その血は呪われている   作:海野波香

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 地中海に照る焼けるような日差しも、魔法薬の前には無力だった。

 ルシウスが手配したクルーザーはマルフォイ家の全員とグリーングラス家のふたりが乗ってもまだ余裕があるほどだった。日差しを嫌って早々に引っ込んだナルシッサは今頃船内で寛いでいる頃だろう。

 アステリアの首筋に乳白色のとろみのある日焼け止めを塗りなおしながら、ダフネは石灰色の細長いボトルを指先で揺らした。

 サニー・シェイディーの薬用日焼け止め。フリーモント・ポッターが発明した魔法薬である。

 

「んう……くすぐったいですよ、お姉様」

「我慢なさい、日焼けするとあとが辛いわよ。ドラコ、あなたも塗っておきなさいな」

「ふん、日焼け止めなんて軟弱だね。そうでしょう、父上」

「塗っておきなさい。日焼けであちこちを赤くして母さんの叱責を食らいたくはないだろう」

 

 ドラコは渋々といった様子で瓶を受け取り、面倒くさそうな顔をしながら雑に日焼け止めを塗りたくった。

 その様子にため息をついたルシウスはステッキを置き、ドラコから瓶を奪って自らの手でドラコに日焼け止めを塗りはじめた。

 

「じ、自分で塗れます」

「お前のは塗っているとは言わん、撒き散らしているというのだ。まったく……」

「――まったく、お前の小さい頃にそっくりだ、ルシウス」

 

 ギリシャワインを楽しみながら、老人――アブラクサス・マルフォイがカラカラと笑った。

 

「父上……ドラコの教育に悪い発言は謹んでいただくと先だってお約束したはずですが」

「どうやら、お前と儂の間には教育について些かの見解の相違があるらしいな。父に憧れるのは悪いことではあるまい。酒だってそうだ。来なさい、ドラコ。年齢を理由に避けるにはこのギリシャワインはあまりに見事が過ぎる」

「父上!」

 

 ルシウスが眉を吊り上げると、アブラクサスは「冗談だ、冗談」と笑ってみせた。

 車椅子の上で老眼鏡をかけ鼻歌を奏でる老人。確かにルシウスと同じ血の面影はあるが、ルシウスにはない人好きのする朗らかさのようなものを備えている。

 一見すると孫を溺愛し息子をからかう愉快な不良老人といった趣のアブラクサスだが、この風貌に騙されてはいけない。マルフォイ家の先代当主である彼は、お気楽な隠居貴族と侮ってかかってよい相手ではないのだ。

 

「しかし、代わり映えのない海の景色をつまみにひとり手酌で呑むのも楽しくはない。古の魔女キルケの歌声でも聞こえてくれば別だが。ダフネ嬢、よければ酌をしてくれるかな」

「もちろんですわ、アブラクサス様」

 

 ダフネがボトルを受け取ると、アブラクサスは柔らかな笑みを浮かべた。

 

「港で仕入れたときからこの瞬間を楽しみにしていた。このボトルは君にこそ酌をしてもらうべき運命にあった。ラベルを見なさい」

「……ふふ、なるほど。月桂樹というわけですわね」

 

 ラベルに白黒で刻まれた月桂樹を指でなぞる。

 ダフネの名はギリシャ神話から取られている。美しいニンフのダフネはアポロンに求婚され、それを拒んで月桂樹に変身した。アポロンはそこから月桂冠を作り、永遠の愛の象徴とした。

 グリーングラス家の長女はしばしばこういった変身にまつわる名を与えられる。それは過酷な運命に呪われる女児を産んでしまったことへの絶望であり、この名を最後に血の呪いが終焉を迎えることへの期待でもある。

 それを当然理解しているであろうアブラクサスは、微笑んだまま空のグラスを差し出した。

 

「順調かね、ダフネ嬢」

「ええ、万事がようやく追い風になってきたところですわ」

「それはいい。向かい風ではダイダロスも飛べなかっただろう。空を見よ! イカロスが堕ちたのも納得の日差しではないか!」

「ふふ」

 

 両腕を広げて芝居がかった口ぶりで語るアブラクサスは、一体ダフネの計画をどこまで知っているのだろうか。

 ダフネがアブラクサスの言葉に微笑みを返してワインを注いだ時、船室のドアが開かれた。

 

「あなた、そろそろランチにしませんこと? ラムチョップが焼き上がりましたわ」

 

 ナルシッサが船室のドアから日傘を差し、顔だけを出してルシウスを呼びつけた。

 

「そうか、ありがとう。ドラコ、食べすぎるんじゃないぞ。船酔いをしても魔法で助けてはやらんからな」

「せっかくギリシャに来たのに?」

「ギリシャ旅行の思い出が地中海に嘔吐する自分の姿で埋まってもいいというのなら、話は別だが。アステリアに手を貸してやりなさい、落ちるといけない」

「まったく……ほら」

「ありがとうございます、ドラコ兄様!」

 

