この場を借りてお礼申し上げます。
今回デュエル無し回です
予めご了承くださいませ
視線を落として、クーリアは嘆息する。
自分の不甲斐なさに、自己嫌悪してしまいそうだ。
「……何てこと」
「クーリア様、どうされました?」
思わず呟いてしまう。キューティアが心配そうに後ろから話しかけるが、何でもない風を装って笑顔を向ける。こんな事はキューティアにも話せない。
視線を上げて鏡を見る。
誰のせいでもないが、こんな事になってしまうだなんて。ドレミコードのリーダーの名が泣く、まさに汚点だ。
「やるしかない、わね……」
今度はキューティアに拾われないように、口の中で自分の意志を固める。
この結果についていつまでも悩んでいるだけでは、本当に何も進展しない。目の当たりにした現実は、もう受け入れるしかないのだ。
そして勿論、この状況は一刻も早く改善させる。それができるように最大限の力を注ぐ。現状油断は一切できないが、修正できないわけでもない。
無意識に拳を握り締めて、自分の心を正す。
つらい道のりになるだろうが、耐えなければ。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
ドレミ界に来てそこそこの日月が経ち、生活にもだいぶ慣れてきた。
従者として働く以上、朝から晩まで気は抜けず、仕事も様々だ。
特に朝は、昼や夜と比べてやる事が多い。毎朝ミューゼシアから届けられる楽譜を食卓に置くのは簡単だが、朝食の準備には少々神経を使う。
生前は実家暮らしではなく、一人暮らしだった。そのため、自炊こそすれど食べるのは自分ひとりだから、盛り付けも特に気にしていなかった。けれど、今はドレミコードの皆と暮らしている。だから、これまで気にしていなかったそこにも気を遣わなければならない。肝心の料理も人に食べさせられる腕ではないため、誰かの調理を手伝うだけだ。
だから、盛り付けだけには全神経を集中させ、プロの給仕並みにできるように、と個人で目標を立てている。
「バトレアスさん、それを先に持って行ってもらえるかしら?」
「承知しました」
今日の朝食担当はビューティア。献立はトーストとベーコンエッグとサラダ、そしてヨーグルト。ベーコンエッグはまだ途中なので、他は自分が盛りつけて、ビューティアにも見てもらっている。大丈夫と言ってもらえたのと同時に、そこまで気にしなくてもいいとも言われた。だが、それでは自分が納得いかないので、申し訳ないがこれに関しては独自に研鑽を貫く事にする。
配膳用のワゴンに料理を載せて、食堂へ移動する。そして大体、一番最初に席に着いているのはクーリアだ。
「おはようございます、クーリア様」
「ええ、おはよう」
寝起きのはずだが、クーリアの居住まいはとても洗練されていた。髪には寝癖のひとつもなく、化粧も最低限はしているように見える。声だって、寝起き特有のもやっとした感じがまったくない。やはりドレミコードとして、リーダーとしての自負があるのだろう。
(すごいなー……)
そんな風に気にしていたら、クーリアから少し微笑まれてしまった。何だか顔が熱くなってしまったし、あまりまじまじと見てはいけないと思いつつ、配膳を手早く済ませて厨房へ戻る。
今度は、メインディッシュのベーコンエッグを運ぶ番だ。ビューティアが作ったそれらを丁寧にワゴンに載せて、再び食堂へ向かう。その頃には、既にビューティアを除く他のドレミコードが全員食堂に集まっていた。事前に置いていた楽譜と席順を瞬時に把握して、今日の自分の席はクーリアの隣である事を確認する。
ベーコンエッグを慎重にテーブルに並べていき、そこへ厨房からビューティアがコーヒーのポットを持ってきたところで。
「ねぇ、バトレアス」
「はい、何でしょう?」
クーリアが少し声量を落として話しかけてきた。何か料理に問題でもあったのだろうか。
「ちょっと今日……食欲なくて。よければこのベーコン、食べてくれるかしら?」
「……分かりました」
耳元で囁かれ、首筋に何かが走ったような感覚。目が覚めるほどの美人に至近距離で話しかけられるのは、実に心臓に悪い。
ただ、クーリアの頼み事は別におかしくないのだが、食欲不振というのは少し気になる。しかしながら、それは人間でもよくある事なので、声を大にせず頷いておいた。声を潜めたのは、他の皆に不安をかけさせないためだろうか。
