其れは神と紡ぐ物語 作:FF8リメイク待ってます
報告書の電子インクが目に焼きつく。
午前の巡回で起きた小競り合いの処理に始まり、定時連絡の確認、備品管理の更新。どれも慣れきった日常のルーチンだ。
ボーダム警備局の詰所は、今日も息苦しいほどに整然としている。端末の光、書類の紙の匂い、安物のコーヒーの苦味。それらが混ざり合って、一日の終わりまで続く慣れ親しんだ日常の匂い。
私は、それが嫌いじゃない。先日、軍曹に昇進してから増えた仕事の山を前にしても、それは変わらない。ただ黙々と目の前の仕事と向き合い、それを処理して行く。
若輩、それも女の身では異例のスピード出世を妬む輩は多い。ワーカーホリックと、自分が怠け者なだけのくせに私をそう呼ぶ奴らは、いつだとてこちらが隙を見せるのを待っているのだ。
だから私は仕事場でも、極力必要以上の他人との関わりを避ける。人間関係に余計な感情を持ち込むと、判断を誤る――長年の経験で、身に染みているからだ。
「ファロン軍曹、昨日の港湾巡回の報告書、確認お願いできますか?」
若い隊員が遠慮がちに声をかける。つい最近配属されたばかりの、日が浅い新人だ。私は短く「置いておけ」と言い、紙束を受け取った。
視線を走らせると、ああやはり。新人にありがちな数字の抜けを一瞬で見つけた。
「この時間記録は分単位まで記入すること。現場は“だいたい”じゃ動かないんだ」
「す、すみませんっ!」
若者の肩が跳ねる。別に怒ったつもりはないのだが、どうやら私の言い方に怖気付いてしまったらしい。
だが、わざわざそれを訂正しようとは思わない。変に舐められるよりは、怖がられている方が良い。今まで、ずっとそうやって来た。
でもその様子を見たこの部署の古巣の人たち、つまり私の同期や先輩にあたる人たちから、くすくすと笑い声が漏れた。
それが、こちらを馬鹿にしたものではなくて、新人が抱いたであろう私への印象と実際のギャップ差を面白がっての物だと、なんとなく私にもわかる。
わかるから、軽く睨む程度しかできないし、その程度では彼らが笑みをやめないのもわかっていた。
そしてその中心にいたアモダ曹長が、カップを手に私を見やる。
「おーおー、相変わらず厳しいな、隊長殿」
「その呼び方、やめてください。私は軍曹です」
「へいへい。けどな、昇進したんだ。もっと威張っても罰は当たらんぞ?」
「威張るために昇進したわけじゃありません」
「……だろうな」
アモダ曹長は穏やかに笑った。彼のそういうところは嫌いじゃない。口は軽いが、部下をよく見ている。仕事人間の私をからかうのも、心配してのことだとわかっている。
そしてきっと、怒られたと思ってる新人に、私が怒っているわけではないと安心させるための目的もあるのだろうと。
その気遣いには、新人の頃から何度も助けられている。私の事情を汲んで色々と手助けしてもらったし、書類の書き方やちょっとしたコツ、最近では指揮官としての手ほどきまで教えてくれたアモダ曹長は、私にとって先生とも言えるほど大恩ある人だ。
正直、両親以外で初めて純粋に尊敬できる大人だと、私はアモダ曹長のことを思っている。
「ただなあ、仕事ばっかりじゃ心が錆びるぞ、ライトニング」
「心の整備も、勤務外でやります」
「はいはい。堅いなぁ……」
そう言って笑うアモダ曹長に、こちらはため息を返す。この人には、こちらのことをある程度見透かされているとわかっているから、あまり下手に言い返せないのだ。
だから仕事がまだ残っているのを言い訳にして、失礼だが彼との会話を打ち切ろうとしたそのとき、受付の方から声が上がった。
「ファロン軍曹ー! スフィアさんがお弁当の差し入れ届けに来ましたよー!」
……またか。思わず、手を頭に置いて項垂れてしまう。隣にいたアモダ曹長が満面の笑みで笑ったのが視界の隅に見えた。同時に、詰所の空気がざわりと揺れるのも。
「お、また“奥さん”が来たか!」
「軍曹、今日も愛妻弁当っすか!」
「やかましい。黙って仕事に戻れ」
静かに命じたつもりが、まるで爆発物を投げ込んだような反応が返ってきた。
笑い声、口笛、茶化す声。笑っていないのは、ここにまだ配属されたばかりのさっきの新人だけだ。
笑い声の中に、からかい以上の悪意はない。けれど、それでも胸の奥が小さくざらついた。脳裏に、銀色の髪が揺れる。奥さんと呼ばれて真っ先に思考に現れてしまうのが彼女な事に、私自身も微かな納得感を覚えてしまうのが恥ずかしかった。
