剪定鋏の音が静けさの中に響いた。
それはどこか、家系図を剪定するブラック家を極限まで美化した姿のようにすら感じられた。
「見事なものですわね。秋薔薇の季節はとうに過ぎたと思っていましたが」
ここはグリモールド・プレイス12番地の最奥、裏庭に築かれた魔法の薔薇園。魔法によって守られた清い空間だ。マグルには香りを感じることすらできないだろう。
「魔法は美すらも永遠とする」
アークタルス・ブラック3世はブラック家の印象に反して穏やかな老人だった。自ら薔薇の世話をする手は、魔法界の王を名乗ったブラック家の高貴な人物とは思えないほど手慣れていた。
今でこそ皺が寄り、白髪に覆われ、枯れ枝のような腕を震わせているが、それでも声には往時を思わせる凛々しさがあった。
シリウス・ブラックと同じグレーの瞳が、愛おしそうに薔薇を見つめていた。
「……この薔薇園は永遠ぞ。余が冥府に去ろうとも、枝は伸び花は開き続ける。あるいは、野放図に伸びた果てに自らの根を枯らすやもしれぬが」
「では、庭師が必要ですわね」
「よい庭師でなければならぬ」
薔薇を見上げて並ぶ様は、きっと曽祖父と孫のように見えることだろう。
しかし、ふたりは薔薇を通して語りあっていた。純血という、魔法界の骨子である概念そのものについての未来の話だった。
「もはや余の手では足りぬか」
きっと返事は求められていなかった。それほどまでに、アークタルスの言葉には諦念が詰まっていた。
ブラック家が王家を名乗ったのは、きっと僭称ではなかった。
英国が名誉革命で立憲君主制による議会政治を発明するよりも早く、英国魔法族はウィゼンガモット賢人会議による統治を導入した。そこには少なからず失敗と妥協があり、それでも道を間違わないための先導者が必要だった。
純血の王家。いわばそれは象徴であり、英国魔法族を照らす最も黒い灯火だったのだ。
「……余が若い頃は革命に期待もした」
「グリンデルバルドですかしら」
「左様。しかし、あれは苛烈に過ぎた……あまりにも多くの血が流れた」
骨ばった指先が赤い薔薇にそっと触れた。肉厚の花弁が老人の指先を受け入れ、慰めるように震えた。
「おそれながら、お教えいただきたい由が」
「言うてみよ」
「なぜ、帝王を僭称するあの者、ヴォルデモートに対抗しなかったのですか」
ブラック家がヴォルデモート卿に反抗しなかったこと。これがダフネにとって最大の謎だった。
王に対する帝王。それはつまり、トム・リドルがブラック家の上位者を名乗ったことを意味する。半純血の僭称者であり虐殺者である彼に、なぜブラック家は抵抗しなかったのか。
アークタルスは静かに瞼を震わせた。
「情よな」
「情、ですか」
「オリオンの、奴に対する情が全てを狂わせた。さんざ目をかけた後輩ぞ。……よもや救えなかったなどと、思いたくはなかったのであろう」
オリオン・ブラックはシリウスとレギュラスの父で、リドルと近しい世代の人物だ。彼が生粋の純血主義者だったことも考えれば、リドルとの接点は決して少なくなかっただろう。
才気あふれる青年、トム・リドル。
きっと多くの者が彼に期待と愛情を注いだ。しかし、それは結局のところうわべだけのものに過ぎないとリドルは感じていた。だから、最後までリドルは救われなかった。
息子まで差し出したオリオンにとって、きっとヴォルデモート卿に成り果てた彼は見るに堪えないものだったに違いない。
「その方に欠けているものがそれよ」
「私には情が欠けていると?」
「その方はまだ、本当の意味で友と出会っておらぬ。そうであろう、志す者よ」
まるですべてを見透かしたようなことを口にする老人だった。
しかし、不思議と腹は立たなかった。ダフネは静かにアークタルスの言葉に耳を傾けた。
「その方の目指すところを言うてみよ」
「純血の、純血による、純血のための結社を築くことですわ」
「それによってその方は何を得る」
「妹の幸福を」
「では、妹がそれを望まなければどうなる?」
ダフネは言葉に詰まって、ただ薔薇を見つめた。
ただ、アステリアの幸せだけを願っている。それは本当だ。では、アステリアがそれを望まなければどうなる? 苦しい道を自ら選ぶのならば、ダフネは彼女になにをしてやれる?
