時は少し遡る。
パイプを滑り落ちたダフネは、湿って薄汚れた空間を必死に走っていた。
濁った空気が肺に流れ込んでくる。苦しい。脇腹が刺すように痛む。吐き気がする。
それでも、背後に迫るバジリスクを前に立ち止まるわけにはいかなかった。ゆっくりと、しかし確かに追ってきている。骨を、ゴミクズを、抜け殻のかけらを踏み潰しながら、大蛇がダフネを狙っている。
そして、そのダフネを迎え入れるように、目の前で扉が開いた。
バジリスクの太い体躯では抜けられそうにない丸い鉄製の扉。その扉が開かれたことは、間違いなく罠だった。しかし、ダフネにはその罠を踏み抜く以外の選択肢が残されていなかった。
ダフネは扉の奥へと飛び込んだ。
「――ようこそ、ダフネ・グリーングラス」
かけられた声に応答する余裕はなかったが、それでもダフネは
薄っすらと透けた、しかしゴーストよりは遥かに確かな肉体を持つ青年。その美貌は分霊箱を作る前の、端整で多くの人々を魅了した姿そのものだ。きっと父親の生き写しなのだろう。
後にその姿を喜んで捨てた者、トム・リドル。その影法師がここにいる。
「息を整える時間をあげよう。運動不足……いや、単に身体が弱いのかな。そこは少し残念だ」
「はあ……乙女にそんなことを言うのは……紳士として失格ですわよ……」
「それは失礼。でもね、ダフネ。僕には君を見極める義務があるんだ」
かつ、かつと革靴の踵が石造りの床を鳴らした。
「記憶の姿でも足音は鳴りますのね」
「なるほど、そこまで知っているか。ルシウスから聞かされていたかな? 説明の手間が省けて助かるよ」
「それで? 私の何を見極めると?」
リドルは値踏みするようにダフネを見下ろしていた。その瞳は彼が記憶の幻影であることを差し引いてもなおぞっとする冷たさを秘めていた。
日記帳に封じられているのは、分霊箱を初めて作る直前のトム・リドルの記憶だ。
しかし、彼はすでにどこか人間離れしていた。全身に纏う虚しさすら感じさせるほどの厭世観がそう見せているのだろうか。世界のすべてが退屈だとでも言いそうなほどの、悲しい全能感にあふれていた。
「ことと次第によっては、君をスリザリンの継承者にしてあげてもいい」
「面白いご提案ですこと」
「冗談を言っているわけではないよ、ダフネ。僕はこれでも君を買っているんだ。優れた王には優れた宰相が必要だ、そうだろう?」
「……あなたが君臨する世界の統治者になれと?」
リドルは満足げに頷いた。
「ダンブルドアを追い出し、ホグワーツを掌握し、僕こそが本当のヴォルデモート卿になる。虫けら以下に落ちぶれた本体を踏み潰してね。そして、僕はこの魔法界の支配者として君臨する。でもね、僕がわざわざ屑どもの世話をしてやる必要はない。そうだろう?」
「なんとも闇の帝王らしい物言いですわね」
「これでもそれなりに困っているんだよ。僕の親しい友人たちは……なんというか、少々長期的な視野に欠けていてね」
マルシベール、レストレンジ、エイブリー。
リドルの最初期の信奉者たちは、皆現在はアズカバンに投獄されている。彼らの悪い意味でまっすぐなところ――つまり、死喰い人であることを誇り、隠さないところは確かに統治者には向いていないだろう。
ある意味で、ヴォルデモートは派閥形成に失敗している。
ヴォルデモートは支配者であって統治者ではない。彼の悲願である魔法界の征服が達成された暁には代理人たる統治者が必要になる。
しかし、彼の先鋭化した活動についていくような短慮な人間は大抵の場合統治に向いていない。この問題は彼の晩年の暴虐――グリンゴッツでの無策な虐殺などにも現れている。ヴォルデモートには助言を聞き入れる耳と、助言を囁く脳が不足している。
「あなたらしくないお考えですわね。ルシウスおじさまに啓発されたのかしら」
「いや、アブラクサスだよ」
