ダフネが生きていた。
それだけでハリーの心には消えかかっていた勇気の火が灯った。今ならどんな敵にも負けない気がした。
人形と化したロックハートの手からダフネが素早く杖を抜き取り、一振りした。すると、ハリーの全身にかかっていた硬直は消え、同時に湿った床の冷たさが肌に戻ってきた。
「立てますかしら、ハリー」
「うん、ありがとうダフネ」
ゆったりとした、大げさな拍手が響いた。
リドルが嘲るような笑みを浮かべてこちらを見ていた。なぜだか、その表情はこれまで彼が見せたものの中で一番人間らしかった。
「英雄と、献身の乙女。まるで物語のようだ。しかし、ここからどうする? 子ども二人が手を取り合えば生きていけるほど、この物語は優しくないぞ!」
しかし、ハリーの助けに現れたのはダフネだけではなかった。
大きな翼が優しく風を打つ音とともに、美しい歌が響いた。
顔を上げると、夕日よりも鮮やかな真紅の美しい鳥が頭上を舞っていた。金色の長い尾が火の粉を散らしながら揺れ、その鉤爪は何か茶色の荷物を抱えていた。
「あれは……」
「不死鳥ですわ、ハリー」
不死鳥。ハリーは教科書の記述を思い出した。
身体が衰えると燃え上がり、雛となって蘇る大変長寿な生き物だ。不死鳥の歌は魔力を持ち、心正しき者にはますます勇気を与え、悪しき者の心を恐怖に陥れると言われる。
その不死鳥が、ハリーに何かを落とした。
「これ……組分け帽子?」
ハリーはおずおずとその古びた帽子を広げた。
「ハッ……何かと思えば、ボロ帽子に歌い鳥と来た! ダンブルドアが君に寄越したのはたったそれだけか!」
「ええ、でもちっぽけなあなたを倒すには十分じゃなくて?」
ダフネが勇ましく笑うと、リドルの笑みは引きつった。
どうやら、不死鳥の歌声が彼に苦しみを与えているようだ。しかも、それは並大抵の苦しみではなかった。彼の表情は歪み、うっすらと輪郭がぼやけはじめていた。
「その勇気がどこまで持つかな――来い! 殺せ!」
「ダフネ、目を閉じて!」
「その必要はありませんわ……トム・リドル!」
ダフネは杖を大きく振り上げた。
「鏡像自己認知テストってご存知かしら。鏡に映った自分の姿を自分の鏡像だとわかるかの認知テストですけれど……面白い命題だと思いませんこと?
「ッ、目を閉じろ!」
「
そして、呪文が完成した。
石畳も、像も、水面すら、全てが鏡になった。ハリーはまるでミラーハウスか万華鏡の中にでも放り込まれたような気分になった。
その中で、水面から顔を出したバジリスクが苦悶の声を上げていた。ハリーにはその声が、自らの邪視に睨まれたことによる苦痛だとすぐにわかった。しばらく目を開けることはできないだろう。
リドルは動揺していた。のたうち回るバジリスクを見上げながら、彼は立ち尽くしていた。
そして、ハリーはその隙を見逃さなかった。
「
「しまっ……」
「ダフネ!」
ハリーが奪った杖を投げ渡すと、ダフネは杖を受け取って頷いた。
「さあ、形勢逆転ですわね。目を開けられないバジリスクと杖を持たない影法師。おまけに、こちらには
「それを返せ」
「あら、闇の帝王を自称するには少し情けないお顔でしてよ。そんなに大事かしら、この
ダフネは挑発するように鼻で笑い、日記帳の表紙を杖先で撫でた。
舌打ちとともに、リドルはダフネを睨みつけた。ハリーにはよくわからないが、どうやらこの日記帳がリドルにとっての要なようだった。
「……だが、君たちにそれを壊す手段はない」
「千日手とでもおっしゃりたいの?」
「千日手? まさか。バジリスクにはまだ強靭な肉体と鋭い毒牙がある! においで追え!」
バジリスクを倒さなければ。
ハリーはダフネの手を引いて走りながら考えた。この状況を解決する手段は何だ?
