その血は呪われている   作:海野波香

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 雨が降りはじめていた。

 アーマンドの寝室で、ダフネは静かに本を読んでいた。

 ベッドにはアーマンドが眠っている。つい先ほど20mの高さから転落したばかりで、咄嗟にダフネが呪文を唱えて柔らかに着地させたものの、強いショックを受けていた。

 

「駄目じゃ、トム……行ってはならん……」

 

 魘されている老人の額からタオルがずり落ちそうになったので、ダフネはそれを拾い上げ、冷水に浸して絞ってからまたかけてやった。

 ダフネとアステリアに対する指導として、アーマンドは飛翔呪文を披露しようとした。

 飛翔呪文。かつては魔法理論上不可能とされていた、魔法による飛行だ。発明したのは死の飛翔(Vol de Mort)を名乗ったかの有名な闇の魔法使い、トム・リドルである。

 

「……うまくいかないものね、愛って」

 

 ダフネはそう独りごちた。

 アーマンドはかつての教え子トム・リドルの飛翔呪文を再現しようとした。そこには、トムが優等生の仮面を被っていた頃の穏やかで平和な思い出への郷愁が多分に含まれていたとダフネは分析している。

 もちろん、アーマンドはトムがヴォルデモートであることを知っている。トムが飛翔呪文の発明に成功したのはヴォルデモートを名乗りはじめてからのことだ。

 飛翔呪文は成功した。

 アーマンドは輝く白い靄の塊のようになり、空中へと飛び上がった。

 しかし、その時事件が起きた。

 

「ダフネ!」

「静かに、ガウェイン。先生が起きてしまいますわ」

 

 額に髪を張り付かせて、ガウェインが扉から飛び込んできた。

 

「雷に打たれたって聞いたぞ。怪我は」

「私は何も。ディペット先生は墜落しましたが、盾の呪文は使われていましたわ」

 

 そう、落雷があった。

 今朝は晴天だったのだ。雲一つなかった。そこに、一筋の落雷が飛翔するアーマンドめがけて降り注いだ。咄嗟にアーマンドは盾の呪文を唱えたが、飛翔呪文のコントロールを失った。

 明らかに魔法的な現象だった。

 ダフネがアーマンドをうまく着地させていなければ、彼は死んでいただろう。ダフネはアーマンドを原作の運命から救うことができた。

 

「狙われたのは君か?」

「まさか」

「……ディペット先生の命を狙うような人間が?」

「いてもおかしくはないでしょう」

「なぜそう言える?」

 

 ダフネは顔を上げて、ガウェインに答えた。

 

「ヴォルデモートが彼の教え子、トム・リドルだから」

 

 ガウェインは呻いた。

 闇祓いとして、今彼はどれほどの苦しみを感じただろう。そう、アーマンドに価値はないが、アーマンドの命を狙う理由は尽きないのだ。

 残酷な言い方をすれば、アーマンドはヴォルデモートの生みの親だ。

 

「そのことを知っている者は」

「ホグワーツの古参の教授陣はご存知でしょう。ヴォルデモートの初期の信奉者、ロジエールやレストレンジもまた知っているでしょう」

「他には?」

「他に私の知っている限りでは、アークタルス閣下と――あなた」

 

 一瞬、ガウェインは沈黙した。

 

「……何を言っているんだ」

「来るのが早すぎますわ。せめて聖マンゴの癒者が到着してからでないと」

 

 そう、早すぎるのだ。

 ダフネがふくろう便を聖マンゴに送って往診を依頼したのはほんの30分前。魔法法執行部に話が入っているのは不自然だ。

 

「まさか、俺を疑っているのか?」

「いいえ。もっと別の話をしていますの」

「別の話?」

 

 ダフネが指を鳴らすと、屋敷しもべ妖精のシミーが現れた。グリーングラス家に長く仕える彼は、今日ずっと姿を消してこの屋敷に控えていた。

 

「シミー。クリーチャーはどう動いたかしら」

「は、アーマンド様が墜落されるまではおそばに控えておりましたが、落雷があってすぐにグリモールド・プレイス12番地に戻り、その後魔法省に向かいました」

 

 屋敷しもべ妖精が本気で監視しようと思えば、魔法族はその監視に気づくことができない。

 ダフネはずっと見張られていたのだ。

 そして、その見張りは屋敷しもべ妖精からだけではない。闇祓いの任務に偽装して、ずっとダフネを見守っていた人物がここにいる。

 

「あなたは最初から、アークタルス・ブラックに従っていた。そうね?」

 

 話ができすぎていた。

 そもそも、闇祓いは多忙だ。

 その闇祓いでありながら年単位でグリーングラス家の護衛に付けられるというのは、普通であれば左遷を意味する。それでいてガウェインは出世を期待されている。これは本来魔法法執行部ならありえないポジションだ。

