クリスマス休暇が終わってしばらく経った。
早春の日差しとともに、ホグワーツにも明るいムードが戻りはじめた。マンドレイクはすくすくと育ち、石にされた犠牲者たちももうすぐ復活できることだろう。
そんな中、ハリーはダフネと湖畔でピクニックに興じていた。
まだ少し冷たい風をブランケットで追いやって、少し狭い敷き布の上で膝を寄せあいながら、ふたりは大イカが日向ぼっこをするのを眺めていた。
「お口に合うといいのですけれど」
ダフネがバスケットから取り出したのは、カスタードがたっぷり入ったアップルパイだった。
そう、今日はダフネがカスタードアップルパイを焼いてくれるという約束になっていたのだ。この約束のために、ハリーは怪訝そうに見るロンの視線に対して必死で誤魔化しながら昼食を軽めにしておいた。
「わ、すごくおいしそう」
「今年仕込んだシロップ漬けを持ってきておきましたの。当家の林檎は酸味が強いですから、カスタードは甘めに仕上げてありますわ。さ、召し上がれ」
一切れ受け取って頬張ると、シロップ漬け特有のシャキシャキとした食感に甘さと酸味のバランスが絶妙で、思わず頬がとろけそうなほどだった。
よく焼けた林檎とバターとバニラビーンズの香りは、まるで今日が特別な日のように思わせてくれた。あるいは、今日は本当に特別な日だったのかもしれない。それほどおいしいアップルパイだった。
「ダフネ、これすごくおいしいよ!」
「よかった! お菓子作りなんて久しぶりですから、ちょっぴり緊張しちゃいましたわ」
「誘ってくれてありがとう。でも、どうして急にピクニックなんて」
急な誘いだったが、ハリーは喜んで応じた。
久しぶりに顔を合わせるダフネは少し疲れている様子だった。無理もないだろう、彼女がスリザリンの継承者なのではないかという噂はどんどん広がっている。それなのに勉強会の主宰までしているのだ。
最近仲良くなった1年生のブリジット・トランブレによれば、ダフネはグリーングラス家の当主として社交界で百戦錬磨の大人たちを相手に必死で頑張っているのだそうだ。きっとクリスマス休暇は心休まるものではなかったのだろう。
しかし、疲れの原因はどうやらそれだけではないようだった。
「ちょっと、気分転換がしたかったんですの」
「気分転換? 何か悩みごとがあるなら、僕でよければ聞かせて」
「あら、ご親切にどうも。でも、ちょっと難しい話ですわ。家絡みの話ですから」
「うーん……それでも、聞かせてほしいな。ほら、僕ってこれからポッター家の当主として頑張っていかなきゃいけないんでしょ?」
ハリーはまだ自分が旧家の当主になったという自覚をどう持てばいいのかわからずにいた。
話を聞くための口実、半ばごまかしのようなものだったが、それでもダフネはクスリと笑って、頷いてくれた。
「そうですわね、もしかしたらあなたにとっても役に立つ例になるかもしれませんし……では、お言葉に甘えて」
「うん。それで、どういう悩みなの?」
「妹に、アステリアに後ろ盾を付けてあげたいのです。私は当主としてまだまだ未熟で、あの子を守るには力も名声も足りない。……そのための手段は、もう考えてあるのですけれど」
ダフネの表情は優れなかった。
それでも、ダフネはアップルパイを一口かじって、はふはふと熱を逃がしてから、柔らかく微笑んだ。
「このアップルパイ、アステリアがよく誕生日にねだってくれたレシピなんですの。あの子のお気に入りで、これだけはしもべに任せずに私が焼いていましたわ」
「ダフネの家にも屋敷しもべ妖精がいるの?」
「ええ、古くから仕えてくれている忠実な者たちが。あなたが屋敷の主として戻れば、きっとあなたのところにもしもべがやってきますわよ」
ハリーは少し考えて、曖昧に首を振った。
今学期に入ってから「ハリーを助けるため」と言いながらずっとハリーの邪魔をしてくるドビーのような生き物がこれ以上身の回りに増えたら、ハリーの命はいくつあっても足りないだろう。
「それで、手段って?」