そしてフォークとナイフを使って、器用にベーコンをこちらの皿に素早く移してくるクーリア。他の皆はそれに気づいた様子がない。
俺は朝は食欲がないわけではなく、肉類も嫌いではないので嬉しいと言えば嬉しい。それでも、クーリアの事が少し心配になってしまったのも事実だ。
あらためて頭を下げ、ビューティアからコーヒーポットを受け取って、朝食の仕上げを手伝う。キューティアとドリーミア、ファンシアは毎朝牛乳という事を忘れずに。
◇ ◆ ◇ ◇ ◇
だが、その日の夜もおかしかった。
「え? 夕食いらない?」
「ええ、悪いんだけど、ちょっとね……」
夕飯の準備をしている途中で、クーリアがそんな事を言ってきた。これには、一緒に料理をしていたエンジェリアも振り向く。
「クーリアさん大丈夫? だって今日、『浄化』だったんでしょ?」
「ありがとうエンジェリア。でも、今日は朝から調子が少し悪くてね……」
エンジェリアの言う通り、今日はクーリアも「浄化」の使命があった。どんな世界に行ってきたのかは分からないが、それがエネルギーを消耗せずにできるとは考えにくい。大変な場所に行っているからこそ、英気はしっかり養ってほしいと思っている。
だが、食欲がないのは朝の時点で知っていたが、まさかそこまでとは。リーダーだから口にする事もできなかったのか。
それを聞いて、とても苦しくなる。
「……食事に関しては、そのように計らいます」
「ありがとう、バトレアス」
「ですが」
クーリアの意見は受け入れつつ、言葉を続ける。
ちょっと強めになってしまうが、許してほしい。
「もしも体調が悪いようでしたら、ちゃんと仰ってもらえるとありがたいです。自分だけでなく、他の皆さんもクーリア様が心配なんですから」
エンジェリアも同意見らしく、隣で頷いて笑う。
クーリアはそれを受けて、「ありがとう」と曖昧な笑みを浮かべた。
「……クーリアさん、どうしちゃったんだろ?」
「エンジェリア様は、何かご存知だったり?」
「ううん、全然。というか、クーリアさんが食欲ないなんて初めてかも」
厨房を出て行ったクーリアを見届けた後で、いろいろ考えてみる。だが全く分からないし、エンジェリアも理由は見当もつかないようだ。
もしも、「浄化」の過程で何かあったりした結果なら、本当に自分には何もできなくなる。それでも、何かできる事があったらいいのに、と思い悩む。
何にせよ、クーリアの調子には気を払わなければならないだろう。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
クーリア不在との事で、夕食の席はどうもそわそわした空気になってしまった。
その後は食器洗いをして自室に戻り、自分のデッキを何となく手に取る。
何かクーリアの、皆の力になれる事は、と考えてみたものの、明確な答えは出ない。
この世界でこれと言える自分の取り柄は、デュエルぐらいだ。従者の仕事も慣れてきたが、まだ及第点と言ったところ。誇れる腕ではない。
「これで、力になれるんだろうか……」
デッキのカードを眺める。やはりそれらのカードは【ドレミコード】だ。
中でも《ファドレミコード・ファンシア》のカードは、イラストが変わっていた。前は、演奏にひたむきで力を入れているかのような表情をしていたが、白い歯を見せた勝ち気な笑顔に変わっている。
キューティアやグレーシアに続き、イラストが変わったファンシアに共通しているのは、その日一緒に行動していた事だ。打ち解けたからか、それとも別の要素があるのかも分からない。だが、勝手にイラストが変わるなんて奇妙な話だ。精霊界だから今までの常識では計り知れない事象も罷り通るのだが。
それはともかく、今の世界で自分にあるのはこのデッキ、デュエルである。とは言え、デュエルで何かしら力になれる事などあるのだろうか。せいぜい迷宮姫を余興で楽しませた事ぐらいしか思いつかない。
そんな事を思っていると、部屋のドアがノックされた。
「はい」
「バトレアス、お風呂空いたから入ってどうぞ」
「ありがとうございます」
ドアの外にはクーリアがいた。時計を見て、さらに湯上りらしき軽装のクーリアを確認して、いつの間にか風呂の時間だと気づく。思いの外考え事に耽ってしまっていたようだ。
大前提として、ドレミコードは全員女性である。片や男は俺ひとりなので、風呂についても細心の注意を払わなければならない。うっかり誰かが入ってる最中に乱入してしまえば、ペナルティでライフが半分どころか全部失われる。
