その血は呪われている   作:海野波香

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 アズカバンを脱走し、北海を渡り、人目を忍んでグリモールド・プレイス12番地へと帰ってきた――この屋敷に帰ってきたなどという言い方をしたくはなかったが――シリウスは、目を剥いた。

 屋敷は自分が暮らしていたときよりも美しくなっていた。壁紙は貼り直され、床板は軋まず、挙句の果てに知らない子どもの写真が飾られている。

 シリウスはおっかなびっくり屋敷の奥に進んだ。

 しかし、その歩みは早々に縫い止められた。懐かしき母の罵声が耳に届いたからだ。

 

「――シリウス・ブラック!」

「ッ! ババア! ……なんだ、絵か」

「なんだとはなんです! そのような身なりでこのブラック邸に上がって、恥ずかしくないのですか!」

 

 我が母、ヴァルブルガの肖像画が怒鳴り散らすのに眉を顰めながら、シリウスは肖像画の前を通り過ぎようとした。

 

「私がどれだけ心配したことか!」

 

 しかし、この腹立たしい一言にシリウスは苛立ち、再び絵画の前に戻った。

 

「お言葉ですがね、母上。あんたが私を心配したようなことは一度もなかったと確かに記憶しているが」

「この恩知らずの馬鹿息子!」

「確かに私は馬鹿だったかもしれないが……生憎と、ない恩を知るほど愚かになったつもりはないぞ!」

 

 シリウスは内心で己の愚かさを再び罵った。

 ピーター・ペティグリューを信じたこと。それこそがシリウス・ブラックの人生で最大の汚点だった。シリウスは間違えたのだ。自ら秘密の守り人になっていれば、ジェームズとリリーは死なずに済んだ。

 しかし、今こそ復讐の時だ。

 ピーターが生きているとわかった以上、シリウスはこんな黴臭い――少なくとも、かつては黴臭かった屋敷に用などなかった。

 

「心配せずとも忘れ物を取ったらすぐに出る。それで満足だろう?」

「……いいえ、満足でなどあるものですか。奥で義父上がお待ちです」

「おいおい、あの人まだ生きてたのか……」

 

 シリウスは思わず頬を引きつらせた。

 アークタルスはシリウスにとって一番苦手な家族だった。彼はシリウスのマグル贔屓を否定しなかったし、家出してポッター家に寝泊まりするようになった時は荷物を送ってくれさえした。しかし、そのどこまでも伸びる腕がシリウスには不気味に思えた。

 そして、そのアークタルスが今シリウスを奥で待っているという。一体どのようにしてシリウスの脱獄を予見したというのか。やはり不気味な老人だった。

 

「脱獄した私を見て心臓が止まる、なんてのはごめんだぞ。私はただひとりしか殺す気はない」

「失礼なことを。さっさと行きなさい。()()()も待っています」

「あの子? ……まさかとは思うが、レギュラス坊やじゃないだろうな。あいつの肖像画も飾ってあるのか?」

「どの口でレギュラスの名を呼ぶのです、この愚か者! ああもう、うんざりしました。クリーチャー! カーテンを閉めて頂戴!」

 

 パチン、と指を鳴らす音がすると同時に、ヴァルブルガの絵画は厚手の黒いカーテンで覆われた。

 そして、その陰から現れたのはブラック家に仕える屋敷しもべ妖精のクリーチャーだ。クリーチャーは曲がった腰で這うように歩きながら、冷たい目でシリウスを見上げた。

 

「お帰りなさいませ、血を裏切りしお坊ちゃま」

「お前のことだからお帰り下さいませくらいは言うと思ったがな、クリーチャー。それで、あのじいさんはどこで待ってるんだ?」

「ご案内いたします」

 

 クリーチャーの先導で、シリウスは屋敷の奥へと進んだ。

 我が家のはずが、我が家でないようだった。12年間の獄中生活のうちに記憶が捻じくれたか、そうでなければブラック家がかつての栄光を取り戻したかのようだった。

 一瞬、シリウスは足を止めて飾られている写真に目をやった。そこには見覚えのない黒髪の少女、そしてその隣ではにかむ()()()()()()()()()()()()()が写っていた。

 

「――これは、まさか」

「ハリー・ポッター様とダフネ・グリーングラス様のお写真です。混血の王子様と呪われた血のお姫様がこの屋敷の美しさを取り戻してくださった、クリーチャーは感謝申し上げなければならない……」

「待て、どういうことだクリーチャー。ハリーがここに出入りしてるのか!?」

「大旦那様が全てをお話しになるそうです。この奥です、血を裏切りしシリウス坊ちゃま」

 

 大仰に会釈したクリーチャーが姿を消し、シリウスは扉の前でひとり残された。そこはアークタルスがオリオンに譲った当主の執務室だった。

 混乱しながらも、シリウスはゆっくりと扉を押し開けた。

 

「――わかるか、アステリア。ただ施せばよいというものではない。何を求めているのか、そして何を与えるべきなのか。それを考えることこそが……来たか」

 

