時は学期末にまで遡る。
英国魔法界の中枢にして唯一の行政機関、英国魔法省の5階。国際法や貿易、国家間の調整を担う国際魔法協力部に、ルシウスのステッキが床を打つ音が等間隔に響いた。
案内された会議室には、すでに
「失礼、お待たせしたようですな」
「……いえ、前の会議が早く片付いたので」
できれば口も利きたくないというような侮蔑の色を薄っすらと漂わせながら、しかし紳士的に応えた彼こそが、この国際魔法協力部の長である。
バーテミウス・クラウチ。
グレーのスリーピーススーツを完璧に着こなし、品のいい紫のネクタイを合わせた初老の男。かつては魔法法執行部長であり、後には魔法大臣にもなるだろうと多くが期待していたその男が、今ルシウスと対面していた。
「それで?」
「まあ、ミスター・クラウチ……お茶を待つくらいの時間はある」
ルシウスが座るよう促すと、クラウチは渋々指を鳴らして屋敷しもべ妖精を呼びつけ、紅茶を2人分申し付けた。
しばしの間、ふたりの間に張り詰めた沈黙が漂った。
当たり前だろう。戦時下の魔法法執行部長を務めたクラウチにとって、ルシウスは怨敵だ。かつての戦争でお互いはお互いを指揮官として認識していた。闇祓いの指揮官と、死喰い人の指揮官だ。
それだけではない。ルシウスは戦後に大量のガリオン金貨と引き換えに幾人かの死喰い人の減刑に成功した。これによりクラウチは死喰い人を捕り逃し、ルシウスは都合のいい手駒を得た。この事実は、ふたりの間に埋められない溝を生んでいた。
しかし、どうやら本質的な対立は、庇ったことよりもむしろ
「……一応、用件を確認させていただくが。
「ええ、その通り。最近、その囚人について詳しい人物から話を聞く機会がありましてな。どうも、その人物に関する誤解が、彼を収監にまで追いやったように思えてならない」
「どこまでお力になれるか甚だ疑問ですな。私は国際魔法協力部の人間だ」
「問題はない、ミスター・クラウチ。何しろ、あなたの時代に収監された人物だ。あなたのメンツを潰さずに済むとわかれば、今の魔法法執行部員も安心して動けるというものでしょう」
クラウチは訝しむように眉を上げたが、彼が言葉を発するよりも早く紅茶が届いた。
先にルシウスがカップを手に取り、口に運んだ。警戒していないことを示す必要があった。屋敷しもべ妖精が淹れているだけあって香りはいいが、それでも茶葉のグレードは低いのか、誤魔化せない渋みの強さがある。
歓迎はされていない。それは当然だ。国賓に出すような茶葉を使う相手ではないと判断されているということだろう。
ルシウス自身、国際魔法協力部への影響力を伸ばすくらいなら大臣室や自ら直接の外交を選ぶ。そのほうが手っ取り早いし、何よりそうして得たコネクションは自らの、そしてマルフォイ家の富になるからだ。
「それで、誰の再審請求なのです」
「シリウス・ブラック」
「ご冗談を、マルフォイ卿」
「冗談ではないのです、ミスター・クラウチ……最近思い出したのですが、死喰い人の顔ぶれにシリウス・ブラックはいなかった。ブラック家で死喰い人に加わっていたのは弟のレギュラス・ブラックだ」
「弟が加わっているなら、兄が加わっていてもおかしくはない」
紅茶に手もつけず、クラウチは一蹴した。
ルシウス自身、ダフネからこの件を任された際は驚いた。まさかシリウス・ブラックを無実にせよと指示されるとは。しかも、この件を足がかりにクラウチを抱き込めと言うのだ。
難題だったが、ルシウスにできないことではない。
「確か、ブラックは裁判を経ずに投獄されましたな」
「……現行犯です、珍しいことではない」
そう、シリウスは現行犯逮捕の末、裁判を受けることなく投獄された。
彼自身が抗弁しなかったことも理由のひとつだが、多くの純血旧家が闇に染まった時代にブラックという家名が不利に働いたのも事実だ。純血至上主義者の筆頭であるブラック家に生まれたのは彼にとって何よりも災難だっただろう。
しかし、ダフネはこの点がシリウスの無実を証明すると指摘した。
「当然、直前呪文の検証も行われていない」
「ええ、まあ、そうです。当時の捜査についての不手際をご指摘にいらっしゃったのであればお詫びいたしますが、それが彼の無実を証明するわけではない。第一、ポッター夫妻とピーター・ペティグリューという犠牲者が――」
「全てがピーター・ペティグリューの狂言だとしたらどうです」
一瞬、クラウチは固まった。
ダフネに言われてからルシウスも調べたが、確かにシリウスの逮捕劇には不自然な点があった。
第一に、ピーター・ペティグリューがマグルの観衆の前で告発したこと。
なぜ魔法族のいるダイアゴン横丁やホグズミード村ではなかったのか。マグルの証言は法廷で何の価値も持たないということは、マグル贔屓な魔法使いほどよく知っている。
第二に、シリウス・ブラックが無傷だったこと。
