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美しい屋敷に相応しい、優雅な夜だった。
たっぷりのブランデーが注がれたグラスが、ふたりの手元にあった。しかし、ふたりともそれに口をつけようとはしなかった。酔って話ができるほど生半可な相手ではないことを理解しているからだ。
「んー、いい香り。どこの酒造だったかしら?」
「オランダよ。グラスもローカントリーのもので合わせてみたの。エングレーヴが素敵でしょう?」
「ええ、素敵だこと! 父がわたくしの幼い頃にウォルシュ・ウォルシュのグラスを傾けて味見させてくれたのを思い出しますわ」
デメテルは彼女の父がただの清掃員であり、ジョン・ウォルシュ・ウォルシュなどという高級品を手にすることはまず叶わないことを知っていた。最近になって彼女が家宝のカットグラスを
しかし、デメテルは何も言わなかった。彼女の過去、とりわけ家族について言及した者はウィゼンガモットの評議員であろうと不都合に見舞われている。
たとえ協力者であろうと、自分の汚点を表立って指摘するような愚か者には躊躇せず制裁を加える。そうしても問題ないだけのコネを有し、反撃を完璧に封じるほどに人の弱点を見つけるのが上手い。
本質的には、彼女は誰の味方でもない。
それが彼女――ドローレス・アンブリッジの恐ろしさだ。
「それで?」
「それでとは」
「焦らさないでくださいな、デメテル。素敵なお話があるのでしょう? そうでなければ、こんな夜遅くにわたくしを呼びつけることなんてないはずだわ、そうでしょう?」
「ええ、そうね。実は、ある場所に協力者を送り込めるかもしれないの……ホグワーツよ」
アンブリッジはニンマリと笑って目を見開いた。
ホグワーツ。その城は物理的にも、精神的にも、そして政治的にも難攻不落の要塞だった。今まで数多あふれる魔法使いや魔女がホグワーツの征服を試みたが、誰一人として成功しなかった。
そして、大胆にも、アンブリッジはホグワーツに挑もうとしている。
デメテルは彼女の挑戦を支援するつもりでいた。とはいえ、本気で協力するほどデメテルも愚かではない。万が一にもアンブリッジが成功した際に甘い蜜を啜れるだけの恩を売っておく、それだけだ。
そして、その恩として扱うのに十分な足がかりをデメテルは発見した。
「あら、あら、あら! それは本当に素敵ですこと! どのような方なの?」
「貧しいけれど、魔法の腕は確かな殿方よ。ダンブルドアの推薦でね、闇の魔術に対する防衛術の教授になることが内定しているの」
「ふうん……」
推薦者の名前を聞いて、アンブリッジは少しだけ関心が薄れたような反応を返した。
ダンブルドアが後ろ盾になっている人物に介入するのは難しい。デメテルも何年か前にハリー・ポッターという孤児を絡め取ることができないか苦心したが、ダンブルドアの護りは完璧だった。
しかし、今回に限って言えば、ダンブルドアにも庇いきれない失点がある。
「その方の来歴について少し調べてみたの。これよ」
デメテルが差し出した書類を受け取って、アンブリッジはページを捲るために指を舐めた。
「リーマス・ルーピン……聞かない名前ね」
「要職に就いたことはないし、出版歴もないもの。ここしばらくはマグルの日雇い仕事で食いつないでいたそうよ」
「へえ……闇の魔術に対する防衛術の教授に相応しいと言えるほど冴えたところのある方とは思えないけれど……」
腐っても大臣室の役人ということだろうか、アンブリッジは素早く書類に目を通し、最後のページに進んだ。
そこにデメテルが彼に目をつけた理由がある。
リーマスの父、ライアル・ルーピンが魔法法執行部にある陳情をした時の記録だ。記録によれば、ルーピン家はフェンリール・グレイバックという悪辣な人狼によって「手痛い損害」を被ったということになっている。