ただ、元々風呂場にはドレミコードの誰が入ったかを確認するための札があった。それで、全員が風呂から出たのを確認したら、最後の人が俺を呼びに来るという仕組みになっている。これのおかげで未だ不測の事態には至っていないし、今日はそれがクーリアだったというわけだ。
「お体の具合は……?」
「お風呂に入ったら、だいぶ楽になったわ」
そして、目下最大の懸念事項を尋ねてみる。風呂のお陰で血色は良くなっているようだし、ひとまずは安心といったところか。
「それじゃ、ごゆっくり」
「クーリア様も、お休みなさいませ」
用はそれだけだったようで、クーリアは去っていく。こちらも風呂の準備を整えて部屋を出る。
だが、そのすぐ後に浴場とは反対側から何か物音がした。気になったのでそちらに行くと。
「クーリア様!」
階段のすぐそばで、クーリアが壁に寄りかかっているのが見えた。足元にはクーリアの持ち物が散乱している。
それを認識してすぐ、自分の持ち物を放り捨てて駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「ええ……。ごめんなさい、ちょっと目眩がして……」
「大丈夫じゃないですってそれは!」
声を掛けると、どこか痛いのか体勢を崩しかけた。
緊急事態なので許してほしい。その細い腰に手を回して、どうにか立てるようにしようとすると。
「うぅ……」
クーリアが、気まずそうに視線を逸らす。こうして男に、というか誰かに介抱された試しがないのだろうか。
「クーリア様」
そんなクーリアに、面と向かって話しかける。
「本当に体調が優れないのでしたら、仰ってください。看病ならいくらでもできますから」
「いいの、平気。大丈夫だから、あなたは心配しないで――」
それを聞いて、思わず腰に回す手に力が入ってしまった。
「心配しないなんて無理です!」
「っ……」
「あなたは倒れそうになったんですよ? それが大丈夫な訳ありません! それなのに隠そうとしている貴方が、心配なんです!」
思わず、声を荒げてしまった。
大丈夫だと口で言っても、実際にクーリアは倒れかけた。「浄化」の後から食事を摂っていなかったから、空腹もあるだろう。いや、朝から食欲がなかったのだ。それ以外にも原因があるはず。
体の調子が悪いのはもちろん心配だし、その上で平静を装い続けるクーリアの事がなおさら不安だ。今だけは、従者とか愛用するデッキのエースだとか言ってられない。ひとりの人間として、心配なのだ。
「……」
クーリアは、そんな俺の言葉を聞いて、はっとしたように目を見開く。
そして。
「……実は、ね」
さっきよりも少し小さめの声で話し出す。不調の原因について話す気になってくれたらしい。
何故か顔が赤いが、まさか熱まで併発しているのだろうか。
「……――た、のよ」
「え?」
難聴系キャラのつもりはないが、クーリアの呟きは聞き取れなかった。読唇術もないので、改めて問い返させてもらうと。
「太っちゃったのよ!」
「……はい?」
夜の廊下に、半ば自棄っぱちの答えが響き、思考がスローダウンする。さらにクーリアのお腹から腹の虫が鳴り、首を傾げるほかなかった。
ひとまずクーリアを厨房へ連れて行き、簡単にお粥を作って差し出す。お粥なら見た目はそこまで問題ではないし、作るのもそう難しくはない。さっきのクーリアの発言を踏まえ、味付けはシンプルに塩のみにした。
差し出すと、クーリアは小さく「ありがとう……」と告げて受け取る。さっきのカミングアウトはまだ恥ずかしいようで、顔が少々赤い。
「つまりクーリア様は、ふ――」
「……」
「身体の事を考えて、食事を制限していたと」
「……そういう事よ」
「太った」と言おうとしたら無言の視線を投げられたので、言葉を変える。自分で告白したのだから、今更指摘されたところでと思わなくもないが、他人に指摘されるのはまた違うらしい。
だが、これで朝食や夕食時の疑問は解決したわけだ。
「……よかった」
「ちょっと、こっちはよかったなんて言ってられないのよ……」
思わず言葉が洩れてしまうが、クーリアは自分の有様を楽観的に捉えていないようだ。しかし、俺がそう言った理由は別である。
「てっきり、大病を患ったのかと不安だったので……。ですので、そうじゃない事に安心したんです。あなたにとっては大事かもしれませんが」
「……本当、迷惑をかけてしまったわね。ごめんなさい」