もしシリウスが爆破呪文を唱えたのなら、爆破はシリウスの杖から放たれる。それが目の前のペティグリューを粉微塵にしたのなら、すぐ目の前にいたシリウスが無事であるのはおかしい。
第三に、ペティグリューの残骸が小指一本だったこと。
ルシウスにとってはこれが一番の違和感だった。普通、肉は爆風で消し飛び、骨だけが残る。それが綺麗に繋がった小指の状態で残るとは、まるで切り落としたようではないか。
「――ということです。我々はペティグリューを疑っている」
「馬鹿げている……大体、ダンブルドアの言うことによればポッター夫妻は秘密の守り人によって守られていたそうではありませんか。ポッター夫妻がブラックではなくペティグリューを守り人に選んだと?」
「何か、ペティグリューには秘密があった。姿を隠し、人目から逃れることのできる秘密が。そして、その秘密は今もなお生きている……」
「大した推理だ。ロックハートの後釜にでもなるおつもりか」
鼻を鳴らして、ようやくクラウチは紅茶のカップを手に取った。
今のところ、クラウチはルシウスの提案を呑む気はなさそうだった。当然だろう、味方を庇い立てしているようにしか見えないに違いない。
しかし、ルシウスはなんとしてでもクラウチにこの件で協力させる必要があった。
シリウス・ブラックという男の性格はスネイプから聞かされている。勇敢で豪快、時には手段を選ばない賢さもあるが、基本的には自らの抱える騎士道精神に殉じる典型的なグリフィンドール人、親ダンブルドア派。
彼個人に利用価値はないかもしれないが、その血と子孫は別だ。アークタルス亡き後、ブラック家を断絶させないために彼にはダフネに協力してもらわねばならない。
「第一、そのご友人はなぜいまさらブラックのことを? 彼のことで抗弁するならいくらでも時間があったはずでは」
「いずれご紹介しようとは考えていますが……彼女はまだ若いもので」
「ふむ……まあ、結構。検討しておきましょう。もしもピーター・ペティグリューの目撃証言などがございましたらお持ちください、検討材料にさせていただきたいのでね」
暗に帰るよう促すクラウチを無視して、ルシウスは紅茶を一口含んだ。
ここからが本番だ。
「……そうですな、流石にお忙しいミスター・クラウチをあまりお引き止めするのもよくない。
「私に家族はいませんよ、マルフォイ卿。妻には先立たれたもので」
「そうでしたかな? 誰よりも愛おしいであろう奥方を
ルシウスが静かにカップをソーサーに置くころには、クラウチの表情は見るも無惨に歪んでいた。
憤怒と絶望。
熟れたスモモのようにどす黒い怒りが、クラウチの紳士然とした顔を濁していた。それは、もはや彼が冷静ではない証拠だった。
「……暴いたのか、墓を」
ダフネに指示されて真っ先にルシウスはアズカバンへ赴いた。
そして驚いた。確かに共同墓地に葬られたはずのバーティ・クラウチ・ジュニアのかわりに、女性の骨が収まっていたからだ。
ルシウスはすぐに状況を理解した。かつて死喰い人としてベラトリックスのお気に入りだったあのクラウチ・ジュニアは、母親を身代わりに生きて父のもとにいる。これこそがクラウチ・シニアの抱える最大にして最悪の弱みだ。
「うまくやりましたな。アズカバンの看守たちは誰が囚人であろうと気にはしない。囚人がひとり入れ替わったところで、誰もわかりはしないでしょう」
バーティ・クラウチ・ジュニア。
ルシウスもよく覚えている。若く才気あふれる青年で、死喰い人にしておくにはもったいない若者だった。ベラトリックスのお気に入りで、逮捕の瞬間まで行動を共にしていた。
クラウチがルシウスを恨んでいる最大の理由は、もしかすると、
あの日の子羊が、再びクラウチを苦しめる。
「何が望みだ」
クラウチの杖腕が静かに、しかしゆっくりとスーツのポケットへと伸びていく。ルシウスが一瞬でも不審な動きをすれば、彼は杖を抜いてルシウスを打ち倒すだろう。
しかし、その腕は直後、完全に凍りついた。
「
「……何と言った」
「闇の帝王は生きている。奴は陰に潜み、力を蓄えていたのです。私は奴を倒すために戦っている、ある人物の依頼でここに来た。……わかりますかな、戦いは終わらず、時代が変わったのです。私は……闇の帝王を倒すためにここにいる」
テーブルに手をついて立ち上がったクラウチが、ルシウスを睨みつけた。
死喰い人の天敵と言えば、アラスター・ムーディだろう。
ヴォルデモートの天敵と言えば、アルバス・ダンブルドアに違いない。
しかし、それら全てを総括して闇と呼び表したとき、かつてバーテミウス・クラウチとは誰よりも闇の撲滅に力を注いだ、闇の天敵だったのだ。
だからこそ、ヴォルデモート生存の報をルシウスがもたらすことは、クラウチを釣り上げる最上級の餌として働く。今度こそ、自分の手で。その無念は時が経とうとも燻り続けているに違いないと、そうルシウスは信じていた。
