トロッコで長い鍾乳洞を下った先に、その金庫はあった。
6体のトロールによる警備。いくつも設置された非常ベル。線路の下には水が溜まっていて、あらゆる魔法を拒むようになっている。
金庫というよりは、牢獄だった。
「7番金庫です。……グリンゴット様のお言いつけですから、お客様をお通しすることに否はありません。しかし、これが特例中の特例であることについては、ご理解いただけますよう」
ギリシャ訛りのゴブリンが甲高い声でそう言って、怯えた表情で金庫を開けた。
ダフネの隣ではルシウスが静かに目を閉じ、息を吸っていた。気持ちを落ち着かせようとしているのだろう。しかし、この先に待ち受けているもののことを思えば、そのささやかな抵抗にどこまで価値があるかは怪しいところだ。
ゴブリンに促されるままに、ルシウスとダフネは金庫の中へと進んだ。
「退出の際は中のベルをお鳴らしください。確認の上、解錠いたします」
「わかりましたわ。ありがとう」
「……幸運を」
扉が閉ざされた。
ダフネはゆっくりと前へ進んだ。広い金庫だった。四隅には水が溜められている。金庫の前の堀に溜まっている水と同じ、魔法を拒む水だ。
そして、その中央に椅子が置かれ、
「――ああ……吾に客人が来たのは久しぶりだ」
ボーイソプラノが響いた。
状況に似つかわしくない、美しい声だった。そして、その声の主は、訝しむように首を傾げた。
褐色の肌に映える銀髪のおさげ、それを束ねる金の輪とそれに連なる水晶の髪飾りがしゃらりと澄んだ音を鳴らした。
目は布で隠されていた。絹に似た質感の、紫色の厚手の布が顔の半分を覆っていた。しかし、それでもその少年が美しいことは一目で察せられた。
その少年の美を際立たせているのが、魔法で作られたことが一目で明らかな金の鎖だ。無数の鎖が彼を椅子に縛り付けていた。その鎖を施した誰かは、きっと彼がこの金庫から出ていくことに心の底から恐怖を感じていたのだろう。
「足音はふたつ。大人の魔法使いと子どもの魔女。大人の方が怯えていて、子どものほうが吾を観察しようとしている。然るに……吾に用があるのは子どものほうか」
「はじめまして、ハーポ」
「挨拶か。挨拶は大事だ。はじめまして、大鴉のマレディクタス」
ルシウスが咄嗟に杖を抜いた。
「貴様、なぜそれを」
「大人のほうは少し無作法だ。……ああ、そうか、今の常識では相手の魂を見透かすのは無作法なのだったな。許せよ、昔はこれが普通だったのだ」
少年――ハーポがクスクスと笑った。
腐ったハーポ。
古代ギリシャの魔術師だ。分霊箱の発明者であり、バジリスクの創り方を発見した人物でもある。そして、現代にも残る闇の魔術をいくつも発明した、ある意味では偉大な魔術師と言える。
「これが、腐ったハーポの分霊箱?」
ルシウスが小さく呟いた。
確かに、目の前の少年は言い伝えられているハーポ――月桂冠を被った老人の姿とは似ても似つかない。どちらかと言えばマグルの物語に登場する妖精のような姿だ。
「そうとも。吾がハーポだ。腐食の君、腐食大公、腐ったハーポ、まあ好きなように呼ぶといいぞ。吾にとって重要なのは名ではないからな」
「しかし……子どもではないか」
「吾からすればお前も十分に子どもだぞ、大人の魔法使い」
ルシウスは呆気にとられたように目を瞬かせた。
しかし、ダフネは目の前のハーポから重圧を感じていた。バジリスクと相対したときとは比にならない、もっと強大で、邪悪な獣を前にしたような重圧。
それは間違いなく、目の前に座っているハーポが本物であることの証左だった。本物。不思議な感覚だ。分霊箱であるという点で言えば、彼――それは間違いなく偽物なのだから。
「ふむ……面白いな。吾を感じ取っているのか。マレディクタスだからか? それとも、
ハーポは興味深そうに身を乗り出し、鎖をしゃらしゃらと鳴らした。
そのひとつひとつが蛇の威嚇する鳴き声のように聞こえる。目が隠されているのに、その眼光がダフネの肌を舐めている。
食われる。
「あなたに質問があって来ましたの」
恐るべき相手を前にして、しかし、ダフネは怯まなかった。
「質問か。質問は好きだぞ。吾もかつては魔法学校の教師だった。あの学校が滅びたのは本当に残念だったなあ」
悲しむように口を曲げ、裸足の爪先を擦り合わせる。恐ろしいことに、その声は心から悲しんでいるように聞こえた。
ギリシャには11の偉大な魔法学校に数えられる魔法学校はない。今もなお、大規模な魔法学校を作ろうという動きすら生まれていない。
