時は半日前に遡る。
早朝、ダフネはガウェインを伴ってパイアス・シックネスの家を訪ねていた。突然の、しかも不躾な時間帯の訪問にもかかわらず、パイアスは微笑んでダフネとガウェインを歓迎した。
「甘いものばかり口にする僕だが、朝はコーヒーと決めていてね。淹れるのは妻のほうが上手かったのだけれど、僕も段々魔法を使わずにコーヒーを淹れるコツを掴んできた。砂糖とミルクは?」
「お気遣いなく」
「そうか。どうやら早く本題に入るべき状況のようだ。聞かせてくれるかな、君たちが一体どのような報せを運んできたのかを」
マグカップを傾けながら、パイアスはゆったりと頷いた。
それに対し、ダフネは昨日の日刊予言者新聞を取り出し、ダイニングテーブルに広げた。ウィーズリー家がガリオンくじを当ててエジプト旅行へ向かったという微笑ましい記事だ。
ダフネはその写真に写っている小さな老いたネズミを指し示した。
「こちらのネズミはウィーズリー家で12年間飼育されています」
「ふむ、長生きだね」
「ええ、あまりにも長生きです。私とガウェインは、このネズミが未登録の動物もどきであると考えています。そして、その人物は故人だと思われていたある魔法使いです」
ダフネは鞄から1枚の写真を取り出した。
ダンブルドアからもらった変身術クラブの写真だ。
イオ・グリーングラスが中心で胸を張り、その後ろでからかうように腕を伸ばしているのがジェームズ・ポッター。バレないうちにシャッターを切れと合図しているのがシリウス・ブラック。そして、その横でクスクスと笑っているのがピーター・ペティグリュー。
静かにコーヒーを飲んでいたパイアスが、形のいい眉を曲げた。
「……ありえない話ではないね。確かに、このネズミは指が一本欠けている」
「ペティグリューの死体は指一本しか発見されていません。そうですわね? 母は誰がなんの動物もどきだったかについては記録を残しませんでした。しかし、母の研究記録にはネズミの動物もどきが登場しますの」
「興味深い指摘だ。しかし、なぜ今なのかな? 君はウィーズリー家と親交がある。この写真を見て初めて気づいたというわけでもないだろう」
暗に意図を明かせと促すパイアスに、ダフネは返事をする代わりにガウェインを見上げた。
「副長、実は残念な報告が」
「聞かせてくれ」
「シリウス・ブラックが脱獄しました。牢にこれが」
ガウェインは湿気た新聞紙と、錆で削られた犬の毛を差し出した。
深夜、ガウェインはダフネの依頼でアズカバンを確認しに行った。ペティグリューが日刊予言者新聞に載ること、これがタイムリミットであることを理解していたダフネは、なんとか現場を押さえて説得するつもりでいたのだ。
しかし、ガウェインが牢に着いたころにはそこはもうもぬけの殻だった。
「……ああ、なるほど。ようやく頭が追いついた。すまない、寝起きなものでね。シリウスは冤罪で投獄されたが、ペティグリューの写真を見て復讐のために脱獄した。彼もまた動物もどきだった。そういうことかな、ダフネ?」
「おっしゃるとおりですわ」
パイアスはマグカップを置き、小さく杖を振った。すると、部屋の奥から何枚かの羊皮紙が飛んできた。パイアスはそれをダイニングテーブルの上に広げた。
それはどうやら報告書のようだった。日付は12年前のものだ。
ダフネはその報告書に素早く目を通した。シリウスが逮捕されたその日の報告書だ。12人のマグルが爆殺されたことが記されている。そして、その報告書は魔法事故惨事部によって提出されている。書いたのはコーネリウス・ファッジ、当時の魔法事故惨事部の副長だ。
「バーティが再審請求の準備をしてほしいと僕に頼んできてね。色々と調べていたが、どうやら水泡に帰したようだ。ウィゼンガモットに再審請求を蹴る口実を与えてしまった」
シリウスを牢に戻すことはできない。
英国魔法界唯一の牢獄であるアズカバンはウィゼンガモットの管轄だ。ルシウスもウィゼンガモットにはそれなりの影響力を有しているが、この一件ではヤックスリーに綱引きで負けている。
万が一にでもシリウスが牢を出ていた期間があることが露見すれば、ルシウスはウィゼンガモットへの影響力を大きく損なうことになる。ダフネはまだその手札を失う気にはなれなかった。
