頭を打った痛みに顔をしかめながら、ハリーは暖炉から這い出した。
割れた眼鏡をなんとかかけなおしてあたりを眺める。どうやら、まずいところにやってきてしまったようだ。
クッションに載せられたしなびた手は明らかに本物だし、赤黒い何かに染まったトランプが何で染まっているかなど考えたくもない。瓶に詰められた大量の義眼はあちらこちらを向いているのに、ハリーは不思議とそこから視線を感じた。
一刻も早くここを出たほうがいい。
しかし、ハリーはすぐに安心することになった。ガラス戸の向こうに見えた人影に、とても見覚えがあったからだ。
「ドラコ!」
「ハリー、こんな店で何を……父上、紹介します。ハリー・ポッターです。ハリー、僕の父だ」
ドラコそっくりの顔つきに長く伸びたブロンドの髪。不機嫌で冷淡そうな顔つきは、ハリーの姿を認めた途端穏やかになった。
「これは、これは……ルシウス・マルフォイです。愚息が世話になっているようですな」
「どうも。お世話だなんて、僕のほうがいつもお世話になってるくらいで……ドラコはダフネとふたりでいつも僕のことを助けてくれるんです」
「ほう、それは」
ルシウスは微笑んでいたが、ハリーはその微笑みのずっと奥に何か冷たいものを感じた。
灰色の瞳は柔和で、差し出された手に応じると優しく握られた。勘違いだったのだろうか。何か、拒むような、避けるような雰囲気があったようにハリーには思えてならなかった。
「ここには何を? あまり、あー、学用品を買うのには向いていない店だが」
「やっぱりそういうお店なんですね。その、ウィーズリー家から煙突飛行で来たんです。でも、僕発音がうまくなかったみたいで」
「どうせ連中が正しく教えなかったに決まってる」
ドラコが厭味ったらしくウィーズリー家の悪口を言うので、ハリーは困って眉を下げた。
「これ、ドラコ。ご友人のことをそう悪く言うものではない」
「でも父上、ウィーズリーは」
「たとえウィーズリーであってもだ。お前は目の前でクラッブやゴイルの悪口を言われて黙っていられるか? いい加減体面というものを覚えてもいいころだが」
ルシウスの言い聞かせ方がドラコによく似ていて、ハリーは思わず笑ってしまった。やはりこのふたりは外見だけでなく口ぶりまで親子なのだ。
ふたりの視線がハリーに向いたので、ハリーは慌てて笑ったことを弁解するはめになった。
「あの、ごめんなさい。でも、クラッブとゴイルを進級させるためにドラコが頑張っていたのは知っていたので」
「まあ……あのふたりに関して言えば、愚息は高貴な者の務めをそれなりに果たしていると言えるでしょうな。さて、失礼。そろそろ店主を呼ばなくては」
ルシウスがカウンターのベルを押し、ドラコに向かって言った。
「ドラコ、一切触るんじゃないぞ」
ちょうどその時ドラコは瓶詰めの義眼に手を伸ばしていたところだったので、肩をびくりと跳ねさせた。
幸いハリーはまだ何にも触っていなかったし、どうやら何を触ってもまずいことが起こる店なのだということは察せられた。去年のクリスマス休暇に忍び込んだ図書館の閲覧禁止の棚を思い出させられた。
ドラコはいじけたように口を尖らせた。
「何かプレゼントを買ってくれるんだと思ったのに」
「競技用の箒を買ってやると言ったんだ」
「でも、寮の選手に選ばれなかったら?」
「その時は、お前が夏休み中勉強もせずに散々箒に乗っていた意味がなかったことが証明されるだけだろう」
ハリーは想像してみた。
ドラコがスリザリンのチームに入って、ライバルになるのだ。同じ競技場で、互いに睨みあう。ドラコはスリザリンのチームメンバーと比べると小柄だから、ハリーと同じシーカーか、もしくはチェイサーが似合うだろう。
たまらなくなって、ハリーは声を上げた。
「ドラコがライバルになったら嬉しいよ。選抜、頑張ってね」