「ははっ、ライトニング、こりゃもう言い逃れできねぇな」
「……ただの同居人です。恩返しのつもりで作ってるだけです」
スフィア。同居人の名前を頭の中で反芻するたび、ライトニングとしての自分の空気が少しだけ変わってしまう。
視線が机の上に置いてある、午前中に食べ損ねたプロテインバーの包みを映す。味気ない、昼の代用品。
『こんなものばかりで済ませていたら、いつか倒れます』、と家に帰ってきた私が預けたバッグの中身を見て、心配そうな瞳で言ってきた彼女の顔がフラッシュバックする。
そして、『時間がある時に、ライトニングさんの仕事場にお弁当、届けに来ますね』と言った彼女のことも。
「はぁ……」
気づけばため息が漏れていた。
最初は、そんなことをしなくてもいいと断った。警備局にわざわざ来るのは面倒だろうし、余計な注目を集める。だが彼女は穏やかな笑みで首を振って、こう言ったのだ。
――「食べることは、生きること。だから、大事にしてほしいんです」
そう真っ直ぐな言葉と目で言われてしまっては、私は断ることが出来なかった。そして、来ても一回か二回程度だろうと、押し負けて許可してしまった私の予想を裏切るように、彼女はここ三ヶ月、ほとんど毎日私にお弁当を届けるようになっていて。
私も、それをだんだんと日常のように感じでしまっているから。
「へぇ……恩返しねぇ。毎日手作り弁当を、わざわざ職場まで運んで?」
「……善意です」
きっぱり否定する。それ以外の意味が、あの子にあるはずがないと。けれど、口にした瞬間、自分でもなぜか少し寂寥感を覚えた。
「ま、いいことじゃねぇか。働き詰めのライトニングに、世話焼きの天使がついたようなもんだ」
「曹長……」
「なんだよ。俺だって嬉しいんだ。お前が最近、ようやく肩の力が抜けてきたみたいだからな」
軽く笑いながらも、アモダ曹長の言葉は的確に私の変化の核心を突いている。そういうところが、この人の厄介なところだ。他人を見る目に優れてる。私自身でも気づかないような心の変わりようを、この人はしっかりと言語化してくるのだから。
「……それは褒め言葉ですか」
「もちろんだ。けどな、たまにはお返しもしてやりな」
「お返し?」
ニヤリと笑ったアモダ曹長が、防音用の窓ガラスを隔てた先にある受付へと目をやる。そこには、今まさに中へと通されたスフィアが応対を任された同僚と挨拶している姿が見えた。
相変わらず神秘的な雰囲気と、感情を読み取らせない無表情。なのにそこそこの付き合いをしてきた私は、彼女の瞳に映る優しさがわかって、思わず頬が緩んでしまうのを止められない。
「そうだ。今度は一緒に飯食ってやれ。弁当は外で食う方が旨い。……命令だ、ファロン軍曹」
そんな私に、アモダ曹長はそう言って、にやりと笑った。
命令。この人がそう言う時は、本気だ。軽口の裏に込められた思いやりを、いつも彼にお世話になっている私は無視できない。
「……わかりました。…………ですけど」
ちらりと、自分のやり残している仕事を見る。軍曹となってから増えた仕事を放っておくわけにはいかない。なんて、それがただの言い訳でしかないのが、自分でもよくわかっている。
弁当を渡されるだけでも注目を浴びるというのに、一緒に食べるとなれば、明日からどんな噂が飛び交うことか。胸の内に渦巻く気恥ずかしさ。まさか高校を中退して社会人になってから、こんな学生みたいな雰囲気を味わう事になるなんて思いもしなかった。
そして案の定、なかなか現れない私を呼びに、受付担当の同僚がニンマリ笑顔で詰所へと入って来る。
「おーい! ファロン軍曹、奥さんが待ってるぞー!」
思わず頬が引き攣る。スフィアには聞こえていないだろうが、こうも子供じみた真似をする男に怒鳴り散らしてやりたくなるが、どっと笑いが起きた詰所を見て、ここで何か言う方が私の分を悪くすると口を結ぶ。
――まったく、どいつもこいつも。訓練より口の方が軽い。
「まったく……何が“奥さん”だ。あの子に失礼だろう」
小さく呟くが、自分で言ってて家での彼女と自分のやり取りを思えばそれ以上何も言えなくなってしまう。
帰って来て仕事の鞄とジャケットを預け、料理と洗濯をやってもらい、朝にはエプロンを着た彼女にいってらっしゃいと見送られる。
…………絶対に、家での私たちをここの連中に知られる訳にはいかない。
