数日が経った。
生徒たちはミセス・ノリスに同情するほど慈悲の心に恵まれてはいなかったが、それでもフィルチの飼い猫が襲われたという噂はあっという間に広まった。そして、その現場にハリーたちが居合わせたことも。
しかし、ハリーがパーセルマウスであるという秘密は、今のところ守られていた。
「意外でしたわね。ロックハートが秘密を守るとは」
「おおかた、僕がこれ以上有名になるのが嫌なんだろうね。ぜひとも立場を代わって差し上げたいよ」
ハリーが苛ついた様子で悪態をついた。
あの場でダフネがハリーに発言を促した理由は2つ。
まず、ダフネがハリーの味方であることを周囲、特にダンブルドアに示すこと。原作でバジリスクによる死者が出なかったのは純粋な幸運によるものだ。状況が危険であるからこそ、ダフネの行動理由がハリーにあることを示したい。
もうひとつが、早期にハリーへの偏見を広めること。警戒の視線がハリーに集まれば集まるほど、ダフネは人を動かしやすくなる。もちろん、ハリーのそばにいるダフネにも警戒の視線は向く。しかし、ダフネ自身が動く必要はない。
「ハーマイオニーが『秘密の部屋』について魔法史の授業で質問したんだ。みんな、僕のことをサラザール・スリザリンの継承者だと思ってる」
スリザリンの継承者。
他寮の生徒たちは少しずつ、ハリーがサラザール・スリザリンの子孫なのではないかという疑いをかけはじめている。特に、ハリーがドラコやダフネのような純血旧家の子弟と親しくしているところが疑いを加速させていた。
少しでもハリーの状況を悪くしないためにというドラコの計らいで、スリザリン生とハリーの「密会」はパズルを解かないと入れないような出入りの限定された部屋で行われるようになった。
この部屋も元々はある魔女が呪文の練習場に使っていた部屋で、立方体の魔法のブロックが無数に転がっている。室内はまるで万華鏡を覗き込んだような光景だ。
「でも、僕はスリザリンの子孫じゃないんだよね?」
「ええ、私の知っている限りでは」
実を言うと、ハリーとサラザール・スリザリンの間にはつながりがある。しかし、それは遠い姻戚関係であって、直系の子孫というわけではない。その事実を確信しているのは原作知識があるダフネだけだ。
おそらく、この時点ではダンブルドアですらハリーがサラザール・スリザリンの子孫である可能性を考えている。ハリーが秘密の部屋を開けたとは思わなくとも、誰かがハリーに罪を着せようとしているというところまでは考えただろう。
秘密の部屋事件において、ダンブルドアは「誰が秘密の部屋を開けたのか」までは確信を得ているが、「どうやってその人物が秘密の部屋を開けたのか」までは日記帳についてのハリーの証言を聞くまで断定できていない。
そこに「ハリーは生まれつき蛇と話すことができる」という事実が重なれば、どうしても疑念は生じる。
「嫌になるよ。……ねえ、ロンが言ってたんだけどさ、これは全部ロックハートの狂言なんじゃないかって。あいつが新しい冒険物語を書くために嘘の事件を起こしてるんじゃないかな」
そうきたかとダフネは内心で笑った。
事件が始まれば、誰かが容疑者になる。生徒の大半はハリーを疑った。しかし、ハリーを信じる者たちはハリーに濡れ衣を着せる誰かを探す。
もちろん、この事件には厳密に言えば犯人はいない。人ではない、日記帳に残された魂の思念が人を操って事件を起こしているからだ。だから、犯人探しが成果を上げることは絶対にない。
万が一にも日記帳という「犯人」に辿り着くことができたとして、その名探偵は処分されることだろう。日記帳に封じられているトム・リドルという青年はまだ未熟だったかもしれないが、その程度の聡明さと冷徹さを併せ持っている。
ロックハートが怪しまれている間は、生徒たちは安全なのかもしれない。
「なるほど……面白い推理ではありますわね。どうしてダンブルドア先生がミセス・ノリスを治せなかったのかが気がかりではありますけれど」
「うん、僕もそのことに気づいたんだ。それに、ハーマイオニーは彼がそんなことをするはずがないーってカンカンだし……うーん、手詰まりだなあ」
ハリーは魔法のブロックにもたれかかって、小さくあくびをした。どうやら昨晩は十分に眠れなかったようだ。
