政財界の人間は、大抵の場合行きつけの会員制クラブやバーというものを持っている。
それは何も金に飽かせて遊んでいるからというわけではない。密談、根回し、取引、そういった表には出せないあれこれを片付けるのに、会員制の空間というのはとても都合がいいのだ。
なにより、そういった場所には身元の確かな人間しか出入りしない。情報が漏洩すれば、誰がその場にいたかがすぐにわかる。そうなれば情報を漏らした人間の信用は失墜する。それを避けるために、人々は沈黙を貫く。秘密は守られる。
ルシウスもまた、そういった行きつけのクラブに出入りすることがあった。
「――左様。クラウチ氏からも聞き及んでいることかと思うが、この件については早急に進めねばならない。冤罪の可能性がある人間を一秒たりともアズカバンで勾留することがあってはならない、そうではないかね、ミス・メリフルア?」
ボックス席の向かいに座った官僚の魔女がこくこくと頷いた。暖色系の照明にも関わらず彼女の顔色は青ざめていた。
「は、仰るとおりです」
「然るに、本案件ではウィゼンガモットの判断を待つ暇はないと私は考えている。大法廷が判断を下すまで待っているうちに彼が故人になってしまえば元も子もない。よって――」
ルシウスの言葉は扉が豪快に開かれる音で遮られた。
そのクラブにいた全員が彼に目をやった。通常、このクラブでこのような騒々しい登場をすることは許されない。しかし、唯一人だけ、その横暴を非難されない人物がいる。
オーナーだ。
ルシウスと彼の関係は複雑だった。ある時は友人、ある時はライバル、ある時は同胞、ある時は敵。ただ、今の状況に関して言えばおそらく、彼――コーバン・ヤックスリーはルシウスの敵だった。
「オー、ルシウス! 探したぞ、友よ!」
「これはコーバン。随分と……楽しんだようだな」
白髪頭に厳しい太い眉。人生にくたびれつつも楽しんでいる老人にありがちな陽気さを纏いながらも、冷たいブルーの瞳が笑っているところを見た者はほとんどいない。
酒精の臭いを漂わせながら、ヤックスリーはどっかりとルシウスの隣に腰かけた。そして、そこで初めてルシウスが誰かと話しているのに気がついたような顔をした。
「おや……新しいお友達か? このクラブでは見ない顔だな」
「お初にお目にかかります、大臣室のアサーラ・メリフルアと――」
「ああー、いい、いい! 自己紹介などされてもこの頭では覚えられんからな! こまめに通って金を落としてくれればそれで十分だ!」
ヤックスリーは頭を振ってメリフルアの自己紹介を遮り、それからルシウスに親しみを帯びた視線を向けた。
しかし、ルシウスはヤックスリーがなんの目的でここに現れたのかを察している。
シリウス・ブラックの再審請求はウィゼンガモット評議員が唱えた否によって一時差止となった。裁判が行われていなかったとはいえウィゼンガモットが有罪と認めた罪人を再審に持ち込むには根拠がいる、というのが彼らの主張だ。
実際のところ、ウィゼンガモット評議員たちの主張はさほど間違ってはいない。根拠もなく再審請求ができるのなら評議員たちは今ほど暇をしていないだろう。
ところが、普段の評議員たちはわざわざ一時差止をするほど個別の案件に興味を持たない。彼らの関心はもっぱら温かいソファと香りのいいウィスキー、屋敷しもべ妖精の焼いたパイに向けられており、たかが一囚人程度に拘泥するような連中ではない。
ルシウスとクラウチという力のある名前が動いてなお反対意見を投じるのには、彼らが口にする建前の理由ではない、それなりの理由――本音の理由が必要になる。
その
「そんなことより、ルシウス! 最近は随分と羽振りがいいじゃないか。ギリシャの水がそんなに合ったのか? 羨ましいことだ」
「君こそ、私が持っていったギリシャワインは足りなかったと見える」
「ああー、あれはいいワインだった……今でも夢に見る……それよりだ! 水臭いぞ兄弟、ええ? あのクラウチをたらしこむとは、一体どんな魔法を使ったのだか!」
