ロックハートとハリー。
奇妙な二人組がパイプを滑り降りた先で目にしたのは、巨大な何かが暴れたような後だった。
「ハリー、決して私のそばから離れないように……君を連れて行くことに賛同したわけではありませんからね。確かに君は優れた生徒かもしれないが、だからといってこういった冒険をするのに2年生は少々幼すぎる」
「でも先生、ダフネが」
「たとえ君のガールフレンドが奥にいる可能性があったとしても、それは蛮勇を冒していい理由にはならない。いいですか、ハリー……優れた英雄とは引き際を弁えているものだ」
そう言いながらも、ロックハートは震える指先で杖明かりを灯し続けていた。
明らかに不自然だった。彼はあまりにも帰りたがっていて、それなのに前に進もうとしていた。まるで
ロックハートに責任感などというものが備わっているとは思い難かったが、それでも2年生のハリーよりは能力のある大人なのは確かだ。ハリーは彼のそばについて、杖を構えたままゆっくり進んだ。
「これは……」
「門? どうやら金庫に使うような大扉を流用したようだ……おや、これは」
ロックハートがしゃがみ込んで円状の扉の下に光を当てた。
重厚で、圧迫感のある扉だった。黒い鋼でできていて、細かく鱗のような装飾が彫り込まれていた。そして、その周囲には這うようにして真鍮製の蛇が飾られていた。
「擦れた後がある。ごく最近に開いたに違いない。ここに彫られているのは、この扉を設けた人物の署名か……? コルヴィヌス・ゴーント……」
「ゴーント……先生、それ、スリザリンの直系って言われてたゴーント家の人だと思います」
「なるほど、興味深い……」
ロックハートは何かを取り出すようにライラック色のローブのポケットをまさぐってから、
「ハリー、開けられますか」
「やってみます。……開け」
ハリーが一言命じると、蛇が這いはじめた。そして、蛇が通過したところから順にロックが外れ、一周すると同時にゆっくりと扉が開いた。
「……ハリー、これが最後の警告です。君はここで救援を待つという手もある」
「行かせてください、先生。ダフネを助けたいんです」
「……ああ、もう!」
ロックハートは苛立ったように叫んで、それから天を仰いで笑った。
突然の大声に、ハリーはぎょっとして身体を仰け反らせた。ロックハートは薄汚れた洞穴の天井を見上げて笑った後、ハリーの肩に手を置いた。
「まったく、認めざるをえない。君には素質がある。わかるかな、ハリー」
「えっと……」
「英雄の素質ですよ、ハリー。頂点に立つ者の素質だ。……私にそれが備わっているか、それを確かめなければ」
ロックハートは小さく笑って、扉の向こうへと進んだ。
一体何を言っているのだろうか。ロックハートの言葉が理解できないまま、ハリーは慌てて彼の背を追った。
そして、そこに辿り着いた。
「ここは……」
冷たく、湿った空間だった。
大広間のような広さの、石造りの部屋。その作りはどこか、去年ハリーがクィレルと戦ったあの地下空間にも似ていた。
中央の通路を飾るように、蛇の石像がいくつも整然と並んでいた。ひとつひとつが生きているように精巧で、不思議とハリーはその石像から視線を感じた。
そして、その最奥には巨大な大理石製の顔面が飾られていた。
「――スリザリン様式だ」
誰かの声が響いた。若く、通りのいい声だった。
「ホグワーツ城の建設当初に造られた地下室などを中心に見られる様式でね。君がスリザリン生なら、談話室と類似する意匠をいくつか見つけられただろう。サラザール・スリザリン自ら設計した空間というわけだ」
「誰だ!」
杖を構えたハリーを制止して、ロックハートが静かに口を開いた。
「
「お久しぶりです、先生。どうですか、授業はうまくいっていますか?」
「幸い、君の助言がなくとも私にはそれなりの知恵というものがあるのでね。それに、私が頼っていたのは君ひとりではない」
「ああ……混ざりもののフリットウィックにでも教えを乞いましたか。そういえばあなたはレイブンクロー生だった」
声の主が、石像の陰から現れた。
端正な顔立ちの、スリザリンの上級生だった。しかし、ハリーは警戒を緩めなかった。ハリーはスリザリン生とそれなりの付き合いがあるが、彼のようなスリザリン生は見たことがない。
その青年はロックハートに冷たい笑みを向け、それからハリーに笑いかけた。
「やあ、ハリー。君は勇敢だ。喝采に値するよ。ダフネ・グリーングラスを探してここまで来たんだろう」
「ダフネを返せ」
「それは難しい相談だ。彼女はもうバジリスクが食べてしまっただろうから」
一瞬、頭が真っ白になった。
