予めご了承ください。
アロマキャンドルが消えたのを見計らい、グレーシアは読んでいた本を閉じる。エリーティアから借りた冒険小説は中々面白く、続きを読みたいところだが、明日もあるからここまでだ。
アロマキャンドルの後始末をし、グレーシアは明かりを消そうとする。
だがその時、目の前にパートナーの妖精体が現れた。普段はサックスを携えているが、今はそれがない。
「どうしました?」
『バトレアス、まだ起きてるわ』
心配そうに部屋の外を見る妖精体。
グレーシアは明かりを消すが、ベッドには入らず部屋を出る。既に他のドレミコードは自室で休んでいるから、誰ともすれ違わない。食堂にも調理場にも、誰もいない。風呂の明かりも消えている。
しかし、談話スペースにはバトレアスがいた。
「……まだ起きているのですか?」
「……あぁ、グレーシア様。どうも」
ガラスの向こうの夜空を見上げていたバトレアスは、その声に応じて振り返る。
しかしその表情を見て、グレーシアの唇の端に力が入った。
一目見て、大いに疲弊しているのが分かる。
「明日もあるのです、もう休みなさい」
「……すみません。そろそろ休もうとしていたところです」
力なく笑うバトレアス。
近くの机にはマグカップが置かれていた。仄かに漂う香りからして、中身はコーヒー。寝る前の飲み物として最悪だ。
さっきのバトレアスの言葉も嘘だろう。彼は端から寝る気がない。
「……」
グレーシアは、真っ直ぐに見据える。
バトレアスは応えず、曖昧に頷いて、窓の外を見ようとした。
『……あなた、ちゃんと眠ってるのかしら?』
だけど妖精体は、無遠慮にもバトレアスとの距離を詰める。その顔の前に浮かぶと、目の下をつんつんと服の袖で突いた。
『隈……とってもひどいわ。心配になっちゃう』
「……俺は大丈夫ですよ」
そんな妖精体の頭を軽く撫でるバトレアス。その仕草にすら哀愁が漂っている。
けれどバトレアスは、一通り妖精体の頭を撫で終えると、立ち上がって背中を伸ばす。
「……そろそろ、休みます。すみません、ご心配をおかけしてしまって」
「……いいえ、おやすみなさい」
「グレーシア様も、妖精体様も、おやすみなさいませ」
『……おやすみ』
バトレアスはマグカップを手にし、自室へと向かう。心配になり、物陰からバトレアスの行方を追ってみるが、彼は一度調理場へ寄った後、自分の部屋に引っ込んだ。
それでもグレーシアは安心できない。
「……やはりネイロス様の影響ね」
『あんなことがあったんだもの……無理ないわ』
バトレアスの夢の中にネイロスが攻撃を仕掛けてから3日が経つ。その日以来、バトレアスは十分な睡眠がとれていない。恐らく他の誰もが気づいている。
妖精体の言う通り、無理もなかった。
ネイロスは夢を司る天使。一度侵入を許してしまった以上、次があるかもしれない。クーリアがバトレアスの精神部分に強力なプロテクトをかけた――グランドレミコードのなせる業と聞く――が、それでも一度負った大きな心の傷がそう簡単に癒えるわけもない。睡眠という行為が怖くなるどころか、トラウマになってもおかしくなかった。
『……でも、何とかしないと』
妖精体が告げる。
見れば、その瞳は潤んでいた。
『あんなバトレアス……見たくない』
思えばこの妖精体は、初めてバトレアスを「依頼」に連れて行った時から懐いていたと思う。天老とのデュエルで応援し、デュエルの後は労って、おまけにスキンシップまで積極的に取っていた。仲間になったばかりの男に。
それだけバトレアスのことを気に入っている。そんな彼が疲弊し、傷つく様なんて見たくないだろう。それはグレーシアも同じだ。
「本当に、何とかしなくてはなりませんね……」
具体的にどうすべきかは思い浮かばないが、今のままでは決していけない。
どうしたものか考えつつ、グレーシアは自分の部屋に戻った。
グレーシアとその妖精体に言われ、やむなく部屋に戻る。
明かりを消し、ベッドに入る前に深呼吸をして、背伸びをする。
正直言うと、眠気はかなり溜まっている。コーヒーの1杯や2杯では消しきれないほどで、横になって「何事も無ければ」そのまま眠ってしまいそうなほどだ。
「……はぁ」
俺は、ため息をついて布団に入り、寝転がる。
そして目を閉じれば。
――まったく鬱陶しい! 貴様のデュエルも、言葉も、存在も、何もかもが!
