その血は呪われている   作:海野波香

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 滴る音がする。

 垂れ下がったダフネの腕を伝うのは、汗だ。汗のはずだ。やけに暑い。息苦しい。それなのに、脳が訴えかけてくる。血が流れている、死んでしまう、と。

 心臓がうるさい。

 それでも、ダフネは血の呪いについての情報を持ち帰らなければならない。アステリアの、そして自らの幸福な結末のために。

 

「……3つ目の、質問」

 

 ダフネは大きく息を吸った。

 最小限の質問でハーポから血の呪いの情報を手に入れるには、どう問いかけるべきか。ダフネは今、その一点にひたすら集中していた。

 ハーポにとってこれは暇潰しのゲームのようなものなのだろう。質問には答えてくれるが、その答えが本当に望む通りのものであるとは限らない。丁寧なことに、ハーポはわざわざ「実現の困難な例」を提示する可能性を示してくれた。

 だから、質問は丁寧に、的確に行わなければならない。

 この怪物から必要な情報だけを引き抜くのだ。

 

「……私が、妹と私自身の血の呪いを治すうえで、最も実現性の高い手段は?」

「質問したな。いいだろう、答えてやろう。()()()()()()()()!」

「ッ!」

 

 間違えた。

 ハーポが頬を歪めた。その美貌は邪悪で、心からダフネの失敗を喜んでいた。

 しかし、ここで立ち止まるべきではない。ダフネは目を閉じ、思考に集中した。

 

「……4つ目の質問。妹と私自身の血の呪いを治すうえで、私が取れる中で最も実現性の高い手段は?」

「ああ、それなら簡単だ。血の呪いは感情のゆらぎによって変身が進む。つまり、()()()()()()()()()()()()()()のだ。怒りも悲しみもしないようになれば、呪いは寛解する」

「それは……」

「実現性は一番高い、そうだろう」

 

 ダフネは歯噛みした。

 なるほど、確かに進行しない呪いはないも同然だ。しかし、そのために感情を捨てるなどということは到底認められるものではない。

 脳裏にアステリアの笑顔がちらつく。

 あの笑顔が失われるような治療法など、治療法とは言わない。ダフネが求めるのは完全無欠のハッピーエンドだ。それ以外の結末はダフネにとって失敗でしかない。

 

「5つ目の――」

「お前が気に入ったから、助言してやろう。お前はおそらく、6つで死ぬ」

 

 あっけらかんとそう言い放って、ハーポは鎖に縛られた腕で頬杖を突いた。

 

「だから、生きていたいならこれが最後の質問だ。よく考えろ」

 

 ダフネは沈黙した。

 何か、何かを間違えた。ダフネは他に取るべき選択肢を見逃しているという直感に苛まれていた。そして、その見逃しこそが致命的であると。

 一体何を見逃したのか。

 視界の端に倒れ伏したルシウスが映った。分霊箱を直し、復活するヴォルデモートの傘下に加わりたいという彼の夢想は破壊された。ルシウスが求めた答えは、最初から存在しなかったのだ。

 その時、ダフネは閃いた。

 

「……箱を開けるまで、パンドラは箱の中身を知らなかった」

「ふむ?」

「箱の外側を眺めても、箱の底に希望が入っているかどうかはわからない。私の求める答えをあなたが持っているかどうか、私には知る術がない。だから、質問の文言を工夫すれば正しい答えが導き出せるという前提がそもそも間違っていたのだわ」

 

 ハーポは満足げに頬を緩めた。

 その時初めて、ハーポは人間らしい表情を見せた。それはもしかすると、彼が教師としてギリシャ魔法界の若き可能性たちを導いていたころの残滓だったのかもしれない。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「正解だ! 素晴らしい!」

 

 すっと汗が引いた。

 ダフネを苛んでいた獣の眼光のような重圧が消え去った。急に呼吸が楽になり、勢いよく流れ込んだ酸素にダフネは咳き込みそうになった。

 心拍数がゆっくりと下がっていく。脳が張り裂けるような脈動が落ち着き、自然な思考を取り戻すと、ダフネはようやくハーポのペースに乗せられていたことを理解した。

 

「いいだろう、お前に答えを教えよう。アイアイエー島の旧き魔女キルケを訪ねろ。奴だけが血の呪いを解く薬の調合法を知っている」

 

 音を立てて呼吸する喉を撫でながら、ダフネは頷いた。

 キルケは蛙チョコカードにもなっている伝説の魔女だ。船乗りを豚に変えることで恐れられた彼女は、ある冒険家と1年を共に過ごし、しかし故郷を求めて旅立つ彼を見送ったとされる。

 確かに、旧き魔女キルケが死んだという記録はない。しかし、まさか血の呪いを生み出した魔女が蛙チョコカードになっていようとは。イギリスに帰ったらメーカーに匿名でクレームを入れてやりたい気分だ。

 ダフネは思わず安心してしまった。しかし、話はまだ終わっていなかった。

 

