ハリーが皿を洗う音を音楽がわりに、ダフネは気分を寛がせながら手紙を書いていた。
魔法大臣、コーネリウス・ファッジ宛の手紙だ。ハリーを保護した旨を一秒でも早く知らせなければ、あの小柄な老いぼれは心臓を爆発させてしまうかもしれない。
「そういえば、アステリアは?」
「ブラック家のお仕事でロンドンにいますわ。後で合流しましょう」
「そっか。君たち姉妹はすごいなあ」
清潔な布巾で銀の食器を拭いながら、ハリーが小さくため息をついた。
「おばさんのことを膨らませてしまったの、後悔していますかしら」
「……怒られるかもだけど、あんまり。あの人、父さんや母さんのことを悪く言って、挙句の果てにポッター家はろくでなしのごろつき一家だって言ったんだ」
「まあ、ひどい」
「うん。でも、もしかしたら僕がちゃんと応対したのがまずかったのかもしれない。マージは僕が惨めに、こう、奴隷みたいに生きてるのを期待してたんだよ、きっと」
一理ある考察だった。
ハリーが食器を洗い終わるのに合わせて、ダフネはハーブティーを淹れた。庭園で取れるハーブを乾燥させたポッター家特製のブレンドだ。
爽やかさの奥に仄かな甘みと優しさが漂う。いい香りだ。
ハリーが厨房からマグカップをふたつ持ってくると、ダフネはそれにハーブティーを注いだ。緑茶にも似た淡い緑の水色が燭台の火を受けてちらちらと輝いている。
「なにはともあれ、お疲れ様でした。あなたはよく耐えましたわ」
「うん、ありがとう。ダフネも、わざわざ来てくれて助かったよ」
「どういたしまして。ちょうど夜遊びの気分でしたの」
「はは、そっか。……その手紙はファッジ宛?」
ハリーがちらりと手紙に目を落とした。
今頃ファッジは冷や汗をかいているに違いない。シリウス・ブラック脱獄の報を耳にして、彼は間違いなく腰を抜かした。賭けてもいい。その状況で、よりにもよってハリーが家出したのだ。
なぜファッジがそこまでハリーのことを気にかけるのか。
いくつかの理由がファッジにとってこの一件を一大事にしている。魔法大臣として英雄を尊重しなければならないという圧力もあるし、ダンブルドアからのそれとない催促もあっただろう。しかし、一番大きいのは、
つまり、ファッジは誰よりもシリウスの狂気を肌で感じた人物なのだ。
「魔法大臣がわざわざ迎えに来てくれるなんて……僕、そんなにまずいことをしたのかな」
「ファッジにとってはまずいことですわね。シリウス・ブラックの件はご存知?」
「バスで新聞を読んだよ。ヴォルデモートの子分だと思って逮捕したけど、実は無罪だったかもしれない人だよね? 今脱獄して逃げてるっていう」
「端的なまとめをありがとう。その彼を逮捕したのが、当時魔法事故惨事部の副長だったファッジその人なの」
ハリーは目を丸くした。
終戦直後だ。どこも人手が足りなかった。魔法による爆発でマグルが殺されたとの通報を受けた当局は、闇祓いではなく魔法事故惨事部のエージェントを送り込んだ。犯人に抵抗の意思なしと判断したためだ。
そして、指揮官として現場に急行したファッジは狂ったように笑うシリウスを前に、恐怖した。こんな男が正気であるはずがない、そう判断した彼は現行犯でシリウスを捕縛した。
ヤックスリーがルシウスにウィゼンガモットの綱引きで勝っているのは、他でもない、魔法大臣がヤックスリー側の意見を積極的に擁護しているからだ。保身ではない。ファッジから見て、本当にシリウスは狂っていた。
「ファッジからすれば、あなたを狙う大量殺人鬼が脱獄している最中にあなたが行方不明になったということなのよ」
「……うん、僕謝るよ。知らなかったんだ、なんにも」
「ええ、そうでしょうとも。ダーズリーの家では日刊予言者新聞を購読するのも難しいでしょうし、仕方のないことだわ。ファッジもあなたを責めたりはしないでしょう」
マグカップの湯気で眼鏡を曇らせながら、ハリーが頷いた。
ファッジは悪人ではない。平時の魔法大臣としては決して悪い人選ではなかった。ただ、彼はダンブルドアに地位を脅かされているという誇大妄想に苛まれ続けただけだ。ダンブルドアの偉大さはしばしば常人を苦しめる。
ダフネはハーブティーを飲み干して、ゆっくりと柱時計に目をやった。時刻は20時手前。そろそろファッジが焦れはじめるころだ。