気づくとハリーは杖を振り上げていた。
「
「おやおや、決闘の作法はそこの無能教師から学んだだろう?」
青年は杖を一振りして、あっさりとハリーの呪文を弾いた。
ハリーはその杖に見覚えがあった。
黒くしっとりとした質感の、繊細な彫刻が入った木材。ハリーの杖よりも少しだけ長く、そしてよくしなる杖。
ダフネの杖だ。
「ああ、これかい? 黒檀に不死鳥の羽根。悪くない杖だ」
青年が手元でダフネの杖を弄んだ。
まさか、本当にダフネは死んでしまったのか。
「……ハリー、彼の相手は私がしよう。君では手に余る。それに……彼とは因縁があってね」
「そうですよ、先生。僕はあなたの罪だ。しかし、今僕はハリーと話したいんだ」
「そう邪険にしないでくれるかな? 長い付き合いじゃないか」
「しつこい男は嫌われますよ、先生」
「……どういうことですか、ロックハート先生」
今の口ぶりは一体どういうことだろう。まるでロックハートとあの青年が知己の仲とでも言いたげではないか。
ロックハートは困ったように笑って、それから青年に向かって杖を構えた。
「……私は教師として十分な能力を有していなかった。闇の魔術に対する防衛術の教授に選ばれたとき、誇らしげに思うとともに、強い不安に苛まれた。やっていけるのか、とね。……しかし、書店のワゴンセールで彼に出会った」
「運命的な出会いでしたね、先生」
「本当に運命だったのかもしれない。……ハリー、彼はトム・リドル。50年近く前にホグワーツを首席として卒業した生徒、その記憶だ。小さな日記帳に封印された魔法の断片だよ」
トム・リドル。
そう紹介された彼は、大仰に会釈をしてみせた。
どこかで聞き覚えのあるような、そんな懐かしい名前だった。ずっと昔に別れた友達のような、あるいは小さい頃に可愛がってもらった親戚のような、そんな気配を纏っていた。
しかし、どちらもありえなかった。ホグワーツに来るまで友達はいなかったし、ハリーを可愛がってくれる親戚がいたならその人に引き取られていただろう。
「教師として、私はずっと彼の助言を受けてきた。最初は自分で考えた授業をやっていたが、次第に彼の言うとおりに授業をするようになった」
「先生の小説に沿って授業を作るのは大変でしたよ」
「次第に罪悪感が膨らんだ。そして……私はトム・リドルのことを調べはじめた。そして、50年前のホグワーツ特別功労賞に辿りついた」
ハリーは思い出した。
トロフィールームの片隅、少し古い時代のトロフィーが飾られているエリアに、トム・リドルの名前が確かにあった。
ロックハートは静かに語り続けた。
「私はこれでも顔が広いものでね。50年前にどんな事件があったかはすぐに調べがついた。そして直感した。秘密の部屋を開いたのはハグリッドではない。君が実行し、そして濡れ衣を被せた。そうだろう」
「さすが、嘘と偽りのプロは嗅覚が違いますね」
「きつい言い方だ……しかし、そうだ。君からは私と同じ臭いがした」
「……嘘と偽りのプロ? 濡れ衣?」
リドルは嘲るように笑った。その表情はぞっとするほど悍ましく、整った顔立ちが嘘のようだった。
「ハリー、彼の英雄譚が本当に彼のものだと思うかい? 彼は世界各地を回って他人の武勇伝を盗み、自分のものにしてきたんだ。ご丁寧に、盗んだ後は記憶を消して証拠隠滅までしてね」
「……本当なんですか、先生」
「……ええ、否定はしませんよ。しかしね、
リドルは鼻を鳴らして、下らないとでも言いたげな顔をした。
彼の言ったことが本当なら、ロックハートは大犯罪者だ。他人の功績で着飾り、英雄ぶって、それでいい思いをしてきたのだ。それは許されることではない。
しかし、今はそれどころではなかった。
ダフネがそう簡単に死ぬとは思えない。ダフネを助け出さなくては。そのためには、たとえ犯罪者だろうと、今はロックハートの力が必要だ。
ロックハートはリドルを睨みつけた。
「50年前はマートル・ワレン。そして今回はダフネ・グリーングラス。君は残酷にも哀れな乙女たちの未来を奪った。私はね――読者を奪われるのが何より嫌いなんだ!」
ロックハートは杖を突き出した。
鋭い閃光が放たれた。リドルは手早くそれを防いだが、ハリーの呪文を防いだときほどの余裕は見せなかった。
呪文の応酬が続き、驚くべきことに、ロックハートは少しずつリドルを押し込みはじめた。ロックハートが放った呪文がリドルを掠め、彼のもたれかかる石像を砕いた。
「トム・リドル。私は君に勝つ。勝って、今度こそ本当に――」
「……はあ、もういい。
ぽん、と間抜けな音が響いた。