クーリアは改めて詫びると、少しずつお粥を食べ始める。
それにしても、とクーリアを改めて見た。
(全然そうは見えないんだけどな……)
ドレスではない湯上がりの軽装だが、見た感じそんな風には見えない。それにこんな事は口が裂けても言えないが、さっき倒れそうになったところを支えた際、伝わってきた腰の感触から無駄な贅肉がついている感じもなかった。
だが、浴場の脱衣場には体重計があったはず。恐らくはそれを見て知ったのだろう。見た目に変わりはなくても、数値の方が信憑性は勝る。
「原因に心当たりは?」
「……多分だけど」
お粥を半分程食べたところで聞いてみると、クーリアはこちらを見てきた。
「……あなたが買ってきたケーキ」
「……あー」
先日、町へ出向いた際にクーベルの店で買ったケーキ。どうやらあれが、大きな原因だったらしい。
とはいえ、もう2~3日ぐらい前の事だ。流石に消費されている気がしないでもないが、体質的な問題もあるのだろう。
それに、デュエルモンスターのクーベルが手がけたケーキとなると、普通のケーキではないような気もしてきた。あの時一緒にケーキを食べていたエリーティアも、「食べた事がない感じ」的な事を言っていたから、その可能性は考えられる。
「申し訳ございません」
「いいの、あなたに悪気があったわけじゃないのは分かっているわ。私が自己管理できなかっただけよ」
こちらとしても、日頃の感謝の気持ちを示すをためにケーキを買ってきたのだ。肥え太ったのを見て愉悦に浸ったり、薬を仕込んでいいようにしたりなどの趣味も目論見もなかった。
ただ、過失とはいえクーリアには悪い事をしてしまったと思い謝る。その上で、これからどうするかを考える必要はあった。
「まあ確かに、食事制限は体重を落とす常套手段ですが、それで体調を崩すようでは元も子もありませんよ?」
「そうよね……」
「やっぱり、手っ取り早く痩せるなら運動しかないかと」
「運動か……」
クーリアの返事は、あまり気乗りしなさそうなものだ。人の事は言えないが、運動などはあまり得意ではないのだろう。ドレミコードの中でも活発な印象なのはファンシアとドリーミア、それにエンジェリアとキューティアぐらいだ。
ただ、何もしないで痩せられる可能性は正直低い。天使族だから何とかなるかもしれないが、確証もなかった。
となれば。
「自分もお付き合いしましょうか? 運動」
「え?」
「クーリア様がそうなってしまった原因は自分にもありますし」
せめて一緒に運動する。そうすれば、モチベーションが少しでも上がるかもしれない。前世の女友達も、人の目があれば仕事もダイエットも捗ると言っていたので、それを信用して提案してみた。
「でも、それじゃあなたにも負担が……」
「いえ。正直自分も運動不足気味なので、ちょうどいい機会かと」
デュエルが運動に入るかは置いておくとし、前世でも俺は積極的に運動していた身ではない。健康診断では異常なしと言われていたが、週の運動時間はないも同然だった。エレベーターやエスカレーターを極力使わないよう意識していたが、それは運動とはまた違う。
デュエリストたるもの筋肉もつけなければ、という理屈はよく聞くし分からなくもないが、中々行動には移せないでいた。
そして、少しでもドレミコードの、クーリアの力になりたいと思っていたところだ。想像していた形とは少し違うが、こうして機会が訪れるのは僥倖ともいえる。
「……本当に、いいの? 私としては、一緒に誰かがやってくれるのなら助かるけれど……」
「それだけでも十分な理由になります」
クーリア自身が助かるというのであれば、それこそやらない理由はない。自信を持って頷くと、クーリアは笑ってくれた。
「ありがとう」
「お礼を言われるものではありませんよ」
そう返すと、クーリアはお粥を食べ終えて、シンクへと持っていく。皿洗いはこちらでやるつもりだったが、手で制されたのでそばで見守るだけにした。
「それじゃあ、明日の朝から早速始めたいのだけれど……」
「はい」
「皆には内緒にしてもらいたいの。いいかしら?」
「分かりました」
自分が肥えたなど、ドレミコードの皆には知ってほしくないらしい。それは分かるので、皆がまだ起きない明け方に運動をする事になった。それに、明日の朝はクーリアが朝食の担当をするから丁度いい。
改めて、明日の朝待ち合わせる場所を決めてクーリアは部屋に戻り、俺は遅めの風呂に入る事にした。