そもそも、シリウスが牢に戻ることに同意するとも思えない。だから、ここからは彼が脱獄して戻らないことを前提に動く必要がある。
そして、そのためにはパイアス・シックネスの力が必要だった。
「副長、彼を救う必要があります」
「ふむ、それはなぜ?」
「なぜって……」
ガウェインを静かに見つめながら、パイアスは小さく首を傾げた。
「なるほど、確かに冤罪は許されることではない。シリウス・ブラックの名誉は回復されるべきだろう。しかし、僕達は魔法法執行部だ。脱獄という罪を問う立場であって、ウィゼンガモット法廷の犠牲者を救う立場ではない」
「それは、おっしゃるとおりですが」
「さらに言えば、アズカバンはウィゼンガモットの管轄であって魔法法執行部の管轄ではない。囚人のひとりひとりに気を配ろうというのはね、越権行為だよ」
もっともな指摘だった。
シリウスは救われて然るべき存在だ。それは間違いない。彼は裏切りと間違いによって苦しめられた被害者であって、間違っても凶悪な闇の殺人鬼などではない。
しかし、同時にシリウスはアズカバンから脱獄するという明確な罪を犯している。彼は無実を主張したわけでもないし、囚人の権利である再審請求を行ったわけでもない。
しばらくガウェインが沈黙していると、パイアスは小さくクスリと笑った。
「ごめん、意地悪が過ぎたね。越権行為であり立場上容認できないという前提を無視すれば、僕も彼を救うことには賛成だ。だから、教えてほしい。なぜ彼を救う必要があるのか」
「それはつまり、前提を無視してでも彼を救う価値があればご協力いただけるということですわね?」
「もちろんだとも。おじさんは汚い大人だからね」
ダフネは頷いて、鞄からモーク革のポーチを取り出した。そして、その中に入っていたもの――スリザリンのロケットをダイニングテーブルに置いた。
「これは?」
「サラザール・スリザリンのロケットです。蛇語でしか開かず、かつてはスリザリンの秘密がここに封じられていたと考えられています。しかし、今は別のものがここに巣食っています」
「ふむ」
パイアスは静かにダフネがすることを見守っていた。
鞄からゴブリン銀製の豚の蹄を取り出し、スリザリンのロケットの上にかざす。磁石を無理やりくっつけるような強い抵抗を感じながら、ダフネは豚の蹄をロケットに振り下ろした。
その途端、つんざくような悲鳴が響いた。
ガウェインとパイアスは素早く杖を構えた。ダフネが空いた手で危険はないと示したが、それでもふたりの闇祓いはロケットの上に現れた影に警戒心を隠さなかった。
青白い肌。火事に遭った蝋人形のように爛れた顔。赤く光る瞳。かつては端正な顔立ちだったことを思わせつつも、だからこそ見る者の心を縮み上がらせる不気味さ。
半透明のそれはまるで焼印を捺されているように身を捩り、苦悶していた。
「……ダフネ、説明してくれるかな。これは闇祓いなら誰もが記憶している姿だ。例のあの人は僕にとっても十分に恐怖の対象だよ」
「これは、ヴォルデモートの分霊箱です」
「分霊箱?」
「魂を分割し、物品に宿すことで死を免れる闇の魔法ですわ。このロケットにはヴォルデモートの魂が収められているということです」
ダフネが豚の蹄をロケットから外すと、魂の姿は霞のように消え去った。息を吐いたパイアスはゆっくりと杖を下ろした。
「例のあの人が生きているんだね」
「ええ。……先の戦争で多くの純血旧家が闇の陣営に下りました。次の戦争で同じことを繰り返せば、純血の地位はいよいよ失墜する。シリウス・ブラックは世間に広まった純血旧家への偏見を払拭する鍵となりうる人物ですわ」
「……なるほど。君は次の戦争で全ての純血をこちら側につけたいのか」
「おっしゃるとおりです。私は全ての純血を救うつもりでいますわ」
「大胆に出たね」
パイアスはもう一度大きく息を吐いて、眉根を揉みしだいた。
もちろん、シリウスは実家を嫌悪している。単純に説得しようとしたところで、彼がブラック家の人間として動くことは絶対にないだろう。