そんなことを思い出していると、扉の向こうでスフィアが同僚に小さく会釈しながら詰所の中へと入ってくるのが見えた。
彼女の両手には、いつもの布包みと……見慣れない紙袋。
受付の男が冗談めかして「こっちは俺らの分?」と言うと、彼女はほんのわずかに首を傾げ、静かに「はい。皆さんにも」と答えた。
その瞬間、詰所中から拍手と歓声が上がる。誰かが「やっぱり天使だ!」と叫び、「スフィアちゃんの手作りだー!」と両手を天に向ける者までいた。
私はこめかみを押さえる。もう止める気力すら失せた。
……だが、彼らの笑顔が悪意のないものであることは、わかっている。むしろ、こうしてスフィアがここに来るたびに、この職場の空気が少し柔らかくなるのを感じて。
それが、妙に悔しくて、そして少しだけ嬉しかった。
「よし、行ってこい。仕事は俺が代わりにやっといてやるよ。お前が行かないと、詰所中の野郎どもがスフィアちゃんに群がりそうだからな」
「……了解です」
さすがに今度は、渋る事は出来なかった。観念して立ち上がると、アモダ曹長がにやりと笑って背中を叩き、とんでもない爆弾発言をさらりと告げた。
「そういや言い忘れてた。お前の昇進祝い、スフィアちゃんのレストランで、予約取っといたからな」
ピシリ、と空気が止まった気がした。
思わず振り返る。アモダ曹長は、まるで何事もないように煙草を咥え、にやついたままこちらを見ている。
「心配すんな。ちゃんと本人に許可取ってある。『ライトニングさんの昇進祝いなら』って、二つ返事だったぞ」
私の昇進祝い。この部署では、誰かが昇進した時は夜勤担当の者を除いたみんなで警備局の食堂の一角を貸し切ってお祝いするのが通例だ。だから今回も、てっきりそうなのだと思っていたが、まさか……!
「……曹長、それは――」
「ライトニング。たまには素直に祝われろよ」
軽口を叩く声の奥に、いつものように優しさがあった。私は小さく息を吐き、何も言わず敬礼で返す。それを見て満足したのか、アモダ曹長は笑いながら手をひらひらと振って。
「行ってこい。あの子、外で待ってるぞ」
詰所の出口に視線を向けると、同僚たち一人一人に直接サンドイッチを手渡すスフィアの白い姿が見えた。軍属らしく暑苦しい男所帯の詰所を一瞬で煌びやかな世界に変えてしまう彼女に、誰もが嬉しそうに話しかけている。
それを見た瞬間――なぜか、さっきまでの気恥ずかしさが消えて、代わりに胸の内をムカムカとした感情が満たして来た。
よくわからない感情。いや、少しだけ覚えがある。昔、お母さんがまだ生きていた頃。妹のセラに、大切にしていたクマのぬいぐるみで勝手に遊ばれていたのを見た時。似たような気持ちになったのを覚えている。
「あ、ライトニングさ――きゃっ!?」
「スフィア、持って来てくれた弁当は外で食べるから、私と一緒に来い」
でも、それがなんで今スフィアに話しかける同僚たちに感じたのか分からなくて。
この言語化できないイライラを振り払うように、私はスフィアの腕を掴んで少し強引に詰所を後にするのだった。
「いやぁ、青春だね〜」
後ろで響いたアモダ曹長の声は、聞こえない事にした。
昼下がりの警備局近くにある公園は、ボーダムの中でも特に静かな場所だった。
湾岸沿いに面した緩やかな丘の上。透き通る海を模したホログラムと、遠くに見えるボーダムの街並み。その境界を、柔らかな風が穏やかに撫でていく。
舗装された石畳の道の両脇には、春を思わせる小花が群れを成して咲いていた。白、青、薄紫――風に揺れて、まるで波のように光を返している。
私はその中央にあるベンチに腰を下ろし、隣に座る少女へとちらりと視線をやった。
近くで見れば見るほど、まるで女神のように美しい少女――スフィアは、布包みをほどきながらいつものように感情を感じさせない無表情を浮かべている。それでも、私の分であろう弁当を広げて膝に載せる手つきには、柔らかな性格が滲んで見える。
「……ここ、よく来るんですか?」
穏やかな声。昼の光に溶けるような、柔らかな響きだ。すっかり聞き慣れた、でも未だにたまにドキリとしてしまう彼女の声に、私は少し間を置いて答えた。
「訓練の後、たまにな。静かで落ち着いて……街の喧騒から、離れられるからな」
「……なるほど。ライトニングさんらしいですね」