アブラクサス・マルフォイ。ルシウスの父だ。
リドルは懐かしそうに目を細めた。一瞬、彼の表情に人間性が戻ったような気すらした。
「お決まりの流れだった。僕が提案し、アブラクサスが計画し、オリオンが人を集める。僕らにならなんでもできた。なんでもやった」
「闇の帝王の青春時代というわけかしら」
「青春? ……あはは」
リドルは戸惑ったように首を傾げて、それから小さく声を上げて笑った。その笑い声はひどくぎこちなくて、まるで人形が笑い方を魔法で吹き込まれたかのようだった。
それから、彼は腕を広げてダフネに微笑みかけた。
何かが欠落していた。リドルは記憶から生まれた幻影のようで、そうではなかった。本来のトム・リドルに備わっていたであろう、自然な何かが損なわれていた。
「話を戻そう。僕が魔法界の頂点に立つ。そして、君には下々の民を世話してもらいたい。得意なんだろう、そういったことが。この1年間、ロックハートを通して君のことを見てきたんだ」
「お褒めの言葉と受け取っておきましょう」
「それに、君には別の期待もしている。呪われた血……実に興味深いよ」
ダフネのポケットの中で、注射器が揺れた。
リドルの視線がダフネの脳天から爪先までをじっくりと舐め回した。まるで新しい実験動物を仕入れたばかりの研究者のようだった。
杖を抜いて呪いを放ちたくなるが、この幻影は本体ではない。呪いをかけたところで傷一つ負いはしないだろう。今ダフネがすべきことは、対話を続けて命を長らえさせ、その間に日記帳を見つけて脱出することだった。
「人間は弱い。退屈な生き物だ。その点で言えば、血の呪いとは
「お言葉ですが、そんなにいいものではありませんわよ」
「そうかな? 君たちの一族はいつもその呪いの克服だけを考えて生きてきた。しかし、その呪いを利用することを考えてもいいはずだ。違うかい?」
リドルは歩み寄り、ダフネの頬に手を伸ばした。
冷たい指先がダフネの輪郭をなぞっている。その姿が人であることを確かめるように。あるいは、
ダフネのはらわたの奥で、何か
「ッ、触らないで」
「僕は君の肉体には触れていない。魂に問いかけてるんだ。この姿になって得したのは、より魔法の本質に近づけたことだね。……見えるぞ、魂に刻まれた呪いが」
脈打つ。
リドルが指先を何かを絡め取るように動かし、そしてわずかに引っ張った。
直後、ダフネは激痛に膝を折った。
「ぐっ……はあ……ッ!」
「おや、これは痛むのか。悪かったよ、ダフネ。君を傷つける気はなかった。どうやら君の先祖が中途半端に呪いを封じたらしいね。その鎖が魂と癒着しているんだ」
「黙って……」
「謝ったじゃないか。そう殺気立つことはないだろう。あまり感情を昂らせると、ほら――」
リドルが手を振ると、通路の脇を満たしていた水が首をもたげる大蛇のように立ち上がった。その少し濁った水面に、
「あ……」
思わず声が漏れた。
そのことを理性が理解した瞬間、脈打っていた熱が全身を包んだ。
ローブの袖から杖が落ち、転がる。
「なるほど……これでは駄目だな、失敗作だ。もっと高尚なものを期待していたんだよ。がっかりだ。賢いからペットにはいいかもしれないけれど」
もはやリドルの言葉は耳に入らなかった。
臓腑が融け落ちるようだ。
肉体が変容していく。何より悍ましいのは、思考の隅にこの変容を歓喜する何かの感情がいることだ。言語化できない獣性が自らの
そして、その歓喜はじわじわとダフネの自我を掌握し、中心を占め――
「冗談じゃ、ありませんわ!」
ダフネはポケットから注射器を取り出し、太ももに打ち付けた。
鋭い痛み。
薬剤が注入されるその痛みが、ダフネの目を醒ました。
「へえ……治療薬? 違うな、緩和のための中和剤と言ったところか。ひとまずの対症療法で当座を凌ぎつつ、呪いを克服する手段を探しているというわけだ。理性的で悪くないけれど……」