「まだ、妹のことを考えておるな」
「……私はアステリアのためにありますもの」
「妹のためにあると申すか。立派な言葉ぞ。しかし、脆いの」
アークタルスが膝を折り、鋏を置いてダフネの頬に触れた。まるで薔薇に触れるような、優しい、静かな手つきだった。
「自分の幸福を考えよ。他者の幸福のために生きる者は、他者の不幸によって死ぬのよ」
「……アステリアの不幸の身代わりになれるのなら、私は構いませんわ」
「そうかの。しかし、妹にとってその方はたったひとりの姉ぞ。その姉が不幸なまま死んで、それでも喜べる妹と思うか」
静かに、しかし辛辣にアークタルスの言葉はダフネを貫いた。
ずっと目を逸らしていた部分だった。アステリアは優しい子だ。この世に舞い降りた天使のような子だ。ダフネが幸せにならなければ、アステリアはひどく悲しむに違いない。
しかし、どうやって幸せになれというのだろうか。血の呪いに蝕まれたこの身で、どんな救いを望めというのだろう。
「存外、私欲のために戦う旗頭のほうが皆もついて参るものよ」
「……血の呪いを克服するために使えと?」
考えなかったわけではない。
アステリアの苦痛を緩和できるのなら。そう期待した。純血の結社によって叡智を集め、血の呪いを和らげる術を見つけることができるかもしれないと。
問題は、そんな些事に興味のある人間は限られているということだ。
ダフネは原作を知っている。原作では純血の地位は失墜し、半純血やマグル生まれが活躍する時代がやってくる。その流れに抗うためには、私利私欲に時間を割いている暇はない。
血の呪いを克服するために人を集めるより、純血の地位を向上させるために人を集めるほうがよっぽど確実だ。ダフネは確実にアステリアを救いたいのだ。
「その方は迷っておる」
「私は迷ってなど」
「いや、迷っておる。余は毎晩思う。果たして、本当に我が子を愛するということができたのであろうかと」
愛。
ダフネはアステリアを愛している。心の底から愛している。アステリアを救うことさえできるのなら、全てを差し出しても構わないと思っている。
アークタルスの物言いは静かだが、鋭利だった。まるでダフネの愛し方が間違っているとでも言いたげではないか。
「……よりによってあなたがそれを仰るのですね、閣下。魔法界の王に愛は必要でしたかしら?」
思わず棘のある言葉が飛び出してしまってから、ダフネは自分が苛立っていることに気づいた。
「余も若い頃はそう思っておった。ブラック家に愛などない、必要ないと。余がする唯一の後悔ぞ」
「……私は後悔などしませんわ。アステリアを救って、そして死ぬのです」
「その方はもっと欲張るべきであろう」
アークタルスは剪定鋏を拾い上げ、薔薇にあてがった。
どうやら話は終わりのようだった。
収穫があったかはわからない。ダフネの目的はまだ果たされていないし、それが一度の訪問で解決するとも思っていない。ただ、薔薇の棘が刺さったような痛みがダフネの胸に残った。
「よく考えよ。その方が本当にしたいことを見定めて歩け。……また来るとよい。ブラック家の門はその方に開かれている」
「……お時間をいただいたこと、感謝いたしますわ」
深く頭を下げると、わずかにめまいがした。
ぱちん、と指を鳴らす音が響いて、気づくとダフネはグリモールド・プレイス12番地の玄関口に立っていた。
排気ガスのにおいがする。赤信号になりかけの横断歩道を歩行者が転がるように駆けて渡って、急ブレーキを引いた2階建てのバスがクラクションを鳴らしている。
情報量の多さに思わず膝をつきそうになると、慌てた様子でロバーズがダフネの身体を支えた。