スフィアはそう言って小さく頷き、視線を遠くへやった。その先には、ボーダム上空を飛ぶ輸送艇。青空を悠々と飛ぶそれを見つめる彼女の横顔に、太陽(厳密には太陽の代わりを担うファルシ)の光を映して、一瞬だけ儚く見えた。
「……私もここ、好きです。コクーンなのに、空気が穏やかで。まるで、風の声が聞こえるみたい」
「風の声、か」
ふと笑いが漏れる。詩人じみた言葉だ。でも、それが言うのがスフィアなら不思議と様になっていて、この公園の景色も合わさって一枚の絵のように見える。
だから釣られるように、いつの間にか私も同じ方向を見ていた。風が頬を掠めるたび、スフィアと同じ景色を隣り合って見ていると感じるたび、身体の中の何かが静かに落ち着いていく。
ただ、公園のベンチに座って黄昏る。そういえば、そんなこともずっとやっていなかったな。
「……そろそろ、食べましょうか。今日は、少し変わった味付けにしてみました」
「ああ、ありがとう」
しばらく二人で何も言わずに空を眺めてから、スフィアが差し出してきた弁当箱を受け取る。
開けた瞬間、ふわりと香ばしい匂いが漂った。炊き込みご飯、照り焼き風のチキン、卵焼き、人参やごぼうの入った惣菜。見ているだけで、私の今までの栄養食(プロテイン)は何だったのかと思うぐらいお腹が空いてしまう。
さっそく、一緒にもらったフォークで卵焼きを一口サイズにして食べてみる。途端に、口の中に甘くてふわふわとした温もりが広がった。
弁当とは思えないくらい、熱が残っている。箱は普通の既製品のはずだから、これは純粋なスフィアのテクニック。それをどうやってやってるのか未だに私はよくわかっていない。聞いても、マジックです、としか答えてくれないからだ。
「相変わらず、見事な手際だな」
「いえ、ライトニングさんを思って作ってますから」
「んぐっ!?」
思わず咽せた。向こうは何気なく言ったつもりなのだろうが、さっきまでスフィアのことを奥さんだなんだと囃し立てられていた私にとって、さっきの返しはあまりにも“らしすぎる”。
「ら、ライトニングさん? だ、大丈夫?」
「す、すまない。なんでもないんだ。そう……なんでも」
驚いたようにこちらを心配して来るスフィアに、慌てて手を振って問題ないと、顔を隠して伝える。正直、今の私の顔は真っ赤になってしまっているから、見られたくない。
「ん、んん! そ、そういえば、アモダ曹長から聞いたぞ。私の昇進祝いは、お前の店でやると」
だから無理矢理話題を変えようと、私は先ほど聞いたサプライズに近しい話を、全部知っていて黙っていただろう彼女へと振る。
そして予想通り、それを聞いた彼女は無表情なのにどこかばつが悪そうな顔をして話し始めた。
「……はい。店長から、聞いてました。アモダさんからライトニングさんには話すから、私から喋ってはダメだと言われていて」
「……はぁ」
やはりそうか。あの人らしい。
スフィアは隠し事が苦手だ。と言うより、純粋で素直すぎるために、誰かに何かを秘密にしておくと言う行為が好きではないのだろう。だからこうしてちゃんと口止めとかをしておかないと、彼女は罪悪感に耐えられずにあっさりとボロを出してしまうのだから。
以前、私の誕生日にサプライズプレゼントを用意しておきながら、紙袋を指摘されただけで慌てふためいて、家に着く前になぜか自分からプレゼントを差し出して着た彼女を思い出す。
本当に、最初に抱いたイメージとはあまりにかけ離れるぐらい人間味のあった少女だと、あの時は思ったもので……その時のプレゼントは、今も常に私の腰元にぶら下がっている。
「そうだ。昇進祝いの時は、店長にライトニングさんが好きな食べ物をお願いしておきますよ? 何かリクエストは、ある?」
「リクエスト、と言われてもな。栄養が取れればそれで」
自分で言っていて、なんだそれはと内心ツッコんでしまう。せっかくスフィアが気を利かせてくれたと言うのに、こんな愛想のない答えしか出せない自分が憎い。
思わず自己嫌悪に陥ってしまいそうになる私に対して、だけどその返答を聞いたスフィアはまったく気にした風もなく私の食事風景を眺めている。
「……らしいですね。とっても。ライトニングさんらしいです」
「皮肉か?」
「ううん……尊敬、です」
スフィアの言葉は、穏やかで真っ直ぐだ。茶化すでもなく、本気で言っているのが伝わってくる。
そんな素直な言葉を向けられると、どう返せばいいかわからなくなる。
だから、つい。自分でも意図してなかった本音が溢れ落ちてしまう。
