ハリーは初めて、夏休みが楽しみだった。
なぜかと言えば、それは間違いなくダフネと約束をしていたからだった。たとえダーズリーの家でこき使われて嫌な思いをしようと、友達と約束があるというだけでハリーの気分は上向いた。
ポッター家の屋敷に山積みになった謎の魔法道具を集め、ロンドンにある鑑定士の店に持ち込む。そして遠縁の親戚に挨拶をする。
それだけの予定だったが、ダフネには「デート」と言われた。デート。もちろん、ただのからかいだ。それでもたった3文字のそれが何度も頭の中で響いて、結局ハリーは手持ちの服で一番上等なシャツを選んだ。
「じゃあ、アステリアはいいって言ったの?」
「ええ、なんの躊躇いもなく。……正直、ちょっと凹みますわ。ひとりで悩んでた私が馬鹿みたいじゃありませんこと?」
透け感のある黒地のワンピースのハイウェストを深いエメラルド色のベルトで締めたダフネが、厚底のブーツのおかげでいつもより少しハリーに近い高さの目線で大げさに憤慨してみせた。
どうやら、アステリアはよその家の養子に入ることに同意したらしい。
ダフネの言うことによれば、アステリアが養子に入るのは今日ハリーが挨拶に行くブラック家という家らしい。とても歴史が古く、あのルシウスですら敬意を払う相手なのだとか。
「はは……でも、それだけアステリアは君のことを信じてるんだね。別の家に行っても姉妹のままでいられるって思うから、素直に応えられたんだと思うよ」
「……もう、生意気ですわよ。えい」
歩きながらダフネが肩でぶつかってくるのを受け止めると、ふわりと花のような甘い香りがした。
ダフネに降り注ぐ強い日差しを避けるためにさした日傘の下で、ハリーは少しだけ緊張していた。ハリー自身は日焼けなどどうということもないのだが、ダフネの細い身体には今日の日差しはきつすぎる。
しかし、ひとつの傘の下にふたりで収まるこの状況は少し照れくさい。
「アステリアがブラック家を継いでくれれば、最古の純血旧家のひとつであるブラック家の家名を残すことができる。アステリアと結婚する男はブラック家を継ぐ覚悟がある者でなければなりませんわね」
「じゃあ、やっぱり純血?」
「ええ、理想を言えば。でも……アステリアが本当に想いあった相手を見つけてきたのなら、誰であろうと私は認めてしまうのでしょうね」
「意外だ、アステリアは誰にもやらないって言いそうなのに」
「アステリアが幸せになる手段が私だけになるのは健全とは言えませんわ。全人類がアステリアの幸せに貢献してくれることが私の理想ですのよ」
姉馬鹿の規模が違う。ハリーが思わず笑うと、ダフネも笑った。
純血がどうこう、家がどうこうというのはハリーにはわからない。ハリーは純血ではないし、ハリーにとって家というものは最近になって突然発生したものだからだ。
それでも、ダフネの計画がうまくいって彼女が幸せに笑えるのなら、それに越したことはないとハリーは思っていた。
傘を持っていない方の手で運んでいたトランクケースを握りなおす。革張りの立派なトランクケースは、なんとウィゼンガモット評議員だったヘンリー・ポッターが使っていたものらしい。
ダフネはハリーが運ぶ鞄にちらりと目をやって微笑んだ。
「ヘンリー・ポッターがいい品を遺してくださってよかったですわ。毀誉褒貶のつきまとう方ですが、少なくともハリーにとってはいいご先祖様ですわね」
「うん。それに、ドビーが来てくれたおかげでだいぶ楽になったよ。……マルフォイさんが怒ってないといいけど」
そう、ドビーは今ハリーに雇われている。
前学期はハリーを助けようとして散々苦しめてくれたドビーだが、ハリーの機転によってマルフォイ家をクビになった後、史上初の自由な屋敷しもべ妖精として生きていくことを選んだ。
そして、最初の
ハリーは今や自分の屋敷に使用人を持つ身分になった。
ダーズリーの連中にこれが知れたら一体どんな顔をするだろうか。日々の家事に魂まで燃やそうとしているペチュニアなど、歯噛みして悔しがるかもしれない。
しかし、ハリーがマルフォイ家から屋敷しもべ妖精を奪ったという事実は、この夏の間ハリーにとって小さくない心配事だった。