 ブラック家を訪ねることを露骨に反対しておきながら、いざ訪ねるとなるとダフネひとりに任せて外で待っていたこともあった。ダフネの身を本当に案じているのなら、これも明らかにおかしい。

 ガウェインは入らなかったのではなく、入るわけにはいかなかったのだ。特に、思ったことを言葉に出してしまう状態になっているクリーチャーには特に会うわけにはいかなかった。

 ダフネがアークタルスに諭されると、その言葉をすぐに理解してダフネに協力を申し出た。これが一番できすぎていた。

 そして、協力関係になってからは頻繁にダフネと交流し、緊急時にはガウェインかその息がかかった人間が必ず出入りする。

 

「言ってみれば、ブラック閥最後の生き残りと言ったところかしら。スクリムジョール閣下ではないわね、あなたと……シックネス副長? とてもよく連携を取っているのね。すっかり騙されてしまったわ」

「本気で言っているのか」

「まだ少し半信半疑よ。あなたたちブラック閥はもはや衰退を受け入れている。アークタルス閣下を訪問しようとした時あなたが止めたのは、さすがに演技だったでしょうけれど」

 

 ダフネが動くよりも前から、アークタルスは手を回していたのだ。

 

「……どこで気づいたんだ」

「あなた、私がヴォルデモートって口にしても驚かないでしょう。アークタルス閣下と同じ癖だわ。普通は怯えるなり、窘めるなりしますのよ」

 

 ガウェイン・ロバーズ――ブラック家からグリーングラス家に遣わされた男は、来客用の小さなソファに崩れるように座った。

 

「未婚の有能な男性。閣下が遣わした花婿と言ったところかしら。少し年はいっているけれど」

「……信じてくれるかわからないが、そんなんじゃない」

「怒っているわけじゃないのよ、ただ少し……そうね、残念ではあったけれど」

 

 ずっと疑ってはいた。

 ガウェインは協力的すぎるのだ。

 ダフネはこの世界が冷たく残酷であることを知っている。だから、ガウェインという降って湧いた善意を理解できずにいた。そして、ついに見つけたのだ。その答えを。

 

「ディペット先生を後見人に選んだ時点で、閣下は私たちがヴォルデモートの真実に辿り着く可能性に気づいた。だから、私たちを守るためにあなたを送り込んだ。そうですわね?」

「……そうだ。俺は君たちの護衛を命じられている」

「あーあ、やっぱりアークタルス閣下のほうが一枚上手なのだわ。こんな初歩的なことにも気づかないなんて。……いいえ、気づきたくなかったのかも」

 

 ダフネは伸びをして、小さく笑った。

 結局ダフネは、ガウェインを信じたかったのだ。

 

「……妹が、いたんだ」

「妹?」

 

 顔を上げたガウェインの表情は、今までにないほど穏やかだった。

 

「可愛い子だった。俺にとってはたったひとりの家族だった。物怖じしない子でな。じじ様、じじ様ってアークタルス閣下のことを呼んでたよ。俺達からしたら、ブラック家なんて遠縁もいいとこなのにな」

「その子は」

「死んだよ。レストレンジだ。マグル生まれの友達を庇って拷問された末、最後まで傷つけられて殺された」

 

 ガウェインは杖を握りしめていた。

 その手は力が入りすぎて白ばんでいた。それほどまでに、彼の内側で激情が渦巻いているのがわかった。それなのに、表情は痛々しいほど穏やかだった。

 

「時代が時代だったからな。葬式にはほとんど人が集まらなかった。でも、閣下はわざわざ来てくれた。あいつのために泣いてくれたんだよ、あの爺さんは」

「それで、あなたは閣下に仕えるようになった」

「そうだ。閣下に呼び出されて、君たちの力になってやれと言われた。会ってみて驚いたよ。君たちは本当に、妹によく似ていた。当たり前だよな。君たちの父親は、俺の家からグリーングラス家に婿に行ったんだから」

 

 血縁。

 完全に忘れ去ったつもりの、父の存在がダフネとアステリアを救っていた。その事実に気づいたのは、ガウェインの瞳に宿る不思議な優しさがかつての父に似ていたからだ。

 

「それで、アステリアに優しかったのね」

「まあ、それもある。……本当にいい子たちだと思ったよ。閣下が引き合わせた理由がよくわかった。特に君が目指しているものは閣下がかつて夢見たものだからな」

 

 ガウェインは大きく息を吐いて、ゆっくりと杖を離した。

 

「君はまだ子どもだ。代わりを務められればと思った。でも、俺には無理だ。俺は君ほど賢くないし、立ち回りもうまくない」

「磨けば光りますわ」

「今からか? それも悪くないが……君を応援したいって気持ちは本当だ。できる限りのことをしてやりたいって思ってる。もちろん、犯罪の片棒を担ぐのは遠慮したいが」

 

