こうして、秘密の部屋にまつわる事件は終わった。
日記帳は破壊され、バジリスクは死に、石になった生徒たちは息を吹き返した。ダンブルドアは今夜各寮の門限を設けないことを決め、ご馳走を囲んで夜通しの祝祭を開くことを認めた。
しかし、ダフネの勝負はこれからだった。
「――おじさま」
息を切らして歩くルシウスの前に、ダフネは現れた。
絵画も祝祭に向かった今、誰もダフネとルシウスのことを見ていなかった。静まり返った校舎の中で、ルシウスは行く手を阻まれて立ち尽くしていた。
屋敷しもべ妖精を奪われた今、彼は馬車が入り込めるところまで徒歩で出ていくより他なかった。屈辱だろう。理事の任は剥奪されないだろうが、それでも彼の名誉は傷ついた。
獣のような鋭い眼光がダフネを貫いた。
しかし、獣なのはこちらも同じだ。
「お疲れのようですわね」
「……どこへなりとも帰れ。今は子どもの相手をする気分ではない」
「約束を果たしに来ました。あなたに絶望を届けに」
ダフネが微笑むと、ルシウスの右手が小さく震えた。
杖腕を震えさせるほどに怒り心頭になりながら、それでもルシウスはダフネの言葉に耳を傾けた。万が一にもこれ以上の敗北があってはならないと、彼の理性が音を立てて唸っていた。
「いつもながら見事な立ち回りですわね。ダンブルドアの更迭は理事会の多数決の結果。おじさまは手を汚さず、自らも反対派であることを示しながらあと一歩のところまでダンブルドアを追い詰めた」
「人聞きの悪い」
「しかし、その計画は頓挫した。小さな、普通の男の子の手によって。ハリー・ポッター……運命的だと思いませんこと? その日記帳に引き寄せられるように、ハリーは戦い、そして勝利を収めた」
ルシウスが懐の日記帳を隠すようにローブで身を包んだ。その姿はまるでマグルが思い浮かべる高貴な吸血鬼のようだった。
しかし、彼の表情にはもはや余裕はなかった。ダンブルドアはもはやルシウスに次の機会を与えないだろう。この失敗は彼にとって致命傷とはなりえないが、それでもマルフォイ家の繁栄には不利な傷だった。
そして、彼を睨むのはダンブルドアだけではない。
「もうお気づきでしょうが、その日記帳はただの魔法の学用品ではありません。トム・マールヴォロ・リドルの一部が収められていました」
「そして、それが破壊された。喜ばしいことだな?」
「ええ、とても。しかし、この世にはそれを喜ばない者もいるようですわね」
ルシウスはせせら笑った。
「信奉者たちか? 馬鹿馬鹿しい。熱心な信奉者たちは皆アズカバンに送られた!」
「仰るとおりですわ。でも――本人はそうではない」
「……本人?」
馬鹿馬鹿しいと言いたげに笑おうとしていた。
それでも、彼の青ざめた頬は引きつっていた。白みがかったブロンドが汗で張り付いたその頬は、現実を受け入れまいと抗っていた。
「不思議に思いませんでしたか? なぜヴォルデモートは自らの不滅を確信していたのか」
「闇の帝王には遠大なお考えがおありだった。そしてその力もまた、死の彼方まで及んだ」
「詩的ですわね。しかし、事実はそうではない」
ダフネがルシウスの懐を指し示すと、ルシウスは杖腕をより一層震わせた。
「その日記帳に封じられていたのは、トム・リドルの魂の断片。封じる魔術の名を、こう言うそうですわ――ホークラックス、分霊箱と」
「……馬鹿な、そのようなことは一度も」
「教えられなかった? 当たり前でしょう。健康の秘訣とはわけが違うのですよ。トム・リドルの――ヴォルデモートの不死の秘訣なのですから」
