意外なことに、屋敷の大きさだけで言えばトランブレ家のそれはウィルトシャーのマルフォイ邸に見劣りしないものだった。
しかし、壁面に這う蔦は枯れたまま放置され、生け垣からは枝が突き出し、挙句の果てには風が運んできたらしきマグルの雑誌が土埃まみれで転がっている様を見るに、屋敷しもべ妖精が仕えている気配はなく、人の手入れすら十分ではない。
ブリジットは赤面しながらマグルの雑誌を拾い上げ投げ捨てると、困ったように眉を曲げながら笑った。
「以前は屋敷しもべ妖精がいたのですが、父が洋服を与えてしまって。入学するまでは僕が掃除をしていたのです」
「なるほど。確かに、ひとりで管理するには立派すぎるくらいに立派なお屋敷ですわね」
「
どこか他人事のような説明が、雅なフランス訛りを伴って夏の空気を揺らした。
精一杯の手入れはしたのであろう努力の跡が認められる庭園を抜け、玄関ホールへ。屋敷の有り様はともかく、ブリジットのエスコートはとても親切で、紳士的だった。
差し伸べられた手を取って、ダフネは小さな応接室に案内された。そこはどうやら元の持ち主がごく少数の親しい友人と食事を取るために作られた部屋らしく、こぢんまりとしつつも華やかで明るい印象を見る者に与えた。
「料理はあなたが?」
「僭越ながら。お口に合うといいのですが……その、何分厨房に立つのは一年ぶりだったので。もちろん、練習はしたのですが!」
「楽しみにしているわ」
キルト地の椅子に座ってダフネが微笑むと、ブリジットは少し照れたように微笑みを返して、奥の扉から出ていった。一瞬漂った柔らかなコンソメの香りから察するに、あの扉は厨房への近道なのだろう。
しばらくして、ブリジットは大きなトレイを手に戻ってきた。
「ニース風サラダに夏野菜のテリーヌ、ほうれん草のポタージュです。パンは買ったものですが、楽しんでいただければ」
「素敵、パリに来たような気分だわ。ありがとうブリジット」
「いえ、これくらい! 召し上がって下さい、ポタージュは上手くできた自信があります」
顔を赤くしながら向かいに腰かけたブリジットがフォークを取るのを見ながら、ダフネはまずサラダに取りかかった。固ゆで卵とアンチョビが入ったニース風サラダが、シンプルなワインビネガーのドレッシングによく合っている。
ダフネがおいしそうに食べている姿を見て安心したのか、ブリジットは小さく息を吐いて自分もサラダに取りかかった。
「とってもおいしいわ。ブリジットはお料理上手ね」
「上手というほどでは……」
「誇っていいことよ。魔法族は長い年月をかけてもまだ、魔法で食べ物を生み出すということに成功していない。裏を返せば、料理というのは魔法を使っても真似できない魔法だわ」
「魔法で真似できない魔法、ですか」
「ええ。たとえ杖を振らず、呪文を唱えなくとも、心を込めて作った料理には願いと祈りが籠もっている。そうでしょう?」
ブリジットははにかんで、フォークで固ゆで卵を突き刺した。
「驚きました。てっきり、先輩は非魔法的な文化はお好きでないとばかり」
「あら、それこそ驚きだわ。マグルは偉大よ」
「しかし、先輩はその、純血主義者では」
「いい質問ね。純血主義とマグル排外主義は確かにしばしば重なるけれど……」
ダフネはほうれん草のポタージュを木のスプーンでそっと掬いあげた。
なるほど、確かに純血主義者の多くはマグル排外主義だ。中にはマグルによる文化的侵略を声も高らかに糾弾し、マグル生まれを追放せよと唱える者すらいる。
しかし、それは純血主義がマグル排外主義を包含していることを必ずしも意味しない。
「私にとってね、ブリジット。マグルはマグル生まれという魅力的な人材を定期的に供給してくれる畑なのよ」
