弦楽四重奏の華やかな調べが漏れ聞こえる中、ドラコはアステリアのドレスを飾るレースにほつれがないことを確認して息を吐いた。
遠いところまで来てしまった。
アステリアが緊張した面持ちでドラコを見上げる。その瞳が緊張に揺れている事に気づいたドラコは、彼女を落ち着かせるようにじっと目を合わせた。
すると、段々とアステリアの顔が赤くなっていった。
「あ、あんまりじっと見ないで下さい、ドラコ兄様」
「目を合わせてきたのはお前だろ」
「それでもです! なんか、恥ずかしいんですもの」
肩を大胆に晒し、黒のグラスオーガンジーを幾層にも重ねて仕立てたドレスは死神の花嫁のようで、それを身に纏ったアステリアが顔を赤らめてもじもじする様はいっそ背徳的ですらあった。
女物のドレスにあれこれ言えるほど詳しいわけではない。しかし、今日のアステリアはいつにも増して華やかで、いつもダフネの後ろをついて回っていた少女とは思えなかった。
ドラコは自分まで恥ずかしくなるのを必死に堪えて、アステリアの手を取った。
入場までもう時間がない。今日は大切な日だ。万が一にも失敗があれば、計画が破綻する。ダフネがこの日のためにどれだけ苦しんだか、ドラコはよく理解していた。そして、アステリアがどれだけさみしく思ったかも理解しているつもりだった。
もしかすると、ドラコはダフネの考えよりもむしろ、アステリアの考えのほうがよほどよくわかるかもしれない。
今年ホグワーツに入学する小さなアステリアは、まだ幼い少女でしかない。彼女の小さな体に載せるには重すぎる責任を、今日、ドラコは少しだけ肩代わりしてやるつもりだった。
「今日の僕はエスコートに徹する。いいか、お前が主役だ。胸を張れ」
「……はい、頑張ります」
「緊張してるか?」
「してます。デビューの日よりもずっと」
「そうだろうな。僕もだ」
アステリアは驚いたようにドラコを見上げた。
緊張しないはずがない。これからドラコは魔法界の変革、その序章に立ち会うことになるのだ。
お遊びにしては具体性を伴いすぎている集まりで、ドラコはダフネのすぐそばにたち続けてきた。勉強会という生ぬるいやり方で少し気が抜けていたところに、突然大役が降ってきてしまった。
今宵、ブラック家が復活する。
老人でも囚人でもない、新時代のブラック家が魔法界にやってくる。ブラック家の名は衰えてなお決して軽んじることができない、古い魔法だ。
だからこそ、ドラコはその重責をアステリアだけに押し付けるべきではないと思っていた。
「アステリア。お前は僕の隣で堂々としていればいい。困った話題があれば僕に回せ」
「ありがとうございます、兄様」
ラッパが吹かれた。来賓の到着を告げるラッパだ。
ドラコが手を差し伸べると、アステリアはそっと手のひらを重ねた。ふたりは静かに、一歩ずつホールの扉へと向かった。
そして、扉が開かれた。
「――ブラック家、アステリア・ブラック=グリーングラス様のご到着!」
ホールが騒然とした。
今日集まっているのはマルフォイ閥の人間ばかりではない。陰鬱なニュースが続く中、せめてもの気晴らしにと入学前のサマー・パーティーを企画したルシウスは、参加を自らの派閥に限らなかった。
だからこそ、今、魔法界にその名が響き渡った。
「ブラック家? ブラック家と言ったか?」
「あの家はもう滅びゆくものとばかり」
「待って、あの子に見覚えがあるわ。ダフネ・グリーングラスの妹では?」
声が聞こえる。
アステリアは一瞬怯んだように歩みを止めたが、ドラコが重ねた手に力を込めると小さく頷いて歩きはじめた。ドレスの裾でレースに編み込まれた銀の蛇がしゃらりと鳴いた。