ハリーの前に立っていたロックハートが、彼の好きなライラック色の煙に包まれた。
そして、その煙が晴れた時、そこには木製の操り人形が立っていた。それはどうやら、かつてロックハートだったものの、成れの果てのようだった。
「先生!」
リドルは小さく笑って、そして杖を振った。すると、操り人形はくるりと振り向いた。
ロックハートによく似た人形だった。笑顔の輝かしさは人形になっても衰えていなかった。そして、その人形は、身体をカタカタと鳴らしながらゆっくりとハリーに会釈をした。
「なかなかいい出来だろう?」
「……先生を元に戻せ」
「君が凄むほどの価値がこの男にあるとは思えないし、君が凄んだところで僕は怯えて従ったりしない。ハリー、君と話がしたかったんだ。出しゃばりなこの落第教師ではなくね」
リドルが微笑んだ。まるで、ずっと待っていた友達を出迎えるような穏やかな笑みだった。
不気味だ。ほんの一瞬前にロックハートを人形に変えてしまった人物の表情とは思えない。まるで、その凶行を罪ともなんとも思っていないようだった。
「ハリー。ずっと君と話がしたかった」
「僕はお前に用なんてない。ダフネを返せ」
「言っただろう、ハリー。あの呪われた血の小娘はバジリスクにくれてやったんだ。ハリー……ハリー・ポッター。この瞬間を楽しみにしていたよ。なんとも運命的な出会いだ」
運命。
その一言がやけに嫌な予感を伴ってこだました。
「改めて自己紹介しておこう。トム・マールヴォロ・リドルだ」
リドルが滑らかに杖を走らせると、炎のような文字で空中にTom Marvolo Riddleと綴られた。
「とはいえ、僕はこの名前は好きではなくてね。親しい友は僕を他の渾名で呼ぶ。君にとっても馴染み深い名前だ」
「……謎掛けに付き合う気はない」
「そう頭に血を昇らせないほうがいい。最後の会話は楽しみたいだろう? この名前を君に披露するのをずっと楽しみにしていたんだぞ、僕は」
杖が振られた。
空中に刻まれた炎の文字は並びを変え、そして、こう名乗った。
「
「ヴォルデモート……!」
「僕はヴォルデモート卿の過去であり、現在であり、そして未来である。この名前は僕にとって真の名前のようなものだ。トム・リドルという名前は好きではない。親しみと、敬意と、絶望を込めて、ヴォルデモート卿と呼んでくれるかな」
「お前が……お前が秘密の部屋を開いたんだな!」
「そうとも。正確には、そこで人形になっている間抜けによるものだが」
リドルはせせら笑った。
「中々面白い一年だった。この男は忘却呪文が得意でね。だから、その力を有効活用してやったんだ。意識を乗っ取って部屋を開け、バジリスクを呼び寄せ、そしてその記憶を綺麗に消し去ってから意識を返してやった。どうなったと思う?」
人形がカタカタと体を鳴らした。
それはまるで、ロックハートに残された最後の自我が抵抗しているかのようだった。しかし、人形の身体のまま、ロックハートは声すら発することができずにいた。
「
「……違う。先生は犯人じゃない。操っていたお前を突き出せば――」
「それは無理だ、ハリー」
リドルが杖を一振りすると、ハリーは身動きが取れなくなった。
全身金縛りの呪いだ。
ハリーの硬直した身体がゆっくりと倒れていくのを、リドルは実に愉快とでも言いたげに笑って眺めていた。
「君はここで死ぬ。継承者であるダフネ・グリーングラスはハリー・ポッターとロックハート教授を裏切って失踪した。生き残った男の子という象徴を失った魔法界は混迷に陥り、ホグワーツには保守的な臆病者の校長が就任する。そして――」
リドルは陶酔したような口調でそう語った。倒れたハリーの視界の端で、リドルが巨大な顔面の石像に両腕を広げるのが見えた。
「僕はホグワーツを中心に世界を掌握する。サラザール・スリザリン、偉大な先祖……彼の名を有効活用させてもらおう。ホグワーツは生まれ変わる。ヴォルデモート卿の庭、忠実なる者の牧場に」
このまま負けては駄目だ。
ハリーはなんとか呪いを解こうと必死に念じたが、硬直した口では呪文を唱えられなかった。
その時だった。
「……なんだ? この羽音は」
翼が湿った空気を裂く音がした。
硬直させられていなければ、ハリーは息を呑んだだろう。それはとても美しい大鴉だった。
光沢のある濡羽色の影が舞い降りた。その嘴は、古びたノートのようなものを咥えていた。そして
「――生憎ですけれど、魔法界の行く先については私が先約を入れていますの。あなたはお呼びじゃなくってよ、トム・リドル」
大鴉だったもの――ダフネ・グリーングラスが、そこに立っていた。