「あなたにブラック家を継いでほしいの」
ダフネはそう願った。
アステリアはこう返した。
「いいですよ!」
振り返ることすらしなかった。髪を梳かされながら、当たり前のようにアステリアは承諾してみせた。まるでちょっとダイアゴン横丁までお使いを頼まれたくらいの気軽さだった。
ここまではダフネも予想通りだった。
アステリアはきっとすぐにはその真の意味を理解できない。ダフネとアステリア、グリーングラス家に生まれた姉妹が姉妹でなくなるということを。ダフネはそう考えていた。
説得するしかない。たとえ時間がかかっても、じっくりと話し合うしかないのだ。
しかし、アステリアの言葉は続いた。
「アークタルスおじいさまの養子に入るってことですか?」
「ええ、そうよ。つまり――」
「じゃあ、アステリア・ブラック=グリーングラスって名乗ることになるんですね。お名前、長くなっちゃいますね!」
あっけらかんと。
そう、あっけらかんと、アステリアは状況を整理してみせた。それはまるで、この計画を予想していたかのような口ぶりだった。
くるりと振り向いたアステリアは、少しいたずらげな笑みを浮かべていた。
「驚きましたか、お姉様?」
「……ええ、そうね、とっても。あなたには内緒で考えていたつもりだったのに」
アステリアはダフネにとって最大の弱点だった。
それを克服するのに一番いい手段は、アステリアが侮りがたい存在になることだ。単にマルフォイ家の庇護を受けるのではなく、ブラック家を継ぐという選択によってアステリアは純血社会の星になることができる。
ダフネは密かに計画を進めていた。もしアステリアが断れば、即座に計画を破棄するつもりでもいた。だから、無関係なハリーを除いて誰にも明かさずにことを進めてきた。
「アステリア、お姉様のお役に立ちたくていっぱいお勉強したんです。お姉様の計画のためには、仲良くできる純血の家が多ければ多いほどいいんですよね? それなら、ブラック家を存続させなきゃですよね」
思わず息を呑んだ。
その通りだ。アークタルス亡き後、ブラック家の家督はシリウスに移る。純血主義と自らの生家を嫌悪する彼が協力者になることはありえない。それならば、もっと合理的にブラック家の家名を使える者がブラック家を継いだほうが望ましい。
単にアステリアを守るだけでなく、アステリアという駒の有用性まで勘定に含めた計画。ダフネはこれを思いついた自分が心底嫌だった。妹を駒として扱う自分が醜く思えて仕方がなかった。
アステリアを守るため。その言い訳で、ダフネはアステリアを使おうとしている。
「ブラック家が存続すれば、お姉様は心強いお友達ができることになります。アステリアが養子に行けば、家同士がずっと仲良しでいられる。だって、グリーングラス家とブラック家が姉妹になったようなものですもんね?」
ああ、とダフネは息を吐いた。
知らないうちに、ダフネはアステリアのことを侮っていたのだ。籠の中のか弱い小鳥を愛でるように接していたはずが、ダフネは今小鳥が野に羽ばたく瞬間を目の当たりにしようとしている。
ダフネが思っていたよりもずっと、アステリアは強く賢い子なのだ。
「やっと、お姉様のお役に立てますね!」
アステリアは笑った。
その笑顔がたまらなく眩しくて、ダフネはアステリアをきつく抱きしめた。そうしなければ、眼が焼けてしまいそうだった。
「アステリア……ありがとう」
そう言うしかなかった。
逆だったのだ。
寂しがっているのはダフネの方だった。妹離れできていなかったのは、ダフネの方だったのだ。
腕の中で、アステリアが少しこそばゆそうにしながらダフネの胸に頬を寄せた。
「お名前が半分別の家になっちゃうのは、少しだけ寂しいですけど」
「ええ、そうね……寂しいわ、私。すごく寂しいの。あなたをこんなに早く送り出すことになってしまうなんて」
いつか、ダフネとアステリアは別れて暮らす日が来る。
お互いが家庭を持ち、妻として生きる日。それがやってくれば、姉妹ふたりきりで過ごすことは滅多になくなるだろう。望むと望まざるとにかかわらず、この時間は長い人生の一瞬に過ぎない。