クラブの空気がざわついた。
ルシウスがクラウチと共通の目的を持って動いているという情報は、まだ相当に耳聡い者しか知らないはずだった。表向き、この件はクラウチが主導していることになっている。そしてルシウスとクラウチが不倶戴天の敵であることは周知の事実だ。
それをあっさりと暴露してみせたヤックスリーは、懐から葉巻入れを取り出した。
「一本どうかね」
「いや、息子が生まれた時に煙草はやめた」
「そうか。俺は吸っても?」
「もちろん」
「そりゃどうも」
ヤックスリーは葉巻を一本取り出し、杖先を当ててカットすると、先端に火を点した。たちまちのうちに重く甘ったるい煙がクラブの気品のある内装に絡みついた。
本来ならこのクラブは禁煙だ。しかし、そのルールを上回るゴールデンルールがある。ここではオーナーが法だ。ヤックスリーはここで酒を飲み、煙草を吸う。
そういった特権を振りかざすこと、自らの偉大さを示すことに関して、ヤックスリーには一切の躊躇がなかった。自分を大きく見せること、その価値についてヤックスリーは誰よりも理解している。
「それで?」
「それで、とは」
「おいおい、一から十まで言わなきゃ通じん仲でもないだろう。どこを取るつもりだ? ギリシャはちと旨味がないだろう。フランス、スペイン、イタリア……」
「何か誤解しているようだな、コーバン。私はクラウチ部長にちょっとしたご提案をして、協力させていただいているだけだ。そうだな、ミス・メリフルア」
今すぐにでも帰りたいというような顔色のメリフルアが激しく頷くと、ヤックスリーは舌を鳴らしながら首を振った。
「長い付き合いじゃないか、なあルシウス。腹を割って話そう。そこの給仕! ドライマティーニを。何を飲む?」
「……では、同じものを」
こうなったヤックスリーは梃子でも動かない。あのベラトリックス・レストレンジにすら酒を呑ませた男だ。
給仕がオリーブの入ったドライマティーニを運んでくると、ヤックスリーは給仕が差し出すよりも早くトレイの上に載せられたカクテルグラスを掴んだ。
「何に乾杯する?」
「互いの妻の健康にでも乾杯しておこう」
「そりゃいい、あいつにはいつまでも健康でいてもらわにゃならん!」
ルシウスのグラスに自分のグラスを押し当ててから、ヤックスリーはぐいとマティーニを呷った。
「っくう、たまらん」
「味わって飲む酒だろう、これは」
「酒の飲み方に法があったか? 大事なのは楽しむことだ、そうだろう? それで……どうなんだ。クラウチとは何を企んでる?」
目を爛々と輝かせて、ヤックスリーはルシウスの瞳を覗き込んだ。
それに答えず、ルシウスは静かにグラスを口元に運んだ。辛口のジンにベルモットが香り、後からレモンピールの華やかさが追いついてくる。たまにはこういう酒も悪くはない。
ヤックスリーはおそらくルシウスがクラウチと手を組んだこと、そしてシリウス・ブラックの再審請求を進めていることまでは知っている。ブラック家再興という表向きの目的も理解はしているだろう。
しかし、彼はダフネの存在にまでは辿り着いていないはずだ。ことを急ぐことでルシウスは目立った。注目はルシウスに集まっている。たかがホグワーツの女生徒にこの件で注目する者がいるとすればその人物は予見者に違いない。
少し間を置いて、ルシウスはゆっくりとヤックスリーの問いに答えた。
「シリウス・ブラックを覚えているかね」
「ああー、覚えているとも。血気盛んな跳ね返り、やんちゃ坊主。レギュラスとは光と影だったな。パーティーを脱走してオリオンがカンカンになっていた」
「我々が
「んん? まあ、そうかもしれん。言われてみりゃそうだ」
「しかし、クラウチ氏は裁判なしで彼をアズカバンに送った。そこにまだ、何か謎が残っているように思えたのだ。……コーバン。この件はクラウチ氏と
ヤックスリーは納得したように頷いて、グラスの底に沈んでいたオリーブをつまんで口に放り込んだ。
