その血は呪われている   作:海野波香

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 緊張に身を強張らせるハリーの背をそっと押しながら、ダフネはグリモールド・プレイス12番地へとやってきた。

 

「お邪魔します……うわっ」

 

 入って早々、ハリーが声を上げた。

 ビロードのカーテンの向こうで、()()()()()()()()()()()()()()が鋭い視線をハリーに向けた。しかし、彼女はしばらくハリーを見てから、不満げに鼻を鳴らしただけだった。

 

「ごきげんよう、ヴァルブルガ様」

「……私の寛容さに感謝することです。この屋敷に混じり物が足を踏み入れるなどと、あの人が知ったらなんと言っていたことか」

「丁寧なご挨拶をどうも。紹介するわ、ハリー。ヴァルブルガ・ブラックよ」

 

 ハリーがおずおずと会釈をするのを見守りながら、ダフネは内心でほっと胸を撫で下ろした。

 ヴァルブルガは1985年にはもう没していた。そこについてダフネが介入する余地はなかった。しかし、彼女の肖像画に関して言えば、まだ手の施しようがあった。

 ホグワーツの校長のような要人は別として、肖像画の中には死後に用意されるものがある。魔法族の死期を見極めるのは困難で、かといって生前に死後の写し身を用意するのは縁起が悪いという考え方もあるからだ。

 ヴァルブルガの肖像画も死後に描かれたもののひとつで、確かに聖マンゴで息を引き取る直前の彼女は原作で登場する通りの狂女だったという。

 しかし、何も()()()()()()()()()()()()のではないか。

 ダフネがいたことで、アークタルスは絶望しなかった。ブラック家の品位と尊厳は保たれるべきであるというダフネの提言を聞き入れる程度の余裕が生まれた。

 こうして、ヴァルブルガは原作よりも正気で会話の成り立つまともな女主人としてグリモールド・プレイス12番地を守るようになったというわけだ。シリウスが見たらさぞ驚くことだろう。

 

「ハリー・ポッターです、お会いできて光栄です」

「最低限の躾はできているようね。次からは身なりにも気を配るように。栄光あるブラック家の屋敷に薄汚い下民が出入りしているなどと噂されるのは耐えられません」

「ご、ごめんなさい」

「……奥で御父様がお待ちです」

 

 ダフネが目配せして手を引くと、ハリーは汗をかいて頭を下げてから奥へと歩みを進めた。

 ガス灯に照らされた廊下。床板の上にはブラック家の紋章が編み込まれたヴィンテージラグが敷かれている。品のいい緑の壁紙は、パリグリーン以前から存在する魔法界独自の顔料によるものだ。最近になって写真の額縁も増えつつある。

 原作とは違う、手入れが行き届いた美しい屋敷。きっとシリウスの記憶の中にある当時そのものか、もしくはより華やかになっている。

 

「……怖い門番がいるって教えてくれてもよかったんじゃない?」

「そうですわね、うっかりしてましたわ。あと、ちょっと正気をなくしちゃったしもべが一体いますけれど、まあ無害なのでお気になさらず」

「うーん、ちょっとだけ帰りたくなってきた」

 

 しかし、ハリーを不安にさせる時間はこれで終わりだった。

 アークタルスの指定した部屋の前に着いたダフネは、扉をノックした。ヴァルブルガに圧倒されてしまったのか、後ろでハリーがごくりと生唾を飲み込んだ。

 

「閣下、ハリー・ポッターをお連れしました」

「――よかろう、入れ」

 

 中に入る。

 何を考えてアークタルスがこの部屋を指定したのか、ダフネはおおよその見当がついていた。

 ()()()()()()で、ソファに腰かけたアークタルスが静かにハリーを待っていた。アークタルスはしばらく無言でハリーを見つめていた。

 

「ハリー、アークタルス閣下よ。閣下、こちらがハリー・ポッターですわ」

「あの、はじめまして、ハリー・ポッターです」

「その方の名は知っている。その過酷な運命についても多少は聞き及んでいる。……怖がることはない、こちらにおいで」

 

 アークタルスは立ち上がると、いくつも吊るされたドレスローブの中から一着を手に取った。

 黒を基調にし、金糸の入った風格のあるドレスローブだ。ボタンには細かなエメラルドがアクセントにあしらわれており、ハリーの髪と眼の色によく合う。少し古いデザインだが、アンティーク調としては今でも通用するだろう。

