冬の寒さは人の生気を奪う。たとえそれが吸魂鬼の冷気でなくとも、肌を刺す寒さはそれだけで身体の具合を崩しうる。
アステリアが熱を出した。
今は眠っているが、不安になったのか、ダフネの手を握って離さないままだ。いつもは気丈に振る舞っていても、こういうときに本心が露わになるのだろう。
「祖先を顧みようとしない人々は、子孫のことも考えまい」
「それは君の考えか?」
「バークの考えですわ。バークとは言っても、フランス革命について論じたマグルの政治思想家エドマンド・バークのほうですが」
もっとも、アイルランド人のエドマンド・バークが魔法界のバーク家と関わりのない人間ではないという保証もないが。
髪を撫でてやると、少しアステリアの表情が緩んだ。
ロバーズが水差しとタオルを手に少し困ったような表情で立ち尽くしている。魔法省から派遣されてきた闇祓いというには、少々間抜けな立ち姿だ。
「……そうしていると、君も普通の姉なんだな」
「もとより私は普通の姉ですわ」
ダフネは凡庸な姉だ。
原作知識を思い出したころにはもう母は死に、姉妹ふたりで一族の遺産に縋って暮らしていた。幸いにして教育係の屋敷しもべ妖精がいたために生活には困らなかったが、それでも明るい家庭というものは永遠に失われたかに見えた。
頼れる、立派な姉である必要がある。そうダフネは感じた。
たくさんの本を読んだ。多くの賢人に手紙を送って助けを求め、その1割ほどが寄越してくれた返事を貪るように読んだ。
アステリアは無邪気に尊敬の視線を向けてくれる。それを裏切るわけにはいかない。
ことり、と水差しを置く音が部屋に小さくこだました。
「少し前、釣りをした帰りに聞いたな。何がしたいんだ、と」
「ええ。その後に食べたサーモンパイはなかなかでしたわね」
「もう一度、聞かせてほしい。……大人に任せては駄目なのか? 君たちは仲の良い姉妹だ。そのまま幸せに暮らしたっていいじゃないか」
なんと甘美な誘惑だろうか。
すべての計画を投げ捨てて、アステリアと笑って幸せに暮らしたい。日々をきまぐれに過ごし、ともにホグワーツで学び、よき出会いをたくさん得て、時には恋もするかもしれない。
そして、血の呪いが発症して、全てに裏切られて死ぬ。
「血の呪いについて、どれくらいご存知かしら」
「えっ……その、局長から聞かされているのは、一族に伝わる呪いだってことと、発症すると動物の姿に変身するようになってしまうってことくらいかな」
「なるほど。変身というのは言いえて妙ですわね。……クィンタペッドはご存知?」
ロバーズが頷いた。
クィンタペッドはスコットランドのドレア島に生息する魔法生物だ。5本脚の怪物で、人肉を好み、かつては人間だったが魔法で変身させられた一族の末裔という特徴がある。
そう、最も危険な魔法生物のひとつに挙げられるクィンタペッドは、元々人間だったのだ。
「血の呪いもあれと同じです。次第に心まで獣に堕ちていき、捕食や排泄に抵抗感を覚えなくなる。人としての尊厳を失い、最後は獣として駆除される定めにあるのです」
「ッ……それは」
魔法界には「かつて人だったが、もはや人として扱われない獣」が存在している。変身中の人狼がそうであるように、それらはただの危険な存在でしかない。隔離されればましな方だ。下手をすれば警告なしに殺害されることすらある。
「しかも、それが遺伝する。……本質的に、血の呪いとは人狼と大して変わらないのです。感染したものを被差別階級に落とす、邪悪な堕法」
理性を失い、尊厳を失い、きっと記憶すら失って、それでも獣として生きたいと思う者などいない。この屋敷に先祖だった獣が一匹もいないのがその証左だ。
それが、グリーングラス家を蝕む呪いだ。
「君は……怖くないのか」
「おかしなことをおっしゃいますのね」
ダフネは笑いながらアステリアの額にかかった髪をよけた。
指先の震えは隠しきれない。
「そんなもの、
「……すまなかった、そうだよな」
「しかし、それでも、私は妹のために生きると決めました。そして、どうせ失う命なら最大限に有効活用してやろうとも」
ベッドサイドのローテーブルに置いたままだった手紙を取り上げると、ロバーズが顔をしかめた。