「まあ、多少は怒っているでしょうが……ルシウスおじさまもこれを機にしもべの扱い方を改めたほうがいいのだわ。ヒト以外を必要以上に軽んじるのはあの方の悪い癖ですもの」
「なんというか、それはドビーの扱いですごく感じたよ……でも、これでドラコと気まずくなるのは嫌だなあ」
「それを素直に伝えれば大丈夫だと思いますわ。なんなら私がルシウスおじさまに取りなしますわよ。……あ、ここですわ、ここ」
ハリーの腕を引っ張って立ち止まらせたダフネは、看板のかかっていない一軒のオフィスビルを指し示した。
エレベーターの前には立入禁止の看板が立っているし、元々はブラインドがかかっていたのであろう1階のガラス窓は新聞紙で塞がれている。到底人の出入りがあるとは思えない。
しかし、ダフネは平気な様子ですいすい中に入っていき、立入禁止の看板に手を当てた。
「ハリー? 入り損ねますわよ?」
「あ、うん、ちょっと待って」
ハリーは慌てて日傘を畳み、鞄を持ちなおしてダフネを追いかけた。
立入禁止の看板は背が高い長方形タイプで、ところどころに錆が浮いていた。ハリーはダフネの真似をして恐る恐る看板に手を当てた。
「予約しているダフネ・グリーングラスとハリー・ポッターですわ」
ダフネが声をかけて数秒間、沈黙が続いた。
何が起きるというのだろう。ハリーがダフネに問いかけようとした直後、ハリーの手がぐいと引っ張られた。
「う、わ」
看板がぐるりと回り、気づくとハリーは天井に立っていた。
チン、と軽やかな音が立ててエレベーターのドアが開く。そこにはぽっかりと空洞が空いていて、下りの階段が顔を覗かせていた。
「なんていうか……魔法ってすごいや」
「あら、これくらいはホグワーツで慣れっこでしょう?」
「うん、でもなんか、こう……ロンドンの片隅にあるっていうのがワクワクしない? ハグリッドと一緒に漏れ鍋に行った日を思い出すよ」
「私と初めて会った日ですわね、よく覚えていますわ」
「僕としては、少し忘れてくれると嬉しいんだけど」
階段を下りながら、ダフネがクスクスと笑った。回り込んで顔を見るまでもなく、ダフネがよくハリーに見せるいたずらな笑みを浮かべているのは確かだった。
下りきると、そこには外観からは想像できない気品のある木製の扉が待ち受けていた。ダフネが真鍮のノブを掴んで引くと、軽やかなベルの音が響いた。
不思議な店内だった。
整頓されているのに、もので溢れかえっている。ボージン・アンド・バークスに漂っていた嫌な空気とは違う、神秘的な魔法の空気がハリーを包みこんだ。
不規則に金の脚を動かして歩き回るルビーのテントウムシと黒曜石の翅をはためかせる蝶が、マホガニーの棚板に輝く八の字の軌道を残している。
棚の上にはどこか遠くの森を映している鏡がかかり、子鹿が母鹿と一緒に泉の水を飲んでいるのが見える。
そのすぐ下をホグワーツ特急にそっくりな鉄道模型が走っている。まるで本当に石炭を燃やしているように煙を上げながら、小気味良い音を立てて線路の上を進んでいる。
魔法でできた宝物を世界中から集めて、一部屋をジュエリーケース代わりに整理したような空間だった。
「――いらっしゃいませ、グリーングラス様、ポッター様」
カウンターの向こうからかけられた声に、ハリーは思わず鞄を取り落としそうになった。
座り心地のよさそうなロッキングチェアに、ほっそりとした老人が座っていた。
静かな黒い瞳がキラキラと輝いている。フリットウィックにどこか似ているが、彼よりも耳が尖っていて、眼が大きかった。
「ハーフエルフを見るのは初めてですか、ポッター様」
「あ、えっと……はい、その、ごめんなさい」
「何を謝ることがあるのです。人は誰しも珍しいものに興味を惹かれるものですよ。だから私のような商売が成り立つのです。そうでしょう、グリーングラス様」
「気にしないでくださいなハリー、ベルーはこういう人なの。腕のいい鑑定士よ」
ベルーと呼ばれた老人は、柔和な笑みを浮かべて会釈した。
「ベルーです。魔法の宝とその持ち主に仕える者、この骨董店の店主を務めております。椅子の上から失礼いたしますよ。どうも腰の調子が悪いもので」
「僕、ハリー・ポッターです。よろしく」
