一生幸せでいたければ釣りを覚えろという。それだけ妹の一生が長ければいいのに、とダフネは願った。
11月。サーモン・フィッシングの季節である。
「魚は餌を見て釣り針を見ない。人間は利益を見て、それに隠された禍いを見ない」
「誰の言葉ですか、お姉様?」
「サンダースよ、ドイツの辞書編纂家。引いてるわよ、アステリア」
「わっ!」
慌ててアステリアが竿を引くと、大ぶりなアトランティックサーモンが姿を現した。優美で長大なその魚影。古くから貴族のスポーツとしてサーモン・フィッシングが親しまれてきたのも納得だ。
幸いにして魔法の釣り竿と魔法の毛鉤を使っているため、キャッチアンドリリースにもさほど苦労はない。釣りというよりは魚と戯れると言ったほうが納得のいく、穏やかな時間だ。
だというのに、ダフネの隣で眉間に皺を寄せて竿を睨む男がいた。
「そう睨んではかかるものもかかりませんわよ、ミスター・ロバーズ」
「わかっている、わかっているんだ。でも、俺だけ釣果がゼロというのはおかしいだろう……!」
ガウェイン・ロバーズ。
ようやく新米から一歩抜けた、若手闇祓いである。先日はダフネの尾行に気づかず、まんまとボージンとの取引現場を見られてしまってスクリムジョール局長から大目玉を食らった。
彼は闇祓い局から送り込まれてきた、グリーングラス家のお目付け役だ。
「気持ちをゆったりと保つのが大事ですわよ。呼吸を清流に合わせれば、魚は自然と水を求めてやってきますわ」
「それはどういう魔法なんだ……?」
「魔法なんて無粋なものは使っておりませんわよ。心ですわ、心」
胸をとんと指先で叩いてやると、ロバーズは困ったように眉を曲げた。
実際のところ、彼がこの釣りに付き合う理由はない。丘の上のベンチで待っていたっていいのだ。それでも十分に監視はできる。
それでもダフネが誘えば付き合うのは人柄のよさゆえだろうか。
原作通りに進めば、後にロバーズは闇祓い局の局長となる。スクリムジョールが魔法大臣に就任するタイミングでの繰り上がり人事ではあるが、それでも高く評価されてはいたのだろう。
「心、ね。7歳の子どもに心について諭されてるのか、俺は……」
「あら、いつの時代も子どもの言葉にこそ真理が宿ると言いますでしょう?」
「それを自覚してる子どもの口からは真理は出てこないと思うけどね。……くそっ、根掛かりした」
「焦るからですわよ」
青筋を立てながら杖を振って根掛かりした針を回収する様を隣で眺めながら、ダフネは4匹目を釣り上げた。
たまにはこういう、呑気な日があってもいい。
アステリアは水に触れて楽しそうにしているし、魚も新鮮で美しい。基本的にはキャッチアンドリリースの予定だが、少し持ち帰ってしもべに預ければいいディナーになるだろう。
それはそれとして、ダフネには完全な休日などありはしないのだが。
「最近の魔法法執行部はいかがですの? こんな小娘にかかずらっている暇があるのですから、平和なのでしょうけれど」
「みんなに聞かせてやりたいね、まったく。ボーンズ部長とスクリムジョール局長がピリついてることを除けば平和かな」
「ほう、アメリア・ボーンズ部長が」
「ピリついてるって言っても、いい意味でだぞ? 局長は部長がもっと上を目指せる人だと思ってるんだ。つまり、まあ、次期魔法大臣としてもっと動いたほうがいいんじゃないかってね」
ようやくかかった一匹に逃げられてため息をつきながら、ロバーズがそうこぼした。
アメリア・ボーンズは魔法法執行部長だ。ハッフルパフ生スーザン・ボーンズのおばにあたる。公平で偏見を持たず、5年生の夏休みにハリーが守護霊の呪文を行使した裁判でも一貫して公平性を保った。
確かに、魔法大臣向きの人物だろう。有事に積極的な動きを取れるという点ではファッジよりも優れた大臣になるかもしれない。
だからこそ、後にボーンズは殺害される。それも、ヴォルデモート自らの手で。
「まあ、省内じゃそこそこ有名な話だよ。だからファッジはボーンズ部長が苦手なんだ。次期大臣はファッジに決まりって話だけど、ボーンズ部長は人気もあるからな。いつか蹴落とされるんじゃないかってビクビクしてる。家柄もいいしなあ」
「ボーンズ家の名前はよく耳に入りますわね」
「部長もそれがわかってるから自分の派閥を持たないようにしてるんだ。君も部長にコネを持とうなんて考えないほうがいいぞ?」
ボーンズ家は純血の家ではないが、魔法界のあちこちで名を聞く。近年では不死鳥の騎士団に参加したエドガー・ボーンズが魔法戦士として有名だろうか。
純血社会を維持するというダフネの理想にとって、アメリア・ボーンズはいつか攻略しなくてはならない要衝と言える。彼女ほどの求心力がある官僚が純血社会の価値を認めれば、目的達成への道は大きく短縮される。
しかし、原作通り進むのであればアメリア・ボーンズはいずれ殺害される。真に攻略すべきは誰か。
「他には誰が有力なんですの? シックネス? キングズリー? サベッジ?」
「見事に純血の家ばかりだな。……あっ、糸が切れた!