「――しかし、お前自身にはその薬を調合することはできない。お前の呪いを解く薬には、お前を愛する男、魂の伴侶の力が必要となるだろう」

「……愛、ね。なるほど」

 

 それは、このハリー・ポッターシリーズという物語に相応しい結論だった。

 愛。アルバス・ダンブルドアの信仰であり、魔法界における最も強力な神秘のひとつであり、あらゆる物事におけるひとつの結論でもある。

 問題は、その愛の形だ。ハーポの口ぶりから察するに、ダフネとアステリアが互いのために薬を作るというわけにはいかないらしい。魂の伴侶。大仰な言い方だが、理解はできる。

 つまり、こういうことだ。

 ダフネとアステリアは血の呪いを治すために心から愛してくれる伴侶を見つけなければならない。

 

「サービスが過ぎたな――さて、質問の時間だ」

 

 その言葉が発せられた途端、再びダフネは重圧に支配された。

 つい先程までの安心感が嘘だったように、嫌な汗が噴き出して止まらない。完全にハーポの手のひらの上で踊らされている。

 

「お前、すでに伴侶のあてがあるな?」

「いいえ?」

 

 咄嗟に口走ってから、ダフネは後悔した。

 魂を鷲掴みにされるような不快感。何か、吐き出してはいけないものを吐いてしまいそうな胃の震え。ダフネを襲った悍ましい感覚は、間違いなく目の前に座るハーポによるものだった。

 

「追加の質問だ。あてが、あるな?」

「……可能性のひとつとして、そうであれば嬉しいと思っているだけですわ」

 

 ハリーとダフネの関係を茶化したり、冷やかしたり、あるいは憧れるかのように語ったりする者は少なくはない。寮を跨いだ深い愛。そう噂されるのにももう慣れてきた。

 しかし、ダフネ自身がどう思っているかというと、自分でも自信がなかった。

 ハリーには利用価値がある。それも、途轍もない価値が。ヴォルデモートを倒す運命にある未来の英雄であり、将来的には闇祓い局局長、魔法法執行部部長を務め、後の魔法大臣ハーマイオニー・グレンジャーの親友でもある。

 もちろん、ダフネはハリーを利用するために近づいた。では、ダフネがハリーと共に時間を過ごすことを望んでいるのは、利用するためだけなのか?

 

「下世話ですわね。……でも、ええ、認めましょう。私は彼を、伴侶の候補として真っ先に考えましたわ」

 

 ハリー・グリーングラス=ポッター。

 彼がそう名乗る未来を、一瞬たりとも期待しなかったと言えば嘘になる。ハリーがグリーングラス家に婿入りする。その未来は、ダフネにとって嬉しい未来だ。

 これが恋なのかは、ダフネにはまだわからない。それでも、もしダフネに選ぶ権利があるのなら、ダフネはきっとハリーを選ぶだろう。

 

「次の質問だ。妹とその男、どちらしか助けられないとしたらどちらを助ける?」

「……そこでどちらかしか選べないような魔女は、私ではありませんわ」

「ほう……驚いたな、それが本心か。大した自信家だ。だが、いいだろう。多少過剰な自信も時には役に立つものだ……」

 

 ハーポは感心したように息を吐いた。

 一方、ダフネは次第に身体が重くなるのを感じていた。まるで深い海に引きずり込まれているような感覚。肺が少しずつ潰れ、呼吸が浅くなっていく。

 

「3つ目。いや、待てよ……そうか。わかったぞ。()()()()()()()()()()()()

「……ええ、そうですわ」

「なるほど! 面白いな、お前は面白い……それでお前はその男を救いたい、しかし妹の呪いも解きたい、そうなんだな?」

「ええ。今ので、4つ目ですわよ」

 

 大きく息を吐こうとして、ごぽ、と喉が嫌な音を立てた。

 手足が動かない。身体が沈んでいくのを感じる。重い。何かがまとわりつくようだ。あたりが暗くなっていく。

 ハーポは「6つで死ぬ」と言っていた。今は4つと、追加で1つ。

 肺に嫌な重みを感じる。

 

「さて、5つ目だが――」

 

 その時、からんと乾いた音が聞こえた。

 転がったステッキを指先で掴んだルシウスが、足を震わせながら立ち上がった。

 

「5つ目は……私が答えよう」

 

 呼吸を荒げ、足を引きずりながら、ゆっくりとルシウスがダフネの前に立った。

 

「おじ、さま」

 

 ルシウス・マルフォイ。

 ヴォルデモートに従い、多くを殺した大悪党。英国魔法界の政財界で甘い蜜を吸う醜悪な政治屋であり、時代錯誤な純血至上主義者。

 その彼が、ダフネを庇っていた。

 

「駄目です、おじさま」

 

 返事はなかった。

 ただ、大きな背中がダフネとハーポの間に割って入った。

 