ヴォルデモートは生きている。
闇に深く通じたルシウスだ。術の名を聞けば、すぐに察することだろう。
そして、その思考はすぐにその先へと結びつく。分霊箱を作ったことがなくとも、深い闇を知る者ならその術の働き程度はしっているだろう。
すなわち、こうだ。
今初めて、ルシウスはヴォルデモートの生存を確信させられた。
「あなたがしたこと、それはハリーに分霊箱を破壊させる補助をしたこと」
「黙れ……」
「ヴォルデモート卿はお喜びになることでしょう。側近であったあなたは見事社会復帰を果たし、正義と秩序に属する者として働いているわけです」
「黙れ……!」
「実は、昨年は直接ホグワーツまでいらしたんですのよ。世間的にはクィレル先生は悪霊に取り憑かれていたことになっていますが、その悪霊がなんだったかは……もうお話せずともわかりますわよね」
「黙れッ!」
ルシウスが杖を抜き、ダフネの喉に突きつけた。
汗が伝う。
ひりひりと、焼けるような感触が皮膚に走る。
それでも、ダフネは腕を広げて笑った。ダフネを殺したところでルシウスが犯した失態は消えない。
「おめでとう! ルシウス・マルフォイ! あなたは今や、ヴォルデモートの敵よ!」
ルシウスは杖を下ろし、左腕で頭を抱えた。
よろよろと後退する姿は、いっそ哀れなほど悲劇的だった。その美貌は恐怖と苦痛に歪み、10歳は老いたのではないかというほど深い皺が刻まれていた。
「ありえない……! そんなことが、ありえてたまるか!」
「ええ、わかりますわ。ドラコは育ち盛り。ナルシッサ様もいる。そんな中、ヴォルデモートを敵に回したあなたに何ができるでしょう? 裏切り者のルシウス・マルフォイが生きていく道は一体どこに?」
ルシウスの杖腕に、ダフネはそっと腕を絡めた。
哀れな人だ。ルシウスから見れば、ダンブルドアに勝ち筋などなかった。日記帳という特定されにくい犯人。たとえ日記帳が発見されたとして、どうやって犯行を証明できるのか。さらに言えば、証明したところで何になるのか。
それなのに、ただの子どもによってルシウスの計画は崩壊した。ハリー・ポッターなどという平凡でごく普通の子どもによって、ルシウスは全てを台無しにされたのだ。
その結末が、ここにある。
「私の右腕になってくださいな、ルシウス・マルフォイ。そうすれば、あなたを助けてあげますわ」
「……お前のような小娘に、何ができる」
「さて、何ができるでしょうか。ちっぽけな私は他の分霊箱を1つ入手しました。もう1つ失われた品を追跡させているところです。加えて、分霊箱の専門家との伝手も得ていますわ」
ルシウスが息を呑んだ。
「最初から……最初からわかっていたと?」
「私、ちょっとだけ物知りなんですのよ」
「馬鹿な……ありえない! あれを、闇の深奥を一体どこで……それ以前に、日記帳のことを一体いつの間に……」
「重要なのはいつ、どこでではなく、どうしてです。……おじさま、こう思ったことはありませんか。ヴォルデモートは純血社会の守護者足りえないと。彼は純血を都合のいい旗に使っているだけで、彼自身は純血ではないのだから」
ルシウスが恐れおののくかのように身を震わせ、ダフネを振りほどいた。
彼は純血至上主義者だ。マグル生まれを誰よりも嫌っている。ジニー・ウィーズリーに狙いをつけたのは、アーサーのマグル保護法を潰すためだ。ルシウスの個人的な嗜好がこの計画を失敗に導いた。
それほどまでの純血至上主義者が、果たして一度もヴォルデモートに疑問を抱かなかったなどということがあるだろうか?