「それは……そうだな。頑張るとするよ」
ルシウスは自分の息子の様子を興味深げに見つめていたが、カウンターの向こうに猫背の男が現れるとそちらに目をやった。
「マルフォイ様、またおいでいただきまして嬉しゅうございます。恐悦至極でこざいます。そして若様に……そちらはお初にお目見えですかな」
「あ、はい、僕――」
「私の客だ、ボージン君。彼は
「ええ、それはもう、偶然というものはあるものでございます」
ボージンはルシウスからリストを受け取った。
ハリーにはその内容が一瞬ちらりと見えた。どうやら骨董品のリストのようだった。ハリーも先日屋敷の掃除で使い道のわからない古道具を大量に見つけたばかりなので、少し親近感が湧いた。
「当然聞き及んでいると思うが、魔法省が抜き打ちの立入調査を仕掛けることが多くなってね。
「魔法省が旦那様にご迷惑をおかけするとは考えられませんが」
ボージンが鼻眼鏡をかけ、リストを読んで唸りはじめた。どうやら中々の品が揃っているようだった。
「まだ訪問はない。マルフォイ家の名前は、まだそれなりの尊敬を勝ち得ている」
ルシウスが薄っすらと笑みを浮かべた。
ホグワーツに入ったばかりのころはわからなかったが、ダフネやドラコと付き合うにつれて、魔法界には本当の名家というものがあるのだということを知った。そして、マルフォイ家はまさにその名家なのだった。
「しかし、役所はとみに小うるさくなっている。マグル保護法の制定の噂もある」
「あ、それ、僕聞いたことあります」
ハリーはうっかり声を上げた。
ボージンは「こいつは何者だ」と顔を上げたし、ルシウスは少し困ったように眉を曲げた。どうやら、ハリーは発言すべきではなかったようだ。
ちらりとドラコに目をやると、困った顔をしながら小さく頷いた。話してしまったからには、もう話し続けていいようだ。
「えっと、アーサーおじさん、つまりアーサー・ウィーズリー氏がなんとかそういう法律を通せないか頑張ってるって……最近はマグルをからかうためによくない魔法をかけた道具がたくさん出回ってるとか」
「おお、なるほど、坊ちゃまはウィーズリー家に伝手をお持ちで。いやあ、あの方々とわたくしは大変長いお付き合いをさせていただいておりまして!」
「ボージンくん」
「こういう商売をしておりますとな、お役所の方々とのお付き合いもございます。ええ、多少曰く付きの品を扱う店ではございますが、中には
「ボージンくん!」
ルシウスが強い声で制止すると、ボージンはしおれたようにカウンターの向こうで縮こまった。
「繰り返すが、彼は私の客だ。君の客ではない、わかるな?」
「へえ、仰るとおりでございます、旦那。どうぞご勘弁を」
「結構。……こういう怪しげな店では、一番大事なのは情報を落とさないことだ。彼らはその情報も商売の種にしている。よく覚えておきなさい」
ハリーが黙って頷くと、ルシウスは満足げにハリーの頭を軽く撫でてから商談に戻った。
一見、ルシウスはとてもいい父親に見えた。
ドラコのことをとてもよく見ているし、商談の様子もおべっかしか能のないバーノンとは違っててきぱきとしている。彼のような父親を持てたら、さぞかし自慢したくなることだろう。
その一方で、ハリーはルシウスがこのような怪しげな店で商談をしている理由が気になっていた。
「ねえ、ドラコ」
ハリーが囁くと、ドラコは音を立てずに一歩ハリーの隣に歩み寄った。
「君たちはよくこういうお店に来るの?」
「……ハリー、勘違いしないでほしいんだが、別にうちだけがこういう品を持ってるわけじゃない。純血の旧家なら多かれ少なかれ曰くつきの品を持ってるものなんだよ」
「やっぱりそうなんだ」
「やっぱり?」
「この間、初めて僕の屋敷に行ったんだ。そしたら、使い道のわからない道具がいっぱい出てきて……」
