その血は呪われている   作:海野波香

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 重いトランクを引きずって息を荒げながら、ハリーはなんとか気持ちを落ち着かせようとしていた。しかし、今のところその試みは上手くいっていなかった。

 マージを風船のように膨らませて飛ばしてしまった。とんでもないことをしてしまった。ホグワーツを退学になるのかもしれない。なんといってもハリーは未成年魔法使いの制限事項令を正面から破ってしまったのだから。

 その嫌な考えをなんとか忘れるように、ハリーは前に進んだ。

 なんとかロンドンまで出て、漏れ鍋で暖炉を借りよう。スティンチコームにある屋敷でしばらく頭を冷やして、誰かに助けを求めなければ。

 誰に助けを求めればいいか、顔はすでに浮かんでいる。

 ただ、ヘドウィグはしばらく帰ってこないし、何よりすぐに彼女に頼ることは恥ずべきことのように思えて、ハリーはとにかくロンドンに出ることだけを考えていた。

 

「……なんとかなるさ」

 

 自分にそう言い聞かせたが、不安は募るばかりだった。

 悪いのはマージだ。ハリーの両親をひどく侮辱しただけでなく、ハリーの誇りであるポッター家を悪しざまに言ったのだから。ハリーは彼女が当然の報いを受けたと感じていた。

 ハリーも努力はしたのだ。気品のある振る舞いと言葉遣い、相手を不快にさせない立ち回り、そういったことを徹底したはずだった。しかし、ハリーが努力すればするほど、マージは憤慨し、激怒した。きっと彼女はハリーが傷つくところを見たかったのだろう。

 暗くなってきた。

 悩んだ末に、ハリーは杖を取り出した。

 

光よ(ルーモス)

 

 その時だった。

 大きな目を爛々と輝かせた、大きな黒い塊のような何かが通りの向かいに見えた。

 杖明かりをそちらに向けると、そこには黒い大きな犬が座っていた。どこかの家の飼い犬だろうか、清潔で獣臭さはなく、ほのかに石鹸のにおいがした。

 

「……犬? 君もひとりなの?」

 

 犬は嬉しそうに吠え、それからハリーに何かを促すように杖腕にじゃれついた。

 

「わ、これはだめだよ。骨じゃないんだ」

 

 ハリーが杖を奪われないように腕を上げると、耳をつんざくような破裂音が響いた。ハリーが思わず目をつむると、犬はハリーのサマーセーターの裾を咥えて道路の脇へと引っ張った。

 その直後、ハリーの目の前に巨大なタイヤが一対現れた。

 それは三階立ての派手な紫色のバスだった。フロントガラスの上には金文字で「夜の騎士(ナイト)バス」と書かれており、窓の向こうを見れば中には寝台が並んでいた。

 紫の制服を着た車掌がバスから飛び降りてくると、犬はもう一度吠えたあと、闇の中へと消えていった。

 

「『ナイト・バス』がお迎えに来ました。迷子の魔法使い、魔女の緊急お助けバスです。杖腕を差し出せば馳せ参じます。わたしはスタン・シャンパイク。車掌として、今夜――」

 

 車掌は手袋の内側に書かれた文章に目を走らせながらその口上を読み上げていたが、黒い犬が駆けていくのに気づいて顔を上げた。

 

「おめえさんの犬じゃねえのか?」

「違うよ。このバスはどこに行くの?」

「ブリテン島の中ならどこだって。なんならユーロトンネル通りゃおフランスにだって行けちまう。便利な時代になったもんだよな、アーン!」

 

 中で運転手が笑い声を上げた。

 ハリーはトランクを開き、奥の方をまさぐって代金を取り出した。どこへでも行くというのなら、連れて行ってもらおうではないか。

 

「いくら?」

「11シックル。13出しゃぁ熱いココアがつくし、15なら湯たんぽと好きな色の歯ブラシがついてくらぁ」

 

 ハリーは車掌にガリオン金貨を押し付けた。

 

「スティンチコームまで。お釣りはいらないから、ふくろうを借りれる? 仕事の手伝いに遅れそうなんだ」

「そりゃご苦労なこって。おめえさん、名前は?」

 

 ハリーは一瞬悩んだ。

 もしかしたら今頃指名手配がかかっているかもしれない。正直に名前を名乗るのは得策ではないだろう。かといって誰かの名前を騙るのも迷惑がかかる。

 咄嗟にハリーは母方の旧姓を借りることにした。

 

「ヘンリー・エバンズ」

「そうかい、ヘンリー。ベッドに案内するぜ、すぐにふくろうも用意する」

「ありがとう」

 