そして、ふたりはホストであるルシウスの前へと辿り着いた。ルシウスはテーブルの上座から席を立ち、アステリアの前で膝をついた。あたりがどよめき、視線が突き刺さった。
「ミス・ブラック」
「いいえ、おじさま。ブラック=グリーングラスです」
「……ふ、そうだな。その覚悟があるのなら何も言うまい。いいドレスだ、よく似合っている。アークタルス閣下のお見立てだな? デビューの日も輝いて見えたが……見たまえ、今日の君は会場中の魔術師たちを魅了してしまったようだ」
ルシウスの言葉に慌てて出席者たちがアステリアから目を逸らした。それでも、彼らの関心はまだアステリアに向けられていた。
もちろん、彼らには知らされていなかった。招待状にだって書かれていなかっただろう。彼らにとってブラックと言えば、昨今ニュースを騒がせるシリウス・ブラックのことでしかなかった。
「君の兄君にかけられた冤罪と汚名が雪がれるよう、私も全力を尽くす。期待していてほしい」
「もちろんです、おじさま。おじさまのお力をお借りできること、ブラック家の人間として心から力強く思いますわ」
「無論だとも。ここで役に立たなければ妻に申し訳が立たない、違うかね?」
この会話には深い意味がある。ドラコは事前にダフネから意味を聞かされていたから、その恐ろしさがよくわかった。
つまり、ふたりはブラック閥とマルフォイ閥が合流することを示したのだ。
かつてブラック家は魔法界の王家とあだ名された。僭称したことすらあった。誰もそれを咎めなかったのは、ブラック家がそれだけの権勢を誇ったからだ。そして、その名は衰えてなおかつての栄華を思わせる格を有している。
その格が、マルフォイ家という実と結びついた。
もはや三大派閥の均衡は崩れ去った。マルフォイ閥は英国魔法界、とりわけ純血社会に絶大な影響力を持つ巨大な派閥として新生したのだ。
「――おいおいおい、聞いてないぜ兄弟! とんでもないサプライズを持ち込みやがったな!」
白髪交じりの男――コーバン・ヤックスリーがそれに待ったをかけた。
表向き、彼の表情は驚愕と歓喜に染まっていた。当然だろう、ブラック家とはヴォルデモートが現れる以前の純血社会にとっての正統な盟主だったのだから。純血であるヤックスリーがブラック家の再誕を喜ばないわけにはいかない。
しかし、ドラコは知っていた。ヤックスリーという男はそんなに純朴な男ではないということを。
「こりゃ2週連続でブラックが一面大見出しだ。まいったなー、おい。ジジイには何が起きてんだかさっぱりだ。それとも飲みすぎたか? いや、そんなことはない。だが俺の頭は追いついちゃいない。頼む、説明してくれよお嬢ちゃん」
「コーバン……」
ルシウスが制止しようとしたが、それよりもアステリアのほうが早かった。
アステリアは一歩前に出て、毅然とした態度でヤックスリーを睨んだ。
「不遜でしょう。このアステリア・ブラック=グリーングラスの名をほんの数分前に耳にしたばかりの態度とは思えません」
「……はっは、こりゃ失敬! 仰るとおりだ。許してくれ、ミス・ブラック=グリーングラス。このとおり!」
ヤックスリーが頭を下げてみせると、アステリアは頷いた。
「許します。私も不躾な態度を取りました。許してくださいますか、ミスター・ヤックスリー?」
「もちろんだとも。なるほど、ブラック家の跡継ぎにぴったりなお方だ。ルシウス、一体どこで見つけてきたんだ?」
「私が見つけたのではない」
「ほっほう、そりゃまた……それなら、
ヤックスリーの瞳に、一瞬探るような眼光がきらめいた。
今ほど隣にダフネがいてほしいと思うことはなかった。今日、ダフネは
本当にできないのだろうか?