「ああ、ごめんなさい、脱線しましたわね。……頭ではそれが最善とわかっていて、それでも取りたくない手ですの」
「どんな手?」
「アステリアを……」
ダフネは大きく息を吸った。
「
養子。
悪くないことのように聞こえる。グリーングラス家には大人がいない。信頼できる大人と養子縁組をして、その大人に助けてもらうのは正しい選択だ。
しかし、ダフネは自分が恐ろしいことを言ったかのように顔を俯かせた。
「えっと……魔法界ではよくないことだったりするの?」
「いいえ。もちろん、家どうしの関係次第ではありますが……まったくありえないというわけではありませんわ」
「じゃあ、どうして……待って。養子に行くのはアステリアだけってこと?」
ダフネはゆっくり頷いた。
「私が養子に入れば、グリーングラス家は断絶してしまいます。それは避けねばなりません。しかし、アステリアには私よりも強力な後ろ盾がなくてはならない」
つまり、こうだ。
グリーングラス家のためにダフネはひとりで家に残る。しかし、アステリアは誰か他の大人の子どもになる。ふたりは別々の家の子どもになるというわけだ。
どう答えたものか、ハリーは躊躇した。ハリーからすれば、養子に入るというのは羨ましくて仕方がない選択だ。ダーズリーの家から脱出できるのなら、どんな魔法使いの家だって天国に思えるだろう。
しかし、ダフネがアステリアのことを本当に愛していることをドラコから聞かされた後では、その選択がダフネにとって残酷であることもなんとなく理解できた。
「誰か……他の人には相談したの?」
「相談、そうですわね。相談すべきなのかもしれません。……でもね、ハリー。この相談をするということは、同時に私がグリーングラス家の当主としての能力に不足を感じていることを示すことになってしまうのです」
「えーと、それってつまり……」
「相談された相手からすれば、私を頼っていいものか悩むことになるでしょう。もっと能力のある人なら、これを機に私を政治の道具としてうまく操ることを考えるかもしれませんわね」
恐ろしい世界だ。ハリーは息を呑んだ。
ダフネは沢山の生徒たちを助けているだけでなく、大人とも対等にやり取りをしている。そんな彼女を操ろうなどと、とんでもないことだ。考えただけでも腹が立つ。
「それで、僕だったんだね」
「あなたには政治的な野心がない。それどころか、降って湧いた家名を持て余してすらいる。そんなあなたになら、話してもいいかな……なんて、甘えたことを思ってしまいましたの。ごめんなさい」
「ううん、僕でよければ。でも、力にはなれそうにないね。だって、僕は純血じゃないし、なにより僕の家にも大人はいないから……もし養子に入るとしたら、どこに入るかは決まってるの?」
ダフネは小さく頷いて、持ち出してきた紅茶を静かに口に運んだ。
「あてはあります。遠縁ではありますが、あなたとも血が繋がっている家です」
「そんな家があるんだ。僕の親戚ってことだよね」
「次の夏休みにでもご案内しますわ。先方もあなたに会ってみたいと仰っていました。……いい方です。アステリアも懐いている。ご高齢ではありますが、当面の後ろ盾としてあの子が成人するまで見守っていただくのには差し障りないでしょう……」
しばらく、ダフネは黙っていた。
アップルパイをかじり、紅茶を飲み、たまに吹き付ける冷たい風にはだけそうになるブランケットを捕まえる。穏やかな昼下がりには似つかわしくない難題だった。
ハリーはじっくり考えた。それでもわからなかった。ハリーには離れがたいと思うような家族がいない。どこまで考えても、結局ハリーにはわからない感覚でしかないのだ。
だから、ハリーはそのことを素直に口にした。
「アステリアと別の家になるのは嫌?」
「……そうですわね。嫌なのかもしれません、私。ええ、アステリアと離れ離れになるのが嫌なのです」
「ダフネがそんなふうに自分の気持ちを口に出すの、初めて聞く気がするよ」
「そうかしら?」
ダフネは儚げに微笑んで、指先についたパイ生地を払った。