「そろそろいい時間ですわね。シャワーを浴びて着替えたら漏れ鍋に行きましょうか」
「着替えたほうがいいかな、夏服はあんまり持ってなくて」
「非公式の場ですし、略式の礼装を着ていけば十分でしょう。シャツはアイロンがけしたものを2階の部屋に用意してありますわ」
「何から何まで本当にありがとう! さっと浴びてくるよ」
ハリーは立ち上がって2階へと階段を駆け上がっていった。
その間にダフネはふくろうにファッジ宛の手紙を任せ、もう一枚の手紙に取りかかった。
宛先はリーマス・ルーピン。来学期の闇の魔術に対する防衛術の教授だ。しかし、勉強の相談をするわけではない。
ピーター・ペティグリューの母、イーニッド・ペティグリュー。老いた彼女には生活の世話を見てくれる人間が必要だった。そして、亡き親友の母が孤独に老いていくことを見捨てられるほどルーピンは薄情ではなかった。
人狼の発作が出ていない間、ルーピンはペティグリュー夫人の家によく出入りしている。
現在、「脱獄したシリウス・ブラックに狙われる可能性がある」という名目でペティグリュー夫人には警護をつけてある。しかし、彼女が本心から協力できるようにするためには、それだけでは足りない。
「……逃がしませんわよ、ピーター・ペティグリュー」
思わず呟きがこぼれる。
政治に関して言えば、ペティグリューは無力だ。しかし、闇の陣営の斥候として見た時、ペティグリューは理不尽なほど強い駒だった。
12年だ。12年、彼はネズミとして生きた。パニックを起こした動物もどきが人間としての理性を失うのとはわけが違う。彼は正気を保ったまま、生存するためだけを目的に自らの尊厳を捨て去り、ネズミとして生きることを選んだのだ。
ペティグリューは生きるために大切なものを大切とわかっていて捨て去ることができる。彼はジェームズやシリウスが嫌いだったわけではない。親友と思いながら、それでも生を選ぶための最適解として裏切りを選んだのだ。
一度逃がしてしまえば、次はない。
クラウチ・ジュニアの脱走、三大魔法学校対抗試合の陰謀、ヴォルデモートの復活、全てにペティグリューが関わっている。状況をコントロールするためには、ペティグリューを確保する必要がある。
並の罠では足りないのだ。
「――お待たせ! ……その、どうかな?」
階段をゆっくりと下りてきたハリーの声に、ダフネは不自然でない範囲で手早く手紙を畳んで封筒に入れながら振り向いた。
マグル式の礼装からいいところだけを取り入れた、魔法族流の略礼装。黒のローブは立襟に仕立てられており、襟元を留めるブローチはハリーの瞳と同じ緑色だ。糊の効いたシャツが袖元から覗き、品の良さを強調している。
なんとか服に合わせようと撫でつけたのであろう髪はあちこち跳ねていたが、それがかえって快活さを演出して接しやすい雰囲気を醸し出していた。
「よく似合っていますわ! いい素材をしているのですから、磨いてこそですわね」
「そ、そうかな。ありがとう」
ハリーはほんのりと顔を赤くして、照れくさそうに襟足を掻いた。
これならファッジも安心することだろう。何より、彼は自らの権威を尊重されることを喜ぶタイプだ。多少苦労させられたとしても、「あなたに会うために着替えてきました」と言われれば悪い気持ちはしないはずだ。
ダフネは立ち上がってハリーの手を取り、暖炉の前に向かった。
「今度はうまく発音できるといいですわね」
「前回は灰を吸っちゃってね……そろそろコツを掴みたいところだけど」
「練習あるのみですわ。さ、お先にどうぞ」
ハリーは煙突飛行粉を掴み、緊張した表情で口を開いた。
「ダイアゴン横丁!」
緑色の炎に絡め取られ、ハリーは消えていった。今度は上手くいったようだ。ダフネも煙突飛行粉を掴み取り、彼に続いた。
漏れ鍋に着くと、すぐに店主のトムがハリーを確保した。夕食時を過ぎ客は少なかったが、それでも店中が騒然としていた。ダフネは手早くハリーの裾から灰を払い落とした。
「トム、大臣に送った手紙は届いたかしら」
「へえ、無事届きなすったようです。お嬢様はこちらでお待ちになりますかい」
「大臣さえよろしければご挨拶差し上げたいわ」
「聞いてまいりやしょう」
