オランジュリーという施設がある。
元々は大陸ヨーロッパでシトロンやオレンジの果樹を越冬させるために建てられたもので、大きく分類すれば温室に相当する。ガラスの採光窓で太陽光をたっぷり取り入れ、温暖湿潤に保った空間は、植物のための楽園である。
植物のために土地を割き、その種と苗とに惜しみなく富を注ぎ込む。それはまさしく贅沢品のための空間だ。
今や、こういった温室の類を有する英国魔法族はマルフォイ家だけになった。
「足元に気をつけたまえ、ダフネ」
「ありがとうございます、おじさま」
差し伸べられた手に指先を添えて、大きな根を跨ぐ。
ルシウスがステッキから杖を抜いて一振りすると、樹皮に食い込むように曲がりかけていた蔦が美しい螺旋を描いた。
「よかったのかね、アステリアをドラコに任せておいて」
「あそこまで爆発スナップに夢中なふたりを引き離せはしませんわ。それよりも、この温室を久しぶりに見ておきたくて」
「そうか。これらは今年も悪くない出来だった。しもべに任せるのが常だが、年に一度は自分の目で確かめておきたい。何事も最後に信じられるのは己の目、そうは思わんかな?」
「仰るとおりですわ」
このオランジュリーを模した温室は、魔法的に完璧に管理されている。
採光窓の代わりに
そのレンズとは別に気象崩しの呪いがかかった振り子が天井から吊り下がっており、フーコーの振り子のように少しずつずれながら揺れることで全体にほどよい雨が振るようになっている。
植物の種類に合わせて土壌の保水量が決められており、地面は適切な保水量が維持されるように海綿化したり土に戻ったりを繰り返している。もちろん、肥料も自動で混ぜ込まれる。
適切な寒暖差、適切な降雨、適切な日光。
マルフォイ家が抱えるいくつかの事業のひとつ、伝統あるマルフォイ薬局の薬品類はここで生まれる。徹底的に管理されたそれは、スティンチコームにあるポッター家の薬草畑とは対称的な姿をしていた。
「何度見ても美しい温室ですわね」
「我が先祖が代々手を加えてきた魔法の温室だ。他に類を見ないことは確かだろう」
「ええ、本当に見事ですわね。この葡萄なんて、冬だというのにぎっしり実っていて」
ダフネが葡萄棚を見上げると、ルシウスは満足げに頷いた。
マルフォイ薬局は市民に風邪薬を処方するようなマグルの薬局とはわけが違う。流通の少ない
立派に実った葡萄に、ルシウスがそっと手を添えた。
「マグル界の葡萄は冬には休眠期に入るらしい。しかし、魔法界ではそのような怠惰は植物と言えども許されない」
「ふふ、ルシウスおじさまにしては勤勉な物言いですこと」
「私も勤勉だとも。ただ少し、そう、気持ちに余裕を持っているだけだ」
ルシウスが一房の葡萄をもぎ取った。
そして、ルシウスはそこから一粒をダフネに向かって差し出した。ダフネがその指先に向かって口を開くと、ルシウスは呆れたように笑って、それからダフネの口に葡萄を放り込んだ。
皮を噛み破ると、ワイン用の葡萄特有の強い酸味と、それに負けない濃厚な甘さが立ち上る。魔法で品種改良されたそれは、小さな粒に脳がくらくらするほどの味わいを秘めていた。
「お行儀が悪いぞ、ダフネ」
「たまには悪い子の気分なんですの。これでもホグワーツでは立派なお姉さんをしていますのよ?」
「そうらしいな。フリント氏がとても喜んでいた。彼の息子はクィディッチばかりで勉強にあまり時間を割いていなかったと聞く」
「フリント先輩が色々とご支援くださるおかげで、勉強会の参加者も増えつつありますわ」
言うまでもなく、ルシウスはホグワーツでダフネが何をしているかを知っている。
今のところドラコは