人狼がもたらす損害とは2つある。
死と、感染だ。
そして、リーマス・ルーピンという少年は生き延びた。答えはひとつに絞られる。
「……なるほど。あなたが目をつけた理由がよーくわかりましたわ」
「素敵な協力者になってくれそうでしょう?」
デメテルが笑うと、アンブリッジは書類をテーブルの上に置きながら邪悪な笑みを浮かべた。
そう、正確にはデメテルは協力者を送り込むのではない。人狼でありながら教師になろうとしている哀れな存在を「後援」しようとしているのだ。
「ドローレス、狼人間登録室にお友達は?」
「いないこともないわ。ええ、わかった、うまくやりましょう。わたくしが鞭、あなたが飴」
「辛い役回りを任せてしまってごめんなさいね、ドローレス」
「いいえ、いいえ! あなたには沢山助けられているもの、デメテル」
二人は笑みを交わしたが、ブランデーは一滴も減っていなかった。
リーマス・ルーピンを手駒にする。
デメテルはリーマスという男についてはさほど詳しくなかったが、人狼に言うことを聞かせるコツは弁えていた。真っ当に生きようとしている人狼は特に扱いが簡単だ。
アンブリッジが人狼にとって不利な法案で圧力をかける。魔法界で人狼を恐れない者などいはしない。多少人狼への締め付けを強めるくらいのことは、アンブリッジにとってはたやすいことだろう。
そして、弱ったリーマスにデメテルが毒を吹き込む。デメテルは人狼に手を差し伸べるチャリティ・キャンペーンを幾度となく主催している。それゆえに表向きアンブリッジとデメテルは対立しており、誰もデメテルの意図を疑うことはない。
あとは放っておいても勝手に近況を報告してくるようになる。窮状を報告すればガリオン金貨を恵んでもらえると理解するからだ。それよりもはるかに価値のある情報を抜かれているとも知らずに。
助けを求める弱者ほど自らの価値を理解していない者はいない。
「ホグワーツを攻略できれば、私達にはもっとできることが増えるわね、ドローレス」
「ええ、楽しみですこと。わたくし、理事会の皆様ともお友達になりたいわ。これからの魔法界はホグワーツと魔法省がしっかりと連携を取っていくことになるわね」
理事会は事実上のマルフォイ閥に独占されている。
人事の承認権、予算の確保など、理事会の権限は見た目よりも大きい。校長の権限が絶大なホグワーツであっても、理事会の存在は無視できない。その理事会がルシウス・マルフォイの手にあるのは、デメテルにとってこの上なく腹立たしいことだった。
しかし、理事会はホグワーツの関係者――生徒、教員、保護者の要請を受けて動く機関であり、下からの突き上げにめっぽう弱い。
そして、その
「もし、ホグワーツが魔法省に屈したら……」
「ェヘン、ェヘン。人聞きの悪いことを言わないでちょうだいな、デメテル。わたくし達は魔法界の未来のためにホグワーツとのよりよい関係を模索している、そうでしょう?」
「そう、そうだったわね。それが叶った暁には……あなたはどんなことをしたい?」
アンブリッジは短い指を頬に当てて、考え込むような素振りを見せた。
しかし、内心ではすでに彼女がやりたいことは定まっていたのだろう。さほど時間を置かず、アンブリッジは答えを語りはじめた。
「ホグワーツは……特に昨今のホグワーツは、悪習に絡め取られているように思えてなりませんの。その蔦を相応しい形に剪定する作業が、何よりも子どもたちのために大切だと思いませんかしら」
「ええ、そうね、わかるわ」
デメテルは相槌を打つに留めた。
ホグワーツの出身でないデメテルにとって、ホグワーツという魔法学校のあり方は理解しがたいものだった。行政と連携せず、俗世間の影響力を無視し、象牙の塔として屹立しながらも最高学府として学閥を構成する。
ホグワーツとは混沌なのだ。集団でありながら孤立している。孤立していながら連帯している。その外側にいるデメテルにとって、認め難いことではあるが、ホグワーツとは恐怖だった。
