「もう、いつまでもいじけていないの」
「いじけてなどいません。でも……ちょっと複雑です。お姉様を取られたような気がするのです」
頬を膨れさせるアステリアの手を握りながら、ダフネは夏のデボン州郊外を歩いていた。
魔法族の隠れ家というものはどうしても郊外に集中する。
村の外れであったり、丘の上であったり、林の中であったり。あまり人が住みたいとは思わない土地を選ぶのは、マグルと関わらないようにするためでもあり、魔法があればそういった土地でも快適に暮らせるからでもある。
その点で言えば、ゴドリック・ホロウにあるポッター夫妻の避難地は珍しい立地にある。マグルにとっても隣人と言える距離に住んでいた彼らは、きっと魔法を隠しながらマグルたちの生活を助けていたのだろう。
いつかはハリーをゴドリック・ホロウに連れて行かなくてはならないだろう。あそこには彼の両親が没した、そして彼がヴォルデモートを崩壊させた廃墟が残っている。
「アステリアは……確かに、ハリーさんのことは素敵な方だと思いますが、お姉様に相応しいか、まだ見定める時間が必要だと思います。お姉様のお相手は立派な方でなくては」
「あら、固いことを言うのね。別に、ハリーとはそういう仲じゃないのよ? ウィーズリー家の皆さんと仲良くなりたかったの。いい人たちだったでしょう?」
「それは……そうですが。モリーおばさまの料理はとてもおいしかったですし」
スティンチコームのポッター邸で彼を出迎えた最大の理由は、ウィーズリー家に溶け込むためだ。
ウィーズリー。
彼らは貧しく、血統を重視せず、マグル贔屓で、属性だけを見れば魔法界の鼻つまみ者だ。にもかかわらず彼らウィーズリー家を慕う者は多い。ステータスとは関係のない人間性、善良さ、そういったところが人を惹きつけるのだ。
だから、ウィーズリー家と親しいというのは市民階級の代表者と親しいことを意味する。
さすがにそこまでは言い過ぎかもしれないが、少なくとも「あのウィーズリー家が信用している」というだけでダフネとアステリアを信じてくれる者が増えるのは確かだ。
「仲良くなるべき相手と仲良くなっておくこと。これは政治の基本よ。覚えておきなさい、アステリア」
「はい、お姉様。じゃあ、本当にハリーさんとはなんでもないんですね?」
「どうかしらね。これから次第だと思うわ。何事も未来の可能性を潰すべきではないのよ。あなたが言ったのでしょう? 彼自身は半純血でも、生まれてくる子どもは純血だわ」
ハリー・ポッターという英雄の血統には利用価値がある。
ダフネの革命が成功した後、純血社会を維持していく上でシンボルが必要になる。ダフネとハリーの間に子どもが生まれればその子は最適と言っていいだろう。呪われた革命家と運命に選ばれた英雄の子なのだから。
求心力というものは大切だ。王権の聖性。ダフネ自身は王の器ではないが、ポッター家の血筋はともすれば第二のブラック家を生み出しうるだけの魅力を持っている。
「さて、考えを切り替えましょう」
目的地についた。
そこは人家というには人気がなさすぎた。階段の手摺には指紋ひとつついていないし、テレビが午後のニュースを流している気配もないし、庭で車を洗う人影もありはしない。
これが錬金術師の家か。
「アステリア、失礼のないようにね」
「もちろんです、お姉様」
ダフネは深呼吸をして、ドアノッカーを叩いた。
返事はなかったが、ドアは自ずから開かれた。後ろでバスケットを持ったアステリアが不安そうに見ているのを感じたが、今は何も言えなかった。
中に入ってみる。
「お邪魔いたしますわ。ニコラス・フラメル氏はご在宅ですかしら」
招くように、奥の扉が音を立てて開いた。
「お姉様……」
「大丈夫よ、アステリア。怖い人ではないわ」
ダフネはアステリアの手を引いて奥に進んだ。
古びた写真立て。ヴェネツィア式の天球儀に、針のついていない時計。オルゴールの上には一対のダンサーが踊っていて、風も吹いていないのにレースのドレスが揺れている。
埃こそ積もっていないが、どこかに時代から取り残されたような気配が漂っている。
そして、そこにその人はいた。
「ああ……来たね」
アーマンドが枯れ木のような老人だとしたら、その人はまるで焼ききって白くなった炭のような老人だった。髪は細く、皺のないところはなく、どこもかしこも節くれだっていた。
