扉の前で、ダフネはハリーのネクタイを整えていた。
黒地に金糸があしらわれた、力強い風格のドレスローブ。金ボタンには小粒のエメラルドが並び、袖口にはそれと揃いのカフスボタンがきらめいている。どこに出しても恥ずかしくない、立派な貴公子だ。
しかし、明らかに緊張した面持ちが初々しさを強めていた。じわりと首筋に汗が滲んでいる。ダフネが腕を伸ばしてハリーの汗を拭うと、ハリーは少し震えた声で感謝の言葉を口にした。
「……ダフネ、身内主催の気軽なパーティーって聞いてたんだけど」
「ええ、
嘘はついていない。
派閥外の人間も多く来てはいるが、ニューイヤー・パーティーのような伝統的な行事とは違う。ルシウスと個人的な親交を持っている者たちが中心の、ゆるいパーティーだ。
確かに、注目はされるかもしれない。なんといってもハリーは英雄だ。あのヴォルデモートを打ち倒した魔法使いだ。その彼がポッター家の当主として魔法界に帰ってきた。当然、注目を集めるだろう。
しかし、
鐘の音が大気を震わせると、扉がゆっくりと開かれた。ダフネはハリーの腕を取り、ホールへと歩みを進めた。ラッパが吹き鳴らされ、ホールに集まった人々へ賓客の来訪が知らされる。
「――ポッター家、ハリー様! ならびにグリーングラス家、ダフネ様のご到着!」
ホールがざわついた。誰もが食事や会話を中断し、ダフネとハリーのペアに視線を向けた。
ダフネは笑みを浮かべ、小さく会釈した。ハリーがぎこちなくもそれに続くと、一部から歓声が上がった。しかし、大半の出席者たちの表情は驚愕に染められていた。
血の呪いを受けた下賤な娘がハリー・ポッターのエスコートを任せられるほどルシウスに厚遇されていることか、それともあのハリー・ポッターが社交界に姿を現したことか。あるいは、ハリーが
ダフネとハリーはホールの奥、主催者であるルシウスが待つテーブルへと進んだ。ルシウスは落ち着いた笑顔でハリーを迎え、握手を求めた。
「ミスター・ポッター……君をこうして迎えられたことを喜ばしく思う」
「招待ありがとうございます、ルシウスさん。あの、えっと……あなたに聞きたいことがたくさんあったんですけど、緊張して全部飛んじゃいました」
「初めてのパーティーはそういうものだ。君はただ楽しめばいい。食事も飲み物も君を歓迎するのに十分なものを準備した。そうだな、ダフネ?」
「ええ、ナルシッサ様の差配に間違いはありませんわ。アステリアも喜んでいることでしょう」
「そうであればいいが。さあ、夏の夜は短い。ましてや
ルシウスは上品に微笑んだ。
彼の言葉どおり、食事も飲み物も見事なものだった。各テーブルには裏ごしされたマッシュポテト、完璧な火入れのローストビーフ、マルフォイ荘園製のワインビネガーに漬けられたオリーブのピクルスなどが並び、ノンアルコールドリンクだけでも両手の指で足りないほど種類があった。
ダフネはハリーを連れてテーブルにつき、銀のトレイに向かって「スパークリングアップル」と唱えた。すると、トレイの上に炭酸の弾けるアップルジュースが注がれたグラスが現れた。
「ルシウスおじさまに頼まれて当家の在庫から出しましたの。あなたもいかが?」
「ああ、うん、じゃあそうしようかな。ありがとう」
ハリーはダフネを真似して唱え、アップルジュースのグラスを手に取った。
乾杯しながら、ダフネはさっと周囲を観察し、挨拶のルート取りを決めた。ルシウスはアステリアの挨拶に最適な席次を用意してくれはしたが、それはハリーにとって最適なわけではない。
「ねえ、ダフネ」
「どうしましたの?」
「その……いや、いつかこういう日が来るとは思ってたんだけどさ。どうして今日だったの?」
ダフネがハリーの空いた腕を絡め取ると、ハリーは恥ずかしそうに小さく呻いた。
どうして今日だったのか。いい質問だ。確かに、ハリーが社交界にデビューするのにはもっと相応しい日があったかもしれない。もっと小規模な、それこそ本当に身内だけのパーティーから始めるのもいいだろう。
しかし、今日ハリーを連れてきたのには明確な目的、そして理由があった。
「私があなたの立場なら、もう少し大人の友達を増やしたいと思うところですわね。家出して痛感なさったでしょう?」
