ミリセント・バグノールド。
ヴォルデモートの台頭にあたって十分な能力を発揮できなかったユージニア・ジェンキンスとも、アズカバンの吸魂鬼配備を増やすことでヴォルデモートに対抗しようとしたハロルド・ミンチャムとも違い、有能な指揮官として戦争を終結に導いた人物だとされる。
「ハリー、ミリセント・バグノールド前大臣よ。あなたが英雄になったあの日、魔法省で戦い続けていた時代の守護者といったところかしら」
「大げさですよ、ミス・グリーングラス。でも、そうですね。こんなお婆さんですが、あなたとは同じ敵と戦った仲なんですよ」
バグノールドが謙遜するようなことを口にすると、クラウチがわずかに眉間に皺を寄せた。当然だろう、彼女はかつてクラウチの上司として共に戦った人物なのだから。
一部では、バグノールドを英雄視する声もある。ハリー・ポッター、アルバス・ダンブルドアに並ぶミリセント・バグノールドというわけだ。
しかし、その評価は必ずしも的確とは言えない。
戦争を終わらせたのは魔法省ではなく赤子だったハリーだ。ポッター家を守っていたのも魔法省ではなく不死鳥の騎士団だ。そして、不死鳥の騎士団を指揮していたのはバグノールドではなく、ダンブルドアだ。
よって、バグノールドを評価するのならこうだ。
彼女はヴォルデモートが滅ぶまで耐え抜いた魔法大臣だった。少なくとも、彼女は魔法省陥落を阻止したし、市民生活を崩壊させなかった。
あの時代に自らの足で大臣室を去ったというだけでも、バグノールドの偉大さは十分に伝わるだろう。ただ、それを可能にしたのは彼女自身というよりはむしろ、ハリー・ポッターその人によるというだけで。
英雄と呼ぶには凡庸だが、凡人と呼ぶには偉大すぎる存在。
そんなことを一言も言わないままダフネはバグノールドと握手を交わし、ついでハリーも彼女に握手を求めた。
「お会いできて光栄です、バグノールド前大臣」
「あなたに会えるのを本当に楽しみにしていたのですよ、ミスター・ポッター。あなたは私のヒーローですから」
穏やかな表情でハリーと握手を交わしたバグノールドは、クラウチに軽く目配せをした。
するとクラウチは小さく咳払いをし、それで何かを察した国際魔法協力部の官僚たちは不自然でない程度に賑やかに話しはじめた。
一見すると大した中身のないその会話は、国際魔法協力部に伝わる防諜技術のひとつだった。少し大げさな身振り手振りに見えるそれは初歩的な無杖呪文。彼らは国賓を迎えた際に杖なしでも最低限の仕事ができるよう、アフリカ式の研修を受けている。
目的は周囲の認識をそらすこと。つまり、ここからは聞かれたくない話をするということだ。
「そして、ミス・グリーングラス」
「ええ、ミセス・バグノールド」
「
そう、ダフネはバグノールドにメッセージを出していた。世間は今、誰もがそのメッセージに注目している。
それは、
シリウスは裁判を経ずに投獄された。それはそうだ。しかし、そのようなウィゼンガモット軽視の振る舞いが一介の魔法法執行部長に許されるだろうか?