 アステリアが一瞬心配そうに視線を投げてきたが、ダフネが笑みとともにボトルを軽く振ってみせると、安心したように頷いてドラコとともに船室へと入っていった。

 甲板にはアブラクサスとダフネだけが残された。

 

「車椅子をお押ししましょうかしら?」

「いや、結構。ノットに作らせたものだが、これが中々の逸品でな。思い描いただけで走ってくれるのだ。それより、もう一杯」

「いくら百薬の長と言えど、飲み過ぎは毒ですわよ」

「はは、手厳しいことを言う。君の凛々しさを見ていると妻の若い頃を思い出すよ。もちろん、褒めているのだぞ? この世で最も美しい女だった」

 

 アブラクサスはカラカラと笑って、グラスを揺らした。

 

「うちの倅が世話になったようだな。君は勝者だ。勝者に差し出された儂はさながらトロフィーと言ったところか」

「あら、トロフィー扱いするには些か価値が高すぎるのでは?」

「そうかね? 君には必要な価値だ。君はまだ既得権益に切り込む手段を有していないのだから」

 

 全く表情を変えず、朗らかな笑みを浮かべたまま、アブラクサスはそう語った。

 ダフネは背筋がぞっとするのを感じた。

 グラスを揺らし、ギリシャワインの香りを楽しみながら、アブラクサスはダフネの弱点を的確に指摘してみせた。ダフネの計画、持ちうる手札、それらを把握していなければできない発言だ。

 

「魔法省、ウィゼンガモット、国際魔法使い連盟。君の目的を考えれば、まあ最後のひとつは後回しにしても構うまい。しかし、魔法省とウィゼンガモットに関して言えば、何か手を考える必要がある」

「……なるほど。ルシウスおじさまからのちょっと意地悪なご褒美というわけですわね?」

「左様。倅から最後に一仕事してくれと頼まれた。随分な言い草だと思わないか? 隠居老人をこき使うにしたってもう少し親切なやり方があるというものだ。……しかし、そうとも、君には興味がある」

 

 アブラクサスのほのかに白濁した瞳がダフネをじっと見た。

 分厚い老眼鏡の向こうから、ダフネを見透かすような視線が脳天から爪先までを撫でていった。その一瞥で、彼はきっと多くのことを知るのだろう。

 ダフネには彼が恐ろしい存在に思えた。しかし、少なくとも今は、アブラクサス・マルフォイはダフネの協力者としてこの場にいた。

 

「それで? 計画を聞かせてみなさい」

 

 計画。

 ダフネは密かに計画をまとめつつあった。まだ実現性の高いものとは言えないが、純血を貴族階級にするという目標を達成するのに必要な条件は見えてきた。

 ゆっくりと、ダフネは口を開いた。

 

「……既得権益に切り込むには、何よりも大義名分が必要だと考えています」

「左様。魔法省には魔法省の、ウィゼンガモットにはウィゼンガモットの道理がある。それを覆すには無理を通すか、より強い道理を叩きつけねばならんな」

「ええ。……魔法界に、議会を作ります。魔法省は行政を、ウィゼンガモットは司法を。そして、両者から立法権を抽出し、議会に付与します」

「ほう! 考えたな、三権分立という英国の伝統で魔法族の横面を叩こうというわけか」

 

 英国魔法界には歪みがある。

 本来行政機関である魔法省、そして司法機関であるウィゼンガモット評議会が無批判に立法権を行使できてしまう。

 考えてみてほしい。アーサー・ウィーズリーがマグル製品の扱いについて行ったような恣意的な抜け穴作りを、闇祓い局局長が死喰い人と癒着して行っていたら一体何が起きていただろうか? 犠牲者の死体の前で効率化のための行政立法権だと説明するわけにはいかない。

 ウィゼンガモットについても同じことが言える。自分たちに都合のいい法を作り、それによって敵対者を法で裁く。英国魔法界では権力が合法的に人を陥れることができる。

 三権分立が生まれた国の統治機構として、これはあまりにもお粗末な構造だ。

 

「と、いうのはあくまで大義名分です」

 

 そう、それ自体はダフネにとってはどうでもいいことだ。

 英国魔法界の政治が乱れていようが、それによって犠牲が生じていようが、ダフネにとってそれは重要なことではない。ダフネは正義心から改革をするのではない。妹を救うついでに英国純血魔法族を救うだけだ。

 しかし、妥当性のない改革は妥当性によって打破される。

 重要なのは世間を味方につけること。マグル生まれすら支持するような改革を行うには、まず何よりも支持され続けている伝統を引っ張り出すのが一番いい。

 