だからこそ、ダフネはアステリアと過ごす時間が宝物のように大切で、それを失いたくないと思い続けていた。
寂しかった。
こんなに早く、アステリアを送り出すことになるだなんて。それも、ダフネの計画のために。
「でも、お姉様はお姉様のままでしょう?」
ダフネに抱かれながら見上げてくるアステリアは、一寸の疑いもなく己の姉を姉と呼んだ。
それは、家名などでは断ち切ることのできない絆だった。
結局のところ、ダフネは怯えていたのだ。アステリアを養子に出すことでこの絆に罅が入るのではないか、損なわれてしまうのではないか、それどころか、アステリアをひどく傷つけてしまうのではないか、と。
しかし、この純真な笑みこそが全ての答えだった。
「ええ、ええ……私はいつだってあなたの姉よ。それも、世界一自慢の姉でいなければいけないわね」
にじむ涙を誤魔化すように、ダフネはそっと目を閉じた。
「……アステリア、覚えているかしら。母様の葬儀が終わった晩、私が熱を出したわね」
「覚えてます。あの日のお姉様のおでこ、とっても熱くて。お姉様が心配で、死んじゃうんじゃないかって思って、ずっとくっついてました」
「あの時、手を握っていてくれてありがとう」
今でも昨日のことのように思い出す。
母の葬儀を終え、泣くアステリアをあやした晩のことだった。
重圧から解放されると同時に前世の記憶を取り戻して倒れたダフネが熱を出した。ダフネはなんとか自力でベッドに這い上がり、着替えもせずにそのまま熱に苦しんだ。
すると、アステリアは小さな手で一生懸命マットレスを引っ張ってダフネの眠るベッドの隣までやってきて、ずっと手を握ってくれた。
腕を伸ばし、アステリアの指にそっと触れる。
この小さな手に支えられ、励まされて、ここまでやってきた。
「アステリアにできたのはたったそれだけでした。シミーたちに用意してもらった風邪薬も効かなくて、本当に、本当に不安で……だから、お姉様が元気になってくださった時、本当に嬉しくて」
「その『それだけ』のおかげで、私は頑張れたのよ」
「本当に? じゃあ……アステリアはお姉様のお役に立ててたんですね」
アステリアは安心した様子で小さく息を吐いた。
「ずっと考えてたんです。お姉様のお役に立つにはどうすればいいのかって。だって、お姉様はとってもすごいお方です。でも、お姉様だって具合の悪い日はあるし、疲れることもある、そうでしょう?」
「私はあなたが思うほど大層な人間ではないけれど……でも、そうね。どれだけ頑張ろうと、私には弱る瞬間がある」
「はい。だから、その……アステリアにもできることがあるはず、ってずっと思ってたんです。何か、お姉様のお役に立てればと思って」
「あなたを悩ませてしまったわね。そばにいてくれるだけでも、あなたはずっと私の支えになってくれていたのよ?」
これは本当だ。
ダフネにとって、アステリアは理由であり、目的であり、帰るところだった。
アステリアは照れくさそうにはにかんで、ダフネの手を握った。
「えへへ。でも……アステリアだって、
無邪気に笑うアステリアを再び強く抱きしめて、その髪に顔を埋めた。
まだ少し残る地中海の匂い。いつか必ず、アステリアをグリフィンの背に乗せてやろう。それだけで終わるものか。姉妹で世界中を回って、面白おかしく過ごそう。
そのためには、ダフネは勝たなくてはならない。
手を惜しんでいる暇はないのだ。使えるものは妹であろうと使わなければならない。たとえ、その戦いが妹の、アステリアのための戦いだとしてもだ。
ダフネはアステリアから手を離し、ソファを下りて立った。
「――では、アステリア・グリーングラス。私の野望のため、ブラック家を継いでくれますわね?」
アステリアはソファを下り、ダフネの前に跪いた。
「仰せのままに、お姉様。アステ……
大げさな返事をしてから数秒、沈黙が漂った。その沈黙の後、アステリアはこらえきれないという様子でクスクスと笑った。