「……あー、そういうことか! まったく、最初からそう言え。そういう話なら、この店じゃないほうがいい。あとで父上に話しておくよ」
勘違いされてしまったようだが、屋敷にある品々の用途がはっきりするのはそれはそれでありがたい。ハリーは頷いて、それからルシウスの商談が終わるのを待った。
「決まりだ。ドラコ、行くぞ。君も、表通りまで案内しよう」
こうして、ハリーはルシウスに連れられてボージン・アンド・バークスを後にした。
内心、ハリーはドキドキしていた。
これぞ本物の貴族だ。ルシウスはいかにもな上流階級で、ドラコをそのまま洗練して大人にしたような美しさがあった。少し冷たい雰囲気をまとっているが、子どもに対する態度は穏やかで優しかった。
しかし、その憧れは少ししてぐらつきはじめた。
「ハリー!」
「ごめん、迷子になって。助けてもらったんだ」
ウィーズリー一家に紹介するまでもなく、両者は睨みあっていた。
「どうも、ルシウス。君の手にかかってハリーが五体満足で帰ってきたことを喜ぶべきですかな」
「とんでもない、アーサー。君の先約がなければ、今すぐにでもハリーを連れ帰って食事をともにするところだが。君の家で食べさせられる食事はハリーの口には合うまい」
「幸いなことに、魔法法執行部のボーンズ部長が我が家でハリーを預かることを認めてくれているのでね。子どもにとって安全な環境であると公的に認められている」
「安全な環境、ね」
ルシウスがジニーの大鍋に手を突っ込み、使い古しのすりきれた本を引っ張り出した。古本の『変身術入門』だ。あまり状態は良くなかった。
その時、ハリーはルシウスに抱いていた憧れをいくらか目減りさせた。どうやら彼はウィーズリー家の貧しさを滑稽に思っているらしかった。
「ハリーがこの夏に凍死しないことを祈っておこう。君の給料では夜に藁を敷くことも難しいでしょうからな」
「正しいことをして給料を得ることには多少の困難が伴うが、そうでないことに手を染めるよりはよほどマシだと思うがね」
「左様ですかな? 君の言う正しいことについては、いくらか定義の問題があるようだが……」
ルシウスがちらりと目をやり、アーサーの後ろにいるふたりに視線を向けた。
ブラウンのふわふわの癖毛に、清潔感のある服装。魔法界のあれこれに戸惑った様子。気のせいでなければ、女性の方はハーマイオニーによく似ていた。
嘲るように笑って、ルシウスはこう言った。
「ウィーズリー、こんな連中と付き合うようになるとは……衰退というものには限度がないということを体現しているようですな」
アーサーがルシウスに掴みかかり、はずみでジニーの大鍋がひっくり返った。路上に教科書や羊皮紙が転がった。
あたりに緊迫した空気が張り詰めた。
しかし、それ以上のことにはならなかった。
「ジニー、大丈夫? ほら」
「ん……ありがとう」
ハリーがジニーを助け起こすと、アーサーは落ち着きを取り戻してルシウスの襟から手を離した。
「ほら……君の教科書だ。哀れなことだ、親は選べない」
ルシウスはジニーの大鍋に本を突っ込んで、その場から去っていった。
どうしたものか、ハリーは悩んだ。ドラコとは友達だし、よくしてもらっている。しかし、その親であるルシウスはハリーの一番の友達であるロンやその家族とは相性が悪いようだった。
口ではドラコに「ウィーズリー家を悪く言うな」と言っておきながら、彼も結局はウィーズリー家の人々を見下している。その矛盾は、だからこそ彼の本心を現しているのだろうと感じられて嫌な気持ちになった。
尊敬できる大人のルシウスと、ウィーズリー家に侮蔑的な態度を取るルシウス、どちらが本当の彼なのだろうか。
「あー、それじゃあ、学校で会おうハリー」
「う、うん、またね」
親の都合に振り回される関係はままならないものだ。