◇ ◇ ◇ ◆ ◇
夜明け前のドレミ界の空は、紺色と薄桃色が混ざり合い、実に幻想的な様相を見せている。
時間にしてまだ5時前。正直、これだけ早い時間に起きた事がないので眠い。だが、クーリアに付き合うと言った以上は反故にできないし、原因の一端は自分だ。それに、力になるのは簡単な道程でできるはずもない。
「おはよう、バトレアス」
「おはようございます、クーリア様」
玄関先で待っていると、クーリアがやってきた。浄化の際の正装でも、昨日見た風呂上がりの軽装でもはなく、トレーニングウェアである。そういう服を持っているとは知らなかったし、それでもなお洗練されていると感じる。
一方のこちらは、先日ファンシアと共に街へ出た際に買った動きやすい服だ。運動向けではないが、普段の執事服と比べれば少しはましだろう。
「ごめんなさいね、こんな朝早くに」
「いえ、お気になさらず」
軽めのストレッチをしながら言葉を交わす。確かに眠いが、それで愚痴をこぼすほど野暮ではないし、主相手にそれは言えない。
クーリアもまた準備運動をし、それが終わるとお互いに視線を合わせて頷き、ジョギングを始めた。
ドレミ界でそこそこ過ごしているが、屋敷の外を出歩く事はほとんどない。せいぜい玄関先の掃除ぐらいなもので、後は屋敷の敷地内でやる事は完結する。それに、外を出歩く時間がほとんどないのだ。
けれど、改めて走ってみると発見が色々あった。部屋からも見えた噴水の中央には、ト音記号の像が載った柱が立ち、花壇と思しきスペースには前世でも見た事のない形の花が生えている。木も植えられてはいるが、葉っぱの色は幻想的な黄金色。色づいたイチョウよりもはるかに輝いていた。
そして、走っている道はアスファルトや砂利などで舗装されていない。色も土とは全然違うが、それでも走りやすい。何より走る時に足音が全くせず、けれど地面を踏む感触は確かに伝わるので、どういう物質でできているのか全く分からなかった。
そんな感じで、屋敷の周りを走りながら異世界である事を痛感しておよそ数十分。
「ふぅ……」
息を吐いたクーリアがペースを落とし始め、やがて膝に手をついて足を止めた。
「お水いりますか?」
「ええ……ありがとう……」
あらかじめ、厨房から持ってきていた魔法瓶を差し出す。
だが、水を飲んでいる間、クーリアは胸の辺りを苦しそうに押さえていた。
「少しペースが速すぎましたか?」
「いいえ……そうじゃないの」
返された魔法瓶を受け取ると、クーリアはまた気まずそうに視線を横に逸らす。
「……その、揺れて。痛くて」
「不躾でした。申し訳ございません、猛省します。失礼いたしました、深くお詫びいたします」
45度で腰を折り謝罪する。
決して意識していた訳では無いが、クーリアと並んで走っている間、
そしてその痛みは、人によっては耐え難い激痛と聞く(どこでそれを聞いたかは黙秘する)。陣痛の時もそうだというが、男には理解できない女性特有の痛みというのは中々厄介だ。けれど、デリケートな事に踏み込んだ自分を恥じ、クーリアに気づかれないよう自分の頭を小突く。
「……それでしたら、ウォーキングにしましょうか?」
「それって効くのかしら……」
「継続すれば効果が現れますよ。あるいは、筋トレなども」
効果が出るのが遅い事にクーリアは多少焦れているらしい。だが、ダイエットはそんな劇的に効果が出るものではない。大事なのは継続する事だ、と聞く。
「じゃあ、そうさせてもらうわ」
「ええ。そちらもお手伝いします」
クーリアが呼吸を整えてから、今度はウォーキングを始める。朝食の準備の時間もあるので、運動できる時間は長くても1時間程度だ。
屋敷に向かう間、歩く姿勢や腕の振り方、ペースに気をつけながら歩く。それを観たクーリアが、感心したように息を吐いた。
「あなたがその……こういうのに慣れていて助かったわ。バトレアスも……そうなった経験があったり?」
「いえ、自分は全く。前世で友人との会話などで、知識として知っているだけですよ」
「ダイエット」や「太る」という言葉を明らかに避けているクーリア。
ただし、俺は体重の多少の増減は経験しているが、本格的にダイエットをしなければならないほど太った事はない。それでもあれこれを知っているのは、その女友達との会話や、テレビなどで定期的に特集される方法論を、もしも自分がそうなったらという予測の下で覚えていたからだ。