その人物こそ、ニコラス・フラメルだった。
「ごきげんよう、フラメル先生。ムッシュー・フラメルとお呼びしたほうがよろしいかしら」
「いや、いや、好きに呼ぶといい。ダフネとアステリアだね。まあ座りなさい。ペレネレが煙突飛行でお茶を買いに行ってくれたのだが、一体どこまで買いに行ったのやら」
促されるままにダフネは腰掛け、テーブル越しにニコラスと対面した。
ニコラスは賢者の石に至った唯一の錬金術師だ。計画が失敗し石を手に入れられなかった以上、彼とのコネクションは大切にしなくてはならない。
ダンブルドアの意図に反して、ダフネは自分で賢者の石を作る気はなかった。そのような時間をかけている場合ではない。賢者の石が完成するまでに呪いが進行すれば、元も子もないのだ。
だから、狙いはニコラスが持っているはずのダンブルドアと共同で生み出した賢者の石だ。
しかし、ニコラスの一言目にダフネは出鼻をくじかれた。
「君たちはマレディクタスだね」
マレディクタス。血の呪いを受けた者。人狼や
事前に聞いていたのか、それともひと目見てわかるなにかがあるのか、ニコラスはこともなげにそう確認してみせた。
その口ぶりには差別の気配はなく、むしろどこか懐かしさのような色が滲んでいた。
「……はい、先生。そして、その呪いを解きたいと望んでいますの」
「昔、パリで君たちと同じ呪いを受けた者を見たことがある。共に戦った。いや、私が戦ったと言えるかは微妙なところだが。残念ながら、彼女を恐ろしき血の呪いから救ってやることはできなかった……」
ニコラスは昔を思い出すように遠い目をした。
彼にとってはさほど遠い記憶でもないのだろう。レストレンジ家の霊廟でグリンデルバルドに対抗したのは、おそらく彼にとって最後の戦いだった。
「賢者の石で血の呪いを解く。理論上は不可能ではない。賢者の石に宿る昇華の作用は獣に堕落する呪いに干渉するだろう」
「では……治るのですね!」
「いや、治らん」
ダフネは思わず立ち上がりそうになった。
作中に登場するどんな魔法より、賢者の石は血の呪いの治療に適しているように思えた。ダフネはダフネなりの研究を重ね、その上で賢者の石に辿り着いたのだ。それを治らないと断言されてしまうと、ダフネは一から治療法を模索しなければならない。
少なからず覚悟はしていた。しかし、血の気が引くような思いだった。
「ああ、すまない、すまない、言葉が強かったな。治りはするのだ。しかし、それは賢者の石そのものによってではないだろう」
「そのものによってではない……命の水ということですかしら」
「そうとも違う。賢者の石には無限の相が備わっている。延命であれば命の水を使えばよい。純金を生み出したければ黄金の土を被せればよい。目的に沿った力を抽出しなければならん。ただ賢者の石を使うなんてことをしてしまえば……」
「してしまえば?」
ニコラスはしばし口ごもった。まるで、
しばらく、柱時計が時を刻む規則的な音だけが響いた。ダフネはその柱時計に見覚えがあった。きっとパリの邸宅から持ってきたものだろう。
空気を切り替えるように、アステリアがバスケットをテーブルの上に置いた。
「あの、フラメル様、こちらよろしければ……」
「ああ、ありがとう。中身は何かな? あいにくと、この体になってから食べ物の類は口にしていなくてな。ペレネレはまだ気まぐれに口にすることはあるのだが」
「毛糸玉です。その、ダンブルドア先生からおすすめいただいて」
ニコラスは一瞬驚いたように目を丸くして、それから笑い声を上げた。
「ああ、そうとも。私たちのような生き物にとって釣りと編み物は生涯の友だ。今年こそ、アルバスの誕生日に靴下でも編んでやったほうがいいだろう」
「お気に召したようで何よりですわ」
「ああ、嬉しいよ。本当にありがとう。さて……しかし、難しいな」
「と、おっしゃいますと」
「おそらく、君たちにとっては時間がかかりすぎるのだ」
背もたれに寄りかかって、ニコラスは小さく呻いた。
その目は毛糸玉を見ていた好々爺のそれではなく、怜悧な知性を宿した世界一の錬金術師のものだった。その視線がダフネとアステリアの間を彷徨った。