 

「鏡の前で合わせてみよ」

 

 ハリーは困惑しながらも、言われるままに受け取ったドレスローブを自分の体に重ねた。

 杖を取り出したアークタルスはおもむろに礼服の裾を調節しはじめた。

 

「ふむ、同じ年頃のレギュラスが着ていたものだが……まだ背が伸びそうだな。肩幅次第では仕立てなおしも考えたほうがよかろう。針子仕事のできるしもべが必要だ」

「はい、その、えっと……?」

「これから何かと必要になる。舞踏会用はこれでよいが……式典用にももう一着あったほうがよかろうな」

 

 混乱して鏡越しにダフネへ助けを求めてきたハリーの困りようがあまりに面白いので、ダフネは思わず笑い声を漏らしてしまった。

 

「ごめんなさい、ハリー。閣下の道楽に付き合ってあげてくださいな」

 

 今でこそ枯れきった老人の姿だが、美男美女の揃ったブラック家の当主を務めていただけのことはあり、若き日のアークタルスはそれはもう社交界の華だった。

 それゆえか、アークタルスには薔薇以外にいくつか華々しい趣味を持っている。

 着道楽はそのひとつで、自分だけでなく子孫の着る服を仕立てさせるのも彼の趣味だった。ブラック家の衣装室には着る者を失った華麗な衣類が山程保管されていた。中にはレギュラス、シリウスのネームプレートがかかったものもある。

 

「道楽などではない。この若者はあの大馬鹿者の名付け子だ。であれば、ブラック家の養い子でもある。余には相応の身なりをさせる義務があろう」

 

 明らかに言い訳ではあるのだが、あながち間違いではなかった。

 ダフネと交流していく以上、これからハリーには当主としての格が求められる瞬間が発生する。すでに話が動いている三大魔法学校対抗試合でも、生き残った男の子というよりはむしろ英国旧家の当主として見られることだろう。

 そして、仮にも孫であるシリウスが名付け親を務めたハリーをみっともない身なりで放置するのは、着道楽であるアークタルスには我慢のならないことであるらしかった。

 

「袖を通してみよ。……よろしい。袖丈が少し短いな。ダフネ、持ち帰り用に鞄の準備を」

「そんな、こんなに上等な服もらえません!」

「着て帰れとは言わぬ。しかし、その方の家格を考えればこの程度は着こなしてこそというものだ。……尤も、ポッター家の者に過ぎたる華やかさを求めるのも酷か」

 

 ハリーは持っていたハンガーを落としそうになった。

 

「ご存知なんですか、ポッター家のこと」

「無論、知っておる。この英国に余の知らぬ純血などあるものか。それどころか、その方の祖父は余の後輩だった」

「フリーモントお祖父さんが?」

 

 こればかりはダフネも初耳だった。

 確かにフリーモント・ポッターは20世紀初頭に生まれた人物だ。1901年生まれのアークタルスと近い世代で、ホグワーツの在学期間が重なってもおかしくはない。

 ハリーの首周りに合わせてジャケットの襟を調節しながら、アークタルスは懐かしそうに目を細めた。

 

「物腰は穏やかだったが、才気あふれる男だった。その方同様着飾らぬ者だったな。魔法薬の調合の腕前においては卓越していた。困っている者のために自分が調合した魔法薬を振る舞うことを躊躇わない寛大な男でもあった。その方はどうだ、魔法薬学は」

「あんまり得意じゃありません。先生との相性が悪くて」

「あら、あまり卑下するものではありませんわ。あそこまでスネイプ先生にひどい扱いを受けていてもなお授業についていけているのは、あなたの勤勉さの賜物ですわよ」

 

 ハリーが照れるように頭を掻いた。

 実際、ハリーは原作でもあのスネイプの指導を受けながら魔法薬学のふくろう試験で上から2番目に当たるEの成績を取っている。得意ではないというより、授業への苦手意識が強いのだろう。

 それがフリーモントからの遺伝か、それともリリーからの遺伝かは定かではない。しかし、代々魔法薬師であるポッター家に生まれた少年が魔法薬の才能を示すのは素敵な偶然だ。

 

「フリーモントと余の付き合いはそれほど深くはなかったが、それでも手紙のやり取り程度はあった。それゆえ、オリオン、余の倅だが、あやつも己の不良息子がポッター家で寝泊まりしても文句は言わなんだ」