「ご愁傷さまですわね。それで? シックネス副長はどういう方なんですの?」
「まあ……シックネス副長は悪い人じゃないけど、別に上昇志向でもないよ。魔法法執行部の裏方を支えてる人って感じかな。あの人がいなかったら書類仕事は回らないよ」
パイアス・シックネスには強い興味を抱いている。
彼はスクリムジョール亡き後の1年間だけ魔法大臣を務めた人物だ。ただし、登場時点ですでにコーバン・ヤックスリーによる服従の呪文の支配下にあり、その人格は不明のままだったが。
シックネスについて確かなことは多くない。
マグル排外政策期の魔法大臣であることから、おそらく純血ではあるだろう。そうでなければ操り人形としての価値すら認められなかったに違いない。
不死鳥の騎士団に加わらなかったことから、親ダンブルドアというわけでもない。少なくともダンブルドアから期待されて声をかけられる存在ではなかった。
しかし、闇の陣営にも与していない。少なくとも、服従の呪文がなければ闇の陣営には協力していなかった可能性が高い。
かなり、いや、とても魅力的な人物だ。
「ミスター・ロバーズは書類仕事はお好き?」
「いや……うん……違うんだよ、やる気はあるんだ。ただこう……同じ内容なのに様式によって書き方が違ったりするだろ? そういうときのシックネス副長が頼りになるんだよなあ」
「厄介事を押し付けているだけではなくて?」
「失礼な、俺だってやるときはやるさ。まあ、でもいてくれてありがたい人なのは確かだよ。……これなんだ?」
「マグルの長靴ですわね」
釣り針にかかった長靴に消失呪文をかけて、ロバーズはため息をついた。
「お疲れのご様子ですわね」
「うん、まあ……君は元気だよねえ」
「妹が可愛いおかげですわ。アステリア、そろそろ上がるわよ。何匹釣れたかしら」
「5匹も釣れました!」
満面の笑みで五本指の片手を突き出すアステリアの可愛いことと言ったら!