店主のトムが背を丸めて一等室のドアをノックし、少しして、彼の腕が中から手招きした。
ダフネはハリーの手を握り、ファッジの待つ室内へと踏み込んだ。少し強い暖炉の熱気がファッジの気持ちを代弁しているようだった。
「ああ、ハリー! 君を待っていたのだ。無事に着いたようでよかった」
「大臣、この度は、えっと、とんでもないご迷惑をおかけしたようで……」
「いい、いい! 何も気にすることはない。ダフネ嬢が連絡をくれたおかげで我々もすぐに対応できた。それに、魔法事故惨事部は私の古巣でね。この程度のことはトラブルとも言わんよ」
ファッジはにこやかに、しかし汗をかきながらハリーに座るようすすめた。
「しかし、家出はよろしくない。このような状況下では実に無責任な行いだ」
「シリウス・ブラックが脱獄したからですよね」
「……新聞を読んだのかね? そうだ、奴は恐ろしい凶悪犯だ。怖がらせたくはないが、君を狙っている可能性だってある」
「ごめんなさい、大臣。僕、マグルの家に住んでいるので、今日初めてそのことを知って」
「そうか、そうだったな。それでは君を責めるのは筋違いというものだ。まあ、何はともあれ君が無事でなによりだ。ありがとうダフネ嬢、君の名前は覚えておくよ」
ダフネは黙って微笑み、会釈をした。
それからファッジはハリーに「夏休みの間はロンドンにいるように」と厳命し、退出を許した。その間際にファッジはハリーに柔らかな微笑みを向けた。
「それから、ハリー、その服はよく似合っている。君のお祖父さんを思い出すよ」
「ありがとうございます」
ハリーが会釈するとファッジは鷹揚に頷いた。
それから、ハリーとダフネは店主のトムが用意した11号室になだれ込んだ。ハリーはネクタイを緩め、ベッドに腰掛けて大きく息を吐いた。
「なんか緊張しちゃった。……あっ、ファッジにホグズミード行きの許可証にサインしてくれないかって聞けばよかった」
「たぶんしてくれないと思いますわ、シリウス・ブラックの件がありますもの。難しいところですわね……マクゴナガル先生はきっとアークタルス閣下のサインでは認めないと思いますわ。それが通るなら規則は成り立ちませんもの」
ハリーは困ったように眉を曲げて、それから自分が腰かけているベッドの大きさ――つまり、自分がダブルベッドの部屋にいることに気づいたのか、顔を赤くして飛び上がった。
「へ、部屋を変えてもらったほうがよさそうだね」
「ハリー、落ち着いて。セパレートですわ」
「……ああ、なんだ、僕てっきり……なんでもない! この部屋ちょっと暑いね」
ダフネがベッドをふたつに分割すると、ハリーは耳まで真っ赤になりながら顔を手で扇いだ。
きっとトムのお茶目なからかいだろう。常識的に考えて、一緒の部屋に泊まることだってまずいのだから。しかし、ハリーはそのことには気づいていない様子で、セパレートしたシングルベッドの上で何かを誤魔化すように荷物を整理しはじめた。
「この鞄があって助かったよ、荷物が見た目よりも入るおかげでダーズリーの家から出てくるのもすごく楽だった。ヘドウィグの籠まで放り込んできたんだ。そうだ、ヘドウィグ!」
ちょうどその時、窓の外を白い影がちらついた。
ハリーが大急ぎで窓を開けると、ヘドウィグがそこから舞い込み、ハリーの腕に止まって不満そうに嘴をカチカチと鳴らした。
ハリーが優しく撫でると目を細めて甘えるように鳴き、自分から籠に入った。
「賢い子ですわね」
「ヘドウィグはすごいフクロウだよ、本当に。ダフネはペットは飼わないの?」
「そうですわね……」
興味がないわけではない。
ギリシャ旅行で乗せてもらったグリフィンは思っていたよりも魅力的だった。アステリアと一緒に魔法生物の世話をするのも楽しい。
しかし、一手間違えれば死ぬこともありえる身で命の責任を負おうとは思えなかった。ふくろうも借りたものを使い続けている。いつ手放すことになってもその命が行き場に困らないように。
「今はペットよりも自分のお世話で手一杯ですわね。それより、ローブを脱いだほうがいいですわよ。皺になると手間ですもの」
「あっ、そうだね」
ハリーの脱いだローブを壁掛けハンガーに吊るしながら、ダフネはついに3年目の物語が始まったことを感じた。