しかし、シリウスという純血らしくない純血が無罪を勝ち取ったうえでヴォルデモートに対抗する姿勢を示せば、そこに連帯する姿勢を見せる純血旧家は少なからず現れる。アボット、ロングボトム、ウィーズリーのような前回光の陣営で戦った家々だ。
そして、最終的にふたつの集団が同じ敵を前にして団結すれば、純血は大きな派閥となる。
ヴォルデモートは強大な敵だ。極めて危険だ。
ややあって、パイアスは小さく頷いた。
「わかった。緊急時には緊急時の対応が必要だ。計画を教えてくれるかな」
「シリウス・ブラックの脱獄は近く露見しますわ。私はメディアを操作し、シリウス・ブラックの罪状についての疑惑を世論に広めようと考えています。すでにルシウスがその方向で動いてくれていますわ」
シリウスの再審請求が間に合わないと判断したルシウスは、すぐさま次の一手を打った。それはシリウスの罪状が本当に正しかったのかについて疑惑を報じさせるという手だ。
他でもない当時の魔法法執行部長クラウチが協力していることもあって、資料は豊富に集まった。日刊予言者新聞はすぐに飛びついた。シリウスの脱獄と同時にこの一件を報じれば、この記事を担当しているリポーターのベティ・ブレイズウェイトは一気に人気記者だ。
しかし、この計画は順調とは言えない。
「再審請求を阻んでいた層がいますの。ウィゼンガモットの一部、コーバン・ヤックスリーと癒着している層が抵抗した。おそらく、ヤックスリーは自分がシリウスの背後関係を洗うまでの時間を稼ぎたかったのでしょう」
ヤックスリーはルシウスと対立しているわけではない。少なくとも今のところ、彼はルシウスの友人として振る舞っている。両派閥の距離はとても近い。
しかし、同時にヤックスリーは利益に目敏い投資家だ。
ルシウスがクラウチと連携していることに気づけば、そこに大きな変化のうねりを見出すだろう。そして、彼は判断を迫られた。だから、彼は投資家としてやるべきこと――情報収集に専念した。
ヤックスリーの妨害工作が続いているうちは、ダフネも安心して動くことができた。ヤックスリーがヴォルデモートの生存に辿りつかないうちは彼を一派閥の長として扱うことができる。元死喰い人としてではなく、だ。
「ふむ。そうなると、ヤックスリーにとっては好都合な状況になるね」
「それだけではありませんわ。ヤックスリー閥の評議員は反ダンブルドアです。これを口実にホグワーツの自治に干渉してもおかしくはないと思いませんこと?」
「世間的にシリウスは狂った死喰い人だと思われている。ハリーに復讐するために脱獄したと考えて、ホグワーツに人員……いや、違うな。吸魂鬼を送り込む。彼らならそれくらいはやるだろう」
パイアスは立ち上がって杖を振り、暖炉に火を入れた。
「ペティグリューをいつ押さえる?」
「彼の逃亡能力は本物です。エジプトで逃げられると厄介ですわ。確実に逃げられない場所……ホグワーツで追い詰めたいと考えています」
「策はあるんだね?」
「
ピーター・ペティグリューを確実に確保する策はある。
とても姑息で、邪悪な策だ。復讐心に身を焦がすシリウスですらこの策を聞けば反対するだろう。しかし、ダフネにはそれを成し遂げる覚悟がある。
「じゃあ、新学期が始まるまで捜査を撹乱するとしようかな。世論操作に必要な情報があれば言ってくれ、ガウェインに持たせるよ」
「ご協力感謝いたしますわ」
「同じ敵の前にいるんだ、団結しなくちゃね。そうと決まれば勤勉に働くとしよう。ガウェイン、先にオフィスで待っているよ」
杖を一振りしてマグカップをシンクへと飛ばしたパイアスは、小さく手を振ってから暖炉へと飛び込んだ。緑の炎が彼を包み、次の瞬間には彼はいなくなっていた。
ガウェインが立ち上がり、テーブルに広げた新聞をまとめながらダフネをちらりと見た。
「それで、策ってなんだ?」
「シリウスの脱獄が報じられ次第、
「言っておくが、俺はブラックの捜査でめちゃくちゃに忙しくなる。全力を尽くすが、力が及ばないこともあるぞ」
「そんなに難しい相手ではありませんわ」
ダフネが微笑むと、ガウェインは不気味なものを見るように眉をひそめた。
失礼極まりない態度だったが、ダフネは構わず口を開いた。
「ピーター・ペティグリューの母親は、確かまだ存命でしたわね?」