その手紙は、ある魔法族の屋敷への訪問を許可する旨が綴られたものだ。今や封筒の印章を見ただけで態度を悪くする者が少なくない程度に評判の悪い、しかし名のある家だった。
ダフネにとっては好機だ。しかし、ロバーズはそうは思っていないようだった。
「いいかい、君は闇の魔女じゃない。だけど、闇に交わろうとするのなら俺は君を逮捕しなくちゃいけない」
「逮捕なんて仰々しい言葉を使って脅そうとしても無駄ですわよ。私は行きます」
「……反対だ。君はあの家の人間がやったことを知らないんだよ」
よく知っている。
しかし、わざとらしく首を傾げてみせると、ロバーズは眉間に皺を寄せた。
「どうして会う必要があるんだ、
そう、ダフネはあのグリモールド・プレイス12番地を訪ねようとしていた。ブラック家のタウンハウスだ。
シリウス・ブラックはポッター家を裏切って闇を信奉し、12人のマグルと小さなピーター・ペティグリューを爆殺した罪でアズカバンの終身刑。
レギュラス・ブラックは死喰い人として活動し、そのまま戦死。
この兄弟の両親もすでに没しており、事実上ブラック家は断絶したかに見える。
しかし、まだ生き残っている人物がいるのだ。
「アークタルス・ブラック3世は、今の魔法界から失われつつある純血主義の最後の理解者です」
アークタルス3世。
シリウスとレギュラスの祖父である。御年86歳。タペストリーに刻まれた生没年を信じるのなら、1991年までは存命の人物だ。
1901年生まれのアークタルス3世は、グリンデルバルドとヴォルデモートの影響を受ける前の純血主義を知る貴重な人物だ。そしておそらく、彼は今もその理想を貫いている。
「会って何になる。もうブラック家のコネなんて機能してないだろう。闇の魔術にかけられたらどうする? 俺は君を守ってやれない!」
「彼の思想を傾聴したいと考えていますわ」
「その意味を聞いているんだ!」
ロバーズが声を荒げると、ベッドの上でアステリアが小さく唸った。
うなされているのだろう。額に手を添えると、少し熱が上がっているのがわかった。ダフネが目配せすると、ロバーズは顔をしかめたままタオルを絞って手渡してきた。
額にタオルを載せてやりながら考える。
確かに、会う必要はないのかもしれない。古いやり方を学ぶ必要は必ずしもない。自分たちのやり方で魔法界を変えていけばいい。
それでも、古いものにはそれだけで価値がある。求心力という価値が。
「改めて聞く。君は何がしたいんだ?」
「……そうですわね。長い付き合いになりそうですし、あなたにはお話しておきますわ」
ダフネには計画がある。
魔法界に純血という考え方を残し、アステリアに幸せな人生を歩むための秩序を生み出す計画が。
「純血というステータスの弱点はなんだと思いますかしら」
「純血の弱点? そうだな……結婚相手が限定されすぎる」
「それは多産の魔法を開発すればいくらでも改善できる弱点ですわ」
「じゃあ……差別の印象が強い」
「ウィーズリー家やマクミラン家にも同じことが言えますかしら?」
「え、うーん……」
そう、世間的に純血の悪い点とされる部分は根本的な問題ではない。
純血を維持すること自体は多産の魔法で解決するし、遺伝異常についても複数の家を維持してローテーションを組むことで解決できる。あとは遺伝異常にアプローチできる魔法があれば完璧だ。
それにもかかわらず、純血というステータスは廃れつつある。
それはなぜか。ダフネはそこに明確な答えを持っていた。
「純血は金にならないのです」
「純血は、金にならない……でも、マルフォイやヤックスリーは」
「彼らが純血というステータスで金を稼いだところを見たことがありますか? ……彼らは単に元から豊かであったり、投機の才に長けていただけ。純血というステータスは金を生みません」
純血は貴種だが、貴族ではない。
どんなに類稀な血であっても、それだけを理由に魔法省から恩賞が出ることはない。領地も領民も、年金すらもないのだ。
働かなければ生きていけない。それが貴族と純血の間にある残酷な、しかし明確な違いだった。
「結局のところ、純血であるというだけでは富を産まないのです」