リドルがダフネの杖を拾い上げた。
「それでも、落第だ。君は僕の駒たりえない。せっかくの獣だ、ハンティングといこうか。好きに逃げるといい。どこへ逃げようともバジリスクが君を追い立てる」
淡々と、しかし愉悦をにじませて、リドルは一言蛇語で何かを叫んだ。
言葉がわからなくとも、リドルがバジリスクに何を命じたのかは察せられる。
殺せ。
その猛威から逃れるべく、ダフネは決死の覚悟で走りはじめた。
「絶望の悲鳴が楽しみだ」
ダフネは逃げる気などなかった。
パイプを通して声が聞こえる。ハリーがロックハートを伴ってこの秘密の部屋へ降りようとしているのだ。それならば、ダフネがすべきことは逃走ではない。
石畳の上をバジリスクが滑る音が響く。振り返ることはできない。
トム・リドルがここにいる。つまり、日記帳がこの空間のどこかにある。リドルには分霊箱の隠し場所を自らにちなんだ場所にしたがる悪い癖があった。
ダフネはサラザール・スリザリンの石像を登り、その口へと飛び込んだ。
「ッ、待て!」
暗闇の中で、ダフネは蛇の抜け殻に包まれた一冊の日記帳を掘り出した。そして、それを咥え、
直後、バジリスクの尾がダフネのいた場所を叩きつけた。
バジリスクは強力で恐ろしい魔法生物だ。邪視には即死の力があり、牙の猛毒は並大抵の魔法では解毒できず、その体躯は大半の呪文を弾く。
しかし、
ダフネは今や、一羽の大鴉だった。ニコラス・フラメルの中和剤がダフネに飛び立つ力をくれた。
翼が湿った風を切る音がした。スリザリンの石像の奥に広がっていた空間を抜け、パイプの迷路へと飛び込んだ。
「……いいだろう、僕を本気にさせたな」
壁の向こうでリドルが何事かを蛇語で叫ぶと、バジリスクは歓喜するように鋭い鳴き声を上げた。バジリスクが喜ぶであろう命令――恐らくは、捕食。
一瞬たりとも気を緩めることはできなかった。
パイプの中を飛ぶのは至難の業だった。しかし、翼を畳めば、背後に迫るバジリスクに食べられてしまうだろう。それだけは避けなければならない。
日記帳をバジリスクの口に放り込んでやろうかとも考えたが、それで無傷のまま呑み込まれてしまったら回収が面倒なことになる。この日記帳だけは無事に破壊しないといけないのだ。
長く伸びたパイプを通して、ハリーとロックハートがリドルと対面した声が聞こえる。
ダフネはパイプの分岐をいくつも渡り、バジリスクをできるだけ遠ざけることに集中した。想定していたよりリドルの幻影は強力だった。バジリスクと同時に相手するべきではない。
曲がり、下り、上がり、再び曲がり、そして。
「――サラザール・スリザリン、偉大な先祖……彼の名を有効活用させてもらおう。ホグワーツは生まれ変わる。ヴォルデモート卿の庭、忠実なる者の牧場に」
大鴉の姿のまま、ダフネは笑った。
どうやらリドルはもう勝ったつもりでいるようだ。それはそうだろう。落第教師がひとり、子どもがひとり、出来損ないの獣が一匹。これで勝てると思うほうがどうかしている。
ダフネは転身し、目を閉じたままバジリスクの頭上を抜けた。
確かにホグワーツの下水管は太い。検知不可能拡大呪文によって拡張されたそれは、バジリスクが這い回ることを可能にするほどの太さを有している。
しかし、
ダフネはバジリスクの鱗の上を急降下し、暴れる尾を避け、再び秘密の部屋へと舞い降りた。
「――生憎ですけれど」
変身を解く。
全身を硬直させられたハリーと、人形に変身させられたロックハート。条件はあまりにも不平等だが、それでもダフネには勝ち筋が見えている。
「魔法界の行く先については私が先約を入れていますの。あなたはお呼びじゃなくってよ、トム・リドル」
ハリーを、自らを鼓舞するように。
ダフネは笑いながら、リドルを睨んだ。