「無から賢者の石を生み出そうと思えば、そうさな、100年はかかるだろう。アルバスは優秀な教え子だったが、それでも30年通って未完成品を生み出しただけだった。彼はその未完成品を私のもとに残してホグワーツに帰っていった」
「100年……」
途方もない時間だ。
1927年、グリンデルバルドが脱獄した年にマレディクタスのナギニはパリのサーカスで飼われていた。そのころはまだ人間の理性があったが、脅されるだけで変身してしまうほど彼女の呪いは進行していた。
それから時が経ち、1994年、完全に蛇と化したナギニはヴォルデモートのペットになった。
差し引き、ざっと70年の猶予がある。
まだダフネとアステリアは
しかし、それまでの間にマグル生まれが台頭し、純血社会が崩壊すれば、ダフネとアステリアは被差別階級に転げ落ちることになる。
アステリアにそのような思いはさせられない。
ダフネの目的、それはアステリアの幸福だ。血の呪いを解呪するとともに、マレディクタスであっても貴ばれる社会を作らなくてはならない。賢者の石は手段のひとつでしかないのだ。
「何か、手段はないのですか」
「……賢者の石の製法について、簡単な講義をしよう。最近はボーバトンでも教鞭を執っていなかったから、わかりづらいところもあるだろうが……そこは勘弁してほしい」
ニコラスが軽く手招きすると、天井から黒板が降りてきた。
そしてニコラスは杖を軽く振り、黒板にチョークを走らせた。それはダフネでも知っている賢者の石の基本的な製法だった。
「理屈は簡単だ。薬草と魔法生物の素材を集め、それらに適切な呪文をかけた上で相応しい星明かりの下、相応しい運命の曜日に魔法薬として調合する。その魔法薬から析出した結晶が賢者の石だ。ステップを分けよう」
ニコラスが杖を振ると、黒板の上に書かれた製法が分割されていった。
素材の収集。
適切な呪文。
適切な条件。
魔法薬としての調合。
「錬金術とは、本質的にはどの学問に属すると思う?」
「……最終的には魔法薬学ということになるのではないでしょうか」
「最終地点が調合であるという点ではそれもまた正しい。アステリア、君はどう思うかな」
「え? えっと……何かを変化させる石を作るのですから、変身術という見方もできるのではないかと……」
「素晴らしい。それもまた正しい視点だ。……錬金術とは、その全てだ」
ニコラスが再び杖を振ると、製法の上に学問としての分類が記されていった。
薬草学、魔法生物飼育学。
変身術、呪文学。
天文学、数秘術、占い学。
魔法薬学。
「まあ、現代の魔法学校で教えられる授業の大半と言ってよいだろう。全科目を極める暇のある者にしか向かない学問なのだ、錬金術とは」
どこかくたびれたような口調で、ニコラスはそう語った。
「どれを取っても困難が待っている。今では絶滅した素材もあるし、代替の素材に合わせた呪文や条件は何が適しているかを研究しなくてはならん。そもそも最適の星辰と運命が交わる日が50年後ということもあった。魔法薬としての調合も時間がかかる」
「……手抜きで簡単に終わるものではないのは承知していますわ」
「ああ、いや、責めたかったわけではないのだ。ただ、省略できる工程がない。私も研究者として長年効率化を検討してはいるが、どうやらこれが一番手っ取り早い道筋のようだ」
暗雲が立ち込めてきた。
それでは意味がないのだ。なんとしてでもアステリアが幸せに過ごせる社会を作り、その上でグリーングラス家の血の呪いを終わりにしなくてはならない。そのためには、今賢者の石が必要なのだ。
「ふむ……困った。私は普段、人に賢者の石を譲ってくれと言われても必ず断るようにしている。黄金も永遠の命も、人間には過ぎたものだとわかったからだ」
「ええ……私もそう思いますわ」
「しかし……彼女を救えなかったように、君たちもまた見殺しにするというのはいささか気が引ける」
その時だった。
アステリアが立ち上がって、テーブルにつくほど深く頭を下げた。
「お願いします。お姉様を助けてください。アステリアは治らなくてもいいので、お姉様だけは」
「アステリア! 私はあなたの呪いさえ解ければ、他には何もいらないというのに」
「でも、一番頑張ってるお姉様が報われないのはおかしいじゃないですか!」
努力したからといって報われるほど、世界は優しくはない。