 少しだけ、ダフネは考えた。

 初めてグリモールド・プレイス12番地を訪ねたあの日、ガウェインの言葉にダフネは目を覚まされた。あの言葉には感謝している。

 気づいたからといって、関係が大きく変わるわけではない。過去の言葉がなしになるわけでもない。何かが変わるというわけではないのだ。

 では、ダフネはどうしてわざわざ指摘したのか。

 それはきっと、寂しかったからなのかもしれない。

 

「私、やっぱりちょっとだけ怒っていますの」

「まあ、そうだろうな」

「秘密にしろと閣下が命じられたのでしょう? でも、だからってこんなに長いこと秘密にされると、さすがの私も少し傷つきますわ」

「悪かったよ」

「これで私たち、初めて対等なお友達ね」

 

 ダフネの言葉に、ガウェインが目を瞬かせた。

 

「友情関係は同等関係である。カントの言葉ですわ。秘密がなくなった以上、私たちはこれからいいお友達になれると思わないかしら?」

「……どうだかな。君は少し、秘密が多すぎるようだから」

 

 ガウェインは笑って立ち上がった。

 その目には先程までの悲痛な穏やかさとは違う、闇祓い特有の覇気が戻っていた。

 

「ガウェイン。改めて、あなたにお願いします。アステリアを守ってあげてください」

 

 今、ダフネにとって最大の懸念事項。それはアステリアの安全だ。

 基本的に攻撃をするのに向かない屋敷しもべ妖精の精神性を考えると、彼らは護衛には向かない。ダフネがホグワーツに行ったり何かに取り組んだりしている間、徹底してアステリアを守ることができる誰かが必要だった。

 

「もちろんだ。君たち姉妹のことを全力で守る。誓うよ。……まずはディペット先生からだな。しもべ、現場に案内してくれ。落雷の正体を特定したい」

「仰せのままに。お嬢様、おそばをお離れいたしますが」

「構わないわ。私はディペット先生のそばにいるから」

 

 ふたりを見送って、ダフネは大きく息を吐いた。

 

「人間関係って難しいですわね、先生」

「……おや、気づいていたか」

 

 アーマンドは小さく唸って身動ぎしてから、額に載せられたタオルをどかした。

 彼は途中から起きていた。その気配に気づいていたのは、すぐそばに座っていたダフネだけだっただろう。しかし、ダフネはあえてそれを指摘しなかった。

 これからする話を考えれば、アーマンドには自覚していてもらったほうがいい。

 

「先生、聞いてのとおりですわ。私はあの人の正体を知っています」

「そうか。……そうか」

 

 アーマンドはゆっくりと体を起こした。

 静かな目をしていた。

 

「少し、昔話を聞いてくれるかね」

「あら、今日はたくさん昔話を聞ける日だこと。嬉しいですわ」

「ありがとう。……トム・リドルという青年がいた。不憫な生まれで、それを見返すがごとく優秀さを発揮した、素晴らしい青年だった。あの時代、模範と言えば彼のことを指した」

 

 遠い目をしたアーマンドは、静かに語りはじめた。

 

「誰もが彼を愛した。儂もな、彼を愛したつもりじゃった。しかし、彼はその愛を拒んで、去って、挙句の果てに例のあの人になってしまった。……皆が間違えたのじゃろうな。儂も、アルバスも、ホラスも、皆が間違えた」

「そして、トム・リドル自身も」

「そうじゃろうか。儂にはわからなんだ、彼の気持ちが。ずっと悩んでおった。……同じように空を飛んでみたら、何かがわかるかもしれないと思ってのう」

 

 飛翔呪文は一時期ヴォルデモートの代名詞だった。

 そしてきっと、自らの名に冠する程度には、彼自身も誇りを持っていた。「人は空を飛べない」という既存の魔法理論の超越。きっとそれは彼にとって貴重な、闇の力によらない成功体験だった。

 もし、飛翔呪文の発明がもう少し早ければ。

 そして、アーマンドたちがそれを心から褒め称えていれば。

 あるいは、魔法学者トム・リドルの姿があったかもしれないのだ。ひとつの戦争が起こらなかったのかもしれないのだ。多くの命が救われたかもしれないのだ。

 そう思うたび、きっとアーマンドは絶望に苛まれたことだろう。

 

「先生」

「何かね、ダフネ」

「私が怖いですか?」

 

 アーマンドは何も言わなかった。

 

「私は沢山の人に愛されてここにいます。先ほどのガウェインだってそうですわ。だから、先生は今度は間違えなかった。私はちゃんと、先生の教え子ですわ」

「ダフネ……すまない」

 

 静かに涙するアーマンドの背をさすりながら、ダフネは考えた。

 結局、ダフネはアーマンドを救う道を選んでしまった。彼を選んだ理由のひとつには、彼が死んだほうが都合がいいというものがあったはずなのに。

 ダフネは甘い。

 しかし、この甘さを失ってしまえば、行き着く果てはゲラート・グリンデルバルドなのかもしれない。そう思うと、ダフネは自分の選択を少しだけ信じられた。

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