「……そんなに昔から付き合いがあったんですね」

 

 ハリーが一瞬声を詰まらせた。

 わずかに表情が曇っている。ダフネにはハリーが何を言いたいかすぐにわかった。それだけの付き合いがあったのなら、なぜハリーを引き取ってくれなかったのか。そう問いたいのだろう。

 その気持ちは理解できる。ダーズリー家はハリーにとって悪夢だ。暴君の圧政に虐げられる貧民として生きてきたハリーにとって、ブラック家の存在は眩しすぎる。

 

「遠からぬ縁だ。純血であれば、あるいは養子に取ったやもしれん」

「純血って……そんなに大事なことなんですか」

「面白い質問だ。純血そのものに価値などない」

 

 どこか嘲るように笑って、アークタルスは杖を小さく揺らしジャケットの肩周りを緩めた。

 

「左様、価値などあるものか。純血とは結果だ。その方、純血を定義してみよ」

「定義? えっと……代々魔法使いと魔女が結婚している一族のことです」

「そうだ。そしてそれはつまり、代々魔法界に貢献してきたことを意味する。わかるか、若きポッター家の当主よ。純血とは紐帯だ、(よすが)だ」

 

 アークタルス・ブラックはマーリン勲章を授与されている。

 大量の献金をしたからだというシリウスの読みはさほど外れていない。アークタルスは英国魔法界に高貴な者として奉仕をした。それは、第二次世界大戦で崩壊しかけた物流網の維持だ。

 ガンプの元素変容の5つの例外が示すように、魔法で食べ物を生み出すことはできない。どんな魔法使いや魔女も物流網の影響は受ける。多額の私財を投げ売って、ブラック家は英国魔法界を飢えから救った。

 そして、それこそがアークタルスの考える純血の義務だった。

 

「なるほど、マグル生まれにも優れた魔術師はいよう。しかし、マグル生まれの魔法使いが一朝一夕で魔法界を理解し尽くせるか? 否だ。魔法界の陰影を、輪郭を理解し、歴史を紡いでいくためには、代々魔法界に仕えた者でなくてはならない」

「代々魔法界に仕えた者……」

「ブラック家を継ぐとは、そういうことだ」

 

 一瞬、アークタルスがダフネに鋭い目を向けた。

 アステリアがブラック家を継ぐことになれば、彼女はブラック家としての責務を果たさなければならない。魔法界を支える奉仕者として、その高貴さを発揮する必要がある。

 

「その方を養子にとれば、半純血のみなしごでありながらブラック家を切り盛りせねばならなんだ。摂政を任せられるような者もおらん。その苦は想像を絶するであろうよ」

 

 ややあって、アークタルスはそっとハリーの肩に節くれだった手を置いた。

 

「顔を見たいとは思っていた。許せよ、その方に重荷を背負わせたくなかったのだ。同じ思いの年寄りは決して少なくない」

「僕がヴォルデモートを倒したからですか?」

「厳密にはそうではない。その方が闇の時代を終わらせたからだ」

 

 違いがわからない様子で首を傾げるハリーを、アークタルスは懐かしそうに見つめた。

 アークタルスからすれば、ハリーはポッター家の若き当主であり、フリーモント・ポッターの孫であり、そしてジェームズ・ポッターの息子だ。

 シリウスの祖父であるアークタルスがジェームズと全く知り合わなかったとは思えない。フリーモントとの関係を考えればむしろ、シリウスがポッター家で寝泊まりしている間アークタルスがポッター家とやり取りしていたとしてもおかしくはないだろう。

 

「本当に、ジェームズ・ポッターに生き写しだ。惜しい若者を亡くしたものだ……今持っているそのモーニングコートはな、勘当された馬鹿孫めが珍しく余にわがままを言いおって、特別に仕立てさせたものよ。本来であればジェームズ・ポッターの手に渡るはずだった」

「父さんに?」

 

 ハリーが目を輝かせた。

 洒脱な黒のモーニングコートは少し流行からは外れたデザインだったが、それでも隅々まで気の利いた気品のある仕立てだった。大事に着れば何年でももつだろう。

 アークタルスに促されてハリーが袖を通すと、まるで服が息を吹き返したように柔らかく輝いて見えた。

 