「畑、なるほど……?」
「マグル界にはマグル界の優れた知恵と技術がある。そしてマグル生まれはそれを魔法界に輸入し、経済や産業に革命をもたらしてくれる。私達純血は、マグル生まれの魔法使いや魔女が気持ちよく技術や知識を提供できる環境を作るべきだと思うの」
ブリジットは目を瞬かせた。
「先輩、それはつまり……マグル生まれを使ってマグルの知恵を吸い上げるということですか」
「その通りよ。グリフィンドールに10点」
「はは……しかし、遠大な計画ですね。きっと何十年もかかるのでは?」
「ええ、私一人なら。でも、あなたがいるでしょう?」
ダフネが笑うと、ブリジットは耳を赤くした。
この可愛い後輩はどうやらダフネに頼られることを悪しからず思っているようだった。それならば、ダフネは安心して彼女に頼ることができる。
今日ここに来たのは、単に仲の良い後輩から食事に誘われたというだけが理由ではない。
「実はね、ブリジット。あなたに手伝ってほしいことが――」
ダフネがそう言いかけた、その時だった。
ごう、と地響きが鳴った。
ポタージュの緑がかった水面が揺れたと思った次の瞬間、屋敷は激しい揺れに襲われた。テーブルの上でスプーンとフォークが音を立て、テーブルの横に立てかけてあったトレイが転がっていった。
「地震かしら、珍しいわね」
「いえ、その……すみません、少し屋敷の様子を見てきます」
煮えきらない口ぶりで席を立ったブリジットが、半ば駆けるようにして奥の扉から出ていった。
どうやらわけがありそうだ。
ダフネが耳を澄ますと、地響きに混じって何か――幼い男児の泣き声のようなものが聞こえた。それは癇癪を起こした子どもの叫びにも似ていた。
心当たりはあった。
玄関の写真立てに飾られていた写真には当主であるダミアン、その娘ブリジット、そして名前のわからない小さな男の子が写っていた。しかし、廊下に飾られていた数年後と思わしき写真には、その男の子の姿はなかった。
しばらくして、疲弊した様子のブリジットが帰ってきた。
「すみません、お待たせしてしまって……」
「気にしなくていいのよ。ご馳走になっている身で文句なんてないわ」
「お気遣い痛み入ります。その、父のコレクションの魔法道具が機嫌を悪くしていて」
「そういう嘘はあなたに似合わないわね、ブリジット」
ダフネの指摘に、ブリジットは小さく肩を揺らした。
「な、なんのことでしょう」
「弟さんは今おいくつかしら?」
「……父が喋ったのですか」
「いいえ。でも、内緒にしたいのなら写真立ては隠しておくべきだったわね」
ブリジットは向かいの椅子に崩れ落ちるように座り、大きく息を吐いた。
いつも活力に満ち溢れた無鉄砲なブリジットがここまで弱った姿を見せるのは初めてのことだった。ダフネの前ではいつも礼儀正しく、背筋を伸ばしていた彼女が、取り繕う余裕もないほど疲れている。
「……アデラールだって、昔は普通の子どもだったんです。しかし、あの子の内側に秘められている膨大な魔力があの子の肉体を傷つけていると、癒者が」
オブスキュリアルだ。
肉体を蝕む闇の力、オブスキュラス。それを宿した子どもはその力に苛まれ、やがて命を落とす。そして肉体の軛から解き放たれたオブスキュラスは力を爆発させ、それは災害となる。
魔法族はまだオブスキュラスの扱いについて意思決定を統一できていない。実権を握る純血旧家の魔術師たちほど、我が子や孫がオブスキュリアルになってしまったらという恐怖を鮮明に理解しているからだ。
未発達なうちに殺処分すればいいと口で言うのは簡単だ。しかし、我が子にそれを施すことができるだろうか?