「おい、しっかりしろ。何があった」
「……年を取るにつれて、時は多くの教訓を教う」
「は?」
「アイスキュロスですわ。……大丈夫、少しめまいがしただけ。寒空の下待ちぼうけで申し訳ありませんでしたわ」
ひとつの時代に押し潰された気分だった。
愛。難題だ。厄介な、しかし大切な宿題を与えられてしまった。
ロバーズの腕に掴まって立ち上がりながら、ダフネは息を吐いた。吐息が白くなってロンドンの空気に溶けていく。12月のロンドンは寒い。
「……少し、歩きましょうか」
「帰ったほうがいいんじゃないか? フォーテスキューの店にアステリアを預けっぱなしだろう」
「少しだけです」
息を吸い込む。冷たい。肺が凍るようだ。
「……愛ってなんだと思いますかしら」
「愛? 唐突だな……君ら姉妹を見ていると、愛っていいもんだなとは思うよ。俺も子どもがほしいって思うことがある」
「結婚が先ではなくて?」
「後で覚えとけよ、お前」
ただの見張りでしかなかったロバーズとも気安い仲になったものだ。
冷たい空気で頭を冷やしながら、ダフネはゆっくりとアークタルスとの対話を思い返していた。
「……たとえば、妹を幸せにするために不確実な近道と確実だけれど遠回りな道があるとして、私は後者を死ぬまでに全力で走り抜けるのが愛だと思っていましたの」
「うん、まあ、君はそういうタイプだ」
「でも、前者でしか救えないものがあるとしたら……そして、妹がそれを欲しているとしたら」
結局のところ、アステリアを思うのならダフネは救われなくてはならない。
これが一番の難題だ。
アークタルスに言われるまでもなく、もしアステリアがダフネと一緒に静かに過ごすことを選ぶのなら、ダフネは喜んですべての計画を放棄し、アステリアと隠棲することを選ぶだろう。たとえその結果、ふたりともが獣に堕ちてもだ。
妹を救いたい。妹の生きる社会を豊かにしたい。
しかし、ダフネ自身もまた救われなければならない。
「そんなの簡単だろ。
隣でロバーズが当たり前のような顔をしてそう言った。
「……なんておっしゃいました?」
「だから、君以外が近道のほうを走ればいいだろ。そりゃ、大変なほうを人に押し付けるタイプじゃないのは見ててわかってるよ。でも、全部君がやらなきゃいけないってわけじゃないだろ?」
「あ……」
笑ってしまうような、当たり前の結論だった。
血の呪いの治療と純血社会の再興。両方をダフネが実現させる必要はない。
「そもそも、君はなんでもひとりでやりすぎなんだよ。もっと人に頼ることを覚えたほうがいいな」
「……言い出しっぺは大変ですわよ?」
「俺か? まあ……いいよ。仕事に支障が出ない範囲でなら付き合ってやってもいい。君が言う通り、独身で暇なんだよ」
ふわり、とダフネの鼻先に何かが降ってきた。
白い結晶がロンドンの街から音を消し去りつつあった。天気予報では一日曇りだったというのに、これではますます冷え込んでしまう。
「雪だ。……風邪をひく前にアステリアを拾って帰るぞ」
「ええ。……ありがとうございます、ミスター・ロバーズ」
「ガウェインでいい。どうもタイミングを逃してたけど、子どもに家名で呼ばれると背筋がもぞもぞするんだよ」
ガウェイン・ロバーズ。
後にハリーが闇祓い局局長となるまでの中継ぎ局長としてしか見ていなかった、若い闇祓い。
その背中が妙に頼もしくて、ダフネは少し腹立たしくすらあった。その頼もしさを感じている自分がひどく弱く思えるからだ。
「せいぜい頼り潰してあげますわ、ガウェイン」
「はいはい、子どものわがままに付き合うのは大人の仕事だからな」
腹が立つ。それでも、嫌とは言えなかった。