「…………まぁ、甘いものは嫌いじゃない」
「え?」
「その……チョコだとか。コーヒーの苦味と合うだろ」
なぜ言い訳じみた言い方になっているのか、自分でも分からない。…………いいや、わかる。だってそれは、スフィアがいつも夜に入れてくれるココアの甘さが好きになってしまったから。
でもそれを認めてしまう事は、今日まで積み上げて来た“私”を崩してしまいそうになる。
でもそんな私を見るスフィアは、目を丸くしてから静かに頷いた。
「じゃあ、今度はデザートを作ってきますね。コーヒーと合うものを」
「いや、そういう意味じゃ……」
言いかけたところで、彼女が微かに笑う。彼女をよく知る者しかわからないほど、微かに。悪戯気な、笑み。まるで、『知ってますよ』とでも言うような。
「〜〜ッ! か、揶揄うな!」
それを見て、心臓が少しだけ跳ねた。頬に熱が溜まるのがわかる。バレたくなかった事を、一番バレてほしくない相手にバレてしまったような。むず痒い感覚が、全身を駆け巡る。
誤魔化すように、弁当の中身に口をつけた。そんな私を、スフィアは相変わらずいつものように見つめているだけで。
『ご飯は、みんなで食べるのが美味しいと聞いたから。ライトニングさんの料理を美味しくするために、ここに座ってようかと……』
ふと、スフィアと最初に食事した時の彼女の言葉を思い出した。そして、なんの意味もないとわかっていながら、私は一人、心の中で呟いた。
――恥ずかしくて、全然、味なんて感じないじゃないか…………
潮風が吹き抜け、弁当箱の上に落ちた木漏れ日が揺れる。その柔らかな光に照らされるスフィアの横顔は、静かで、どこか懐かしい。
こんなにも穏やかに昼を過ごすことが、いつぶりだっただろう――そんなことをふと思った。
弁当を食べ終え、私たちはしばらく黙って海を眺めていた。
穏やかな時間。けれど、胸の奥に何か言葉が引っかかっている。ずっと聞くべきではないと思っていた問い。でも、いつかは聞かなくてはならない問い。
それを、口にするなら今なんじゃないかと、この時の私はそう思ったんだ。
「……スフィア。お前は、お前とユーリは、いつ頃……出て行くつもりなんだ?」
自分の声が、思っていたよりも低く響いた。スフィアはわずかに瞬きをして、膝の上で指を組む。
風が頬を撫で、彼女の美しい銀髪が揺れる。彼女はしばらく何も言わなくて、その静けさが、やけに長く感じられた。
「……いつまでもいたら、ご迷惑ですよね」
その返答は、一見いつも通りの声音に聞こえた。でも、違う。表情はいつも通り落ち着いているのに、言葉の奥に、どこか遠慮や寂しさのようなものが見え隠れしている。
そうじゃない。そういう意味で聞いたんじゃない――そう言いたかったのに、うまく言葉にならない。
胸の奥が、妙に熱い。早く誤解を解かなければと心は訴えているのに、私の素直に言葉を口に出せない頭が邪魔をする。
「……いや、そうじゃない。ただ……」
言葉を選ぶように、視線を海へと逸らす。波がゆっくりと砂浜を撫で、光を反射している。
このまま、逃げてしまおうかと、臆病な私が顔を出す。いつもセラにしていたように、都合が悪くなったら話を切り上げて仕事に行ってしまおうかと、そんな、ダメな私が囁いて来る。
でも、それをするわけにはいかない。そうしてしまったら、きっと取り返しがつかない事になる。きっと、一生後悔する。
だから、私は。息を吸って、吐いて、呼吸を落ち着けて。そして、虫の囀りよりも小さな声を、絞り出した。
「……もし、気に入ったのなら――ずっといてもいいんだぞ?」
「――――え?」
目線は合わせられなかった。口にして、すぐに後悔した。あんなに言わなかったら一生悔やむと思っていたのに、いざ口にしたらしたで、死にそうなほど恥ずかしい。
なにより、これじゃまるでプロポーズみたいだと、言葉のチョイスを致命的に間違えた自分自身を殺したくなったから。
「……昼休みは終わりだな。私は詰所に戻る」
自分でも分かるくらい、言い訳じみた声。
早口に言って、空になった弁当箱を手渡した。そして受け取ったスフィアの反応を待たずに、私は背を向けて歩き出す。
目線なんて、合わせられるわけがなかった。振り返る事さえ、怖さが優った。
軍人として、なんて体たらく。今まで、どんな鬼のような訓練にも、本物のモンスターたちとも戦って来た私が、一人の同居人の答えを聞く事を怖がっているなんて。
