その血は呪われている   作:海野波香

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 夏の夜のことだった。

 ひとりの屋敷で寝るのにも慣れてきたアステリアは、自分の部屋でダフネがホグワーツから帰ってくるのを楽しみに待っていた。

 きっとホグワーツでたくさんのことを経験してきたに違いない。その土産話を聞くのが何より楽しみだった。友だちを作る天才で、いつも輝いていて、勇敢かつ聡明で、いたずら心に満ちた姉は、きっとわくわくするような物語を聞かせてくれることだろう。

 明日には帰ってくるダフネを万全の状態で迎え入れなければ。

 そう思いながら、アステリアは窓辺で髪を梳かしていた。

 

「……あれ、今なにか」

 

 満月に照らされた果樹園の中を、何かが動いた気がする。

 アステリアは少し迷って、燭台を手にして階段を降りた。先日、果樹園に迷い込んだ手負いのニーズルを手当てしたばかりだ。同じ子が迷子になっているのかもしれない。

 サンダルを履き、裏口から庭へ出る。

 夏の夜風がアステリアの纏めていない髪を撫でるように揺らしていった。風上からは青々とした草のにおいと、わずかに獣臭さを感じた。

 

「出ておいで、怖くないよ」

 

 優しく声をかける。

 燭台に灯った魔法の火が風に吹かれて揺らめく。影が道脇の草原を駆け抜けていく。

 果樹園の中で何かが枝を踏んだ音がする。

 ニーズルではない。もっと重い生き物の音だ。

 アステリアは少し悩んで、進むことを選んだ。果樹園には危険な魔法生物を避ける呪文がかけられている。ハグリッドのおかげで危険な生き物が迷い込むことはなくなった。

 それに、アステリアはアーマンドの屋敷で魔法生物飼育学の予習をたくさんしたし、ハグリッドからも世話や手当ての仕方をよく学んだ。長年森番を務める彼の知識は確かで、アステリアはまだホグワーツに行っていないのに多くの魔法生物を知っていた。

 だから、アステリアひとりでもなんとかなると思ったのだ。

 

「おいで、こっちだよ」

 

 声をかけながら、燭台をあげたその時だった。

 何か、枝の上に光るものが見えた。

 

「――よお嬢ちゃん、恵んでくれねえか」

 

 思わず固まった。

 樹上に何かがいる。

 

「誰ですか! と、当地をグリーングラス家の土地と知っての狼藉ですか!」

「へへへ、凄むねえ」

 

 何か、いや、誰かが枝から枝へと飛び移った。

 灯りが追いつかない。

 アステリアはなんとか「それ」を視界に収めようとしながら、ゆっくりと屋敷に戻る道を後ずさりした。

 

「怖いか? 怖いよな? 怖がらせる気はなかったんだぜ?」

「ッ……目的はなんですか!」

 

 自分が枝を踏んだ音がやけに大きく聞こえる。

 

「言っただろ? ちょっと恵んでほしいんだよ。俺達みたいなのはいつもひもじいからねえ」

 

 声は、後ろから響いた。

 

「なあ、恵んでくれよ」

 

 アステリアが振り返ると、そこにはひとりの男がいた。

 顔に深く刻まれた爪痕。

 瞳孔は開ききっていて、喉は獲物を前にした獣のように鳴っている。その音は地獄の門を押し開けるかのように低く、夜闇と混じってアステリアを押し潰そうとしていた。

 そして、剥き出しにされた()が、アステリアの喉笛を狙っていた。

 

「ッ!」

 

 咄嗟にアステリアは燭台を投げつけ、果樹園の奥へ駆け込んだ。

 

「この餓鬼……熱いじゃねえか!」

 

 足音が追ってくる。まるで跳ぶように駆けている。

 夜闇の中で、自分の記憶だけを信じてアステリアは果樹園の中を走り回った。

 アステリアは無策で果樹園の中に逃げ込んだわけではなかった。ここにはハグリッドが獣除けで置いた罠がいくつもある。中には危険な魔法生物を捕らえるためのものも。

 

「糞、なんだこれは……聞いてた話と違うぞ、ったく」

 

 男は唸りながら追いかけてきた。

 くくり罠が引きちぎられる音がした。かすみ網が引きちぎられる音がした。常人の膂力ではありえない力で、その男はアステリアを追い回している。

 

