パイアス・シックネスとの夕食会にダフネが好感を抱いたのは、以下の3つの点による。
ひとつ。パイアスの自宅が純血として最低限取り繕いつつも飾り気のない質素な家だったこと。防音魔法がかけられたリビングルームに鎮座するチェロを除けば、マグルのアッパーミドルクラスと大差ない落ち着いたインテリアだった。
ふたつ。ダフネとアステリアを子どもだからと軽く見ず、「よくない風聞を招くといけないからね」とガウェインを同席させてくれたこと。思惑が他にあるのかはともかくとして、その配慮からは彼の思慮深さが汲み取れた。
そして、みっつ。家族写真のような個人情報を隠していないこと。
「あちらに見えるのは奥様のお写真ですか? 穏やかな笑顔の方ですね」
「ああ、私にはもったいない人だったよ。パイ包み焼きをもう少しどうかな? 君が持ってきてくれたアップルストロープのソースがとてもよく合う」
「では、お言葉に甘えて」
「それがいい。僕くらいの年になるとね、子どもがおいしそうに何かを食べているというだけで嬉しくなる。アステリアもどうかな?」
「ぜひ!」
「いい返事だ」
柔和な笑みをたたえたパイアスは、自らの手でサラダを和え、チキンを焼き、パイ包み焼きを取り分けてくれた。
「このパイ包み焼きは妻の秘伝のレシピでね。ジャパンのレシピブックを参考にしたらしいんだが、アンコウの身だけでなく肝も使うんだよ」
「なるほど、この濃厚な味わいはアンコウの肝ですのね。でも、あれは水っぽくてパイには向かないのでは?」
「塩で限界まで水気を抜いて、それからほぐした身と一緒にテリーヌにするんだ。アンコウの肝は魚屋に行けばただでもらえるからと、妻はよく差し入れに持ってきてくれたものだよ。まだガウェインが見習いで書類整理を任されていたころだったね」
「あのころは副長からの差し入れが一番ありがたかったですよ。なんてったってついでに仕事のアドバイスをいただけましたから」
「おや、アドバイスで済んでいたことがあったかな?」
くつくつと笑いながら、パイアスはダフネの皿にアンコウのパイ包み焼きをよそった。濃厚な肝の旨味とアンコウの尾身の柔らかな食感に、スパイスの効いたアップルストロープに肉汁を合わせたソースとパイ生地の上質な脂がよく絡んだ。
穏やかな晩餐だった。政治のせの字も登場しない、平和な時間がそこにはあった。
「ガウェインは今もよく嘆いていますわ。シックネス副長がいらっしゃらないと書類仕事がまともに片付かないと」
「ははん……ガウェイン、先週になって急にギモーヴを差し入れに持ってきたのはそれかい」
「感謝の気持ちですよ。それに、副長だってクリスマス前に書類を溜め込まないようにとお触れを出してらっしゃったじゃないですか」
「年末年始の休暇明けに急ぎ
ダフネとアステリアが揃って頷くと、パイアスは微笑んで席を立った。
「さて、そろそろ君たちのお土産を開封していい頃合いだ。フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーのアイスクリームなんていつぶりだろうな」
「よろしければ手伝いますわ」
「ああ、では頼もうかな」
ダフネはパイアスに続いてキッチンへと入った。
よく手入れされたキッチンだった。多忙を極める魔法法執行部の副長の自宅とは思えないほど整っていて、清潔で、道具もよく揃っていた。
パイアスは戸棚から口の広いグラスを取り出しながら、ダフネを優しい表情で見下ろした。
「妻から学んだ教訓でね。杖を使わずにできることは杖を使わずにすること。そのほうが案外健康にいいものだ」
「素敵な心がけですわね。私は怠け者ですから、大人になったら杖に頼りきりになってしまいそうですわ」
「はは、怠け者か。君の友人たちはそうは思っていないようだけれど」
清潔な布でグラスの埃を拭いながら、パイアスはダークブラウンの瞳をキラリと輝かせた。
「カロー兄妹を追い詰めた手際は見事だったね」
「……ふふ、素直に喜んだほうが子どもらしいかしら」
「そこではぐらかさないあたりは好感が持てる。安心していい、スクリムジョール局長は君を疑ってはいないよ。おじさんと違って彼は少々多忙すぎるからね、カロー兄妹程度の些事に注力することはない」
かつて、ダフネはヘスティアとフローラを救い、そしてそのためにアミカスとアレクトのカロー兄妹をアズカバン送りにした。そのために少々卑怯な手を使ったことも認めよう。
そして、その卑怯な手こそが、魔法法執行部に対して送ったシグナルだった。
