヴォルデモートが世に現れた第一次英国魔法戦争で、グリンゴッツ魔法銀行は多くの魔法族に避難所を提供し、戦後には寡婦と孤児のための基金設立にも協力的だった。
それはひとえに、ノッティンガムに住むゴブリンの一家が闇の陣営に虐殺されたからだ。敵の敵は味方。ゴブリン全体が光の陣営に協力したのは、歴史上にも珍しい事態だった。
しかし、ヴォルデモートの復活から始まる第二次英国魔法戦争では、ゴブリンは中立を保った。理由は様々だが、そのひとつにバグマンがゴブリンから多額の金を騙し取ったことで反魔法省感情が高まったことが挙げられる。
これを利用しない手はない。
「サー・グリンゴット。もし、私が次の戦争に備えていると言ったら……臆病者と笑われますかしら?」
「レディを笑うような者は当行にはおりません。しかし……何か根拠があってのことなのですか?」
「確信しているわけではありませんわ。ただ、予感のようなものがあるのです。グリンゴッツすらも大いに傷つけられるような、深い闇の奔流の予感が」
1998年にはグリンゴッツの職員の多くが虐殺される。ハッフルパフのカップが盗まれたことで、分霊箱の秘密が暴かれたこと、自らの不死性が揺らがされていることにヴォルデモートが激怒したからだ。
その犠牲者にはおそらく、グリンゴットも含まれている。頭取がひとりで逃げ出すことはできないだろう。ましてや当時のゴブリンは中立の立場なのだから。
そんな未来を知っていることはおくびにも出さず、ダフネは笑みを深めた。
「魔法界の秩序を守ること。それは長い歴史の中で魔法界を作り、支えてきた純血の家々の責務と言えますわ」
「お志は立派だと思いますが……」
「ええ、もちろんひとりでは成し遂げられないことです。だから、仲間を募る必要がある。そして……そのときにこそあなたがたのご助力を求めたいと考えています」
闇の陣営に染まっていない、あくまで社会身分としての純血の維持。それを行うためには、まずなによりも純血の家々の協力が必要となる。
ダフネはこれから、純血の家々にとって魅力的な何かを作らなくてはならない。闇に傾かない、かといって光にも染まりきらない、市民として生きるための何かを。
これは非常に難しい挑戦だ。不可能に近い。
しかし、金融家を味方につけることができれば、不可能を困難程度まで和らげることができる。
「……いいでしょう。その暁にはご協力をお約束しましょう」
「寛大なお心に感謝いたしますわ」
「しかし、本当に後悔はないのですね? グリフィンドールの剣は杖持ちの皆様にとっても至宝と言ってよい代物でしょう」
「だからこそ、正しき持ち主の元へ返したいのですわ」
そう微笑んで、ダフネはカップを傾けた。
どこに運ばれようと、どこにしまわれようと、グリフィンドールの剣は真のグリフィンドール生の願いに応えて組分け帽子の中に姿を現す。だから、魔法族がグリフィンドールの剣を失うことは決してない。
その事実は、グリンゴットが死ぬまで伏せておくべきだろう。