 バスは強烈な破裂音とともに走り出し、ハリーは突っ込んできた寝台に脛を盛大に打ち付けた。

 車掌がくたびれた顔つきのミミズクを連れてくると、ハリーはドラコからもらったレターセットの残りを引っ張り出して手早く状況をしたため、宛先をドラコとダフネで2通用意して封蝋を捺した。車掌はその様子を面白そうに眺めていた。

 

「おめえさん純血かい? 今どき封蝋なんてするのはお役所かお古い家と相場が決まってらあな」

「まあそんなとこ」

「その割にゃ変なとこに住んでんだな、このへんはどこもかしこもマグルだらけで息が詰まらあ」

「ちょっと親の都合で」

「へえ、親の都合ねえ」

 

 じろじろと見てくる車掌に覗き見られないようにしながら、ハリーは手早くミミズクに手紙を渡そうとした。しかし、前学期のルシウスの件がちらついて、結局ハリーはドラコ宛の一通をポケットにねじ込んだ。

 

「頼むよ、できるだけ急いで渡してくれ」

 

 ミミズクは気だるげに鳴いて、開いた窓から夜の街に消えていった。

 車窓は消し飛ぶように流れていく。ハリーからすればイギリスの夜をこんなバスが駆け抜けていくことは驚きでしかないが、車掌は窓に興味も示さず新聞を読んでいた。

 一面記事に大きな写真が掲載されている。もつれた長い髪の頬のこけた男が、ハリーを見てゆっくりとまばたきをした。妙に見覚えがある気がして、ハリーは首を傾げた。

 記事のタイトルはこうだった。

 

「シリウス・ブラック、悲劇の脱獄犯はどこへ……シリウス・ブラック?」

「あんだ、あのへんじゃ日刊予言者新聞は配達がねえのか? ブラックって言やあおめえ、例のあの(しと)の一の子分……ってな話だったんだがなあ。どうもそうじゃねえらしいってここに書いてあらあ」

「どういうこと?」

 

 車掌は面倒くさそうに顔をしかめると、杖を一振りして新聞のバックナンバーを呼び寄せた。そして、それをハリーのベッドに放り投げた。少しよれていて、誰かがココアをこぼした跡もあった。

 

「丁寧に読めよ、その号は売れすぎてみーんなが買ってんだ。どこに行っても売り切れ、売り切れ! マンダンガスの野郎が高値をつけて転売してやがる。回し読みしねえともったいねえ」

「ありがとう」

 

 ハリーは慎重に新聞を開いた。インクの匂いにまじってほのかにココアの甘い香りがした。

 そこに書いてあったのは驚愕の事実だった。シリウス・ブラックという男が12年間アズカバンに投獄されていたが、実は彼は裁判を受けておらず、無罪だった可能性があるというのだ。

 しかし、彼は再審が目前に迫っていたにもかかわらず牢獄から姿を消してしまった。一体何が起きたのか、12年前本当は何があったのか。このリポーターは12年前の情報を集め、とても密度の高い記事を書いている。

 ハリーはページを捲り、そこで驚いて声を上げそうになった。

 

「これ……」

「どしたよ」

「な、なんでもない!」

 

 新聞に「ポッター」の名を見つけたハリーは、慎重にその部分を読みはじめた。

 どうやらシリウス・ブラックという男はハリーの父ジェームズの親友だったらしい。そしてともにヴォルデモートと戦っていた。闇の勢力の一員とみなされていたブラック家の生まれである彼を疑った者もいたが、だからこそシリウスは最前線で戦い続けたのだとか。

 どうやらとても勇敢で立派な人だったようだ。そんな人物が実はヴォルデモートの信奉者で裏切り者のスパイだったなどと、そんなことがあり得るだろうか?

 険しい表情でインタビューに答えている男性の写真が、ハリーに向けて静かに頷きを返した。

 

「この人は誰?」

「誰っておめえ、クラウチに決まってんだろ。バーティ・クラウチ。あの人がいたころの魔法法執行部長、闇祓いの親分だったお偉いさんだ。ブラックをアズカバンに送った張本人が間違ってたんじゃねえかって言い出したんだよ」

「それって……とんでもないことだ。自分の間違いを認めたってことでしょう? 偉い人なんだよね?」

「そりゃもう偉いお人よ、一時は魔法大臣になるって言われてたんだからな。だけどよ、倅があの人の子分だったんだ。そんで、裁判のときに眉ひとつ動かさずにアズカバン送りにしたって話だ。だからよ、みんなあいつはどうかしてるって思ったわけだ」

「それで魔法大臣にならなかった?」

 