優秀な人物であれば、カロー兄妹を告発したヘスティアに不自然さを覚える。なぜマグル式で撮影された写真などというものを、しかも脅迫されていた側であるヘスティアが持っていたのか。しかし、大抵の人間は情に流されて疑いを持たない。
聡明で冷静なごく一握りの人間が少し調べれば、ヘスティアとフローラがその後誰のために動いているかも見て取ることができるだろう。ダフネはその部分をあえて隠さなかった。
そして、そのシグナルはパイアスへと届いたというわけだ。
「シックネス副長はああいうやり方はお嫌いかしら?」
「満点はあげられない。ただ、僕が君に興味を抱くのには十分すぎるきっかけだった」
「でも、お招きいただくに至った決定打はそこではない。そうでしょう?」
「そうだね。……おや、ヘーゼルナッツのアイスがあるね。これは妻の好物だった」
懐かしそうに目を細めたパイアスは、少し黙ってからグラスにヘーゼルナッツのアイスクリームを移した。
「妻はスクイブだったんだ」
パイアスは当たり前のようにそう言って、グラスの縁についたアイスクリームを拭った。
スクイブ。それは魔法族の生まれでありながら全く、またはほとんど魔法が使えない人間のことだ。彼らはアイデンティティを捨ててマグルに紛れて生きていくか、魔法界で底辺労働者として豊かさとは無縁の暮らしを送るかを迫られる。
察せられる要素はあった。
写真に写っている女性は一枚も杖を手にした姿がなかったし、魔法界において優秀な主婦とはモリーのように家事を魔法でこなせる人物のことを指す。
加えて、彼は官僚であるにも関わらずパイアス・シックネスが既婚者であるという公的な情報はどこにもなかった。ガウェインですら、彼の妻のことになると口ごもった。
「こう申し上げては失礼かもしれませんが、納得いたしましたわ。だから内縁でらしたのですね」
「出世に響くからと妻に断られてね。式も挙げられないかと思っていたんだけれど、アークタルス閣下が挙式できるよう手配してくれた。まだブラック家がカントリーハウスを手放していなかったころの話だよ。出席者は少なかったが、美しい式だった」
「では、奥様はブラック家の?」
「そう。ブラック家のタペストリーに妻の名前はないけれど、それでもアークタルス閣下は彼女を子孫のひとりとして扱っていたよ。僕はそれが妙に嬉しくてね。僕は閣下のことを義理の父くらいに思っている」
純血どうしとはいえ、スクイブと結婚するなどというのはありえないことだ。
大抵の魔法族はスクイブを忌避し、嘲笑する。自分たちから
ましてやブラック家に生まれたスクイブなど、存在しなかった者として扱われても当然だろう。
しかし、パイアスにとってはまるでそれがなんでもない当たり前のことだったかのように、彼は落ち着いた様子でストロベリーアイスクリームを箱からグラスに移した。
「奥様は戦争で?」
一瞬、パイアスは手を止めて瞑目した。
「……君は物怖じしないね。そうだ。魔法法執行部なんてところに勤めていると、どうにも恨みを買いやすい。彼女には自衛手段がなかった。……そのことだけは、今も後悔しているよ」
「それでも、奥様はシックネス副長と結ばれて幸せだったと思いますわ」
「そう思うかい?」
「そうでなければ、あんな微笑みを遺そうとは思いませんもの」
写真に写る彼女の笑顔は、心からパートナーを信頼する者のそれだった。
パイアスは静かにダフネを見つめた。
「実は、ガウェインに話す前から君には注目していた。君が閣下に送らせた檄文を読んだし、ホグワーツでの活動についてもいくらか聞き及んでいる。フォーテスキュー氏から上がってきた報告書にも目を通したよ」
「お時間を割いていただいてありがたい限りですわ」
「そのうえで、君に聞きたいことがある」
空になったアイスクリームの箱をシンクに置いて、パイアスは膝を屈めた。
ダフネは同じ高さまで降りてきたパイアスの顔を見つめた。原作では服従の呪文によって全てを奪われた男の、理性的で冷静な瞳がダフネをじっと観察していた。
「君はどうやら、純血主義者ではない。そして、それを多くの人々に誤解させたまま物事を運ぼうとしている。そうだね?」
「……純血がより正確な意味で価値と権利と義務を持つようになればいいと、そう考えていますわ」
ダフネは純血主義者ではない。
純血主義者は純血の価値を疑わない。純血の家系を存続させることは大義であると考え、純血どうしの婚姻が最も尊い契約であると信じている。それはもはや純血というステータスへの愛であり、妄執である。
しかし、純血は貴種であって貴族ではない。