「……そう」
するとクーリアが、ちょっと悔しそうな顔を浮かべた。恐らくは、不公平だとでも思っているのだろう。
その表情の理由は分かったが、敢えて何も言わないでおいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◆
6時ごろに屋敷へ戻り、着替えてから朝食の準備が始まる。
クーリアが作る今朝の献立はオムレツ。朝食では卵料理が出る事が多い。質の良いたんぱく質が摂れると聞いた事があるから、ドレミコードは栄養志向が高いと見える。
さて、クーリアの分のオムレツに関しては、他よりも少し小さめだ。逆にサラダなどは多めにし、食事量を調整する。それを悟られないために、そして他の誰かが食べないように、俺はミューゼシアが用意した楽譜を先んじて食堂のテーブルに並べ、さらにクーリアの席にそのオムレツを置く。そして隣が俺になるようにし、周りから気付かれにくくした。
その甲斐あってか、朝食の時間は誰もクーリアの食事量が減っている事に気付かず、そのまま時間が過ぎた。まさにその通りなのだが、極秘ミッションをこなしているようで、俺とクーリアは食事中に顔を見合わせて少し笑ってしまう。
「クーリアさん、今日は体の方は大丈夫?」
「ええ。昨日は心配させてごめんなさいね、エンジェリア」
「元気になったみたいならそれでオッケーです」
昨日、クーリアの不調を聞いていたエンジェリアが尋ねるが、クーリアは笑みを返す。事の真相について気づいた様子はなく、秘密は守れているようで俺も胸を撫でおろす。
そして、食後は俺とクーリアで食器洗いをし、「浄化」に向かうドレミコードたちが準備を始める。今日休みなのはビューティアだけだ。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってきまーす」
そして俺は、自分に課した義務として、「浄化」に向かうドレミコードたちを1人ずつ見送っている。ゲートを開いて別の世界へ行くのは基本1人ずつなので、それぞれの顔を見ながら声を掛けていた。自分には「浄化」の力はおろか、別世界へ渡る力もない。だからせめて、皆の無事を祈って見送る事が精いっぱいだから。
エンジェリアがゲートを開いて、別世界へと飛んでいく。その先にどんな世界なのかは分からないが、すぐにゲートが閉じた。最後に残っていたのはクーリアだ。
「クーリア様、今朝は運動に加えて朝食の準備もありましたが、大丈夫ですか?」
「ええ、問題ないわ。エンジェリアにも言った通り、身体の調子も平気よ」
そう言ってクーリアはタクトを取り出し、再びこちらを見る。
「あ、そうだわ。帰ってきて余裕があれば、また少し運動しようと思うのだけれど、付き合ってもらえるかしら?」
「承知いたしました」
「ありがとう」
その願いに頷くと、クーリアは笑ってタクトを振り、ゲートを開く。
その時だった。
「危ない!!」
後ろから声が聞こえたと思うと、何者かの手で身体が後ろに引っ張られる。クーリアも後ろへ飛び退いたのが視界の端で見えた。
「な、に……っ!?」
そして、クーリアが開いたゲートから、黒い触手のようなものが何本も伸びてきた。ただ、長さはそこまでではなく、それは俺やクーリアに届きはせず宙でうねるだけだ。
そこで、俺を後ろに引っ張った人物は誰なのか、振り向いてみるとその正体はビューティアだった。
「ビューティア様、なぜ……?」
「あなたに少し仕事を頼もうと思ったの。けれど、クーリアさんが開いたゲートから妙な気配がしてね」
ビューティアは、いつもと同じで笑っているように見える糸目だが、それでも緊張しているのが声で分かった。
「……なぜ」
そしてクーリアは、意味がわからないとばかりに声を発した。その声に引かれるようにクーリアの方を見ると、さっき開いたゲートから伸びる触手が引っ込み、それと入れ替わるように何者かがゆっくりと姿を現す。
クーリアと背丈がさほど変わらない女性だ。肩まで届く黒のセミロングヘアで、黒や灰、紺色と暗めの色合いのドレスを纏い、頭には金のヘッドドレスを載せている。全体的な雰囲気は「貴婦人」といった感じだが、姿を見せた瞬間に場の空気が重くなった。
その女性がホールに降り立ち、ハイヒールの足音が嫌に響く。
そんな闖入者が何者なのかを思い出すのと、クーリアが口を開いたのは同時だった。
「……クルヌギアス様」
やはり、《