「傷はつけるなって話だが、こんだけ苦労させられたんだ。味見くらいいいよなあ?」

 

 味見。

 その言葉に先ほど見えたあの牙を思い出して、アステリアの背筋に怖気が走った。

 一番大きな落とし穴の前まで駆けていく。魔法的に隠されているとびきり大型のそれは、そう簡単には脱出できないように工夫が施されている。

 アステリアは背後から迫る足音を感じながらギリギリまで落とし穴に近づき、そして――

 

「つーかまーえ――うおっ、なんだ!」

 

 素早く脇に避けた。

 勢いよく突っ込んできた男は、そのまま落とし穴に落ちていった。

 アステリアは息を切らしながら、男が落とし穴から出てきませんようにと必死に祈った。そして、震える足で立ち上がり、屋敷への道を思い出そうとした。

 しかし、その時だった。

 

「――今日が満月じゃなくてよかったなあ、お嬢ちゃん。俺もうキレちまったよ、味見じゃ済まさねえからなあ」

 

 暗闇の中で、何かが落とし穴から這い上がってきた。間違いなく、あの男だった。

 アステリアは必死に祈った。

 誰でもいい。誰か、アステリアに助けの手を。

 その時だった。

 

「ちっ、なんだ、糞!」

 

 大きな羽音が響いた。

 空から巨大な何かが舞い降りて、その鋭い爪で男に襲いかかった。次第に暗闇に慣れてきたアステリアには、その正体がわかった。カラスだ。

 その大きなカラスは男の目に爪を立て、首を突き回した。

 

「ぐ、う、やめろ、降参する、降参するから!」

 

 カラスはどうやら激怒しているようだった。

 羽で打って男を転ばせると落とし穴の中へと転がし、そのまま自身も落とし穴の中へと潜っていった。落とし穴の中からはしばらく悲鳴が響き、そして――

 

「殺しちゃ駄目!」

 

 アステリアが咄嗟に叫ぶと、悲鳴が止んだ。

 カラスは羽ばたいてゆっくりとアステリアのところへと上がってきた。その血に濡れた嘴が月光を受けて嫌な輝きを見せていた。

 かすかに聞こえる呻き声から、男がまだ死んでいないことがわかった。

 カラスはしばらくアステリアをじっと見て、血で濡れていない頭をアステリアにこすりつけ、小さく鳴き声を上げた。

 無自覚に、アステリアは呟いていた。

 

「ご先祖様?」

 

***

 

 そして、翌日。

 ダフネがホグワーツから帰宅して最初にしたことは、怯えるアステリアに代わっての聴取を受けることだった。

 

「では、故意ではないわけだね」

「ええ。マグルよけこそかけていますが、魔法生物の出入りに関しては緩めておりますから。あの罠も大型の魔法生物が迷い込んでしまったときのためのものですわ」

「そうだろうとも」

 

 闇祓いの男が、気の毒そうにダフネを見下ろした。

 

「夏休みの初日から悪かったね。大方、浮浪者が迷い込んで魔法生物用の罠にかかったというオチだろう。あとはこちらで纏めておくよ。妹さんの世話をしてやるといい」

「お気遣い、痛み入りますわ」

「ガウェインのやつから君たちのことはよく聞かされているからね。うちの娘にも見習わせたいよ、本当にしっかりしているね。それじゃ、よい夏休みを」

 

 姿くらましした闇祓いを見送って、ダフネは大きく息を吐いた。それから、階段を上がってアステリアの部屋のドアをノックした。

 

「アステリア、私よ。入るわね」

 

 ベッドの上で、アステリアはシーツにくるまっていた。

 ダフネが到着してすぐのころに比べれば落ち着いていたが、それでもまだ手に震えが見て取れる。淹れておいたココアには手もつけていないようだった。

 ダフネがベッドの縁に腰掛けると、アステリアはダフネの手を握りしめた。

 

「怖かったわね」

「はい」

「傍にいてあげられなくてごめんなさい、アステリア」

「いいんです。でも……今夜はアステリアと一緒に寝てくださいますか?」

「もちろんよ」

 

 折角の夏休みが大変な始まりになってしまった。

 まさかアステリアが人狼に襲われるとは。

 ダフネが自分のマグカップからココアを飲んでいると、アステリアが小さく声を上げた。

 