有事にあたって裁判を省略する許可を出した人物がいるのだ。冤罪を生んだ、謂わば諸悪の根源とでも言うべき人物が。
それは誰か。
戦時下において魔法法執行部長バーテミウス・クラウチの上位者であり、ウィゼンガモット法廷を黙らせることができたのは一体誰なのか。
もちろん、当時の魔法大臣しかいない。
クラウチは暴走した。その暴走が冤罪を生んだ。それはそうだ。しかし、クラウチを暴走させたのは他でもない、ミリセント・バグノールドなのだ。
「高名なバグノールド前大臣の
ハリーがきょとんとした表情でダフネとバグノールドを交互に見た。
この華やかなパーティーに相応しい穏やかな笑みを浮かべたまま、お互いがお互いの隙を探り合っている。老いたと言えども一流のバグノールドに正面からぶつかって敵うほど、ダフネは経験を積んではいない。
そう、バグノールドは優れた政治家だ。究極的な責任者でありながら一切の糾弾を受けず政界を去った。彼女の経歴には傷一つ残されていない。これがどれだけ恐ろしいことかを理解している市民は決して多くはない。
バグノールドは失敗しないのではない。卓越したダメージコントロール力。戦後、不安定な魔法界の屋台骨として魔法省の威信を維持し続けたその能力こそが、バグノールドの恐ろしさだ。
だから、彼女を揺るがせた。
ブラック家、そしてポッター家。優れた政治家であるバグノールドが、だからこそ救えなかった両家を彼女にぶつけた。
ハリーはバグノールドの政治生命を救った。就任してから2年でハリーがヴォルデモートを消し飛ばしてくれたおかげで、彼女は優秀な魔法大臣でいられた。
そして今、世間はシリウス・ブラックの冤罪説に沸き立っている。
「ミセス・バグノールド。いかがですかしら、ついにハリー・ポッターと対面した感想は」
「そうですね、思っていたよりも痩せているのが気になるかしら。非魔法族の家庭に預けられたと聞いていますが?」
「はい、おじさんの家に居候しています。でも、その、おじさんたちは魔法が好きではなくて」
「戦争がひとつ終わったところで、長い歴史が生んだ断絶はそう簡単にはなくならない。我々魔法省にとっての大きな課題ですね」
ハリーが首を傾げた。
「魔法省は魔法界をマグルから隠すのが仕事なんじゃないんですか?」
「そういった側面があるのも事実ですし、その側面ばかりが意識されているのも事実です。魔法省の役割は多岐に渡ります」
「ミセス・バグノールド、もしよろしければご教示願えませんかしら。一市民として、魔法省が果たしている役割について知っておくいい機会だと思いますの」
ダフネがバグノールドを見上げると、バグノールドは柔らかな笑みを浮かべた。
現役時代はメディアを相手に、大臣室を去ってからは市民を相手に、バグノールドは多くの問いに答えてきた。それは魔法大臣にまで上り詰めた彼女に生涯をかけて課された役割だった。
そんなよくある問いにバグノールドは当然のように頷いて、それからクラウチを見上げた。
「いいでしょう。しかし、せっかく現役の官僚がいるのです。あなたの見解を聞かせてくれるかしら、バーティ?」
クラウチは小さく眉を上げた。元上司からのちょっとした試練というわけだ。
「このような席で話すには少々込み入った話になりますが」
「私が許します。それでは足りませんか?」
「……いいでしょう」
クラウチが一口分も減っていないグラスをテーブルに置いた。
元魔法法執行部長、現国際魔法協力部長による、魔法省の存在意義と国際魔法使い機密保持法についての解説だ。なかなか聞けるものではない。
ダフネはグラスを置き、興味深く傾聴することにした。
「ミスター・ポッター。魔法族が非魔法族から隠れ住むようになった理由はわかるかね」
「えっと、魔法史で教わったと思います。魔女狩りが盛んになって、国際魔法使い機密保持法が……」
「教科書通りではあるが、それは結果に過ぎん。君はどうかな、ミス・グリーングラス」
一瞬、クラウチの瞳にちらりと試すような光がきらめいた。
そこでダフネは察した。どうやらルシウスは彼の勧誘にダフネの名前を出したようだ。共に戦うに値する人物なのか、それを探りに来たといったところか。
望むところだ。
ダフネは微笑んで指を立てた。
「論点を整理しましょう。国際魔法使い機密保持法制定に至るまで、世界に何があったのか。そして、その結果として非魔法族と魔法族の関係はどのように変化したのか」
「ふむ、続けたまえ」
「近世ヨーロッパはいくつもの災害に襲われました。寒波、飢饉、疫病……これらに共通するのが、魔法で再現が可能だということですわ。非魔法族から見て、これらの災害は魔法で起こされたものと区別がつかなかった」
クラウチが小さく頷いたのを確認して、ダフネは話を続けた。
「非魔法族の対魔法族感情が悪化した結果、まさにハリーが先ほど挙げてくれた魔女狩りが生じるようになりました。この犠牲は看過できるものではありませんでした」
「……あれ? でも、教科書には魔法族にとって火あぶりはなんの痛手にもならなかったって書いてあったよ」
「ええ、
「それって……!」