「正気で……正気で言っているのか!」
「ええ。もっとも、私には信用がない。残念ではありますが、そのことは理解している。今は提示できる確証もありません。しかし……今探られて痛む腹をしているのは、私よりもむしろあなたのほうなようですな」
ルシウスはクラウチに向き直り、彼の目を見た。
彼を信じられるかと問われれば、それは難しい。死喰い人は横の繋がりにおいてはさほど強固ではなかったが、それでも可愛がっていた手下を彼の部下に捕殺されたことは一度や二度ではない。
ルシウス自身、何度も懐を探られた。マルフォイ家の財産と権勢は目減りし、いらぬ苦労をナルシッサにかけたこともあった。アーサー・ウィーズリー以上の怨敵と言っても過言ではないだろう。
しかし、これからは彼も共に戦うことになる。
「どのようにしてご子息を匿われているかについては、まあ、この際気にしないことといたしましょう。しかしね、ミスター・クラウチ……あなたにはまた先頭で旗を振ってもらいたいのです。そんな弱みを抱えられていては困る」
国際魔法協力部の部長というポジションは、マグル界で言えば外務大臣にあたる。決して閑職というわけではないが、出世街道としては傍流だ。
確かに、国際魔法協力部の部長としてクラウチは有能だろう。外交センスに長け、常識を重んじつつもユーモアを理解し、語学においては卓越している。彼ほどの能吏に任せておけば、英国魔法界の外交問題は20年、いや、10年で大半が解決する。
しかし、今は有事だ。有事には有事の人事がある。
ルシウスは死喰い人だった。それも、ヴォルデモートの腹心だった。だからこそ、何をされるのが嫌かは誰よりも理解している。あるいは、ヴォルデモート自身よりも。
「私を……私に、どうしろと」
「優秀な忘却術師に心当たりがありましてな。腕がよく、
「忘却術師……」
「ええ、バーティ・クラウチ・ジュニアは今度こそ死ぬということです。よく似た人相の人物が新大陸あたりで保護されるかもしれませんが、彼は魔法事故の被害者として丁重に守られることでしょう」
クラウチの目は震えていた。
どうやって監禁していたかの察しはついている。服従の呪文をかけていたのだろう。息子を脱獄させ、許されざる呪文をかけて保護していたなどと露見すればクラウチは終わりだ。
しかし、今ならば間に合う。
「ミスター・クラウチ。あなたの手腕は私が一番理解していると言っても過言ではない。同じ陣営で共に闇の帝王と戦えるのなら、私としてはこれほど心強いこともないのですが」
「私が……私がそれを信じるとでも?」
その声は震えていた。
「お前を逮捕するためなら、私は家を捨てても構わなかった! そのお前が、今、どの口でそのような世迷言をほざく!」
「ええ、無念はお察ししましょう。私に罪があると言うのなら、改めて法廷でお会いしても構わない。しかし、それでも彼女はあなたが共に戦うことを望んだ。わかりますかな。私は使いとしてここにいる」
「ふざけるな、ルシウス・マルフォイ……! 私は忘れていないぞ、部下たちの無念を、犠牲者たちの苦しみを!」
「泣き言をほざいている場合か、バーテミウス・クラウチ」
ルシウスが胸ぐらを掴むと、クラウチはルシウスを睨み返した。
しかし、クラウチは無力だった。絶望。悲観。そういったものが彼からあらゆる力を奪い、ただ終わりを待つだけの存在へと追い立てようとしていた。
気に入らない。
怨敵が今、こうして腑抜けているのがあまりに滑稽で、腹立たしかった。ルシウスは手袋を口で外し、クラウチの頬を張った。
「この私がどれだけの覚悟で闇の帝王を……
「私は……」
「魔法法執行部長、バーテミウス・クラウチ・シニア! お前が立たないというのなら、一体誰がヴォルデモートを殺す!」
もちろん、半分は演技だ。
ルシウスに激昂する理由などありはしない。裏切ったのも結局は偶然の結果に過ぎない。つい最近までルシウスはヴォルデモートの臣下だった。今でもいざというときのために帰参の手段は考えている。
ただ、時に怒りは何よりも説得力を与えてくれる。
特にクラウチのような、弱りきった相手には効果的だった。よろめいたクラウチは、ゆっくりとルシウスを見上げた。
「一体、誰が……誰がお前を遣わしたんだ。死喰い人だったお前は、今、誰に仕えている」
当然の疑念だった。
ルシウスの新たな盟主は殺人や強盗ではなく、もっと貴族に相応しい仕事を命じてくれた。それだけでも、ルシウスは彼女を支える価値があると感じていた。
ダフネに勝ち目があるかはわからない。しかし、乗る価値のある舟だ。もはや乗り換えが利かないのなら、あとは目一杯その舟を漕ぐしかない。
「真に魔法界を思い、純血を憂える者。名を――ダフネ・グリーングラスと言う」
魔法界よ、その名を知るがよい。