……馬鹿なことを言った。
心の中でそう呟いて、歩調を速めた。
まるで、自分の感情から逃げるように。
詰所に戻ると、いつものざわめきが戻って来た。昼の勤務帯が再開したばかりで、誰もが端末に目を落としている。そんな彼らに倣うように、私もまた誰かに声をかけられる前に自分のデスクへと着く。今は、何も考えずに仕事に没頭されていたかった。
スフィアと別れてから詰所へ戻るまで、私は胸の奥に、ずっと、小さな棘が刺さったような感覚が残り続けていた。
さっきの言葉――「ずっといてもいいんだぞ」。
何を考えて、あんなことを言ったのか。スフィアの顔が頭から離れない。あの穏やかな瞳が、私を見つめ返すように焼きついている。
「はぁ……」
ため息を吐いて、端末を操作する。でも操作しながらも、スフィアの顔は頭から消えてくれない。
こんなの“私”じゃない。
ライトニングは、人間関係に余計な感情を持ち込まないはずだ。
それが、判断を誤らせる事に繋がるんだと、何度自分に言い聞かせても、彼女の声が、顔が、微かに微笑む姿が、私の心にリフレインし続ける。
「よう、スフィアちゃんと楽しくおしゃべりできたか?」
そんな私の元へと、アモダ曹長が両手にカップを持ってやって来た。そして自然と持っていた二つのうち一つを、私の前へと置く。
中身は、心を落ち着かせる効果があるとよくアモダ曹長が言っていたカモミールティーだった。つまり、そう言う事なのだろう。どうやら今の私の様子は、彼には全てお見通しだったらしい。
「……普通に、昼食を取っただけです」
返答に困って、結局出たのはそんなぶっきらぼうな一言だけ。これでは、何かあったと言うようなものじゃないかと思いながら、咄嗟に顔を伏せ、書類を開いて無理やり視線をそらした。
あの公園でのやり取りを思い出すだけで、頬が熱くなる。まさか自分が、あんな台詞を口にするなんて。
「そりゃ残念。若い連中、期待してたぞ? いい報告でもあるのかってな」
「曹長」
低く名を呼んだ。軽口を封じるつもりだったが、彼はお構いなしだ。カップを揺らしながら、いつもの柔らかい笑みを浮かべている。
何を期待しているんだ。だいたい、私もスフィアも女性だ。別に、同性愛とかを否定するつもりはないが、私はそういうタイプではないし、スフィアもまたそんな風な目で勝手に見られるのは困るだろう。
だが、そこまで思ってからスフィアと仲のいいユールと彼女のやり取りを思い出す。いつも一緒に行動していて、その距離感も友人と言う括りに入れるには近すぎる気もする。
「――――ッ!」
「うお! ど、どうしたライトニング?」
頭に浮かび上がった、まさかと言う考えを振り払うように頭を振った。驚いてカップを落としそうになったアモダ曹長も視界に入らないぐらい、私は混乱していて。
だって、もしスフィアとユールがそういう関係なのだとしたら、私は――――
『ビー! ビー! ビー!』
甲高い警告音。私の前の端末が――いや、警備局の詰所にある全ての端末のモニターに、真っ赤な緊急事態アラートが走る。
『ボーダム第3区郊外より、魔獣が侵入。繰り返す。ボーダム第3区郊外より、魔獣が侵入。警備局員は直ちに現場に急行し、魔物が街に向かうのを阻止せよ』
「魔獣が……侵入……!?」
それは、文字通り最大級の緊急事態を意味していた。なぜなら、郊外に生息する魔獣がファルシの加護によって区切られた神域を掻い潜って侵入して来るなんて、不可能なはずだからだ。
少なくとも、私が軍に入隊してから一度も……それどころか、私が生まれてから一度も起こった事がないはず。そしてそれを証明するように、私の周りの同僚たち、それどころかアモダ曹長まで信じられないと目を見開いている。
だが、やはり培って来た経験の差か、混乱からいち早く立ち直ったのもアモダ曹長だった。
「今すぐ第3区郊外付近をパトロールしていた班に無線を飛ばせ! 闇雲に侵入した魔獣を探すよりも、市民の安全を第一に考えて防衛線を張るんだ! それと、第3区の市民への避難誘導! 避難場所はあとでピックアップするが、なるべく建築物のない公園は避けろ! 森で生きる魔獣には格好の狩り場になっちまうぞ! それと――――」
さっきまでの軽口を叩いていた姿なんてなかったように、アモダ曹長は次々と固まっていた部下たちに的確に命令して行く。それも緊急事態が起こった時のマニュアル的な対応じゃなくて、ちゃんと魔獣の習性を理解し、現場で経験を積んで来たからこそ成せる判断。