――無限の苦痛にもがき苦しんで地獄へ堕ちろ!!
俺の存在を否定する、怒りと憎しみ、殺意に満ち溢れた言葉。
あのデュエルで受けた苦痛。命を削り取り、焼き尽くし、滅多刺しにする恐怖。それが脳と心を支配し、体中が熱くなる。
「……っ」
目を開けて、体を起こす。まだ横になってから10分と経っていない。
こんなことがここ数晩常にあった。どれだけ疲れていても、眠くても、眠ろうとすればあのデュエルを思い出し、覚醒せざるを得ない。長くても1時間ぐらいしか眠れなかった。
「……コーヒー飲もう」
身体に悪いのは重々承知だが、他にできることがない。
散歩という手もあるが、先日ミューゼシアは屋敷の扉が夜に開けられないよう鍵を新しくした。万が一の外部からの侵略者に備えるのと、俺が外で倒れてもすぐ発見できないからだろう。
部屋を出て、キッチンへ向かう。
グレーシアに、みんなに悪いと思いながら。
◆ ◇ ◇ ◇
「――と、非常によくない状態です」
「なるほどね……」
昼下がり。
食堂でグレーシアの話を聞いたミューゼシアは悲しそうに相槌を打ち、テーブルに両肘をつく。彼女に限らず、この場にいる全員が同じようなものだ。
「どうして、こうなってしまうんでしょう……」
「……」
エリーティアの言葉も暗く、湿っぽささえ感じる。エンジェリアも頷きはするが、いつもの明るさはなかった。
それだけみんなが落ち込むのは、やはりバトレアスの人徳によるものだろう。ビューティアはそう思いつつ、目の前にあるマグカップを見つめる。
こういう場でお茶を用意してくれるのは大体バトレアスだが、今日はクーリアとビューティア自身が淹れていた。
それは、疲弊しきったバトレアスを厨房に立たせるのが危険だから。
3日以上まともな睡眠を摂れなければ、無理もない。
* * *
夢魔鏡のネイロスが、バトレアスの夢の世界に入り込み、彼を殺そうとした事件。
事の次第を知ったミューゼシアは、誰も見たことがないほどに激怒し、アポロウーサの下へ向かって報告。翌朝になってアポロウーサは屋敷を訪れた。
そしてバトレアスの精神状態を確認し、ネイロスの力の残滓が体内にあるのを認め、アポロウーサはネイロスの下へ赴いたという。
結果、ネイロスはアポロウーサから厳重注意を受け、上位天使としての権力の無期限剥奪。さらに天使族全体に再度の通告が行われ、バトレアスにはネイロスからの謝罪の書状が送られてきた。
けれど、裁判は行われなかった。
そもそも「夢魔鏡」という存在は、天使族の中でも唯一と言っていいほど特殊だ。
彼らはその名の通り、夢と鏡を司る集団。誰もが光と闇、天使族と悪魔族ふたつの顔を持つ。平時、光の面は強い精神力で闇の面を押さえているが、光の面が明確に意識した時、あるいはその精神力にわずかなズレが生じた時、闇の面が表に出る。そして、光の面は聖人に明るい夢を、闇の面は悪人に悪夢を見せるものだ。
そんな不安定な存在のネイロスが上位天使としての地位でいられた理由は、精神力の強さにある。過去に一度も暴走などしたことがなく、悪魔の面に呑まれることもなかった。
しかし、天使族裁判に天魔が参加した際、彼にとっては初めて見る
天使族は、それこそ人間や動物などと同じで実体を持つ存在がほとんどだ。
しかし悪魔族は、実体を持つものに加えて、邪悪な意思や力なども含まれる。魘魔は後者だ。
だから、内部にある悪魔の面を制御できなかったネイロス本人は確かに悪い。しかし、限られた上位天使の内部にある悪魔族が元凶となれば、また事情が複雑になる。よって今回の処置をしたと、アポロウーサから聞いていた。
それで万事解決、と頷けるドレミコードはいない。
むしろ、扱いの差に落胆するばかりだ。
* * *
「……おかしいよ、こんなの」
ビューティアの隣に座るファンシアが、マグカップを両手で掴んで震えていた。
顔を見なくても、泣いているのが分かる。
「バトレアスさん……頑張ってたよ……? ボクたちだけじゃない、みんなを守るために、命を賭けて戦ってくれたよ……? なのにどうして、ひどい目にばっかり遭うのかな……」