ハリーが手を差し出すと、ベルーは細く節くれだった指で握手に応じた。
それから、ベルーはハリーが持っているトランクケースに目をやり、薄く笑った。まるで孫が訪ねてきたのを喜ぶ老人のような笑みだった。
「ああ……懐かしい品をお持ちですな。ヘンリー・ポッター様に私の祖母がお仕立て差し上げたトランクケースだ。軽量化の魔法と簡単な検知不可能拡大呪文、表にはドラゴン革を張ったそうですが……いい手入れだ。優れたしもべをお持ちですね」
「えっと、ドビーは僕のしもべってわけじゃなくて」
「それなら、手放さないほうがよろしいでしょう。よいしもべは主の価値を証明するものです。私がそうであるように」
「はい、えっと、そうします」
ダフネに促されて、ハリーはカウンターの上にトランクケースを置いた。
留め具を外し、開く。中にぎっしりと詰まっているのは、ポッター邸で見つかった謎の魔法道具たちだ。
ベルーが棚の上からモノクルを取ってかけると、大きな瞳がますます大きく見えた。
「これが頼みたい品ですわ。どうかしら?」
「ふむ……」
白い絹の手袋をはめたベルーが、長い指先で慎重に魔法道具を取り上げた。銀製で、水鳥を模した何か。中には空洞があり、尾羽根には中に続く穴が空いていた。
「ああ、覚えております。若旦那様がお生まれになったころに当店でご購入いただいた品です。赤ん坊に魔法薬を飲ませるための水差しですな。子どもは薬を嫌がるものですが、これを通すとどんな魔法薬でも大抵は味がよくなるのです」
「若旦那様?」
「ジェームズ・ポッター様。貴方様のお父上ですよ。当店にも何度かいらっしゃいました。あそこにあるホグワーツ特急の鉄道模型がお好きで、いらっしゃるたびにずっと眺めてらっしゃった」
「じゃあ……これはお祖父さんが父さんのために買った薬用の水差しってこと?」
ベルーは深く頷いて微笑んだ。
「旦那様はそれはもう、若旦那様のためならガリオン金貨を惜しまないお方でした。当店も大変ご贔屓にしていただきましたし、あちこちで魔法道具をお買い求めになられていたようですよ」
それから、ベルーは次々に魔法道具を取り出しては解説を始めた。
赤ん坊が寝付くちょうどいい音色を勝手に奏でてくれる楽団人形。毒虫や毒蛇が寄り付かないようにしてくれる足輪。呪いを弾くおんぶ紐はアフリカ製で、カトラリーの使い方を補助しながら教えてくれるブレスレットはフランス製らしい。
それは間違いなく、愛の結晶だった。
思わず、ハリーはシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。祖父が父を愛していたこと、それはとても嬉しいし、誇らしいとも思う。
しかし、どうして自分にはそれがなかったのだろうか。
「ありがとう、ベルー。ねえハリー、これは持って帰りましょうか」
「……まあ、そうだね。これはお祖父さんが父さんのために買ったものだから、僕が勝手にどうこうするわけにはいかないよ」
「あら、あなたのお父上ならきっとあなたにこれを使ったでしょうし、あなたがあなたの子どもにこれを使うことも期待したと思いますわよ?」
「……僕の子ども?」
ダフネは柔らかに微笑んで、ハリーの腕に手を添えた。
「本来であれば、これらの道具はあなたに使われるはずだったもの。その機会がなかったのは残念ですけれど……でも、だからってあなたが使う機会のほうまで諦める必要はないのではなくて?」
「え、えっと、あー、それは、その……そう、いつかの話だよね!」
「ええ、そう、いつかの話ですわ」
ハリーの心臓は張り裂けそうなほどに脈打っていた。
「そういうことだからベルー、せっかく鑑定してもらって悪いのだけれど」
「いえいえ。いい品がいい魔術師の手に残り続けるというのは、骨董店を営む者にとって何よりの幸いです。しかし、せっかくいらっしゃったのですから、商品を見ていかれては?」
「ええ、そうするわ。ハリー、一緒に見ましょう?」
ダフネがハリーの手を取った。
緊張しながらも、ハリーはそっとその手を握り返した。商品の説明は右から左に抜けるばかりだったが、それでもこの時間がずっと続けばいいのにとすら思った。