「あっ、まずい」
猫が四次元頬袋内でそう呟いたかと思うと、勝手に出てきた。
馬車の中に突然猫が出現したため、クラリスは驚いて目を丸くする。
「えっ、猫!?」
「ちょ、何勝手に―――」
俺の言葉も無視して猫は窓の隙間から外に飛び出すと、馬車の屋根に飛び乗った。
そして進行方向をじっと睨みつける。
「思ったよりも侵攻が早かった。トウジ、勇者がピンチだ」
その言葉だけで十分だった。
「クラリス様、すみません先に行きます」
俺はクラリスの返事を待たずに馬車から下りると、思い切り地面を蹴った。
一気に五メートルほど飛び上がったところで、風精霊の力を借りる。
『風よ』
背中に強烈な突風を受けて、俺の体は前方へ吹き飛んだ。
「トウジ―――」
クラリスが何か言っていたが、風の音で掻き消されて聞こえなかった。
〈コラン君〉の翼は自力飛行にはあまり向かないが、滑空する分には問題ない。
『風よ』『風よ』『風よ』
ひたすら自分の背中に突風を浴びせ続け、最大速度で滑空し続ける。
次第に毛皮と皮膚が突風の衝撃に耐えられなくなり血が滲む。
更に魔力も枯渇し始めたが、どちらも〈ハスカップ羊羹〉で強引に回復させながら空をかっ飛ばす。
体感では竜の姿になったシンクに負けない速度で突き進むと、前方に砦が見えてきた。
砦では勇者軍VS魔王軍の大規模な戦闘が行われていて、人族や邪人、闇の眷属が入り乱れている。
「門の前だ!」
いつのまにか俺のマフラーに潜りこんでいた猫が顔を出して叫ぶ。
猫の言う門に視線を向ける。
下りた跳ね橋の上で小柄な少女と、巨大な獣が一騎打ちで戦っていた。
少女は動きやすそうな部分鎧を纏い、背丈より長い剣を両手持ちで構えている。
目にもとまらぬ速さで獣を斬りつけると、腰まで伸びた長い黒髪が激しく揺れた。
対する獣は二足歩行の虎のような姿で、両手の爪で少女の振るう剣を軽々と受け流している。
あれはまずい。
一目でわかる程の実力差があった。
勇者は【激情神の加護】を持ち、戦闘力も感情の種類や多寡に左右されるそうだ。
これまでに三人の仲間を失い勇者の精神はもうズタボロで、本調子からはほど遠いのだろう。
―――焦るあまり、ここで俺は致命的なミスを犯してしまった。
『風よ!』
俺は勇者に加勢するため、加速しつつ四次元頬袋から大剣を取り出す。
すると大剣の幅広い刀身が空気抵抗をもろに受け、大幅に減速してしまったのだ。
慌てて切っ先を進路に向け空気抵抗を減らして再加速したが、この数秒で戦況は大きく動いた。
動いてしまった。
俺が減速しなければ間に合ったかもしれないというのに。
虎の獣は勇者の斬撃を爪で押し返すようにして弾いた。
すると勇者はバランスを崩して大きく仰け反る。
その後の虎の獣の動きが俺には馴染みがあるため、手に取るようにわかってしまった。
虎の獣の武器は両手の、前脚の爪だけではない。
がら空きになった勇者の胴体に虎の獣の蹴りが炸裂した。
その場で宙返りするように蹴り上げると、虎の獣の大きい四本の爪が勇者の体を切り裂く。
「悠里いぃぃぃぃぃ!」
太く鋭い爪が腹から侵入し、悠里の華奢な体が縦に裂ける。
鎧なんて無いに等しく、鮮血を撒き散らしながら悠里の体が宙を舞った。
俺は大剣を投げ捨て、治癒魔術を使うために悠里の元へ急いだ。
過去に瀕死の冒険者を治療したこともあり、即死でなければ救える可能性がある。
まだだ。
まだ諦めたら駄目だ。
『直せ 治せ
地面に降り立ち駆け寄りながら詠唱を始めていた俺だったが、驚きの余り声を詰まらせてしまった。
蹴り飛ばされ頭から落下している悠里の体に急に活力が戻り、空中で半回転して足から地面に着地したのだ。
驚くことに悠里の怪我は綺麗さっぱりなくなっていた。
流れ出た血痕はそのままだったが、破れた服の隙間からは無傷の白い肌が覗いている。
悠里は自分の体に起きた異変に気付き、はっとすると慌てて周囲を見回して何かを探す。
そして何かを見つけると、顔から表情が抜け落ちた。
門の入口付近に一人の少女が倒れている。
地母神を信奉する神官服を纏った赤い髪の少女だ。
うつ伏せに倒れていて、胸のあたりから大量の液体が流れ地面を濡らしている。
それは少女の髪の毛よりも濃密な赤。
血液だった。
「これはまずい。すごくまずい! トウジ、早くあの子、イングリットを助けるんだ」
「イングリット? クラリスの姉か? ということはまさか」
「ああああぁぁぁぁっ、ぁぁぁああああ、あああああああぁぁぁぁぁ!」
悠里の絶叫が響き渡る。
同時に強烈な怒気のようなものが放たれ、黒いオーラとなって悠里の体に纏わりつく。
悠里はみしみしと聞こえてきそうなくらいに両手剣の柄を握りしめ、虎の獣へと突っ込んでいった。
「イングリットは【献身神の加護】でユーリのダメージを肩代わりしたんだ。このまま死んでしまったらユーリの仲間は全員いなくなる。自分のせいで最後の仲間まで失い、絶望して【激情神の加護】が暴走してしまったら……」
「ど、どうなるんだ?」
「最悪、魔王に反転してしまう」