震える背中をビューティアは優しくさする。ファンシアの気持ちは痛いほど分かった。
彼は人間をやめてまで、自分たちドレミコードを救ってくれた。何度傷つけられても、心を折られそうになっても戦って、精霊界を危機から救ってくれた。人という存在から変わっても、他人のために行動してきた。
だのに、この仕打ちだ。
栄誉や勲章、富を与えてほしいなんて俗物的な願いはない。何が何でもネイロスに裁きと罰を、と執着したりもしない。せめて、穏やかに過ごさせてほしい。いっそ、もう何もしないでほしい。
裁判沙汰になっただけでも納得できないのに。その過ちは本人が骨身に染みて反省し、間違ったことをしたと理解して、無罪と審判も下されたのに。
だからこそ、今回の件はすぐ水に流せない。大切な仲間が殺されかければ、悲しむし、怒るのも当然だ。
「人間だったのが……そんなにいけないの!?」
「……他の天使も『人間』を知っているからよ」
ファンシアが頭を掻きむしって告げた言葉に、ミューゼシアは静かに答える。
ミューゼシアは両手を力強く、ともすれば自分で握りつぶしそうなほどに握っていた。彼女自身も、この現実に納得がいっていないのだろう。
「どれだけ真っ当でも、成果を上げても、努力を重ねても、それを嫌う人がいる。嫉妬する人もいる。認めたくないと傷つける人もいる。正当に評価されないことだってある。誰もがそうじゃないけれど、人間にはそういう面がある」
「……」
「人種、年齢、性別、怨恨……とにかく『どんなにくだらない理由』でも、他人を排除する理由になってしまう」
ミューゼシアの言葉に、未だかつてないほどの悔しさが籠っているのは分かった。ファンシアは押し黙ってしまう。
その言葉はビューティアも否定できない。
自分たちの使命である、淀みの「浄化」。その過程で、ミューゼシアが言ったような事例は嫌になるほど見てきたし、中にはバトレアスにもあり得た「死」という結末を迎えてしまう人もいた。
それを見たのはビューティアだけではない。
その証拠に、ここにいる誰も反論しなかった。
「人間がそういうものだと理解しているから、天使であっても人間だったバトレアスを疑っている。実際、彼が都市の世界でトラブルを起こしてしまったからこそ、彼の評価は微妙になった。例え、どれだけの功績を立てても……ハンデになってしまっている」
「……だからって」
まだ納得できないらしいドリーミアは、顔を上げない。ビューティアも同じく納得がいかないし、他のみんなも同じだろう。
「そう。だからって、例え悪魔族の影響だとしても、私たち天使族で『下界』と同じようなことが起きたのは、正直嘆かわしい」
『……』
「私も全く納得できないし……どうしようもないくらいムカついてる」
普段、決して身内に苛烈な言動を見せることがないミューゼシア。そんな彼女がこれだけ言う時点で、もう彼女の怒りは限界に達しているのだ。
「けれど、怒りや憎しみをもって反抗すれば、終わらない負の連鎖が始まる」
とん、と鈍い音が響く。グレーシアが顔を押さえ、テーブルの上で拳を握っていた。自分を納得させるように。
ミューゼシアは何が言いたいのかは分かる。
ドレミコードもまた、人間を見てきた。ミューゼシアが言ったような側面を持っているのも知っている。
そんな自分たちの「浄化」は、世界をより良い方向へ変えるために、ほんの少しだけきっかけを与えることだ。
だからドレミコードは、それこそ「人間」のように他者に対する怒りや恨み、憎しみで他人を攻撃してはならない。負の感情のままに人を傷つければ、いともあっさりと争いが始まってしまうと分かっているから。ミューゼシアがあの日、元凶のネイロスに報復せず、アポロウーサに報告したのはそのためだ。
そして忘れてはならないが、バトレアスにはエニアクラフトとのつながりが微かにある。
この件でエニアクラフトが、ネイロスを含め「人」の評価をどうしたのかは、誰にも知ることができない。だけど、エニアクラフトが信用したバトレアスの仲間である、ドレミコードが争いの火種を作ると確実に状況は悪くなる。それは簡単に予想できた。