純血は富を生まない。純血であることによって生じる権利など公的には存在しないし、多くの旧家の主張に反して純血がなさねばならないことなど法には何も定められていない。
そして、マグル生まれが持ち込む近代的で啓蒙的な価値観が蔓延するにつれて、富を生まないステータスはみるみるうちに軽視されていく。ましてや、それが伝統にのみ裏打ちされた保守的なステータスであればなおさらのことだ。
そう、ダフネは純血を愛したことなど一度もない。
アステリアが幸せに生きていくために、最も使いやすいステータスが純血だった。ただ、それだけのことだ。もしグリーングラス家がマグルの家だったなら、ダフネは喜んでマグル生まれ擁護の立場を取っただろう。
「とても……そう、興味深い。アークタルス閣下は君を後継者に選んだ。閣下と君は純血を淘汰される弱者だと、手入れされるべき薔薇だと考えている点で似ているんだね」
「副長はどうお考えですの?」
「僕か? そうだね……」
アイスクリームをよそったグラスをダフネが背伸びして銀のトレイに載せると、パイアスは考えるように顎髭を撫でつけた。
「難しい質問だ。純血とマグル生まれが肩を並べて生きていく社会を望んでいる一方で、そんな日が訪れることは決してないと思う自分もいるんだよ。増長は分断を、分断は差別を生む。わかるかい?」
「純血とマグル生まれ、どちらかが突出した社会は望ましくないと?」
返事のかわりに、パイアスはトレイを手に取った。
パイアス・シックネス。
闇の陣営が魔法省を掌握する上で誰よりも陥落させたいと願った人物だ。彼はパイプ役であり、調整役だった。そして、もしかするとそれは、彼自身が調和を重んじる人物だったからなのかもしれない。
調和。決して融和ではない。
パイアスは自らの純血というステータスを捨てたいわけではない。しかし、純血至上主義の台頭は望んでいない。かといって、マグル生まれに対して積極的に融和的な立場を取るわけでもない。
「副長は夢を見てらっしゃるのですね。天秤がいつまでも均衡を保ち続ける、そんな夢を」
「そして君は、それを壊そうとしている。いや、違うな。君は新しい天秤を立てようとしているのか」
「あら、こんな小娘に随分と過大な評価をしてくださっているのですね」
「本気の人間を舐めてかかるような者は、前の戦争で皆死んだよ」
「なるほど、それは説得力のあるお言葉ですわ」
「……どうやら、君は純血という社会集団を形成しようとしている。そこまでは僕にもわかる。問題はその先だ。君の作った社会はどこへ辿り着くのか。どんな未来が待っているのか。50年後、100年後を本気で考えたことがあるかい?」
問われているのは、どうやら覚悟だった。
ダフネの計画が成就すれば、英国魔法界には純血というひとつの大きな派閥が生まれる。
魔法界全体の決定に介入し、マグル生まれや混血の選択に影響を与え、市場の流通を自由から遠ざける。それは言ってみれば、
最盛期のブラック家ですら、魔法界に王権を樹立させることは叶わなかった。魔法界が本来的な意味で王政や貴族政だった時代など存在しない。ダフネが目指すのは、その存在しない時代への逆行だ。そしてそれは少なくともある一面では、分断の時代でもあるのだ。
ダフネは新たな時代のために今の時代を破壊しようとしている。たったひとりの、妹の未来のためだけに。
「正直、意外に思っていますわ。
もし、パイアスがダフネの計画を危険視しているのなら、わざわざダフネに会う必要などない。彼には学生の危険な思想に基づく活動を取り締まるだけの力と権限があるのだから。
パイアスはトレイの上に載せられたグラスのひとつひとつにアイスクリーム用のスプーンを添えながら、少し困ったように肩をすくめた。しかし、その表情は笑顔のままだった。
「ヘーゼルナッツのアイスが好きな人に悪人はいないと思っていてね」
「……ふふ、ではそのご期待に沿えるように尽力いたしますわ」
「君がどこまで辿り着けるのか、楽しみにしているよ。さあ、アイスクリームの時間だ。実を言うと、食事中ずっと頭の片隅にアイスクリームのことがあったんだ、恥ずかしい限りだけれどね」
パイアスに連れられて、ダフネはリビングルームに戻った。
アイスクリームを楽しみながら、ダフネは考えた。パイアスはダフネの掲げる目標に決して共感しないだろう。立場も、思想も、何もかもが真っ向から異なる。
しかし、いや、だからこそ、パイアスには魅力がある。これからの計画を考えるのなら、なんとしてでも彼の協力を得たい。
グラスに盛られたアイスクリームをスプーンの先で崩して、ダフネは意思を固めた。
「やはり、いい味をしていますわね」
必要なのは、もう一匙分の覚悟。