 不思議な光景だった。

 黒檀の上等な執務机に向かっているのはアークタルスでもオリオンでもなく、先程写真に写っていた女の子によく似た少女だった。そして、アークタルスはその後ろから彼女の手を取り、何かを教えていた。

 アークタルスがゆっくりと顔を上げ、シリウスの姿を眺めた。12年の歳月のうちに彼はますます老いたように見える。しかし、衰えたとは感じなかった。むしろ、以前よりも瞳に力がこもっていた。

 一瞬の沈黙。それはふたりを隔てる永遠の闇のようだった。

 ややあって、アークタルスが口を開いた。

 

「痩せたな」

「痩せもします」

「12年も経ったか」

「ええ、12年獄中にいました。……その子は?」

 

 シリウスが問いかけると、女の子はアークタルスに許可を求めるように彼を見上げた。

 アークタルスが頷くと、女の子は小さく華奢な体に合わない大きな椅子から飛び降りて机の前に回り、シリウスに向かって綺麗なお辞儀をしてみせた。

 

「お初にお目にかかります、シリウス()()。アステリア・ブラック=グリーングラスと申します」

「……なんだって? おいじいさん、冗談が過ぎるぞ」

「こともあろうにお前が自己弁護もせず投獄されおったからな、この家の跡継ぎが必要になったのだ。法的にはお前の妹ということになる」

 

 妹。

 シリウスは一瞬胸のうちに煮えたぎる憎悪も忘れて、目の前で少し困ったようにはにかむアステリアに目をやった。控えめな表情とは裏腹に、瞳はキラキラと輝いている。

 編んで肩に流した黒髪は艶があり、よく手入れされているのを感じる。瞳は若葉色で、頬には生き生きとした朱が差している。

 誰かに似ている。シリウスはアズカバンの獄中で何度も思い出した学生時代の記憶を辿り、ひとつの答えに辿り着いた。

 

「まさか……イオ先輩の娘か?」

「はい、イオ・グリーングラスは私の母です!」

「じゃあ……そうか、先輩は逝ったのか。すまない、辛いことを思い出させた」

 

 面白い先輩だった。

 血の呪いを変身術のアプローチから解呪することを目指し、変身術については学年トップの成績だった。シリウスたちが密かに動物もどきの勉強をしていることを見抜き、いくらかの助言を与えてくれたこともある。

 シリウスは静かに目を閉じ、しばしお世話になった先輩に黙祷を捧げた。

 辛く苦しい獄中生活の最中でも、学生時代の思い出だけは輝いていた。そして、だからこそ復讐の炎は盛んにシリウスの胸を焦がしたのだ。

 シリウスは目を開き、膝を曲げてアステリアに目線を合わせた。

 

「……それで、お嬢さんはこのじいさんの養子に?」

「はい! お姉様にブラック家を継いでほしいと頼まれたので!」

「姉がいるのか」

「――ええ、ここに」

 

 背後からかけられた声に思わずシリウスは飛び退いて拳を構えた。

 アステリアによく似た少女が扉のすぐ前に立っていた。アステリアよりも表情は大人びていて、それでいて微笑みの奥に悪戯げな色が滲んでいる。 

 シリウスはすぐに気づいた。ハリーと一緒に写真に写っていたのは彼女だ。シリウスがゆっくりと拳を下ろすと、少女は頷いて口を開いた。

 

「はじめまして、シリウス・ブラック。ダフネ・グリーングラスですわ。シリウスと呼んでも?」

「……ああ、もちろんだ。ブラックと呼ばれるよりはずっといい」

 

 アークタルスが呆れたように鼻を鳴らしたが、何も言わなかった。

 

「それで、シリウス。あなたは本当に最悪のタイミングで脱獄してくれましたわね」

「君たちに迷惑はかけない。黙っていてくれるのであればだが」

「すでに迷惑がかかっているのです。……まったく。あと1週間我慢していてくれれば、ウィゼンガモットにあなたの再審請求を呑ませられたかもしれないのに」

 

 シリウスは一瞬、自分の頭がおかしくなったのかと思った。

 

「君は……何を言っているんだ? 再審請求? はは、じいさんの仕込みか? 面白くない冗談だ!」

「ピーター・ペティグリューは生きている」

 

 そして、今度こそシリウスは確信した。

 やはり自分はアズカバンで正気を失ったのだ。今見ているのは都合の良すぎる幻覚で、本当は脱獄にも失敗したのかもしれない。いや、もしかするとここは死後の世界なのだろうか。

 それでもシリウスは、ピーターという名前に反応した。それこそがシリウスの正気を繋ぎ止めた唯一の執着だったからだ。

 

「なぜそれを……いや、待て、そうか! 君たちはイオ先輩の娘だ! そうなんだな! ()()()()()()()!」

 