「ええ、ヴォルデモートは便利な暴力装置だったでしょう。好き放題させておくだけでマグルとマグル生まれ、融和派を虐殺してくれる。あなたは理想の棍棒を得たわけですわね」
「私は……私はそんな……」
「取り繕わなくても結構ですわ。でも、あなたは怠惰だった。ルシウスおじさま、あなたの最大の敗因はその情けない怠惰ですわ。暗闘を闇の力という棍棒に任せ、陰謀家としての責務を怠ったツケが回ってきた」
ルシウスは拒むように頭を振った。
マルフォイ家は暗闘に長けた政治家の一族だ。本音と建前を上手に使い分けている。純血至上主義を掲げながらも自らの繁栄のために密かにマグル生まれや半純血の血を取り入れてきた。
その中にあって、ルシウスはまだ実力を発揮していない。ヴォルデモートという邪悪なゆりかごのなかでぬくぬく育った赤子だ。
ルシウスがひとり立ちする日が来た。
「ルシウスおじさま。あなたはヴォルデモートに恐怖している。違いますかしら? だから失望しても彼のそばを離れられなかった。あなたは生半可な裏切りは死を意味すると理解していた」
「……君に寝返れば安全だと言いたいのか?」
「まさか。私は無力なかよわい乙女ですわ。でも……」
ダフネはヴォルデモートには勝てない。
それは純然たる事実だ。ダフネには決闘のセンスもない、ここぞという時の冴えた判断もない、体力もろくにありはしない。ルシウスを守り切ることなど到底できはしない。
しかし。しかしだ。
「私なら、純血のために戦える。純血社会を救う本当のリーダーになってみせる。そして、あなたはその最高の宰相になるのですよ。ワクワクしてきませんか、おじさま」
「……馬鹿げたことを言うな。君が闇の帝王に勝てるわけがない。我々は破滅する!」
ルシウスは怯えるように、渋るように視線を迷わせた。
それはそうだ。まだこれでは決定打が足りない。ルシウスがヴォルデモートを裏切る理由ができたとしても、ダフネに寝返る理由にはならない。たかが口約束の賭けひとつで覆るほど、ルシウス・マルフォイは簡単な男ではない。
「よくってよ。チャンスをあげます」
「チャンス?」
「この夏、私と一緒にギリシャ旅行に参りましょう。あなたに会わせたい人がいるんですの。ずっと探していたんですのよ、もう本当に大変でしたわ」
怪訝そうに眉を曲げたルシウスの、懐を指差す。
その名を聞いて、ルシウスは驚愕に思わずといった様子で声を上げた。
「
ルシウスは項垂れて、大きく息を吐いた。
「……本気なのだな」
「ええ」
「本当に、闇の帝王を弑逆せしめるつもりなのだな」
「算段はついていますわ」
「純血の……真の魔法界のために戦うと、そう言ったな」
「ええ。大きな泥舟と、好みの小舟。少し窮屈かもしれませんけれど……私のほうに賭けてみませんか」
ダフネがゆったりと頷くと、ルシウスはダフネを見下ろして、しばらく沈黙した。
あまりにも複雑な目をしていた。冷たい灰色の瞳に、打算と、熱意と、恐怖が混在していた。
「覚悟を決めなさいな、ルシウス・マルフォイ。どうせ裏切るはめになったのです、潔く打たないとこの博打には勝てませんわよ」
ややあって、ルシウスはまた大きく息を吐いた。
「いいだろう、私の負けだ」
「では、協力してくださいますわね?」
「それはギリシャ行きの後だ」
「おじさまのいじわる。私、これでも結構急いでますのよ?」
ルシウスは笑みを浮かべてみせたが、まだその笑みは引きつっていた。
「目下の目標は」
「確保してほしい人材がいます。バーテミウス・クラウチ・シニア。詳細は追って伝えますが、彼には致命的な弱点がある。弱点の突き方は任せますが、彼が自分から協力できるようにしてくださいな」
「少し遠回りすることになるが」
「構いませんわ。そこを落とせれば、あなたを信じることにいたしますわ」
少し考えるように首をひねって、ルシウスは垂れた前髪を払った。
ようやく彼の表情に余裕が戻りはじめた。まだ絶望は色濃く彼の瞳に残っていたが、それでも彼は少しずつ前進する覚悟を決めはじめていた。
ルシウスは決して弱い男ではない。
絶望はする。怒りもする。しかし、その先にあるものを決して見逃さない。そうしてマルフォイ家は生き残ってきたのだから。
「よろしくお願いいたしますわ、おじさま」
「言っただろう、それはギリシャ行きの後だ。しかし……いいだろう、君には賭けるだけの価値があるようだ」
ルシウスは何かを懐かしむようにダフネを眺めて、それから小さく頷いた。
「帰るとしよう。理事たちにダンブルドアの復帰を認めさせねばならん」
「大仕事ですわね」
「それから、君の提案についてじっくり検討しておくこととする。……夏休み前にスケジュールを送る。運輸部の友人に暖炉を押さえさせよう」
「ご配慮痛み入りますわ」
そして、ルシウスは帰っていった。
ダフネは半ば燃え尽きたような気分で柱に背中を預け、崩れ落ちた。大理石の石柱が背中に心地よい冷たさを与えてくれた。
打てる手は打った。
ルシウスを味方に引き込めば、社交界での立ち回りは大きく変化する。特にデメテル・ザビニや魔法省、ウィゼンガモットの関係ではできることが一気に増えるだろう。
まだルシウスが味方と確定したわけではない。口約束の賭けを守るほど律儀な男ではない。しかし、ダフネは彼に示せるだけのものを示した。あとは彼がどう傾くかだ。
「めでたし、めでたし」