「スリザリンに怪しそうな人はいないの? だって、その……スリザリンの継承者ならスリザリンに組分けされてそうだよね?」
「寮の記録によれば、スリザリンの直系だと噂されていたゴーント家という一族がいたのですけれど……その一族はもう血が途絶えて久しいのです」
強いて言えば、ヴォルデモートの伯父にあたるモーフィン・ゴーントが獄中にいるくらいだろうか。
ダフネは他のゴーントが生き残っている可能性も調べたが、オミニス・ゴーントは子孫を遺していなかった。サラザール・スリザリンと純血主義を唾棄すべきものとしていた彼にとって、血統自体が呪いだったのかもしれない。
メローピーが死に、マールヴォロが死に、モーフィンも近い内に獄中死する。
「滅んじゃったってこと?」
「ええ。あるいは血を引いている者がいたかもしれませんが、ゴーントの家を継ぐことは選ばなかったのでしょう」
ヴォルデモートはゴーント家の小屋を訪れている。
遺伝異常に苦しみ、貧困に喘ぎ、それでも純血であることだけをよすがとして生きているゴーント家の有り様はきっと失望を与えただろう。彼がトム・リドル=ゴーントを名乗ることを選ばなかったのは、結果的には正解だったのかもしれない。
残酷な話だ。
トム・リドルは天才だった。望めば何でも手に入ったことだろう。しかし、何より求めていた、家族というアイデンティティを肯定する存在は後天的には発生しない。
そして、同様のことがハリーにも言える。
ハリーはみぞの鏡や写真でしか家族の姿を知らない。本当の意味で家族からの肯定を得たのは、蘇りの石でジェームズとリリーを呼び出したときだけだ。
この少年は果たしてまっすぐ育つことができるだろうか。
「そっかあ。じゃあ、今のところスリザリンに怪しい人はいないんだね……」
どうやらロンもさすがにドラコを疑う方向には進まなかったようだ。それとも内心疑ってはいるが、ハリーの手前遠慮して言い出せなかったのか。
原作とは違い、ハリーはスリザリンに隔意を抱いていないだろう。そうであれば、彼の悩みはスリザリンの継承者と疑われることそのものではなく、事件の首謀者と疑われることだ。
ダフネはずっとハリーを応援するつもりでいる。
感謝しているからだ。
ハリーはヴォルデモートと運命で結ばれている。ハリーがいなければ、ヴォルデモートを打ち倒すことができない。ヴォルデモートの破滅的なマグル排外主義は、結果として純血主義の崩壊と魔法界の終焉をもたらすだろう。
将来ハリーが成し遂げることへの感謝を先払いするつもりで、ダフネはハリーにできるだけ快適な学生生活を提供するつもりでいた。
ハリーが座り心地悪そうに身じろぎして、何度か魔法のブロックを押して位置を変えてからダフネに向き直った。
「あの、さ」
「なんでしょう?」
「魔法史の授業で聞いたんだ。スリザリンは教える生徒を選ぼうとしたって。……今もスリザリンには、その、そういう考えは残ってるの?」
「マグル生まれはホグワーツには相応しくない……という考えですかしら?」
ハリーは小さく頷いた。
「あのね。僕……組分けのときに、スリザリンをすすめられたんだ。でも、断っちゃった。君やドラコがいるって思ったら入りたい気持ちもあったんだけどね。今思えば、正しかったのかもなって。だってほら、僕は純血じゃないから」
「そういう考え方もできるかもしれませんわね」
きっとハリーが聞いたら驚くだろう。ドラコが彼を純血ということに仕立て上げるつもりだったことを。
スリザリンには純血を自称する半純血も、半純血ということにしてもらっているマグル生まれもいる。それ自体は何ら恥ずべきことではない。スリザリンで生きていくための賢さとはそういうものだ。
しかし、ハリーはきっと母親の出自を偽ることを嫌がっただろう。
そういう意味でも、ハリーはとても勇気のある子どもだ。自分が正しいと思うことを貫ける、まっすぐな精神を持っている。それはハリーの美点と言えるだろう。
「なんていうか……難しいな。スリザリンのことを悪く言いたいわけじゃないんだ。でも、ハーマイオニーみたいにマグル生まれでもすごい人はすごいでしょ?」
「ええ、そうですわね」