 イオは動物もどきになろうとするジェームズたちにとってのアドバイザーだった。

 そして、それはつまり、イオはジェームズたち――ピーターも含めた三人が動物もどきであることを知っていることを意味する。もしくは、その娘たちが知っていることも。

 鈍った頭の中でパズルが組み立っていく音がする。

 

「ふふ、なんのことやらですわね。……大っぴらにそのことを語れば、故人であるジェームズ・ポッター氏の勇名を辱めることになります。ペティグリューを逃さず捕縛するために私は細心の注意を払う必要があった。それなのに……」

 

 ダフネが腰に手を当てた。それはイオが怒っている時によくやる仕草にそっくりだった。

 

「あなたが脱獄したせいで全ての計算が狂いましたわ。責任を取ってくださる?」

「な……私がどれだけの思いで脱獄したと思っているんだ! ペティグリューを殺すため、ただそれだけのために私はイギリスに舞い戻ったんだぞ!」

「そのペティグリューに適切な法の裁きを執行し、ヴォルデモートから手駒を奪う策をあなたが台無しにしたと言っているのですわ」

 

 何が何やら、シリウスは頭が爆発しそうだった。

 復讐のためと決死の思いで脱獄してみれば、ブラック家は美しさを取り戻し、知らない義妹ができていて、しかもその姉が自分の再審請求を進めていた。目的はピーターを投獄することで死んだはずのヴォルデモートから手駒を奪うためだと言う。

 

「……とはいえ、まずは労うべきですわね。12年間の獄中生活、本当にお疲れさまでした。あなたが生きて戻ったことを心から嬉しく思いますわ」

「あ、ああ。……待て。君は、戦っているのか? つまり、ヴォルデモートと?」

「ええ。ヴォルデモートは生きていますのよ。そして私は純血旧家が再びやつに屈することがないよう、アークタルス閣下の協力を得て団結と結束へと導いている最中です」

 

 あまりの情報の多さにシリウスは言葉を失った。その様子を見かねて、アークタルスが大きく息を吐いた。

 

「食事にしよう。ダフネ、その方の報告は食事の席で聞く」

「承知いたしましたわ、閣下」

「報告って……まさか、この子に後ろ暗い仕事をさせてるんじゃないだろうな!」

「お馬鹿さん。つい先程まで私は魔法法執行部のオフィスにいましたのよ。いずれ始まるあなたの捜査をできる限り遅延してもらうための根回しにいっていましたの」

 

 開いた口が塞がらなかった。

 あっさり言ってのけたが、この少女は魔法法執行部に不正を働かせることに成功したのだ。それは13歳やそこらの女の子にできることではなかった。

 

「君は……何者なんだ?」

 

 ダフネは腰から手を下ろし、小さく笑って答えた。

 

「ダフネ・グリーングラス。あなたの名付け子ハリー・ポッターの親友で、魔法界の未来を憂う小さな女の子ですわ」

「……まあ、ハリーの友達なら悪い子じゃないんだろう」

 

 シリウスが手を差し出すと、ダフネは握手に応えた。小さな手だが、12年間牢獄にいたシリウスにとっては振り回されそうなほど力強かった。

 

「ひとつだけ聞かせてくれ」

「なんでしょう?」

「ハリーは……どんな子だ?」

 

 その問いかけに、ダフネは大輪の笑顔を咲かせた。この質問をずっと待っていたとでも言いたげだった。きっと彼女はハリーのことを心から大切に思っているのだろう。

 

「そうですね……勇敢で、誠実で、思いやりの心があり、誰かのために一生懸命になることができて、でも時々無鉄砲で、鈍感だったりもして……何を食べさせても美味しそうに食べるから料理の作り甲斐がないんですの。でも、そういうところも可愛かったりして……」

「……お嬢さん、アステリアと言ったかな」

「はい、何でしょう!」

「君のお姉さんは、その、いつもこうなのか?」

 

 少し困ったように笑ったアステリアは、小さく頷いてみせた。

 シリウスは安心して息を吐いた。沢山の後悔と絶望の中で生きてきたが、少なくとも親友の忘れ形見は今幸せに生きているらしい。




余談。

1959年生まれのシリウスは1981年に投獄されたわけで、22歳から34歳までを獄中で過ごしていました。さらに言えば1978年から1981年の間は不死鳥の騎士団の団員として、友人も信用できないような極限のストレス下で戦い続けていました。
彼は言ってみれば帰還兵のようなものです。たとえ吸魂鬼の影響を最低限に抑えられたとしても、彼の理性は獄中生活で大いに蝕まれたことでしょう。
それでも頑張って親友の忘れ形見のためによき保護者として振る舞おうとするシリウスのことが大好きです。その心意気だけでも彼はとても立派で、尊敬に値する人物です。

純血主義にスポットライトを当てる本作ではシリウスの悪い部分、弱い部分、苦手な部分が照らし出されることもあるかと思います。
それでも忘れないでほしいのは、私はシリウスに幸せな結末を勝ち取ってほしいと願っているということです。
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