「じゃあ……君はどうするつもりなんだ?」
一呼吸置いて、ダフネはロバーズの眼を見た。
きれいな琥珀色の瞳だ。
ガウェイン・ロバーズ。彼もまた純血だった。純血の魔法族でもなければ、我が子にガウェインなどという古臭い名前をつけたりはしない。
だから、この計画を明かすことができる。
「純血の子弟、子女による結社を結成したいのです」
「結社?」
「密かな横のつながりと言い換えてもいいかもしれませんわね。結社の仲間にだけ伝わる符丁でやり取りをし、情報を共有していくことで利益を得る秘密結社ですわ」
参考にしているのは初期のフリーメイソンだ。
宗教美術の全盛期、意匠の知識とはそれだけで財産だった。フリーメイソンの会員は互いにだけわかる符丁で仲間を見分け、意匠の知識を共有することで教会や王侯からの仕事を独占した。
純血という考えが廃れるよりも早く、純血というステータスに価値を持たせる。それがダフネの計画だ。
「待て……だからグリンゴッツを抱え込んだのか? 君は……正気か!?」
「ええ。金回りを良くしたければ相談すべきは銀行ですから」
グリンゴッツ魔法銀行は金にまつわる情報の集積地だ。だから、必ず味方につける必要があった。
そして、ダイアゴン横丁という商業区域の実質的な顔役のひとりであるフォーテスキューもまた、ダフネにとっては味方につけるべき存在だった。
まだこれからコネクションを持つべき相手はいるが、計画の初期段階は成功しつつある。
「しかし、多くの純血の家々は自らを貴種と自負しています。ただ利益をちらつかせただけでは傾かない。だから、大義が必要なのです。純血による愛国……なんて、素敵だと思いませんかしら?」
表向き、この結社は愛国騎士団ということになる。
不死鳥の騎士団に抜けている視点。それは英国魔法界が英国という国家の一部であるという点だ。魔法族もまた女王に傅く臣民であることに変わりはない。
もちろん、本心から愛国者である必要はない。しかし、ノブリス・オブリージュとしてのマグル救済は、そのままマグルとマグル生まれに対する優越を感じさせることに繋がる。
「私は純血を貴族にします。つながりによる利益、愛国精神による奉仕。ついに純血は名実を伴うことになる」
「……俺には君の考えがよくわからない。それがアステリアを救うこととどうつながるんだ?」
「純血に価値がある限りは、アステリアの血には利用価値が生まれます」
「君は……いいのか、それで」
「純血に価値がなくなれば、私とアステリアは遺伝する人狼として扱われるだけですわ」
原作でアステリアはドラコのもとに嫁いだ。それは愛によるものだったのかもしれない。
しかし、もし世界から純血というステータスの価値が失われたら、ルシウスとナルシッサは一人息子がアステリアを娶ることを認めただろうか? 認めるはずがない。血の呪いとはそれほどの障害なのだ。
「ヴォルデモート卿は純血の価値を失墜させました。今や、純血に縋る者のほとんどは没落しています。だから、私が純血に価値を与えて差し上げようというのです」
「……傲慢だよ。ダフネ、それは傲慢だ」
暖炉の薪がぱちりと鳴いた。
傲慢かもしれない。しかし、成し遂げるしかないのだ。もはや純血はステータスになりえないところまで来つつある。きっとこの世代が最後だ。ダフネの代を最後に、純血は時代の徒花と成り果てる。
純血の、純血による、純血のための秘密結社。
これを成し遂げることさえできれば、アステリアは一生を幸せに過ごすことができる。貴族として生きることができるのだ。
「聞いたからには協力してもらいますわよ、ガウェイン・ロバーズ」
「……俺がそれをスクリムジョール局長に報告するとは思わないのか」
「あら、今さらアステリアを裏切れますの?」
「卑怯だぞ」
「ふふ……それに、純血の同胞から情報を得られれば闇祓いの仕事も捗るのではなくて?」
苦虫を噛み潰したような顔で唸りながら、それでもロバーズは否定しなかった。
ダフネは笑って、それからアステリアの手の甲を優しく撫でた。否定されないというのは心地よいことだった。
どうせロバーズが告発したところで、子どもの戯言を信じるほど魔法族は暇ではないのだが。