その時、脇に抱えた組分け帽子がずっしりと重くなるのを感じた。視線をやると、被り口の中に何か輝く銀色のものが見えた。
ハリーは咄嗟に杖をポケットに放り込み、手を帽子の中に突っ込んだ。
次の瞬間、ハリーは剣を構えていた。
「馬鹿な……!」
「ダフネ、これって!」
「ゴブリン銀の刃にルビーの柄、ゴドリック・グリフィンドールの剣ですわ!」
グリフィンドールの剣が何かはわからないが、少なくともこれが剣であることは確かだ。ハリーはダフネの手を離して振り返り、バジリスクを睨みつけた。
バジリスクは魔法すら弾く堅牢な鱗で守られている。しかし――
「殺せ!」
「動くな!」
矛盾する命令に、バジリスクの動きが一瞬止まる。
リドルが唖然とした表情で固まった。
ずっと考えていたのだ。バジリスクがパーセルマウスであるトム・リドルの命令に従うのなら、
そして、作戦は成功した。
「今ですわ、ハリー!」
万華鏡を覗くように、何十匹ものバジリスクが迫ってきている。
その中の一匹、ただ一匹の本物。獣の死臭と下水道の臭いを纏ったそれにハリーは狙いを定めた。
牙を剥いて大きく口を開いたバジリスクの口内。その無防備な粘膜に向けて、ハリーはグリフィンドールの剣で突きを放った。
「よせ!」
リドルの悲鳴が響いた。
突き刺さった剣に、ダフネが手を添えた。言葉がなくとも、もはや何をすべきかはわかりきっていた。ハリーはダフネと共に剣を押し込み、バジリスクの脳天を貫いた。
バジリスクは一瞬びくりと身体を震わせた後、その肉体を弛緩させた。
死んだのだ。
倒れゆくバジリスクに潰されないようにハリーが飛び退くと、剣を引き抜いた傷口から黒くどろっとした血が噴き出した。
「おのれ……!」
リドルは指をハリーに向けながら何かを唱えようとしていたが、それよりもダフネの行動のほうが早かった。
日記帳を地面に放り出す。
目配せを受けて、ハリーはすぐさまその日記帳に刃を突き立てた。
鋭い刃が、深く、深く日記帳を突き刺した。バジリスクの傷口から噴き出したものよりも遥かに濁った、インクのような色の生臭い血が溢れ出した。
それが最後だった。断末魔と共にリドルは消え失せ、バジリスクの死骸と穴の空いた日記帳、それを乱反射させる鏡だけが後に残った。
「……終わったの?」
あっけない結末に、ハリーは思わずそうこぼした。
「ええ。お疲れ様でした、ハリー」
「なんていうか……すごく疲れたよ」
ハリーは座り込んで、あたりを見渡した。
少し混沌としていた。そこら中が鏡張りになっているせいで、何人ものハリーが鏡の上に腰掛けていた。その中にダフネが下から映っている鏡を見つけて、ハリーは慌てて目を逸らした。
「ちょっと疲れますわね、この景色」
「解除しないの?」
「本気でかけちゃいましたもの、すぐには無理ですわ。マクゴナガル先生にお任せしましょう。……はあーあ、私もくたくたですわ」
ダフネが鏡張りの地面に腰を下ろし、ハリーに寄りかかった。
「助けに来てくれたのですよね。ありがとうございます、ハリー」
「ううん、こちらこそ助けてくれてありがとう。……ロックハート、どうすればいいのかな」
操り人形に変えられたロックハートは、今や力なく床に崩れ落ちていた。無理もないだろう、変身させたリドルが消えてしまったのだから。
彼が詐欺師だったことはリドルから聞かされた。しかし、ここに放り出していくわけにはいかない。しっかりと罪を償わせるべきだ。
ダフネは困ったように息を吐いて、小さく首を振った。
「先生方になら治せるでしょう。だめでも聖マンゴがありますわ」
「聖マンゴ?」
「魔法界の病院です。魔法の傷や病気を診るのが専門で、重い呪いにかかった人はそこに運ばれますのよ」