だから、アンブリッジがそのホグワーツに大鉈を振るってくれるというのであれば、デメテルとしてはこの上なく都合がよかった。
「それに、一部の方にばかり負担がかかっている現状はわたくし好ましくないと思いますの。たとえばそう、マルフォイ理事やダンブルドア校長……」
つまり、アンブリッジの躍進を阻む人々だ。
ダンブルドアは表立ってアンブリッジとやりあっているわけではない。所詮は大臣室の小役人と放置されてすらいる。しかし、ダンブルドアのシンパは決してアンブリッジの懐柔に応じない。
そして、ルシウスは対立こそしないものの遠回りなやり方でアンブリッジを牽制し続けている。純血至上主義者のルシウスからすれば個人利益のために政治活動をするアンブリッジなど唾棄すべき存在なのだろう。
ホグワーツを奪えば、このふたりの権力は少なからず揺らぐ。
「あなたの意見も聞きたいわ、デメテル」
「私? そうねえ」
ブランデーを注いだグラスを揺らす。燭台の青い火に照らされて、琥珀色の液体が滑らかに揺れている。
しばらくもったいぶってから、デメテルはゆっくりと口を開いた。
「分断と競争。寮とその対抗は大人になっても対抗心の理由になっているような気がするの。もっと、色々な考えの生徒たちが手を取りあって生きていけるようにならないかしら」
「四寮制をやめるべきだとお考えなのね。面白いわ、デメテル。そんな考え、初めて聞きましたもの」
デメテルにとってホグワーツの改革は重要なことではない。
ただ、ホグワーツが生み出す学閥の強い結束、とりわけ同寮生への連帯感の強さはデメテルにとってしばしば障害となっていた。アンブリッジの改革に乗るのなら、ついでに改革しておくべき部分はそこだ。
寮による競争を奪えば、ホグワーツ生というアイデンティティは揺らぐ。結局のところ、競争が帰属意識を育てる。それならば、デメテルはホグワーツから競争を奪おう。
「素敵ですわ。ご子息も幾分やりたいことをやりやすくなるのではなくて?」
「そうねえ……」
グラスを揺らす。
ブレーズは最近反抗的になってきた。思春期だろうか。体つきが大人になって
「あの子、最近おかしいのよ。あなたがくれた金のカップ、覚えているかしら? あれが呪われているから手放せって言いはじめたの」
夏休み初日の夜のことだった。
妙に虫の居所が悪かったデメテルが気分を落ち着けるためにカップで水を飲もうとしていると、ブレーズが泣きながら縋り付いてきたのだ。
カップは呪われている、それで水を飲んではいけない。
そう泣き叫ぶブレーズを静かにさせるのに、デメテルはいくらか魔法を使う必要があった。今、ブレーズは地下で大人しくしているはずだ。
「まあ! そんなことがあるはずもありませんわ」
アンブリッジが眉をひそめた。
もちろん、アンブリッジはカップが呪われていることについて言っているのではない。自分はそのような悪事を働かない、善良で清い人間だと主張しているのだ。
デメテルは彼女の悪事について他人より多くの情報を得ている。狡猾なアンブリッジは証拠を残さないし、彼女を告発すればデメテルも道連れになるだろう。それでもドローレス・アンブリッジという魔女の悪辣さには時折身震いさせられる。
しかし、アンブリッジはいいビジネスパートナーだ。
アンブリッジが捨てた者をデメテルが拾い上げる。アンブリッジが空けた穴をデメテルが埋める。人を壊し、つなぎ、動かし、捨て、そうやってふたりは都合のいい絵を描き続けてきた。
「ええ、もちろんそうよ。あなたに限ってそんなことをするわけがない。そろそろあの子にもきついお仕置きが必要かしらね……」
デメテルは魔女だ。
弱者の味方であり、男と権力の敵。それは我が息子であっても変わらない。あまりにも反抗が過ぎるようなら、ブレーズには