ハリーはぞっとしたような顔をしてダフネを見つめた。
あまりにも残酷な話だからか、その先はクラウチが引き継いだ。
「杖を奪われた者、未熟な子ども、あるいは魔法族の家族や友人である非魔法族。そういった者は魔法族にとって確かに犠牲だった」
「そんな……だって、それじゃあ、マグルは魔法族やその大事な人たちをいっぱい」
ハリーが大声を出しそうになったので、ダフネは指をそっとハリーの口に添えた。
「お声が大きくってよ、ハリー。……もちろん、犠牲は小さくなかった。その一方で、マグルがそんな疑念を抱く程度に一部の魔法族が彼らを騙したり、苦しめたりしてきたのも事実なのですわ」
唖然とした様子で、ハリーは答えを求めるようにクラウチを見上げた。そのハリーに対して、クラウチは小さく頷いてみせた。
本当なら、ハリーにはもっと夢を見ていてほしかった。魔法界は自分にとって救いのような世界で、美しく、輝きに満ちている。その優しい夢に浸り、傷を癒やす時間がハリーには必要だった。
しかし、もはや世界はハリーを夢の中に放っておいてはくれない。それどころか、その夢につけ込んでハリーに毒を吹き込む者が現れるかもしれない。
これをハリーのためと言うつもりはない。しかし、ダフネにはハリーが魔法界の闇を知ってもなお魔法界を愛してくれるという自信があった。
「魔法省の役割はただ魔法と魔法族とを隠すだけではない。非魔法族の魔法族に対する悪感情を膨らませないよう、両界の関係を保つこともまた我々の仕事だ。……なにか補足はありますかな、ミリセント」
「十分にいい説明でした、バーティ。そういうわけですから、ミスター・ポッター、あなたの保護者一家が本当に魔法を拒むのなら、我々魔法省としてはあなたの新しい保護者を探す用意もあるのですよ。あなたのためだけでなく、ご家族のためにも」
それは随分と突然な話だった。
きっとバグノールドの下には以前から山のように陳情が届いていたのだろう。ハリー・ポッターを引き取りたいという考えを持った魔法使いや魔女はシリウス・ブラックただ一人ではない。
意外なことにハリーは即答せず、少し困ったように襟足を掻いた。
「あの、それはすごくありがたいお話です。でも……あの人たちは魔法省が関わってくることを嫌がると思います。それに、僕はもう13歳です。魔法界だと17歳で成人なんですよね? 成人したら一族の屋敷でひとり暮らしをするつもりなので」
「だから、あと4年耐えると?」
「どうせ夏休みに帰るだけですから。ありがたいことに助けてくれる友達が多いので、辛くなったら頼ることにします。そうでしょ、ダフネ?」
ダフネが微笑みを向けると、ハリーは安心したように小さく笑った。
その様子をバグノールドは静かに見守っていた。一体どのような感情が彼女の内側に渦巻いているのだろう。彼女が現役の頃なら、ハリーという駒は値千金どころではなかったはずだ。
大臣がファッジに代わり、そしてハリーが表舞台に姿を現した。時代が変わった。バグノールドはそのことを肌で感じたはずだ。もはや「我々の魔法省」ではないのだと。
しかし、この老魔女に呑気な隠居暮らしをさせてやるほどダフネは優しくはない。
「いかがですかしら、ミセス・バグノールド。ハリーのように魔法界と魔法省について漠然とした認識しか持たない子どもは少なくありませんわ。今日はあるご提案をお持ちしたのです」
「いいですね、聞かせてもらいましょう」
「来たる9月からの新学期、闇の魔術に対する防衛術の教授として赴任する先生がちょっとした持病を抱えてらっしゃいまして。月に一度、代講として外部講師を呼ばないかとご提案したところ、先生もダンブルドア校長も賛成してくださいましたの」
バグノールドが初めて驚いたように目を瞬かせた。
ホグワーツの独立性は魔法省が誕生するよりも前から維持されてきた。歴代大臣の中にはホグワーツへの介入に執念を燃やした者もいたが、その全ての目論見は失敗に終わった。
しかし、今やバグノールドは魔法省の人間ではない。彼女はただ、多大な影響力と名声を有した一般魔女としてホグワーツの外部講師を務めることができる。
社交界というフィールドでバグノールドに勝つことはできない。
百戦錬磨の前大臣と13歳の小娘では経験の差が著しい。彼女にどんな要求を呑ませるにせよ、それを実行するのはパーティーの場ではない。
では、どこか。
たとえば、ホグワーツに外部講師としてやってきたバグノールドを
「君、バグノールド前大臣はご多忙だ。その教授も交えて、後日改めて――」
クラウチの言葉を手で遮って、バグノールドは静かにダフネを見下ろした。
興味を持つきっかけは提示した。ルシウスとの繋がりも匂わせてある。それはつまりシリウスの無罪疑惑とハリーの社交界デビュー、両方に関わっていることを示唆しているも同じだ。
見え見えの誘い。百戦錬磨の相手と駆け引きをするのなら、下手に逃げ隠れするべきではない。
バグノールドがハリーを見た。
「いいえ、バーティ。……ミス・グリーングラス。そのお話、喜んでお受けしましょう」
そして、バグノールドはこの勝負のテーブルについた。