「それだけでも持って帰るといい。ヴァルブルガのように身なりを整えろと文句をつけることはすまい。しかし、上等の服を着るというのはな……気分がいいのだ」

 

 アークタルスはそう言って、くつくつと笑ってみせた。

 それでハリーも気持ちが落ち着いたのか、微笑んで感謝の言葉を口にした。

 こうして、ハリーは初めて親戚と会うことができた。あまりにも遠縁ではあるが、それでもハリーにとっては間違いなく親戚だった。

 最終的にハリーはダフネが奥から見つけてきた上等なシャツに着替え、ネクタイを締め、父親のモーニングコートを羽織って、鏡の前で一回りしてみせた。

 

「ダフネ、どうかな?」

「おとぎ話の貴公子みたいですわ」

 

 いつもの快活さは華やかさに、落ち着きは気品に変わった。

 今、ハリーは旧家ポッター家の当主にふさわしい姿で、鏡の前ではにかんでいた。ダフネは一瞬、この姿を世に晒すのが惜しいとすら思った。それほどにハリーは今輝いていた。

 

「ブラックさん、その」

「大抵の者は余を閣下と呼ぶ。……しかし、その方が望むのであれば、お祖父さんと呼ぶことを許そう」

 

 ダフネは驚いてアークタルスを見つめたが、彼はただハリーの返事を待っていた。

 ここまでの親しみを見せるのは想定外だった。確かに以前から会ってみたいと口にしてはいたが、ブラック家の当主として礼節を示す程度だろうと思っていたのだ。

 しかし、アークタルスはダフネには見せない柔らかな笑みを浮かべていた。

 

「えっと、じゃあ、その……アークタルスお祖父さん」

 

 ハリーは照れくさそうにはにかんで、ゆっくりと優雅に会釈をしてみせた。それはどうやら、ドラコが叩き込んだ上流階級らしい振る舞いの一節だった。

 

「いいものをいただきました。本当にありがとうございます」

「よい、許す。その方に貢ぎたいという年寄りは山ほどいるが、余が先陣を切れたことを誇らしく思おう。……ああ、だが、余が先んじたばかりに他の者どもも押しかけるやもしれぬ」

「そんなに?」

「その方の帰還を歓迎するのに労を惜しまないという者は山程いる。そのうち紹介する機会を設けるから、その時はその服を着てくるといい」

「わかりました、ありがとうございます!」

 

 そして、ハリーを更衣室に押し込むと、アークタルスはダフネを見て静かに笑った。

 

「貴公子のようか。乙女らしい感想だ」

「閣下こそ、随分な好々爺ぶりですこと」

「わかっておらんな。余はブラック家当主としてその方に手本を示したつもりだが」

 

 ダフネはぞっとした。

 ただハリーを引き込むためだけに、アークタルスは好々爺を演じてみせた。一体何のために。

 近々シリウスが脱獄し、ブラック家の栄光はいよいよ失墜するからだ。

 もちろん、脱獄そのものを察知しているわけではない。しかし、ダフネがルシウスを使ってまで再審請求を急がせていることを見れば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことは察せてしまう。

 そして、その全てが終わった時、ハリーにはブラック家の味方でいてもらわなくてはならない。何が起きてもブラック家を安泰にするには、時代の寵児を味方につけておくのがまず何よりの得策だ。

 アステリア・ブラック=グリーングラスを筆頭とする新時代のブラック家にとってまず一番の親族がポッター家になるよう画策したのだ。

 

「……シリウス・ブラックの件、そこまで読んでおられたのですね」

「その方の動きを見れば察せられることは多い。再審請求に関して言えば、マルフォイの小倅もわざと匂わせるような動きをしよるしな」

 

 常識外れにもほどがある。アズカバンは史上一度も脱獄者の出ていない牢獄だ。それを孫が脱獄してくることを前提に計画を立てるなど、常軌を逸している。

 しかし、それをやるのがアークタルス・ブラックなのだ。

 すっかり騙されてしまった。アークタルスをよく知るダフネですら、彼の知られざる一面を見た気分になっていた。

 

「それはそれとして、いい服を着ると気分がいいのは確かよな。しばらくはその方の見立てで仕立て屋につれていくといい」

「……仰せのままに」

 

 まだまだ学ぶべきことが多い。

 ダフネは身震いしながら、薄く笑った。

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