夜中にトイレに行きたくなって目が覚めた。
謎の争奪戦を繰り広げた結果、僕との同衾権 (本人の許可なし)を手に入れたオーディリエも目を覚ましたが、トイレに行くだけだからと言って一人でベッドから抜け出す。
部屋から出て扉を閉める時、窓から射す月明かりに照らされたオーディリエが視界に入った。
寝間着のネグリジェ姿で上半身を起こしてこちらを見つめる様子は神秘的だ。
ベッドの上に広がる長い金髪は、月明かりを反射させ輝いている。
端正な顔が浮かべる物憂げな表情は、美術品の絵画から飛び出したかのよう。
物憂げといっても眠たいだけだと思うが。
階段を下りて宿の庭先にあるトイレに向かう。
子どもの頃は暗闇から何か得体の知れないものが、今にも飛び出してきそうで怖かったものだ。
しかし成長するにつれてそんなものは居ないと知り、未知が既知となり怖さは薄れていく。
つまり子どもの姿の僕でも、中身が大人なので怖くないと言いたいのだが……。
用を足して部屋に戻ろうとした僕の周囲が急に暗くなる。
「えっ」
暗いといっても月明かりがあるので、歩くのに不自由しないくらいに明るかった。
それが突然、空も足元も周囲も真っ暗になったのだ。
先に述べた通り既知はいいが未知はよくない。
つまり、怖い。
視界一杯の闇で平衡感覚を失い、足が竦み動けなくなった僕の背後から、耳元で囁くような声が聞こえた。
「みつけた」
同時に何かに両脇を抱えられて、体全体が持ち上がる。
そして逆バンジーのように遥か上空に打ち上げられた。
視界は戻ったが、今度は二階建ての宿よりも高い位置に放り出された。
〈コラン君〉の翼を失っている今、滑空もできないのであとは落下するのみ。
未知といった曖昧なものではなく、転落死という具体的な恐怖に晒され悲鳴を上げかけた僕を、背後から何かが抱き止めた。
「随分と待たされた意趣返しのつもりだったけど、少しやり過ぎたかしら」
僕の体が勝手にくるりと半回転し、声の主の姿が露わになる。
それは黒と赤を基調にしたゴシックなドレスを纏った少女で、絹のようにさらさらと流れる銀髪と宝石のように輝く碧眼が美しい。
顔の造形もそれらに負けず劣らず、精巧に作られた人形のように左右対称で歪みなく整っている。
少女の外見には相応しくない蠱惑的な笑みを浮かべていた。
「な、なんだリリンか」
「あー、えっと。ごめんなさい。今下ろすわね」
僕の表情を見てやらかしたと悟ったようで、微笑みから一変して申し訳なさそうに眉尻を下げている。
彼女は五番目の神無き大陸〈カンナウルトルム〉で知り合った、
僕の周囲が暗闇になったり、体を上空に打ち上げられたり、空中に留まったりしているのは、すべてリリンの背中から生えている変幻自在の蝙蝠の翼の仕業だ。
その翼の一部が触手のように伸びて僕の体を支えていて、そのままゆっくりと降下して宿の屋根の上へと降り立った。
「そんなに泣かないでよ。私が悪者みたいじゃない」
「……泣いてないし。てか実際に悪者だし」
既に何度も思い知らされているが、精神が肉体に引っ張られている。
〈コラン君〉の時と違って肉体が無防備なことも大きい。
なんとか堪えようとするが、涙が零れ嗚咽が漏れてしまう。
「見栄の張り方が見た目相応ね。むしろ泣き虫かしら」
やれやれといった感じでリリンは僕を抱き寄せると、落ち着かせるように頭を撫でた。
吸血鬼なので体温こそなかったが、それ以外は人種の少女らしい感触と匂いもあってか落ち着きを取り戻す。
恐怖が治まると気恥ずかしさが勝ってきたので、誤魔化すように話を振る。
「吸血鬼って本当に体温が無いんだな」
「そうよ。夏場はひんやりして気持ちいいわよ? トウジ相手ならもっと気持ちいい事もさせてあげる」
リリンは僕の手を包み込むように掴むと、自らの顔へ持っていき頬擦りする。
すべすべの肌の手触りが心地よい。
次に首筋を撫でさせられると、指先に頸動脈の鼓動を感じた。
体温が無いだけで心臓はちゃんと動いているのが、なんとも不思議だ。
生物は代謝するために体温が必要だが、吸血鬼の代謝は体温、すなわち熱以外の方法を用いているのだろうか。
なんて興味深く触っていると、リリンは僕の手を胸元に持って行こうとしたので慌てて引っ込めた。
いつの間にかリリンのブラウスのボタンが外れて胸元がはだけているし。
誰も彼もが〈コラン君〉の時よりスキンシップが過剰なのは何故なのか。
「子ども相手にやめろっての! それで今までどこにいたんだ?」
「さすがに
リリンがこの四番目の大陸についてきていることは皆に聞く前から知っていた。
僕がこの姿で目覚めた時も、首にはリリンの所有物であるペンダントが掛けられていたからだ。
ペンダントのトップはリングを三つ重ねたように絡み合っていて、それぞれ違う金属なのか輝き方が違っている。
このペンダントは《意思伝達》が付与された魔術具でもあり、リリンの大事な人の形見でもあるらしい。
もしリリンと別れることになったなら、この借りていたペンダントも返却されていただろう。
同じく五番目の大陸で知り合った邪人のトロールのティアネは、さすがについてくるのが難しく留守番となってしまったが。
「一人で寂しく貴方を待っていたのよ? 今晩くらいはデートに付き合ってくれてもいいんじゃない?」
「それなら皆に伝えておかないと、心配するから……」
「貴方を脅かす前にユキヨに伝えてあるから大丈夫よ。さあ行きましょう」
リリンは僕の言葉を待たずに、再び夜空へと舞い上がった。