「いいことだ。最近の君は模範的で素晴らしい。ドラコも君からいい影響を受けている」
「最近のドラコはとても頼りになりますわ」
「そうでなくては困る。私はしばらく忙しくなりそうだからな、あれにはいい加減しっかりしてもらわねば」
暗に理事会が多忙になることを匂わせて、ルシウスは薄っすらと笑みを浮かべた。
「では、理事会は新校長を擁立されるのですか?」
「ダフネ、ダフネ……少し勘が良すぎるな。一体どこで嗅ぎつけてきたのやら。まあ、そうだ。彼は十分に校長としての役目を果たした。今となっては十分すぎたほどだ。任期を終え、ホグワーツに新しい風を吹き込むべきだと理事会は考えている」
「新しい風。それは、
「あるいは、
ルシウスが革の手袋の指先で蘭の花粉に軽く触れ、擦りあわせるとそこから薄紫色の煙が立ち昇った。
つまり、ルシウスは純血主義者か、そうでなくとも純血を重んじる校長を擁立することを目論んでいる。フィニアス・ナイジェラス・ブラックの時代の再来というわけだ。
全ての理事がルシウスに同調しているわけではないだろうが、ルシウスは
「候補はもうお決まりなのかしら」
「生徒としてはやはり気になるかね?」
「もちろん気になりますわ。ドキドキしてしまいます」
「ふ、なら今夜の寝付きをよくするために教えておいてやろう。魔法薬学者のアージニウス・ジガー氏か、もしくは魔法道具職人のセオドール・ノット氏がよいのではないかという話になっている」
「セオドール……セオドール・ノット・シニア? ルシウスおじさまのお友達ですわね」
「彼が校長になれば、理事会としても安心してホグワーツを任せられるというものだ。昨今は色々と、
ルシウスが煙にふっと息を吹きかけると、そこに髑髏の模様が浮かび上がった。
この蘭はかつて純血の子弟に人気があった品種だ。今見た通り、花粉に宿った魔法的な性質が見る者を楽しませる。子どもが最初の園芸として手習いに育てるのにちょうどいいとされていた。
これからは本格的な管理の時代、ルシウスたち理事がホグワーツを仕切る時代がやってくる。
その考えを少しも表情に出さずに、ルシウスは静かな瞳で煙を見上げていた。
「校長が変われば、君もいくらかやりやすくなるのではないかな?」
「あら、お見通しというわけですわね」
「子どもを見守るのは大人の仕事だ、そうだろう。……どうかな、君の気持ち次第では正式に支援してやらないでもない」
もちろん、今ルシウスが話題にしているのは勉強会のことではない。
蒼の貴血。純血の、純血による、純血のための秘密結社。それをルシウス閥の支配下、謂わばこの温室のようなルシウス閥候補生の養育組織にしようというわけだ。
ダフネは微笑んで、返事の代わりにこう問いかけた。
「おじさまが、純血に生まれてよかったと思った瞬間はいつですかしら」
「……ふむ。考えてみたこともなかったな。魔法使いに生まれてよかったと思わないように、人間に生まれてよかったと思わないように、純血に生まれたのは運命であり、当たり前のことだ」
「そう。私はありますわ。純血でなければ、私たちグリーングラス家の女は人狼のような扱いを受けていた」
ルシウスが立ち止まって、ダフネを見下ろした。
「私、考えたんですの」
「ほう?」
「私が純血というステータスに救われたように、純血が目指すべき価値を持つ社会を作りたいのです」
ルシウスの表情は静かだった。
しかし、その瞳はもはや穏やかな父のそれではなかった。
ゆっくりと、ルシウスが口を開いた。
「今の純血はそうではないと?」
「聞くまでもないことでは? 純血の権威は失墜した。その事実はあなたが最も痛感しているはずですわ。魔法界最後の貴族――マルフォイ卿」