 車掌はニヤニヤしながら頷いた。

 

「俺からすりゃあ、誰が大臣になろうが関係ねえけどよ。ファッジよかあ、よかったんじゃねえかとは思うな。そうだろ、アーニー」

 

 運転手が笑いながら頷くので、ハリーは気になって問いかけた。

 

「どうしてファッジよりいいの?」

「新聞の続きを読んでみな」

 

 ハリーがページを捲ると、そこにはカメラのフラッシュを拒むように手を振り上げる男の姿があった。

 記事にはこう書かれている。シリウス・ブラックを現行犯逮捕したのがまさに魔法事故惨事部時代のファッジなのだと。ハリーはそこで初めて魔法大臣の顔を知った。

 つまり、こうだ。

 元魔法法執行部長で一度は魔法大臣にと目されたクラウチが、自分の過ちを認めて行動を起こした。しかし、その過ちは元を正せばファッジが起こしたことでもあった。

 ファッジはカンカンになって、正気を失ったクラウチを罷免することも検討していると回答している。しかし、クラウチはそう簡単には失脚しないようだった。なぜならば、ルシウス・マルフォイがクラウチを擁護するコメントを出しているからだ。

 ルシウスはこうコメントしている。

 これはクラウチの失態でもファッジの失態でもない。闇の陣営があまりにも強大すぎたために生まれてしまった不幸な事故である。能吏であるクラウチを聡明な魔法大臣であるファッジが手放す理由はなく、ふたりは連携してブラック氏の名誉回復にとりかかるべきである。

 

「……よくわからない人だな、ルシウスさんって」

 

 前学期末、日記帳の事件が無事解決した後、ハリーは策を弄してマルフォイ家の屋敷しもべ妖精であるドビーを解放し、そのまま雇うこととした。この一件以来ハリーはドラコとやり取りができていない。

 それもこれもルシウスという人物が謎めいているせいだ。日記帳がホグワーツに送り込まれたことにも一枚噛んでいるとダンブルドアは示唆していたし、マグルを嫌っているのも確かだが、その一方でドラコに対しては愛情深く、ハリーにも優しく接してくれた。

 どうしたものか。

 ハリーはポケットにねじ込んだ手紙を思い出した。一度ドラコと会って話すべきだろう。せっかく友達になれたのだから。

 

「着いたぜ、ヘンリー。スティンチコームだ」

 

 破裂音が響き、バスが止まった。

 ハリーはトランクを引きずり出して車掌に任せ、足早にバスから駆け下りた。そして新聞を車掌に返してトランクを受け取り、発車したバスを見送った。

 さて、これからどうするべきか。

 ハリーは杖明かりを灯そうとして、遠くに明かりがあることに気がついた。それは間違いなく、ポッター邸の窓明かりだった。

 一瞬、ハリーの背筋に緊張が走った。

 もしかすると、魔法省の役人が先回りしてハリーを捕まえに来ているのかもしれない。そうだとしたら、ハリーはまた別のところに逃げなければならない。

 ゆっくり様子を伺いながら屋敷に近づいていき、中の様子を確認して、ハリーは大きく息を吐いた。厨房の窓の向こうに見知った姿を見つけたからだ。

 

「ダフネ!」

「……ふふ、おかえりなさいハリー。災難でしたわね」

 

 スープのお玉を持ったまま、ダフネが微笑んだ。

 

「積もる話はありますが、まずは夕食にしませんこと? トマトスープを作りましたわ。買ったものでよければパンも」

「ありがとう、最高だよ! 手紙がもう届いたの?」

「どうやら行き違いになったみたいですわね。魔法事故惨事部の知人があなたのおばさんから空気を抜いたあとに連絡をくれたの。あなたならこっちに来ると思っていましたわ。さ、夕食ですわ。手を洗っておいでなさいな」

 

 ハリーは急いで玄関へ向かい、トランクの土埃をはたいて立てかけ、水盆で素早く手を洗ってからダイニングルームへ向かった。

 そこには今日一日の疲れと怒りを癒やしてもなお余りあるごちそうが待っていた。マッシュポテト、ホットポット、トマトスープ……ハリーはテーブルにつき、自分の皿にマッシュポテトを山盛りよそってグレイヴィーソースをかけた。

 

「料理は全部君が?」

「下ごしらえはドビーに任せましたわ。スープだけ私が」

「嬉しいよ、ありがとう! まさか温かいスープが食べられるなんて思ってもみなかったな」

 

 ハリーはダフネがゴブレットに注いでくれた水を一気に飲み干して、息を吐いた。

 どうやら、なんとかなったようだ。

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