「ふむ……面白いものを見せてもらった。いいだろう、5つ目はお預けにしておこう。吾も知りたいことが出てきた。まったく、吾の術を使ってそんなに面白いことをしている者がいるとは! 今の世は中々面白いらしい」

「……次の機会は、絶対にありませんわよ」

「いいや、()()()()()()()()。うむ、楽しい時間だった。実りある時間だったな。もう退出してよいぞ」

 

 ハーポはそう言って、満足気にクスクスと笑った。

 その途端、ダフネの肺に一気に空気が戻った。

 退出。ハーポは今なんと言った? 退出というシンプルな単語すら、ダフネはすっかり忘れていた。帰ろうと思えばいつでも帰ることはできたのだ。そのことを忘れさせられていた。

 呑まれていた。逃げるという選択肢を忘却させられるほどに。

 今度こそ盛大に咳き込んだダフネは、震える膝を叱咤し、ルシウスと支え合いながら、なんとか紐を引いて退出のベルを鳴らした。

 

「また会おう、大鴉のマレディクタス」

「……さようなら、ハーポの分霊箱」

 

 けたたましい歯車の音とともに扉が解錠されると、ダフネはルシウスに引きずられながら倒れるようにして金庫の外へと這い出した。

 地下深くの空間だというのに、あの金庫の中よりもよほど空気が新鮮に感じられる。

 髪を乱したルシウスと汗をかいて震えるダフネを見て、待機していたゴブリンが甲高い悲鳴を上げた。

 

「よ、よくぞご無事で」

「ええ、なんとか生きてるわ。でも、早く地上に帰りたいの。お願いできるかしら?」

「か、かしこまりました、お客様!」

 

 ゴブリンは大慌てで金庫を閉めた。

 一瞬、ダフネは振り返ってハーポの分霊箱が確かにそこにしまわれているという事実を確認したい欲求に襲われた。しかし、結局ダフネは振り返らなかった。

 圧倒されてしまった。

 求めていた情報は得られたが、ダフネは敗北感に打ちのめされていた。あの怪物に二度と出会いたくないという感情が、今もダフネの手を震わせていた。

 

「……ここ、は」

 

 ルシウスが呻いた。

 その時になって初めて、ダフネは今の今までルシウスが意識を失っていたことを知った。ただでさえ血の気の薄い肌がますます青白く、髪は額に貼り付き、酷い有様だった。

 つまり、ルシウスはほぼ意識を失った状態で、それでもダフネを庇ったのだ。

 

「金庫の外ですわ、おじさま。這々の体で逃げ出してまいりましたの」

 

 何度か瞬きを繰り返して状況を確認したルシウスは、まず最初にステッキに杖を収めた。

 額に張り付いた髪を払い、ローブの裾を整える。次第に呼吸も整い、眼の充血も落ち着いていく。

 少しずつルシウス・マルフォイという魔法使いが蘇っていく。つい先程死にかけたのが嘘のように、ルシウスは落ち着き払っていた。

 

「情けないところを見せたようだな」

「私もおじさまも、危うく死ぬところでしたわね。おじさまに助けられましたわ」

「そうだったかな?」

 

 とぼけているわけでもない。どうやら、ルシウスは覚えていないようだ。

 もしかすると無意識だったのかもしれない。そうだとすれば、ルシウス・マルフォイという魔法使いの認識を改めなければならないだろう。あるいは、ルシウスにとってダフネがそれだけの価値がある存在になっているのか。

 ダフネの知るルシウスは、自らの保身のためなら子どもひとりの命程度なんとも思わないような見下げた悪党だ。その彼が割って入ってまでダフネを庇った。

 不思議と、嬉しいとは思わなかった。

 ともかく、トロッコの到着を待つ間にふたりは呼吸を整え、なんとか家族に心配をかけないだけの調子を取り戻しつつあった。

 

「しかし、収穫はあった」

 

 ルシウスらしくない、前向きな発言だった。

 ダフネが驚いて彼を見上げると、ルシウスは気丈にも眉を上げて微笑んでみせた。まだその口の端は引きつっていたが、それでも彼は本来の優雅さを再び纏いつつあった。

 

「どんな苦境にあっても、損得の勘定をする理性だけは手放してはならない。我々は苦しんだが、それ以上の得難い情報を得た。違うかね?」

「……仰るとおりですわ、おじさま。まだまだですわね、私も」

 

 分霊箱の証明手段、破壊手段、そして血の呪いを解くヒント。

 ダフネは普通なら得られない情報を勝ち取ることができた。ハーポには敗北したかもしれないが、目的は達成されたわけだ。それは十分な成果と言える。

 

「それで、ルシウスおじさま?」

「……わかっている。もはや道は絶たれたと、そう言いたいのだろう。賭けは私の負けだ」

「では、例のクラウチ氏の件、お願いしますわよ」

「ああ、それなら」

 

 ルシウスはトロッコに乗り込みながら、どこか得意げに笑ってみせた。

 

「すでに済ませておいた」

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