それはなぜか。
ハーポが滅ぼしたからだ。
子どもが飽きて砂場の城を壊すように、ハーポは自らの学び舎をあっさりと壊してしまった。多くの生徒たちは彼の手にかかって殺され、あるいは生きたまま永遠に滅びを待つだけの
それ以来、ギリシャの魔法族は体系的な智を失った。つまり、歴史と伝統を有するギリシャに魔法学校がないのは、ハーポがその歴史と伝統を破壊したからなのだ。
ハーポはギリシャではこう語られ、今もなお畏れられている。
ギリシャ魔法界を殺した魔法使い。
「うむ、そうだな、吾はまた教鞭を執る機会をずっと待っていたのだ。だからお前たちの質問にも答えてやろう」
「では――」
「しかし、それではつまらないから、条件をつけよう」
ハーポは椅子の上で足を揺らしながら笑った。
無音の金庫で、水流のかすかな囁きに笑い声が反響する。立方体の空間の中に、反響した笑い声が揺れている。
不気味だった。
ダフネはこみ上げる吐き気を必死にこらえていた。
「質問ひとつに対し、質問ひとつだ。お前たちの質問ひとつに、吾は質問をひとつ返す」
「いいでしょう。おじさまも、それで構いませんね?」
「……こちらからも条件を決めて構わないだろうな。嘘や誤魔化しをしないこと。それが絶対の条件だ」
「いいぞ。それならもうひとつ条件をつけよう。嘘や誤魔化しが暴かれた際には、正しい答えが返ってくるまで質問を繰り返してよい。加えて、暴いた側が嘘をつかれた数だけ追加で質問をしてよいことにしよう」
ハーポはそう言って、小さく頷いた。髪飾りがしゃらりと鳴った。
すでに質問はまとめてある。ダフネが小さく息を吸って一歩前に出ようとした時、ルシウスがダフネを庇うようにして前に出た。
「おじさま?」
「先に私が質問しよう。……何か小細工がされていないとも限らん」
「いい心がけだ。大人は子どもを守るものだからな」
ルシウスは鼻を鳴らして、それからゆっくりと口を開いた。
「……分霊箱を、修復する手段は」
「お前たちの言い方を借りるのならば、こぼれたミルクを嘆いても無駄だな。分霊箱の破壊とは死と同じだ。決して逆転しない」
「そんな……何かあるはずだ、お前は分霊箱の発明者だろう」
「親は子の発明者だが、死んだ子を生き返らせることはできない」
ダフネが見上げているのにも気づかず、ルシウスは必死の表情でハーポに食らいついた。
ルシウスからすれば、これは千載一遇のチャンスだ。分霊箱を修復する手段を見つければ、ヴォルデモートの傘下に戻るばかりでなく、主にさらなる貢献をすることができる。
もちろん、ルシウスは熱心な信奉者というわけではない。しかし、もしヴォルデモートの下に戻るのなら、手土産は多いに越したことはない。
「なら、なら……分霊箱が破壊されると、本体は気づくのか?」
「ああ、そこは吾もこの術を考える時に悩んだところだ。破壊された瞬間には気づかないが、一度死んで分霊箱を命綱に現世へ戻ろうとした時に初めて分霊箱の不在に気づくだろう」
「それは……分霊箱が複数ある場合にも?」
「複数、複数か!」
ハーポは声を上げて笑った。腕が縛られていなければきっと手を叩いていただろう。その証拠に、腕を縛る鎖がしゃらしゃらと甲高い金属音を立てた。
「どうやらブリタンニアには吾の予想を超えた者がいるらしい。面白くなってきた。そうだな……理屈の上では、気づかない。分霊箱とは命綱だ。賢い者なら命綱が細ったことに気づくこともあるかもしれないが……ふむ」
しばらく、ハーポは俯いて考え込むような素振りを見せた。
ルシウスの青白い喉仏を汗が伝っている。緊張しているのだ。あのヴォルデモートの腹心だった彼が、目の前のちっぽけな巨悪を前にして冷や汗をかいている。
それはもしかするとヴォルデモートに対する背信が確定することへの恐れなのかもしれない。しかし、ダフネにはもっと絶望的な、理解しえない怪物に対する畏れがルシウスを追い込んでいるように見えた。
「他に質問は? ない? それは結構。お前は3つ質問した。吾も3つ質問しよう」
「……いいだろう」
「1つ目。お前から見て、その分霊箱を複数作った者は
抽象的な質問だった。
しかし、ルシウスは眉をぴくりと動かした。うっすらと不快感が滲んでいる。まるで、何か
「……闇の帝王は時に常人には理解しがたい卓越した理性と感性をお持ちだ」
「――誤魔化しだ」
ハーポが笑った。
その途端、ルシウスが目を見開いた。まるで見えない重圧に背を押されたようによろめき、膝を屈しそうになった。