「あの、お姉様。あの人は……」

「闇祓いに引き渡したわ。まあ、不法侵入に器物損壊、暴行未遂。ひとまずはアズカバン行きでしょうね。裁判もないかもしれないわ、魔法省は人狼に冷たいから」

「はい。その……さっき思い出したのですが、変なことを言っていたんです」

 

 変なこと。

 ダフネがマグカップをトレイに置いて続きを促すと、アステリアは震える声で語りはじめた。

 

「話が違うとか、あと、誰かと傷は負わせないって約束をしてたみたいでした」

「ふむ……」

 

 努めて冷静にしながら、ダフネは思考を全力で回転させていた。

 つまり、誰かがアステリアを人狼に襲わせたのだ。

 アステリアに手を出した愚か者がいる。

 それは万死に値する行いだが、現行法では私刑で報いることはできない。法治国家は暴力による私人の復讐を肯定しない。

 しかし、ダフネにはもっと合理的で合法的な復讐の手段がある。この悪事を企てた者に生まれてきたことを後悔させてやろう。

 穏やかにアステリアの手を撫でながら、ダフネはそのような結論に至った。

 

「あと……あの、お姉様。とても、とても不思議な話なのですが」

「ええ、聞かせてちょうだい」

「その……大きなカラスが助けてくれたんです。そのカラスが、なぜだかアステリアにはご先祖様のように思えました」

 

 ダフネは沈黙した。

 ありえない話ではない。グリーングラス家の先祖の中には行方が知れない者もいる。血の呪いで完全に獣と化し、今もまだ獣として生きている先祖がいることは、決しておかしなことではない。

 しかし、問題はその先祖が果たしてどこまで人間としての意識を残しているかだ。

 かつてサーカスで見世物として酷使されていたナギニという魔女は、最終的に蛇となってヴォルデモートの忠実なペットとして尽くした。そこには人だった頃の良心など微塵も見当たらず、ただ残忍で凶暴な蛇として描かれていた。

 

「お姉様?」

「……もしそうなら、ご先祖様に感謝しなければいけないわね。あなたの体調が落ち着いたら、お墓にお花でも供えにいきましょうか」

「そうですね、アステリアもそうしたいと思います。でも、今はもう少しだけ……」

 

 きっと、昨夜は一睡もできなかったのだろう。

 ダフネが手を撫でているうちに、アステリアは寝息を立てはじめた。まだ少し震えがあるが、それでも表情は穏やかになりつつあった。

 アステリアの手を握りながら、ダフネは空いた手で杖を振って屋敷しもべ妖精に合図を送った。

 しもべはすぐに現れた。

 

「お嬢様、なんとお詫び申し上げればいいか」

「言い訳は無用よ」

「しかし、シミーは自分が恥ずかしゅうございます。アステリアお嬢様が抜け出したことを気づきすらしないなどと……洋服をお与えいただいても仕方ないほどの愚かさにございます……」

 

 老いたしもべのシミーはグリーングラス家に長く仕えている。

 彼が涙を流して詫びるのを、ダフネはアステリアを起こさないよう静かに一喝した。

 

「二度はない」

「は、お嬢様の寛大さに感謝いたします……」

「勘違いしないで。お前に洋服を与えないのは、アステリアが悲しむからよ。……アステリアはお前を大切にしている。家族だとすら思っている。その信頼を裏切らないで」

「もちろんでございます……シミーは命尽きるまでお仕えいたします」

「侵入経路の特定。それから、闇祓いの取り調べに侵入して、背後関係を洗いなさい。あとは私が始末をつけるわ」

「仰せのままに」

 

 シミーは静かに姿を消した。

 ダフネはため息を吐いて、それからココアの入ったマグカップを手に取った。しかし、飲む気にはなれず、結局マグカップを戻して杖を弄んだ。

 おそらく、これは警告だ。

 ダフネの動きを嫌がっている誰かがいる。それも、ダフネに背後関係を調べられても懐が痛まないか、暴力的な手段に訴えることに躊躇いがない誰かだ。

 心当たりはある。

 人狼のような社会的弱者を誰にも知られずに動かすことができて、人狼がどう証言しても都合のいいように片付けることができて、ダフネに悪意を向けている人物。

 

「デメテル・ザビニ……」

 

 杖先に火花が散った。

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