ルシウスは純血至上主義者だ。
しかし、それと同時に、財のためにマグルと関わりを持つことも辞さないリアリストでもある。マルフォイ家のその性質が、彼らを魔法族で唯一
そのルシウスから見れば、魔法族社会における純血というステータスの失墜は間違えようもなく明らかだろう。マルフォイ家が取った対策を、他の純血旧家は取らなかった。あるいは、取り得なかった。
現状、マルフォイ家は一人勝ちの最中だ。
しかし、社会とは唯一人によっては成立しない。彼らは一人勝ちを選んだ瞬間に緩やかな衰退への道を辿りはじめた。優雅なる没落というわけだ。
「これ、ダフネ……あまり強い言葉を使うのはよさないか」
「私、おじさまを尊敬していますの。マルフォイ家は優れた生存者です。ええ、私は本当にあなた達に憧れている……」
「何が言いたい?」
「純血が皆、貴族として振る舞えるだけの
まだ少し、甘えが残っていた。
ダフネは妹のために社会を変える。他の人間のことなど、知ったことではない。その考えをパイアス・シックネスに見透かされた。
いいだろう。
妹のついでだ。
「賭けをしませんか、ルシウス・マルフォイ」
「……言ってみなさい」
「来年、私がおじさまを絶望させてみせます。そして、おじさまが真に絶望したならば……その時は」
ダフネは笑って、腕を広げた。
「私の臣下になってほしいのです」
ずっと悩んでいた。
ルシウスを味方に引き込みたい。
しかし、彼は闇の陣営で喜んで悪事を為してきた犯罪者だ。しかも、彼はまだ相応しい裁きを受けていない。当然、ルシウスを抱き込めば彼を嫌悪する人々からは避けられるだろう。
ダフネはほしい駒を手に入れる。本気で社会と闘っていく気があるのなら、使えない駒を惜しんで使える駒を捨てているような悠長さが一番邪魔だ。
虚を突かれたように目を見開いたルシウスは、しばらくして、声を上げて笑った。
「君は……君は、本当に面白い子だ」
「ありがとうございます」
「純血を救うと? 全ての純血を貴族にしてみせると?」
「ええ」
「我が家のような豊かさを、全ての純血の手の届くところに?」
「そのとおりです」
「――なめるなよ、小娘」
ルシウスの革の手袋が、ステッキの柄を握りしめて苦しそうな音を立てた。
「我が家が払ってきた苦労の数々を知らずに、よくも」
「苦労? 面白い言い方ですわね。おじさまは楽しんでらっしゃったでしょう――ヴォルデモートに仕えることを」
「ッ、その名を」
「あら、何か困ることでもありますの? おじさまにとっては
もはや、ルシウスの表情は形容しがたいほど歪んでいた。
怒り。怯え。嘲り。
あらゆる負の感情が煮えたぎっていた。無数の感情がその大鍋に注がれていたが、そこに喜びも幸せもありはしなかった。
「親切心で言っていますのよ、私。乗り換えをご提案に来たのです。マルフォイ家は沈みゆく船から脱出するのはお得意でしょう?」
「……相手が誰かわかって口を利いているのか、ダフネ」
「もちろんですわ、ルシウスおじさま。ルシウス・マルフォイ。私が誰よりも尊敬する、真の純血。真の貴族。美しき人。あなたが大好きだから、最初にあなたを救いに来ましたわ」
ダフネは本気でルシウスを寝返らせるつもりでいた。
「楽しみにしていてください、おじさま。来年、きっと、いいえ、必ずあなたのもとに絶望がやってくる」
「……いいだろう。楽しみにしておこう」
獰猛に歯を剥き出しにして笑うルシウスは悍ましく、獣のように美しかった。
ルシウス・マルフォイ。
英国魔法界で最も成功し続けた、あるいは失敗を避け続けた偉大な政治屋。ダフネの計画のために、まずはルシウスを陥落させる。