だから、ダフネは全てを叶えようと思うほど強欲にはなれない。ダフネとアステリア、両方が救われるのが難しいのなら、アステリアが救われるべきだ。
ふたりのやり取りを聞いて、ニコラスはゆっくりと頷いた。
「何か、方法を考えよう。幸い、アルバスが残してくれた石のおかげでしばらく時間はある。最後の研究のテーマが血の呪いというのも中々に運命的だ」
「……よろしいのですか?」
「何、老人の罪滅ぼしだよ」
ニコラスはゆっくりと立ち上がり、戸棚から古めかしい注射器と試験管を何本か取り出した。
「消毒はしてある、安心しなさい。血と、それから髪を少しもらうよ。運が良ければ、1年以内に症状を食い止める薬程度は作れるかもしれない」
「……ありがとうございます、先生」
「実を言うと、最初はそこまで肩入れするつもりはなかったのだがね」
笑顔のニコラスの視線の先には、涙ぐむアステリアがいた。
時折、アステリアは驚くような勇気を発揮する。それは必ず、彼女が思う正しさと愛に溢れている。ダフネはそんな彼女がたまらなく好きだった。
「いい妹だ。大事にしなさい」
「もちろんですわ、先生」
「よし、それでは腕をめくって……ああ、痛み消しの呪文をかけたほうがいいかもしれない、私は採血があまり得意ではないのだ……魔法生物から採血するときはよくスキャマンダーくんに頼んだものだよ」
それから、ふたりは試験管数本分の血液を採血された。
少しぐったりしているダフネとアステリアにニコラスがぎこちなく微笑みかけた。普段社会生活を営んでいない者特有の繊細な臆病さがそこには表れていた。
「よく頑張った。甘いものでも用意しておけばよかったか」
「お気遣いなく……」
良い結果と言うべきか微妙なところだ。
ニコラスの善意によって、血の呪いの進行を抑える薬の目処は立った。しかし、ダフネ自身が錬金術に手を出して石を作るのには時間がかかりすぎる。
根治のためには何か他の手段を取らなければならない。
「われらはつねに命の短きを嘆じながら、あたかも命の尽くる時期なきごとくふる舞う。辛いですわね、先生」
「セネカかね。確かに、若者にとって錬金術ほど無意味な学問はないだろう。もっと他の有意義なことをするといい。友達とクラブ活動をするとか、クィディッチに精を出すとか」
「でも、錬金術が私たちの運命を救ってくれるのもまた確かなのですわ。先生、その……頼りにさせていただいてもよろしいかしら」
人を頼るというのは存外難しい。
ましてや、ニコラス・フラメルのような偉大な学者に自分たちのために時間を割いてほしいと求めるのは大変に勇気のいる行いだった。
しかし、アステリアが勇気を示した以上、姉のダフネが勇気を出さないというのは恥だ。そのようなことがあってはならない。ダフネはいつだって誇れる姉でなければならないのだ。
そして、少なくとも今回はその勇気は報われた。
「構わんとも。アルバスの紹介だ、私も手を尽くしてみよう」
ダフネは安心して息を吐いた。
最大の目標は達成できなかったからといって癇癪を起こすほどダフネは幼稚ではない。一歩前進した。そのことを喜ぶべきだろう。ニコラス・フラメルという偉大な協力者を得たのだから。
「このあとは何か用事が? ゆっくりしていってもいいが、ここには若者の期待を満たすようなものはなにもない」
「正直に申し上げれば、先生の蔵書を拝見したいという欲に駆られていますが……あまり長居してもお邪魔でしょうから、そろそろお暇いたしますわ。奥様によろしくお伝え下さいな」
「先生、ありがとうございました。よろしくお願いします!」
「ああ、気を付けて帰るように。暖炉を貸そう、好きに使いなさい」
よろよろと立ち上がったニコラスに見送られて、ダフネとアステリアは煙突飛行で屋敷に戻った。
グリーングラスの屋敷に戻り、しもべに灰を落としてもらっていると、アステリアがダフネを見上げて笑いかけた。本当にまっすぐで、純真な笑みだった。
「よかったですね、お姉様!」
「……ええ、そうね。一歩前進だわ」
まずはこの幸運を喜ばねばならないだろう。ダフネは事態の悪化を遅延させる手段を手に入れたのかもしれないのだから。たとえ賢者の石が短期的で根本的な解決にならないとしても、その間に他の方法を探せばいい。
呪いが迫りつつあるとしても。