「サラザール・スリザリンの考えたとおりになっていたら、僕はハーマイオニーと友達になれなかったかもしれない。それって、すごく寂しいことだよ」
きっと、昨夜はこのことで悩んでいたのだろう。
話しながら、ハリーはうつらうつらとしはじめた。口に出しただけでも楽になったのだろうか、表情から険しさが抜けている。
ダフネはゆっくりと、穏やかに言葉を紡いだ。
「純血主義にも色々な考え方があります。マグル生まれを追い出すべきだと思っているものから、純血が高貴な者としてマグル生まれを助けなければならないと思っているものまで」
「そうなんだね、色々な考え方……」
「前者のような考え方が今のスリザリン生にも見受けられることは、そうですわね、否定できませんわ。でも、そんな子たちの家だって優秀なマグル生まれの皆様ともお取引があって、生活が成り立っているという方が大半でしょう」
「うん……」
ダフネは立ち上がって、ハリーの隣に腰を下ろした。
この部屋の床は魔法のブロックでできていて固く冷たい。ここでそのまま寝たらきっと寝起きの気分は最悪だろう。
「昨夜はあまり眠れなかったご様子ですわね」
「うん、なんか……スリザリンの継承者のこととか、もし僕がスリザリンを選んでいたらどうなったんだろうとか、色々考えてたらぐるぐるしてきちゃって……」
「……きっと、あなたはスリザリンでもうまくやっていけましたわよ」
贔屓目抜きに、ハリーはスリザリンに向いている。
社交界に出入りしていない生徒などいくらでもいるし、半純血だって珍しいわけではない。ハリーの出自はなんのハンディキャップにもならない。
それどころか、闇の陣営に与しつつも内心ではハリーに感謝している親も多いのだ。ヴォルデモートに屈さざるをえなかった小悪党たちはハリーのおかげで元の生活に戻ることができたのだから。
独立心と向上心が強く、己の強みを活かしていきたいという気持ちがあり、公的な正義よりも自らの正義を優先し、目的のために手段を選ばないところもある。ハリーは十分、スリザリンでもうまくやっていけるだけの素質を備えている。
「そっか……君がグリフィンドールだったらなあ」
「あら、何をおっしゃいますの。私はグリフィンドール向きではありませんわよ」
「そうかな、そんなことはないと思うんだけど」
うとうとしながらそんな戯言を口にするハリーの頭を、ダフネは引き倒した。
固いブロックに頭を預けて居眠りするくらいなら、多少薄くて心もとない肉付きかもしれないが、ダフネの膝で眠ったほうが快適だろう。
「ちょ、ちょっと、ダフネ?」
「一度軽く寝て頭をすっきりさせたほうがいいですわよ。起きるまでここにいますから」
「でも……こんなの、よくないよ」
「あら、真夜中にトロフィールームまで抜け出すのと、仲良しの女の子の膝でお昼寝すること。果たしてどっちが悪いことかしら?」
ハリーは小さく笑った。
それからしばらくして、ハリーはダフネの膝の上で寝息を立てはじめた。
髪を手櫛で整えてやりながら、ダフネはハリーのことを見つめた。
穏やかな寝顔だ。ホグワーツを卒業するまでずっと、彼の寝顔がこれくらい穏やかであればいいと思う。できることなら、ずっとそうであればいいとすら。
しかし、そのためにダフネができることなど、こうした児戯程度のことしかない。
それでも、しばし政治闘争を忘れてハリーと戯れている時間は、ダフネの奥底にある凝り固まった何かをほぐしてくれるような感覚をもたらしてくれた。
「……もらってばっかりですわね、私」
傍から見れば、ダフネがハリーを操っているように見えるのかもしれない。
そういう側面がないとは言えない。ダフネは昨年、原作通りのできごとが発生するためにハリーたちを誘導し続けた。
しかし、ハリーは一度たりともダフネのことを疑わなかった。
罪悪感がないと言えば嘘になる。ダフネは最初から彼にヴォルデモートとの戦いを押し付けるつもりで、戦う理由を与えるために彼と接している。
こうしてハリーを大切にするのも、もしかしたら罪滅ぼしと言えるのかもしれない。
「頑張ってくださいね、ハリー」
この物語で一番頑張らなくてはならない、過酷な運命の少年のために。
片手間で祈るくらいは、してやっても損ではないはずだ。