「ふふ、なんか、こう……こそばゆいですね」
「もう、決まらないわね。……でも、私達にはこれがちょうどいいのかもしれないわね」
厨房からはチキンポットパイを焼く香ばしい匂いが漂いはじめた。メインが焼き上がればもうすぐ夕食だ。庭の護りを見に行ったガウェインももうすぐ帰ってくるだろう。
「当面はアークタルス閣下から教えを請いなさい。ブラック家の名を使いこなせる当主になることを期待しているわ」
「頑張ります!」
「ええ、でも息抜きは忘れないように……さて、そうと決まれば夕食にしましょう」
ダフネは立ち上がり、アステリアの手を取った。
ダイニングに向かうまでのほんの数十秒であっても、今は触れあっていたかった。その温もりを魂に刻み込んでおきたかった。
柱時計を通り過ぎ、廊下を進み、ダイニングへ。ちょうどシミーが料理を盛り付けているところだった。いくつもの皿が浮かび、カトラリーが並べられ、フィンガーサンドイッチのバスケットと小さめの木皿がダフネの席に置かれていた。
「ああ、お嬢様方! 今お呼びに伺おうと思っていたところです」
「今日の献立は?」
「アステリアお嬢様とガウェイン坊ちゃまにはリーキとポテトのスープ、茹でたさやいんげん、チキンポットパイを。ダフネお嬢様にはシュリンプサンドとエッグサンド、付け合せにガーデンピーズをご用意しました」
「おいしそう。ご苦労様、シミー」
「もったいないお言葉です、ダフネお嬢様。……おや、お嬢様、表情が明るくなられましたな。幾分険がお取れになりました」
そうだろうか。
ダフネは思わず空いた手で頬に触れた。こんなに柔らかな笑みを浮かべるのはいつぶりだろうか。ここしばらくはあまりにも張り詰めていて、気の休まる瞬間がなかった。
自分で思っていたよりも緊張していたのかもしれない。
「シミー、伝えておきますね! 私、ブラック家の養子に入ることにしました!」
アステリアの唐突な報告にシミーは目を丸くしたが、ややあって穏やかに頷いた。
こういう時、家に仕える屋敷しもべ妖精は理解が早い。家政の一切をとりまとめる彼らは情報通で、主の決定はそれが伝えられる前から9割は事情を察している。それでいて主に忠実な彼らは人間の召使のように噂話をしたりはしない。
模範的なしもべとして、シミーは全てを承知しているかのように穏やかな表情で理解を示した。
「それはそれは……アステリアお嬢様の門出とあれば、これだけの晩餐で済ませるわけにはいきません。急ぎ、ケーキを焼くことといたしましょう」
「わあ、嬉しい! アステ……私、シミーの焼くケーキ好き!」
腰の曲がった屋敷しもべ妖精は目を細めて頷き、配膳を終えた。
「ガウェイン坊ちゃまをお呼びしたらケーキを焼いてまいりましょう。去年仕込んだシロップ漬けで林檎のタルトにいたしましょうか」
「いいわね、私も一切れもらえるかしら」
「もちろんでございます。では、御前を失礼いたします」
ぱちりと指を鳴らして、シミーはガウェインを呼びに消えていった。
椅子を引き、テーブルにつく。
クロスには染みひとつなく、カトラリーはよく磨かれていて、リーキとじゃがいものスープは香りのいい湯気を立てている。グリーングラス家のしもべは教育が行き届いた立派な者ばかりだ。
ブラック家の養子に入れば、アステリアはグリモールド・プレイス12番地である程度の時間を過ごさねばならない。未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令で、未成年の魔法使いや魔女は保護者の監督下にいなくてはならないと定められている。
そうでなくとも、アステリアには「新しいブラック家の当主」という印象を外的にも押し出してもらわねばならない。このグリーングラス家の邸宅で食事をする機会も自然と減るだろう。
だからこそ、ひとつひとつの機会を大切にしたい。
「お腹いっぱい食べなさい、アステリア。でも、ケーキの分は空けておくように」
「もちろんです!」
サラサラの髪を撫でながら、ダフネは今夜が一生の思い出になることを悟った。