その理想の軍人としての姿に、私も自分自身に喝を入れる。非常事態に呆けているようでは、軍曹失格だと。即座にデスクから対魔獣用の戦闘装備一式を取り出す。
アモダ曹長の指示で、即座に出撃できるように万全の体勢を整えるのが、今の自分の役割なのだから。
だが、そんな軍人としての覚悟を決めた私を嘲笑うように、もしくは、結局向き合うべき相手から逃げ出してしまった私への罰だと言うように、その知らせは飛び込んで来た。
「アモダ曹長! パトロールから、魔獣が第三公園に向かったとの報告が!!」
「なんだと!?」
アモダ曹長の指示に従って無線でパトロール隊と交信していた同僚。さっきまでスフィアのことを私の奥さん扱いしていた彼が、血相を変えた表情で報告して来た言葉に、私の動きは止まった。
世界が、まるで音を無くしたような感覚。報告に驚くアモダ曹長の声も、私が取り落とした誕生日プレゼントのナイフホルスターが地面を叩く音も、まるで遠い世界のことのように聞こえた。
――――第三公園。
知ってる。聞いたことある。私が訓練帰りに、たまに訪れるお気に入りの場所。さっきまで、スフィアと昼食を取っていた、場所。
「――――!!」
思考より先に身体が動いた。落としたホルスを即座に拾い上げ、それを腰に巻く時間も惜しいと走り出しながら、アモダ曹長へと短く告げる。
「私が現場に向かいます!」
「おい、待てライトニング! 一人で――」
背後で曹長の声が聞こえたが、もう耳に入らなかった。足はもう詰所の出口を通り抜け、廊下を駆け抜けていた。
制服の袖が風を裂く。外の光が視界を白く塗る。私の頭の中は一つの考えでいっぱいだった。
――まさか、スフィアが!
最悪の想像が脳裏をよぎるたび、胸の鼓動が強くなる。外に停めてある自分専用の軍用バイクに飛び乗り、起動コードを入力してエンジンを吹かす。
スロットルを握る手が、無意識に強張った。
「頼む、無事でいてくれ……!」
漏らした声は、自分でも驚くほど不安で震えていて。それを振り払うように、次の瞬間には、もうタイヤが路面を蹴っていた。
警備局が遠のく。彼女の姿を思い浮かべるたび、息が苦しくなった。
あの子は戦う術を持たない。ただの少女だ。だから、もし、何かあったら――。
舌の奥で、乾いた唾を嚙み潰す。こんな感情、いつからだ。冷静を信条にしてきた自分が、今はただ焦るしかできないなんて。
速度を限界まで上げた。風圧で髪が揺れ、視界が震える。街灯の光が流線のように過ぎていく。
第三公園はすぐそこだ。元より、詰所から歩いてでも来れる位置にある。そこを、法定速度を大幅に超過した速さで迎えば、辿り着くのに数分とかからない。
目的地が目前に迫る。その瞬間、人の声とは思えない雄叫びと、鼻が曲がるような腐臭が風を切って届いた。間違いない。侵入して来た魔物のものだ。
同時に薙ぎ倒される公園の木々が視界に映る。その、間隙に――――幻想的な銀色が横切って。
「――――ッ!!」
迷う余地など、どこにもなかった。バイクを全開のまま操舵し、柵を越えて芝生の上へ突入する。衝撃とともにタイヤが地面を滑り、お潰された花々が散花して宙を舞う。
そして、その先――目を血走らせて暴れ回る青い甲殻のような物を纏った魔物から逃げるように、腕から血を流したスフィアが駆けているのを見た。
「スフィア!!」
私はブレーキを踏まず、そのままバイクごと魔獣に体当たりした。金属と外殻がぶつかる鈍い音。衝突の瞬間にはシートから飛び上がっていた私は、そのまま空中で腰のホルスターから銃を抜き放ち、そのまま照準を定めて撃ち放った。
『ガルルアアアッッ!!!』
鮮血のような黒煙が魔獣の体から噴き出す。痛みに呻いたのか、魔獣が唸り声を上げながらこちらを睨んだ。
それで注意がスフィアから私に向いたことを確認して、私は地面に着地するや否や支給されたサイドブレードを右手に、銃を左手に構える。
「ライトニングさん!」
スフィアの声が届く。それがただ私を心配してのものではなく、何か危険を伝える響きを含んでいるのだと私が気づくのと、魔獣の胸にある、まるで人の顔のような部位が赤黒く明滅したのは同時だった。
「――離れろ!」
スフィアへと叫ぶ。同時に魔獣から吐き出された火炎が、回避行動を取った私がついさっきまでいた場所を爆散させた。熱波が背中を突き抜ける。粉砕され巻き上げられた土や石が体中に降り注ぐ。