「それは……そうだけど。でも親身にしてくれる人はいるよ、ウィーズリーおばさんとか」
「モリーおばさまがあなたの『未成年魔法使いの妥当な制限に関する法令』違反でどんなお力になってくださるか、私にはちょっと想像がつきませんわね。要は、頼れる相手を増やしておきなさいということ」
そう、ハリーには大人の味方を増やしておく必要がある。
ヴォルデモートの復活をファッジが認めなかったことで、操作された世論は急激にハリーとダンブルドアをバッシングする方向へ向かった。その時、ダンブルドアを支持する有力者はいても、ハリーを擁護する有力者はいなかった。
不死鳥の騎士団は基本的に表立って動けない人間で構成されている。お尋ね者、人狼、そして魔法省に勤務していながらダンブルドアを支持するスパイ。
ハリーには立場のある大人の友人が必要だ。
「でも……それって今である必要あるの?」
「いつだって今が最善ですわよ。こういう計画は、早く始めるのが一番ですもの」
大前提として、ヴォルデモートを殺すためにはまずヴォルデモートが復活する必要がある。
そう、ダフネは復活を阻止したいわけではない。計画通りに復活し、計画通りに死んでほしいのだ。ペティグリューを確保しようとしているのもそのためだった。
だからといって、原作のストレスフルな環境をハリーに経験させる必要はない。
「さ、挨拶に行きますわよ。大丈夫、まずは古馴染みから紹介しますわ」
「うーん、なんだかキリキリする……」
「泣き言を言わないの。パンジー! お父上にハリーを紹介しても構わないかしら」
可愛らしいオレンジのバルーンスカートをふわふわと踊らせて、パンジーがダフネに駆け寄った。
「すご! ポッター連れてきたんだ! ダフネってほんと、たまにめちゃくちゃなことするわよね」
「こんばんは、パーキンソン」
「うん、こんばんは。え、本当にポッターだ……あれ、でもあんた半純血よね? よくルシウスおじさまが許したわね」
「そのおじさま自らのご招待よ」
「まあそうか、そうよね。びっくり……いいわ。パパ! ダフネがハリー・ポッター連れてきたよ!」
髭を生やした柔和な表情の中年が、パンジーの呼びかけにゆっくり頷いた。娘にはあまり似ていない。がっしりとした体つきに、厚い手のひら。眉はふさふさとしていて、瞳のつぶらさが際立っている。
ディオメデス・パーキンソン。魔法運輸部事務次官である。
ダフネは真っ先に彼をハリーに紹介すべきだと考えた。それはなぜか。ディオメデスがルシウスの旧友でありながら、死喰い人に加わらなかった稀有な人物だからである。
握手を求めて差し伸べられた手の薬指に、きらりと金無垢の指輪が輝いた。
「ディオメデス・パーキンソンです」
「はじめまして、ハリー・ポッターです。娘さんとは、なんというか、友達の友達で」
「はは、友達の友達か。少しきついところのある子ですが、仲良くしてやってください。君とは意外な縁があってね。私は魔法運輸部の事務次官なんていう仕事をしているのだけれど、どうだろう、覚えているかな」
握手に応じながらハリーはしばらく困ったように眉を曲げていたが、ちらりとダフネを見て顔を上げた。
「あの、もしかして相続登記の?」
正解だ。
ダフネはかつて、ポッター邸の相続登記の手続きを助けることでハリーからの信頼を勝ち取ったことがある。あの時の協力者こそがこのディオメデスなのだ。
ディオメデスは満足げに頷いて、ハリーの手を力強く握った。
「そう、そのとおり。いやあ、まだ幼い娘の友人が訪ねてきて相続登記の話を始めたときは腰を抜かしたものだ。今はあの屋敷に住んでいるのかい?」
「いいえ、でも手入れはしています。卒業後に住もうと思っていて。その節はありがとうございました」
「いやいや、これが仕事だからね。たまには真面目に働いておかないと怒られてしまう。また何かあったら遠慮なく頼っておいで。私にできることがあるかはわからないが」
「ありがとうございます、ディオメデスさん」
ディオメデスは決して有能な官僚というわけではない。ルシウスの伝手で出世しただけの、どちらかといえば平凡で怠惰な男だ。