ブリジットはテーブルに肘をつき、頭を抱え、掠れた声で小さくこぼした。
「あの子は……あの子は、外の世界に憧れているんです。……僕が先輩の話をしてしまったせいで、今日は朝から荒れていて。会いたいと言って聞かなくて」
「よくってよ。会いに行きましょう」
「そんな、危険です!」
「あなたもそろそろホグワーツで慣れたころだと思っていたけれど。魔法界に安全な場所なんて案外ないものよ。でも、ポタージュは冷める前にいただいたほうがよさそうね?」
ダフネがほうれん草のポタージュに取り掛かると、ブリジットは顔を上げた。
不思議な表情だった。期待しているようでもあり、戸惑っているようでもあった。彼女はダフネに何を望んでいるのだろうか。
できる限りのことはしてやりたいと考えていた。ダフネにとってブリジットは腹心となるべき存在だ。彼女を救うための手は惜しまない。
ポタージュの皿をパンで拭ったころには、ブリジットはいつもどおりの礼儀正しさを取り戻していた。
「本当に、よろしいのですか?」
「もちろんよ。ご自宅にお邪魔したのだもの、ご家族に挨拶に伺うのは当然のことだわ」
「それは、その、そうかもしれませんが……」
「さ、案内してくださる?」
ブリジットは渋々といった様子でダフネの手を取った。
それからふたりは長い廊下を進み、階段を下った。壁の向こうで水が滴る音がする。地下に進んでいるのだ。階段は見かけよりも長く、魔法で拡張されていた。
不自然に広いその空間で、ひとりの男の子がつまらなそうに積み木を眺めていた。
「……アデラール」
男の子は顔を上げずにフランス語で返事をした。
「アデラール、お客様の前だ。お行儀よくしなさい」
ブリジットの呼びかけに男の子はようやく顔を上げ、そしてダフネの姿を目にした。
その途端、男の子はぱっと表情を明るくして立ち上がり、ブリジットとダフネのところまで駆け寄ってきた。しかし、彼は途中で何かに弾かれるように転んでしまった。まるで、透明な壁に阻まれたかのように。
「……すみません、父が施した護りです。父の許しがなければ行き来はできないようになっていて」
ブリジットは悔しそうに唇を噛んだ。
男の子はそれでもめげずに立ち上がり、手探りで見えない壁を見つけると、そのすぐ手前に立ってぺこりと頭を下げた。そして、たどたどしい英語で自己紹介を始めた。
「ぁじめまして、僕、アデラール。5歳」
「はじめまして、アデラール。ダフネ・グリーングラスよ。あなたのお姉さんよりひとつ年上なの。よろしくね」
ダフネが微笑むと、アデラールはにっこりと笑った。
「アディ、計算できる! ねえねよりひとつ、13歳!」
「賢い子ね。そうよ、13歳」
「算数、好き! アディね、かけ算できるよ!」
「まあ、それはすごい!」
どこからどう見ても普通の子どもだった。地下の冷たい座敷牢に押し込められるべき存在とは思えなかった。しかし、それでもアデラールの内側にはオブスキュラスが潜んでいる。
アデラールは嬉しそうに声を上げて笑い、それから指先で透明な壁をなぞった。
「アディね、ねえねからダフネのお話聞いたの。怖い呪いで、いたいいたいだけど、でもすごいんだよね?」
「……ふふ、そうね。私はこわーい呪いにかかっているのよ。でも、呪いに負けたりなんかしない」
「すごいなあ。アディもね、負けたくないんだ。でも、チクチクしたり、ゾワゾワしたりすると、ぐらぐらーってしちゃうの……」
オブスキュリアルと血の呪いには、ある共通点がある。
それは、今のところ救う手段が見つかっていないということだ。オブスキュリアルはいずれ死ぬ。血の呪いはいずれ獣に堕ちる。この運命を回避する手立ては誰も見つけられていない。
ダフネはアデラールを無責任に勇気づける気はなかった。彼を救うのはダフネではない。ダフネにはオブスキュラスの研究に寄り道をしている暇はないからだ。
しかし、可愛い後輩の可愛い弟だ。一時の無聊を慰めるくらいのことはしてもいいはずだった。
「でもね、アディ。負けちゃいけないなんてルールはないのよ? 大事なのはあなたがどれだけ笑顔でいられるか。そうじゃない?」
「笑顔……」
「きっとあなたのお姉さんもそう思っているはずだわ。そうでしょう、ブリジット」
「……ええ。笑顔でいてくれれば、それ以上は何も望まないよ、アディ」
アデラールは不思議そうに首を傾げて、それでも頷いた。
「また来てくれる?」
「ええ、また」
「やった! アディね、待ってる!」
ダフネが手を振ると、アデラールは大きく手を振り返した。
階段を昇り、元の部屋に戻るまでの間、ブリジットはずっと沈黙していた。もしかすると、余計なことをしたかもしれない。アデラールに希望を持たせてしまった。
それでも、ダフネはそうしたかった。
「……先輩」
「何かしら、ブリジット」
「その……ありがとうございます。あの子を人として扱ってくださって」
ブリジットの声はわずかに湿っていた。
ダフネは何も言わず、エスコートするブリジットの手を優しく握り返した。