危なかった。もし、スフィアの声がなければ、私は躱すことができたかどうか。
『ギャァッ!!』
だが、安心に浸かる間もない。魔獣は私が火炎を回避したと見るや、その巨体で突っ込んで来る。凶悪に肥大化した左手を振り回して近寄って来る姿は、魔獣が限りなく人型に近い故にか、不気味で、悍ましい。
だが――
「遅い!」
そんな見た目で、スフィアを傷つけられた怒りを冷ませるものか。
握ったサイドブレードを煌めかせ、私は向かって来る魔獣へと逆に突進する。視界の端でスフィアが、息を飲むのがわかった。それぐらい、今の私の視界は極限の集中力で研ぎ澄まされていたから。
魔獣の左腕が振り下ろされる。それを髪の毛一本が掠るほどのギリギリで体を巧みに移動させて躱して、懐に潜り込む。そして、返す刀で魔獣の腹――中心で赤く輝くコアのような物を断ち切る。
「ゴアッ!?」
鈍い手応え。赤黒いコアは砕ける事はなく、だがその表面に大きなヒビが入っているのを確認した。ならば、あとはそこを撃ち抜くだけだ。
「消えろ……!」
左手に構えた銃を、ゼロ距離で撃ち込む。加減はなく、フルバーストで。
近距離で吐き出された銃声が鼓膜を貫く。弾丸が魔獣のコアへと1秒で十数発も食い込んだ。
最後に、ダメ押しとばかりにサイドブレードをもう一度突き立てる。バキリと、手に持つ刃が嫌な音を響かせたが構うものか。ここでこいつを殺さなければ、スフィアが危ない。スフィアを守るためなら、剣の一つや二つ、喜んで壊してやる。
「ァァァ……ァァッ……」
魔獣の断末魔は、驚くほど呆気なかった。まるで人間のように苦悶の声を上げ、何かを掴むように片手を宙に伸ばして、そのまま地面へと倒れ伏す。
残響が静まり返った時には、自分の呼吸の音だけが耳に残っていた。そして、倒した魔獣の体が黒い煙となって大気へと溶けて行く。
だが、私はその末路を最後まで確かめる事もなく、すぐにスフィアのもとへ駆け寄った。
「大丈夫か、スフィア!?」
「はぁ、はぁ……ライトニング、さん……」
彼女の綺麗な白肌から、赤い血が滴り落ちている。それが片腕に付けられた裂傷から流れているのだとわかると、私は自身の軍服の裾を千切って巻き付けた。
傷は、深くない。それでも、血が流れているのを見た瞬間――私の胸の奥が、凍り付く。目の前で震えるスフィアの姿と、病室のベッドで冷たくなって行くお母さんの姿が重なって。
「もう大丈夫だ! 遅れて悪かった、スフィア……!」
「ライ……トニング、さん?」
考えるより先に、私はスフィアを抱きしめていた。彼女の温もりがまだあることを確かめるように。彼女がここにいることを、自分自身に刻みつけるように。
強く、強く。決して、離さない。
「……すまない。怖かっただろう」
「……いいえ。ライトニングさんが……助けてくれましたから」
私を安心させようとした彼女の声は、少し震えていた。それでも、確かに生きている。息をしている。そのことが、何よりの救いだった。
私は腕の中のスフィアを見下ろす。冷たくなった母の手とは違う、確かな温もりがそこにはある。それだけで、胸の奥に込み上げてくるものがあって、息が詰まりそうになる。
「ありがとう、ございます……ライトニングさん」
「――――ぁ」
――守れた。
それだけの事実が、どうしようもなく心を掻き乱した。今になってようやく、膝の力が抜けて座り込む。強く抱きしめたせいで、スフィアの髪が私の頬に触れた。少し甘い、日向のような匂いがした。
ああ、そうか。彼女はもう、私にとって。
「もう絶対に、誰にもお前を傷つけさせはしない」
自分でも、何を言っているのかわからなかった。でも、それだけは確かに本心だった。命令でも、義務でもない。
ただ――心の底から、そうしたいと思った。
それは、私がセラ以外に初めて抱いた感情で。胸を熱くするこの言語化できない感情を、この時の私は家族愛のようなものだと決めつけた。
だが、ただ一つだけ確かなことがある。
「お前は、私が守る」
湾岸沿いに面した緩やかな丘の上。透き通る海を模したホログラムと、遠くに見えるボーダムの街並み。その境界を、柔らかな風が穏やかに撫でる、私のお気に入りの公園。
舗装された石畳は無惨にひび割れ、春を思わせる小花は散り散りとなって宙を舞う、その場所で。
私は、
そんな私たちを、一羽の梟が見つめていた。