ヴォルデモートも彼を臣下に求めなかったし、ルシウスも無理に誘いはしなかった。ちょっとした資金提供だけで見逃されていた、どこにでもいるような小物でしかない。自らの派閥を持たずルシウス閥の傘下に甘んじているのがその証左だ。
だからこそ、気軽に頼りやすい。
パンジーの父親という立場もあって、ハリーにとっては接しやすい大人だ。ルシウスとの縁もある。ハリーも安心したのか、少し汗が引いた様子だった。
「パパをよろしくね、ポッター」
「よろしくされるのは僕の方だと思うよ、パーキンソン。……パンジーって呼んだほうがいい?」
「えー、新学期始まって噂されたら嫌なんですけど。まあ、でも、ダフネの顔を立ててそう呼ぶことを許してやってもいいわよ、ハリー」
「うん、じゃあ、またねパンジー」
むず痒くなるようなやり取りを前に、ディオメデスは微笑んでいた。娘の青春が嬉しいのかもしれない。
それからダフネとハリーはパーキンソン親子のテーブルに集まっていた面々――主に魔法運輸部の官僚たちに挨拶し、テーブルを辞去した。
「驚いたよ。パーキンソン……じゃなかった、パンジーってもっとこう、ハリネズミみたいなタイプだと思ってたから」
「言いえて妙ですわね。一度仲良くなると可愛い子なの。仲良くしてあげてくださいね」
「それは向こう次第な気もするけどね。次は誰に挨拶するの?」
しばらく、ダフネはハリーを連れ回して様々なテーブルを巡った。
有意義な時間だった。
シャフィク、フォウリーといった純血旧家の当主たちはハリーが半純血であることを嘆きながらもポッター家の帰還を喜んだ。中にはゴールドスタイン氏のような級友の親もいて、自分の息子や娘にハリーと会ったことを自慢すると言って笑った。
いくつものテーブルを回り、ハリーが疲れてきたところで、ダフネは会場の中心からは離れた静かなテーブルにやってきた。
「ごきげんよう、ミスター・クラウチ」
「……お会いするのは初めてですな、ミス・グリーングラス。それに、ミスター・ポッター」
そう、このパーティーにはクラウチが来ている。
ゲストたちはクラウチに興味を示して遠巻きに眺めはするが、積極的に関わろうとはしていなかった。ここに集まっているのは多くがルシウスの友人だ。デメテル・ザビニが招待されていればこれ幸いとすり寄ったかもしれないが、ここに彼女はいない。
それはつまり、ここにいるゲストたちの大半は魔法法執行部長時代の苛烈なクラウチと、その失脚の理由を知っているということだ。
緊張と好奇心が入り交じる空気の中、ハリーは目を輝かせてクラウチを見上げた。
「はじめまして、クラウチさん。えっと、国際魔法協力部長を務めてらっしゃるんですよね」
「左様」
「その前は魔法法執行部長だった」
「その通り」
「僕、新聞を読みました。それで……すごく立派なことだなって。だって、そうでしょう? 自分が間違っていたかもしれないって自分から言い出したんですよね?」
ハリーから向けられる無垢な尊敬の感情にも表情ひとつ変えることなく、クラウチは小さく頷く程度の会釈で応えた。
もちろん、ハリーは褒めたつもりだった。社交の場の世間話としてはちょうどいい温度感だ。しかし、クラウチからすればハリーの言葉は皮肉ですらある。
クラウチは裁判を行わずにシリウスを投獄した。そのツケをルシウスに支払わされている。あのルシウス・マルフォイと手を組まねばならない。クラウチにとっては屈辱でしかないだろう。
彼は大人で、新聞を読んで憧れる無邪気な子どもに当たり散らさないだけの分別があった。それでも、きっとそのはらわたは煮えたぎっていた。
「――まあバーティ、そう顰め面をするものではありませんよ」
この空気の中でも声をかけられたのは、他ならない彼女がクラウチの上司だったからだ。
シャンパングラスを片手に、ミリセント・バグノールドが穏やかな表情でクラウチの肩に手を置いた。彼女は静かだったが、有無を言わせぬ雰囲気があった。
「こんばんは、ミス・グリーングラス、ミスター・ポッター。年甲斐もなくはしゃいでごめんなさいね。待ちきれずに出向いてしまいました」
「こんばんは、ミセス・バグノールド。ハリーに会わせるというお約束がようやく叶いましたわね」
ダフネは彼女に微笑みを返した。
ミリセント・バグノールド。戦時中の魔法大臣。彼女を誘き出すことこそが、ダフネの狙いだった。