きっと、本当に妹のことが大好きなのだろう。信頼している人に任せられるのだとしても、それでもそばから離れたくないのだ。
すこしだけ、アステリアのことが羨ましくなった。もしハリーがダフネと家族だったら、これほど大事に思ってもらえたのだろうか。離れたくないと、そう口にしてもらえたのだろうか。
「アステリアはなんて言ってるの?」
「あの子は……あの子にこんな考えを聞かせたら、きっと傷つきますわ。それなのに、あの子の選択にかかわらず、当主である私の能力不足があの子を追いやるのです」
「うーん、それは僕にはわからないけど……ダフネはアステリアが大事なんだよね?」
「ええ」
その返事には一切の躊躇いがなくて、ハリーはダフネと友人であることを誇らしく思うとともに、少しだけ胸が苦しくなった。
「きっとさ、アステリアも君のことを大事に思ってる。だったら、アステリアにもアステリアの考えがあるんだよ。だから、アステリアがどう思うかだよ。そうでしょ? アステリアが養子に行くかどうかを聞いてから、また考えればいいんじゃないかな」
「そう……そう、ですわね」
ダフネが紅茶をぐいと呷って、それから立ち上がった。
ハリーがあまりにも当たり前のことしか言えなかったことでダフネが腹を立ててしまったのではないかと心配していると、ダフネは腕を大きく広げて大きく息を吸った。
「あーあ! まったく、なんて姉なんでしょう! 知らず知らずのうちにあの子を縛っていたんだわ。選ぶのはアステリアなのに、私が決めようとしていたなんて!」
「それだけ、君がアステリアのことを大事に思ってたってことだよ」
「もー……なんだかちょっと賢しらで生意気じゃありませんこと? えい」
急にダフネがハリーの脇をつねるので、ハリーはびっくりして食べかけのアップルパイを落としそうになった。
脇に伸ばされた腕が背筋へと這う。あまりのこそばゆさに身を捩ると、紅茶で熱を帯びたダフネの吐息が耳にかかった。
「はは、ちょ、ちょっと、ダフネ!」
「男の子って放っておくといつもそうなんですから。まったく、定期的に懲らしめてやらなくてはいけませんわね」
「も、もう無理、降参!」
ハリーが息を荒げながら両手を上げると、ダフネはするりとハリーの身体にくっついて、そのままもたれかかるようにしてのしかかった。
くすぐられすぎて力が抜けきっていたハリーはそののしかかりに耐えられず、小さく驚きの声を漏らしながら姿勢を崩した。
小さな敷き布からはみ出して、芝生の上でふたりは重なりあっていた。
「ダフネ……?」
「ハリー、あなた意外と体温が高いんですのね。あったかい……」
ハリーはどきりとして、なんとか首をよじって胸の上にいるダフネを見下ろした。
ダフネはまるで猫のように身体を丸くして、ハリーの胸に頬を当てた姿勢のまま瞼を閉じていた。その表情があまりに穏やかなので、ハリーは何も言えなくなってしまった。
そのまま、ダフネが静かな寝息を立てはじめるまで時間はかからなかった。
きっと、アステリアのことで最近はあまり眠れなかったに違いない。そう思うと起こすのは忍びなくて、ハリーはなんとか身体を揺らさないように頑張りながら自分の羽織っていたブランケットをダフネの肩にかけてやった。
「君はすごく頑張ってるよ、ダフネ」
指先で前髪を払ってやると、ダフネは小さく何か寝言を呟いた。
その寝言を聞き取れなかったのは少し残念だったが、それでもダフネの気持ちが晴れたのならハリーにとってこれ以上嬉しいことはなかった。
身体の半分を芝生に投げ出したまま、ハリーは食べかけのアップルパイを頬張った。甘酸っぱい味わいの奥に、何か夢のような、甘く優しいものが隠れている気がした。アステリアが誕生日にねだるのも納得の味だ。
遠くで大イカが度胸試しをしていた生徒の一人を触腕で絡め取っている。
秘密の部屋の事件も何もかもが片付いて、今日のような平和で幸せな毎日が続けばいいのに。そう願いながら、ハリーはアップルパイの最後の一口を放り込んだ。