この件をきっかけとしてクラウチをダフネに引き合わせるのは事実だ。これからクラウチはヴォルデモートと戦っていくための旗頭として再起してもらわねばならない。
あえてただ
しかし、ヤックスリーはそれだけで済むほど甘い男ではない。
「しかし、しかしだ。シリウス・ブラックはお友達って
「否定はすまい。これもある種の慈善事業だ」
「慈善と来たか! その言葉はあまり好きじゃあない。
ヤックスリーは冗談めかしてそう言ったが、おそらくそれこそが彼の本音だった。
資産家、投資家、高利貸し。コーバン・ヤックスリーという男を表すのなら、ただ一枚ガリオン金貨を示せばそれでいい。金の動かし方と増やし方において天性のものを持つヤックスリーは、前回の戦争でも闇の陣営の大蔵省を担った。
そして、それはつまりヤックスリーにとって弱者とは食い物であることを意味する。ヤックスリーは弱者を搾り取る牧場主だ。彼は肥えすぎず、痩せすぎずの家畜たちを山程抱えている。
「それで? 慈善家様のルシウスは俺にも一枚噛ませてくれるんだろうな?」
「そうだな。まだ君を呼ぶ段階にはないが」
「たまには頭から仕事をしたっていい、そういう気分の日もある! わかるだろう、男にはそういう日が必要なんだ。家のことを忘れ、仕事に没頭する瞬間ってやつが魂を癒やしてくれる」
厄介だ。
ルシウスはマティーニで唇を湿らせながら思案した。
おそらく、ヤックスリーはウィゼンガモット評議員たちを金で動かしてこの件を自分のコントロール下に置こうとしている。投資家の彼にとって国際魔法協力部を掌握することは投資先が10倍にも20倍にも増えることを意味する。
しかし、ここまで強引に介入してくるということは、どうやらヤックスリーはこの件に
「それに、シリウス・ブラックが
コーバン・ヤックスリーという男は決して超人的な賢さを有するわけではない。政治のセンスで言えば二流、君主としては無能な暴君、決して能吏にもなりえない。
しかし、その嗅覚と直感に関して言えば、ルシウスにとって警戒に値する人物だった。
「なあ、ルシウス。俺は最近思うんだ。闇の帝王は本当に死んだのか?」
「……飲み過ぎだな、コーバン。家まで送ろう。ミス・メリフルア、またふくろう便を送る。くれぐれもよろしく頼むぞ」
「は、承知しました」
ルシウスが立ち上がると、ヤックスリーはぎろりとルシウスを睨んだ。
「はぐらかすなよ、兄弟。大臣室を動かしてファッジのぼんくらを動かしてまで進めたい件なんだろ? 俺の力が絶対に必要になる。話してみろって」
「お互い素面の時に話そう。このまま話してもドラコにいい土産話ができるとは思えん」
しばらく沈黙して、ヤックスリーは灰皿に葉巻を潰すように押し付けた。
恐るべき男だ。
ルシウスがクラウチと接触し、シリウス・ブラックの再審請求を動かした。それだけのことからヴォルデモートが生存している可能性を口にした。
これが並の人間なら妄想だと笑い飛ばすところだ。かつての魔法省の指揮官と死喰い人の指揮官が顔を合わせ、協力しはじめた。それだけで「実はヴォルデモートが生きていて、ふたりは対策を練るために協力しているのだ!」などと言いはじめたらそれは陰謀論だ。
しかし、ヤックスリーはこの妄想を信じて賭けられる類の投資家なのだ。直感で状況を捉え、情報を集め、そこから考えを持ち、さらに自分の考えを信じることができる。
つまり、どういうことか。
ヤックスリーはこれからヴォルデモート生存の確証を集めはじめる。分霊箱という決定打はまだ表に漏れていないが、それでもルシウスがギリシャに渡ったという点にヤックスリーはずっと関心を向けていた。遅かれ早かれ、彼は自分を納得させる。
「なあ、ルシウス。いつまでも
「そうとも。我々が組んでうまくいかなかった試しがあったかね?」
「いいや、ない! それでこそだ、兄弟」
快活に笑いながらも、ヤックスリーの目は何かを探っていた。