緊張が解けた疲労感で考えがまとまらず、ハリーは曖昧に相槌を打った。
隣に座るダフネから伝わる温かい鼓動が心地良い。
勝ったのだ。ダフネを助け、バジリスクを倒し、1年を通してホグワーツを暗闇に閉じ込めた黒幕すら滅ぼした。
しかし、謎もあった。
「……君の呪いは、そこで治らないの?」
問いかけてから、ハリーは後悔した。
硬直させられたハリーの前に舞い降りた、美しい大鴉の姿。あれは間違いなく、ダフネから聞かされていた血の呪いによるものだ。
病院にかかるくらいのことをダフネが試していないとは思えない。失礼なことを言って傷つけたかもしれない。
ダフネは小さく笑って首を振った。
「あそこに行くの、あまり得意ではなくて。行くと必ずと言っていいほど主治医に隔離病棟への入院を提案されるんですの」
「入院……それはなんだか、嫌だな」
「ええ。……驚きました? 私の変身」
ダフネの声は少しだけ強張っていた。
確かに驚かされた。マクゴナガルが猫に変身するときのように、大鴉として現れたダフネがするりと人の姿に戻ったとき、ハリーは声を上げそうになった。いや、魔法で硬直させられていなければ声を上げていただろう。
不思議と正直に言う気にはなれなかった。彼女にとってきっと、血の呪いによる変身はよくないものなのだ。だから、それを肯定するような言い方も、かといって否定するような言い方も躊躇われた。
上手く言葉がまとまらない。
「私はね、驚きましたわ。……思ったより、自分の翼で飛ぶのって気持ちいいんですのね」
わざと明るく振る舞っているのだな、とハリーにはなんとなく察せられた。
その証拠に、ハリーのローブの縁を掴むダフネの手はかすかに震えていた。何かに怯えているダフネを見るのは、これが初めてだった。
「なんて言えばいいか、わからないけど」
ハリーはダフネの手に手を添えて、元の綺麗な、若葉色よりも幾分深いグリーンの瞳を覗き込んだ。
「君の変身のおかげで、僕は助けられたよ。それは間違いないと思う」
「……ふふ、そうですわね。たっぷり敬ってくださるかしら? 命の恩人でしてよ」
「えっ……じゃあ、僕も敬ってくれる? 僕だってダフネを助けたよ」
「お互いに敬って、感謝して。……そうやって生きていけたら、幸せですわね」
ダフネは大きく息を吐いて、鏡張りの床に寝転がった。
彼女の柔らかな頬が鏡にぴとりと貼り付いている。その表情は柔らかで、先程までダフネが思い悩んでいた何かは多少なりとも軽くはなったのだろうということを感じさせた。
不死鳥がダフネのそばに舞い降りてきて、朝陽色の嘴をダフネに擦り付けた。
「わっ、ちょっと」
「じゃれてるみたいだね」
「もう、ソテーにして食べちゃいますわよ」
そう冗談めかしながらもダフネは寝転がったまま指先で不死鳥をあやした。
ハリーはふと、転がしたままだったグリフィンドールの剣に目をやった。いつの間にか剣にまとわりついていた黒い粘液は消え、銀の刀身が鏡の上で光を受けてキラキラと輝いていた。
「あの剣、どうすればいいかな」
「ゴブリンが鍛えた剣ですし、グリンゴッツに返すのが一番いいでしょう。必要なときにまた借りれば大丈夫ですわ」
「もう二度と必要な時なんて来てほしくないけどね」
「仰るとおりですわ。……さて」
ダフネは体を起こして立ち上がり、大きく伸びをした。
「不死鳥さん、上へ連れて行ってくださる? この馬鹿げた事件を終わりにしましょう」
不死鳥が返事をするように鳴いた。
それから、ハリーとダフネは日記帳、剣、そして人形になったロックハートを手に、不死鳥に掴まってパイプを上がった。ホグワーツは静まり返っていた。まるで夜明けを待っているようだ、とハリーは感じた。