その昔、竜渓谷には名前の通りたくさんの亜竜が棲みついていた。
しかし今から四十数年前、ヨルドラン帝国の軍勢により竜渓谷の亜竜たちは滅ぼされる。
そして渓谷の先にあるラディソーマ竜王国を侵略するための拠点へと姿を変えた。
竜渓谷がどんな場所かを端的に説明するなら、険しい山々の間にある峠道である。
ここ以外の場所は険しい山々がそそり立っているため、馬車どころか人の足で通ることは不可能。
道民的には大雪山連邦を連想するが、あちらのように登山できるような環境ではないらしい。
よって旧ラディソーマに行くには竜渓谷を通るか、この山々を大きく迂回するかになる。
ちなみに竜渓谷周辺の山々は竜骨山脈と呼ばれていた。
「本当に亜竜はもう一匹もいないのか?」
「少なくとも竜渓谷にはいないですね。周辺の山々に隠れ住んでいないとは言い切れませんが」
馬車の窓から竜骨山脈を見上げつつ質問した僕に、フードを深く被り額の角を隠したヘルカが答える。
ここから先は旧ラディソーマということで、亡国の姫であるヘルカには身を隠してもらっていた。
ふむ、竜渓谷に出てこない限り、わざわざ隠れ住んでいる亜竜を討伐する必要もないか。
竜渓谷の入口には巨大な門がある。
正面から見て左側が山の斜面、右側が崖になっているのだが、山の斜面に沿って覆いかぶさるように砦が造られていた。
窓の数からして砦は五階建てくらいだが、外から見る限りはしっかりと水平を保ち、山から生えたかのように同化している。
現代の建築技術でも難易度が高そうだが、多分に魔術の力が使われているのだろう。
科学とはまた違った文明の発達の仕方には驚嘆するものがある。
「すげえ……」
「大きいね、お兄ちゃん」
セリとリンの兄妹は、物心ついた頃には既にルブランのスラム街にいて、一度も街の外に出たことがなかったそうだ。
だから街にはない自然や動物、建造物を見る度に目を輝かせて見入っていた。
中身がおじさんの僕としては、微笑ましいを通り越して父性が芽生えてしまいそうだ。
ルリムとオーディリエが世話を焼きたがるのも納得できる。
「探検したら楽しそう」
「ん」
「あ、僕も……」
「いや、駄目だからね? って押すな、押すな。窓が割れる」
兄妹に加えてフィンとシンク、普段は控えめなアナまで砦を見ようと窓際に押し掛けるものだから、僕の顔面が窓に押し付けられた。
それを門の横に立っている女兵士に目撃される。
彼女は少し驚いた後に微笑んでこちらに手を振った。
砦を見て興奮しているおのぼりさんみたいで恥ずかしい。
「〈混沌教〉の本神殿への巡礼? 亜人の女と子どもだけでか?」
馬車の外から訝し気な男の声が聞こえてくる。
門の責任者らしき男が御者台越しにこちらを見ていて、訝し気な声以上に表情を顰めていた。
亜人嫌いを隠すつもりはないようだ。
「はい。我らの混沌の主はすべての人種を分け隔てなく受け入れてくださいますから。それと私はこれでも第三位階冒険者ですし、他の従者二名も同程度の実力を持っています。ここに来るまでに幾人かの荒くれ者を蹴散らしてきましたよ。それにしてもこの辺りには物騒な連中が多いみたいだから、門番さんも大変ですね」
門番の男の態度など歯牙にもかけず、御者をしていたリリエルが皮肉交じりに答えた。
おいおい、余計な話題を振るなって。
「モーリュ辺境伯様が大規模な魔獣討伐を行なうために、冒険者や傭兵ども集めているんだ」
魔獣討伐ねえ。
表向きはそういった名目で独立戦争用の戦力を集めているのか?
この辺りについてもフレックは何も教えてくれなかった。
少年兵としてセリは攫われそうになっていたわけだが、どう考えても戦力として役に立たない。
あくまで頭数が欲しかっただけなのだろうか。
「人の動きが増えて検問は忙しくなるが、腐っても組織の一員である冒険者と傭兵だ。治安が悪くなるということはない。物騒な目に遭うのは、お前たちが魔獣にでも見えたんじゃないか? 角も生えていることだしな」
「魔獣に欲情して襲ってくるのだから、きっと向こうも魔獣だったのね。頭に生えてないからって、股に粗末な角を隠した魔獣を通したら駄目よ? 門番さん」
おーい、だから煽るなって。
てか子どももいるんだから下ネタはやめなさいよ。
「なんだと! なら貴様たちも通すわけには……」
語気を荒らげる門番の男にリリエルが書状をずいっと突き出す。
それはフレックから貰った追加の便利アイテムだ。
「デクシィ侯爵家の馬車に加えて、詮索無用と念押しした通行証まであるのか……ちっ。通れ」
書状を確認すると、悔しそうに舌打ちしながらも門番の男が通行許可を出す。
ドヤ顔で手綱を握り通り過ぎるリリエルの背中に浴びせるように、捨て台詞が聞こえてきた。
「虫人族なんて初めて見たぞ。虫の羽なんか生やして気色悪い」
「ああん? むぐぐ」
「まあまあ、トウジ様」
思わずドスの利いた声(といっても子どもの声だが)を出した僕を、ルリムが正面から抱きしめる。
門番に文句を言ってやりたかったが、顔面が柔らかいものに圧迫されそれ以上喋ることができなくなった。
どうやら僕自身も気付かないうちに熱くなっていたようだ。
やはり精神が肉体に引っ張られているなあ。
「ちゅうじんぞくって何?」
「虫と人族が合わさった種族ですね。私たちと同じ人種ですが、意思疎通が難しいので森の奥深くで虫人族だけで暮らしています」
「へー、初めて聞いたけどリージスの樹海にもいたのかな」
オーディリエの説明にフィンが腕を組み首を傾げている。
虫人族と勘違いされ悪口を言われた当人の興味は、その未知の種族に向けられていた。
門をくぐると左巻きの上り道になっているのだが、そこはまだ砦の内部である。
何故なら砦は山の斜面だけでなく、峠道自体を覆うように建設されているからだ。
崖側と天井はドーム状の壁に覆われ、斜面側には外から見えていた砦の二階部分までが隣接していた。
照明は松明と自然光を利用しているのか、採光及び通気用の窓がいくつもある。
現代の建造物で例えるなら、山道によくある
隣接する砦や薄暗さと合わさり、まるで秘密基地みたいだ。
悔しいかな、童心に帰ったかのようにわくわくしてしまう。
いやまあ、今は童心に帰るというか童そのものなのだが。
目をキラキラさせた年少組を乗せた馬車が、全長百メートルほどの覆道をゆっくり進む。
そして半ばに差し掛かったところで、周囲がにわかに騒がしくなった。
警鐘がけたたましく鳴り響き、砦から武装した兵士たちが飛び出してくる。
「おおっと、どうどう」
怯えて暴れそうになる馬をリリエルが手綱を引いて押さえ込んでいると、前方から逃げるように走ってきた兵士たちの一人が、大声で叫んだ。
「竜だ! 竜が出たぞーーーーー!」