慎重に息を吸って、ドラコは静かにヤックスリーを観察した。ドラコもマルフォイ家の跡継ぎだ。この程度のこと、できないはずがない。
「アステリアと呼んでも?」
「もちろんです、コーバン。私達、きっといい友人になれます」
「嬉しいね。ジジイの年になるとよ、友達ってもんはそうそうできないもんだ。ホグワーツの頃のダチも随分減った……だからこそ、友達は大事にしなきゃな」
「ええ、仰るとおりです」
アステリアの頷きに、ヤックスリーは好々爺のような笑みを浮かべた。
一瞬、アステリアの雰囲気が和らいだ。安心したのだろう。ドラコは知っている。いつだってヤックスリーは人を安心させてきた。特に、彼から金を借りる債務者に対しては特に。
だから、ドラコはアステリアの腕を引いた。
「失礼します、ミスター・ヤックスリー。これからアステリアは挨拶回りに行かなくてはならないので」
「……おお、そうだろうとも。またな、アステリア」
「そうですね、また」
ホストたちのテーブルを辞去して、ドラコはしばし悩んだ。アステリアはまだ未熟だ。そして、それを安心してサポートできるほど自分に自信があるわけでもない。
ひとまず、ドラコは一番安全なテーブルへ向かった。
「失礼、ミセス・バグノールド。こちらのレディをご紹介しても?」
「――ええ、もちろんですよ、ドラコ」
交じりはじめた白髪を恥じることなくまとめ上げ、険しい皺と柔らかな眼光のどちらもが彼女らしさを示している。彼女であれば、万が一にもアステリアを絡め取ることはないだろう。
ミリセント・バグノールド前魔法大臣が、シャンパングラスをテーブルに置いてアステリアを迎え入れた。
「こちら、アステリア・ブラック=グリーングラスです。アステリア、知っているとは思うが、ミリセント・バグノールド前大臣だ」
「お目にかかれて光栄です、バグノールド様」
「こちらこそ。ブラック家の名を再び華やかな場で耳にできて嬉しいです。こちらへいらっしゃい。あなたのお姉さんから、あなたをよろしくと頼まれていたの」
「お姉様が?」
ぱっ、とアステリアがドラコを見上げた。ドラコが頷くと、アステリアは安心したように肩から力を抜いた。
「ブラック家は大臣だった頃の私が犠牲にしてしまった家のひとつです。戦争の最中、多くの旧家がその歴史を灰と化していった……だからこそ、不死鳥が灰の内側から蘇るように、貴女が現れてくれたことを喜ばしく思います」
「滅多なことをおっしゃらないでください、バグノールド様。ブラック家は衰えるべくして衰えたのです。だからこそ、私は私にできる形でブラック家の新しい生き方を模索していきたいと考えています」
「……賢い子。力を取り戻したいとは言わないのですね」
バグノールドは興味深そうにアステリアを見つめた。
ドラコからしても、その点は疑問だった。せっかくブラック家を継いだのだから、アステリアはブラック家を再興するものだと思っていたのだ。ナルシッサはよくドラコに子守唄がわりとして実家であるブラック家の栄華を語ったものだった。
しかし、アステリアはゆっくり首を振った。
「魔法界に王はいません。今までも、そしてこれからも。そのことはバグノールド前大臣が一番よくおわかりかと思います」
魔法界に王はいない。
ブラック家は王家と呼ばれたが、それでも彼らが君臨することはなかった。あのヴォルデモート卿ですら、英国魔法界に恐怖を振りまきはしても、君臨するには至らなかった。
そのことはバグノールドが誰よりもよくわかっている。彼女は魔法大臣としてヴォルデモートと戦い、生きて自らの足で大臣室を去ったのだから。
バグノールドは微笑み、グラスを持ち上げた。
「アークタルスはいい後継者を見つけましたね。次に私がブラックの名を耳にする時、それはきっと吉報となることでしょう」
「ありがとうございます、バグノールド様」
「ドラコ、アステリアをしっかり支えてあげなさい。あなたの父親にはできない役目です」
「ご忠告痛み入ります」
父にはできないこと。
かつてのドラコにとって、ルシウスにできないことなど何もありはしなかった。いつでも父は完璧で、偉大で、優雅だった。
しかし、秘密の部屋の一件から、ドラコは少しずつ学びはじめた。自分が父とは違うタイプの人間であること。それを理解せず、父の真似をしているばかりではマルフォイ家の当主に相応しい存在にはなれないこと。
そのことに気づいた時、すぐ隣にいたはずのダフネの姿を見つけた。はるか遠く、父と並んだその背中は、ドラコにとって悔しいほど眩しかった。
追いつかねばならない。
「ドラコ兄様?」
「……なんでもない。次のテーブルに行くぞ。あのテーブルの主賓はパーキンソン、パンジーの父親だ。バグノールドよりは気安く、だが敬意を持って接するんだ」
「はい!」
それから、ドラコはアステリアを伴ってあちこちのテーブルを巡った。
ニューイヤーパーティーほどではないが、それでも多くの賓客が集まっていた。中にはシリウスとアステリアの関係を詮索する者もいたし、ブラック家の陰鬱な噂を信じ切っている者もいた。
しかし、多くの客たちはアステリアのまっすぐさとそれを演出するドラコの振る舞いに絆され、新しいブラック家を受け容れた様子だった。少なくとも、自分たちに不利益をもたらす存在ではないという点は伝わったようだ。
そして、ドラコがアステリアを主だった客たちに紹介し終わったタイミングで、再びラッパが吹き鳴らされた。
「あいつ……見計らったように」
「ふふ。時間ちょうどですね、さすがお姉様」
ゲストの到着を知らせるラッパ。
そして、扉が開かれた。
「ポッター家、ハリー様のご到着!」