この可愛さで癒やされない者はいないだろう。どうだとばかりにダフネが振り向いてみせると、ロバーズは困ったように笑った。
「うーん、たまになんで局長が君たちを見張るよう言ったのかわからなくなるよ。こうしていると本当にただの子どもなんだよなあ」
見張りとは言うが、実際には護衛でもある。
グリーングラス家には膨大な研究資料が蓄積している。それは血の呪いの克服を目的としたものだが、目的に逸るあまり闇へと堕ちていった研究も少なくはない。
保護者なき今、ダフネとアステリアが道を踏み外さないようにするための監視。そして、研究資料を奪取しようと目論む闇の魔術師からの護衛。
魔法法執行部は小娘ひとりに怯えるほど幼稚な集団ではない。ただ、リスクを見逃さない冷静な視点を持っているというだけのことだ。
それはそれとして、フォーテスキューの報告を通してダフネが少々警戒されているのは確かだが。
「もう帰るのかい?」
「ええ、満足しましたわ。今夜はサーモンパイかしら、それともグリル?」
「お姉様、アステリアはパイがいいです!」
「ではパイにしましょう。ミスター・ロバーズも食べていかれますわね?」
「ああ、うん、それじゃあご馳走になろうかな」
ロバーズが杖を振ると、クーラーボックスと釣り竿が瞬時にかき消えた。グリーングラス家の屋敷に送られ、今ごろは屋敷しもべ妖精が受け取っていることだろう。こういうとき、大人の魔法使いが一緒だと便利だ。
姿くらましはアステリアが酔うので、あらかじめセストラルの馬車を依頼しておいた。ちょうど丘の頂上に降り立ったところで、御者が灰色の被膜を纏った妖馬に林檎を与えている。
「行きましょう、お姉様、ガウェインさん!」
「転ばないようにね、アステリア」
駆けていくアステリアは午後いっぱい釣りに励んでいたとは思えないほど元気だ。神はアステリアに愛くるしさと賢さだけでなく無限の体力まで与えたのかもしれない。
秋の下草を釣り用のブーツで踏みつけながら、丘を上っていく。
「……ダフネ、聞いてもいいかい」
「なんでしょう、ミスター・ロバーズ。美肌の秘訣は早寝早起きでしてよ」
「君は……君は、何がしたいんだ?」
風が吹いた。
枯れ草を吹き上げる秋風に、ダフネの足が思わず止まる。アステリアはきゃあと楽しそうな悲鳴を上げて、馬車に駆け込んでいく。
後ろでロバーズの足音も止まった。
「君のことで話題になるまで、俺はディペットが存命だってことすら知らなかった。フォーテスキュー氏は君の聡明さを褒めちぎっている。グリンゴッツとも手紙のやり取りをしているね」
「よく観察されてますわね」
「君の……その、呪いを克服したいんじゃないかと最初は思った。だけど、なんていうか……君がやっていることは、もっと広がりのあることな気がする。違うかい」
ダフネは心のなかでロバーズの評価を上方修正した。
まだ若く経験の浅い闇祓いだが、それでも人を見る目はあるようだ。
ダフネが振り返ると、ロバーズは真剣な面持ちでダフネと向き合った。
「風が吹きます。枯れ草が飛ばされます。たとえ綺麗な花を咲かせようと、根が腐っていれば風はあたりを一掃してしまう」
「何を言って――」
「私の寿命は長くありません」
「それは……ッ!」
ロバーズが何かを言いかけて、唇を噛むようにしてその言葉を閉じ込めた。きっと、甘く優しい偽善的な嘘を封じ込めたのだろう。長生きできるかもしれない、というような嘘を。
今のところ、ダフネはロバーズに利用価値を見出していない。純血社会を維持していくうえで大きな価値のある駒ではないからだ。
しかし、その誠実さはダフネにとって心地よいものだった。
「ええ、長くないのです。でも、私が手を尽くせば、アステリアが幸せに生きられる社会を遺していくくらいのことはできるでしょう?」
「……確かに、君たちが幸せに生きていくのは少し難しい社会かもしれない。でも、それは子どもがやることなのか?」
「母は狂った末に死にましたわ。父はそれよりも早く絶望しました。私は子どもではありません。グリーングラス家の家長、ダフネ・グリーングラスなのです」
悔しそうに歯噛みするロバーズは、きっと善良でまっすぐな男だ。
スクリムジョールが「闇に交わった家だから」というだけでグリーングラス家を警戒することをよしとしていない。それどころか、ただの子どもとしてなんとか救おうと悩んでくれている。
「俺達大人はそんなに頼りないか」
「目的意識の違いですわ」
「じゃあ共有すればいいだろ。……しばらく君たちのそばにいてわかったよ。君は本当にアステリアのことを愛している。アステリアのために、君は何をしようとしているんだ?」
風に乗って、アステリアの声が聞こえる。
その呼び声に応えて向き直りながら、ダフネは口を開いた。
ロバーズに目的を明かす必要などない。彼はダフネが選んだ協力者ではないし、これからそうなる予定もないのだから。
それでも、彼の誠実さに応えてみようかという稚拙な気まぐれがあった。
「どんな革命にも反動がつきものだということを、運命とやらに思い知らせてやりたいのです」
マグル生まれが重用され、自由な開かれた魔法界がやってくる。原作を運命と言い換えるのなら、それは変えられない運命そのものだ。
しかし、どうせこの世界に生まれたのだから、抗ってやりたい。
全てはただ、アステリアの幸せのために。