ダフネが腕を掴んで支えると、震えが直に伝わってきた。
怯えている。
「ヒントは与えた。お前たちは吾の魂を見透かす目を条件で封じるべきだったな。さて、質問を繰り返すぞ。お前の主はどれくらい人として欠けている?」
「……闇の、帝王は……人の心をお忘れになった」
ルシウスの振り絞るような一言に、ハーポは頷いた。
「そうだろうとも。魂とは人の根源だ。思想、夢、未来、愛、希望、努力……魂を分割するとは、人間性を欠けさせていく行為に他ならない」
歌うように語って、ハーポは小さく首を傾げた。髪飾りが揺れている。
「1つ目の追加分。お前は何度裏切りを考えた?」
「ッ……三度、三度だ」
「当ててやろう。妻と結ばれた時、子が生まれた時、そして主が死んだ時だ。そうだろう? 三度目は成功したと思ったか? しかし、分霊箱の存在を知って絶望し、ここに来たのか? 裏切りをなかったことにする手段を探している、違うか?」
ルシウスの呼吸は浅く、目は充血していた。
このままでは危ない。
ダフネが一歩前に出ると、ハーポはゆっくりとダフネに顔を向けた。
「今の4つは質問としてカウントさせていただきますわよ。あら、ということはこちらの質問権がひとつ余りますわね」
「ああ……賢い子だ。そうとも、吾は問いかけた。答えを得た。然らば、質問としてカウントされるだろう。いいぞ、そうでなくては」
膝を折って崩れ落ちたルシウスが荒い呼吸を繰り返した。まるで直前まで溺れかけていた者のような呼吸。その反応は何ら間違いではない。ハーポの力に絡め取られ、溺れかけたのだ。
それは魔法による攻撃ではない。単に圧倒されたという事実が、魔力を帯びてルシウスを苛んだだけのことだ。しかし、それは極めれば人を殺すことすらできる力となるだろう。
恐らくハーポは、会話だけで人を殺すことができる。
杖を抜いた。その無礼で、ハーポはルシウスを殺そうとした。ただ問いかけるだけで、ルシウスの命を奪おうとした。それはまさに、腐ったハーポの名に相応しい腐食だった。
「余った1つで……そうね、好奇心を満たしておきましょうかしら」
だからこそ、ダフネは笑みを浮かべた。
これは勝負だ。狩られる者になってはならない。追われれば追いつかれる。追いつかれれば狩られる。ならば、ダフネは挑む者でなければならない。
「分霊箱の特筆すべき性質は、魔法的な防護力の高さ。極めて強力な攻撃によってのみ破られる鉄壁の護り。分霊箱という術は、魂をコストに器を護る魔法と言い換えることもできる」
これはダフネがずっと抱えていた仮説だ。
分霊箱という魔術は、不死性を担保する術としては副次効果が多すぎる。その本質は魂を分け、器に収める術だ。
では、ハーポは何のためにその術を発明したのか?
この問いはこう言い換えられる――分霊箱という魔術は、果たして魂の主と魂の器、どちらを永続化させることを目的にして作られた術なのか?
そして、ダフネはこう答えを出した。
「つまり――あなたが使っているその身体は、あなたにとって何よりも護りたい肉体。どうかしら、先生?」
ハーポが深い笑みを浮かべた。
初めて、彼の本質的な感情が露わになったと感じた。ぞっとするほど美しく、しかし、何かが欠けた笑みだった。それは間違いなく、ハーポの心からの笑みだった。
鎖が鳴る。ハーポが身震いしたのだ。
「吾は今……感動している。そこに辿り着いた者は久しぶりだ。そうとも、吾は最も大切な者を分霊箱にした。嬉しいよ、こんな初歩的なことを理解してもらえないのは存外苦痛なのだ」
それは答えだった。
もちろん、言い伝えられる通り不死は分霊箱の効果だ。しかし、分霊箱という魔術を創造したハーポの目的は他にあった。
不滅、あるいは不朽。
「分霊箱にするために殺したのか、死んだから分霊箱にしたのか……興味は尽きませんが、まあ、別の機会にしておきましょう」
ダフネは大きく息を吸った。
思考を整理する。今の対話でわかった通り、目の前にいるのは獣ではない。目的を持ち、理性を持った人間だ。対話が成立する限り、どれだけ恐ろしく思えようと、その恐怖はダフネが諦める理由にはならない。
ずっと考えてきた。自分は一体どのような情報を求めているのか。
ダフネ・グリーングラスというキャラクターに何があれば、何をなせば、何を残せば、戦後に純血が地位を維持し、向上させられるのか。
今日、ハリー・ポッターという物語の中で、ダフネはようやく主戦場に足を踏み入れる。
「では、質問を始めましょうか」