「いくら立派な看板があっても、それだけでは既得権益は崩せない。魔法省もウィゼンガモットも立法権を手放したくはないでしょう」

「その通りだ。君ならどうする?」

「さて、何が正解かは未熟な私にはまだ見えておりませんが……」

「たとえ荒唐無稽でもいい、聞かせてみなさい。ホグワーツで先生に質問をするように、儂を先生だと思って。さあ!」

 

 なるほど、確かに頼りがいのある先生だと言えるだろう。

 ダフネは船先が切り分ける波を見つめながら、思い切って口を開いた。

 

「我が国の伝統、二院制を導入したいと思っています。純血魔法族による貴族院と、それ以外による庶民院。その上で、議会の発足から最初の50年は兼務を認める……というのはどうでしょう」

 

 ずっと考えていた。

 純血魔法族をどのようにして貴族にするのか。もはや余っている土地などありはしない。中世的な封建システムどころか、ローマ的恩貸地制すら成立させられないほどブリテン島における魔法族の支配領域は狭い。

 しかし、そのローマ的という言葉がダフネに気づきを与えた。

 貴族の定義は時代によって多様だが、一貫して言えることがある。貴族とは権威だ。

 そして、純血とはすなわち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのだ。

 

「ふむ……少なくとも赤点は免れたな」

 

 アブラクサスは静かにグラスを傾けた。

 

「知っての通り、当家は代々イングランド貴族として英国に仕えている。かつての当主の中には宮廷に仕えた者もいた。だから、その考え方はよく理解できる」

「アブラクサス様にそう言っていただけるのは光栄ですわ」

「しかし、ダフネ嬢。君が思っているほど魔法族は賢くはない。立法権の価値を真に理解し、議員として英国魔法界に仕えようと思える者が果たしてどれだけいるだろうか」

「あら、マグル界の議会だって国家と市民に忠実な者はほんの一握りでしょう?」

「まさしくその通り! 子どもの口から聞かされるとなんとも痛快だな!」

 

 アブラクサスは胸を反らせて笑い、海の果てに目をやった。

 ギリシャ。この土地で多くの政治思想が生まれた。やがてそれは部分的にローマへと受け継がれ、そしてヨーロッパ諸国の伝統の礎となった。

 もちろん、このギリシャに来たのは腐ったハーポに会うためだ。しかし、こうして地中海の風を受けていると、長く積み重なった政治という人類の伝統がダフネの両肩に重くのしかかってくるのを感じる。

 全ての純血を救う。

 ダフネはそう決めた。そのためには、一手たりとも油断があってはならない。これからはさらに多くを学び、声を上げ、仲間を増やしていく必要がある。

 ギリシャの海は、ダフネにその事実を叩きつけてきた。

 

「それで?」

「それで、とは」

「アブラクサス様は、まだ英国魔法界に仕える気持ちはお持ちなのかしら?」

 

 アブラクサスは目を丸くして、しばらく沈黙した。

 彼が英国魔法界を変えるためにダフネのそばで尽力してくれるのなら、ダフネとしては心強い限りだ。マルフォイ家先代当主、元ウィゼンガモット評議員のアブラクサスの力は、捨てるにはあまりに惜しい。

 しばらく波の音が響いたあと、アブラクサスは小さく首を振った。

 

「せっかくの誘いだが……昔、君のように理想に燃えた時期が儂にもあった。しかし、まあ、そうだな。ある友の手痛い裏切りにあってな」

 

 その視線は遥か遠くを見つめていた。

 アブラクサスの友とは、オリオン・ブラックだろうか。それとも、トム・マールヴォロ・リドルだろうか。

 ブラック家の栄光という過去を追い求めたオリオン。自らの力という現在の瞬間を永続化することにしか興味がなかったリドル。そして、理想という未来に燃え友を喪ったアブラクサス。過去、現在、未来。あまりにも皮肉な符号だった。

 

「それに、もう理想を追えるほど若くはない。そういったことは倅に任せようと思っていてな」

「そう、ですか。……でも、先生としてなら?」

「ああ、そうとも! 先生としてなら最後の仕事を請け負おう。いつでもふくろう便を寄越しなさい」

 

 ダフネは内心残念に思いながらも、柔らかく微笑んで空のグラスにワインを注いだ。

 原作の通りなら、これから数年以内のうちにアブラクサスは竜痘で命を落とす。存命のうちに借りることのできる力は借りておきたかった。

 船上を地中海の風が吹いていく。磯の香りに混じってほのかに香るのは船室で焼き上がったラムチョップを包む香草たちの匂いだろうか。

 

「ギリシャはいい国だ。豊穣と知性、伝統と格式の国と言っていい。このギリシャ旅行で君に多くの収穫があることを祈っているよ、ダフネ嬢」

「……そうしてみせますわ、アブラクサス様」

 

 こうして、ギリシャ旅行が始まった。

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