最悪なのは、既にネイロスが必要最低限のペナルティを受けたこと。これ以上何か言えば、立場が悪くなるのはドレミコードになってしまう。
バトレアス自身、自分のせいでドレミコードの立場が悪くなるのを良しとしないだろう。
だから、どうしようもない。
血の涙を飲んででも、今回のことは飲み下すしかないのだ。
「……バトレアスはどうするの」
ドリーミアが顔を上げる。その目元は赤くなっていた。
「放っておいたら、本当に倒れるわ」
「ええ、本題はそっちよ」
ネイロスのことは
自分たちにできるのは、助けられる場所にいるバトレアスを、自分たちだけで助けることだ。
「だけど、どうしても眠れないんじゃやりようがない気も……」
しかしエンジェリアの言葉も正しかった。
バトレアスは、ネイロスに攻撃されたことが原因で深い眠りに就けない。
疲れを取り、体力を回復させる一番の方法は十分な睡眠だ。それは天使も人間も同じだが、それができないとなれば手はかなり限られる。
日に日にやつれていくバトレアスを見て、ドレミコードの全員がそれを心配している。そして、それをどうにもできないのを悔やんでいるのが実情だ。
バトレアスだけでなく、ドレミコードのみんながまた元気になれるよう、この問題は早く解決しなければならない。
その肝心のバトレアスだが、今は談話スペースでキューティア、プリモアと一緒にボードゲームで遊んでいるところだ。今のバトレアスにまともな頭脳戦などできるか微妙だが、働かせすぎるのも危険だから仕方ない。この場にいさせると絶対に遠慮したり委縮するから、それを避けるためでもある。
「……クーリア」
腕を組み、考え込んでいたミューゼシアはクーリアの名を呼ぶ。今まで黙りこくっていたクーリアは顔を上げた。
「思うに、今の彼を助けられるのは……」
そこでミューゼシアは、言葉を切ると首を横に振った。
ビューティアは眉を顰めるが、やがてミューゼシアは困ったように笑う。
「……彼が心から気を許しているのは、多分あなただと思う」
クーリアは、最初からそこに疑いを持っていなかったように力強く頷く。
バトレアスは、ドレミコード全員を等しく大切に思っている。それはビューティアも疑わない。
だがクーリアだけは別だ。何しろ2人は恋仲にある。だから、バトレアスのクーリアに対する感情は、他のドレミコードより強くて段階が違う。
何より、バトレアスは真面目だ。みんなが色々言っても、最終的には「しかし」「だけど」と自分を後回しにして疎かにする。
そんな時、そんなバトレアスの一番の力になれるのは、やはりクーリアだろう。
「彼が気を許し、一番心の距離が近いのはあなたよ」
「……はい」
「無論、私たちもバトレアスのことは心配だし、何とかしてあげたい。だけど今回ばかりは、あなたが一番適任よ」
だから、とミューゼシアは言葉を切って人差し指を立てる。
「
◇ ◆ ◇ ◇
ここ数日碌に眠れないせいで、日中のパフォーマンスはガタ落ちだ。
そんな俺はどんなミスをしでかすか分からない、という理由で、調理当番は免除されている。食器洗いだけはさせてもらっているが、俺のせいでみんなの負担が増えるのはとても嫌だ。
だから、こんな状況を長引かせないため、一刻も早い体調の回復が俺の課題になっている。
しかし、どれだけ頭を捻ったところで、最良の方法は「ちゃんとした睡眠をとる」以外思い浮かばない。
ネイロスの襲来以降、眠りに就こうとすればあの時のデュエルの記憶が蘇り、覚醒を余儀なくされる。浅い眠りと覚醒を繰り返すばかりで、全体的に身体の調子が悪い。
そんな自分の今に溜息をつくと、部屋の扉がノックされる。
「はい」
「バトレアスさん、お風呂空いたよ」
「ありがとうございます」
訪ねてきたエンジェリアは、風呂上がりか顔が上気していて、滑らかな銀髪もわずかに湿っている。淡いオレンジのパジャマがイメージに合っていた。
時計を見るが、普段最後に俺が風呂に入る時刻より少し早い。それに、今まで俺を呼びに来るのは大体クーリアかミューゼシアだったはずだ。
「クーリア様やミューゼシア様は?」
「もう入ったよ?」
「そうですか」
聞いてみるが、嘘ではないらしい。あまり深く疑って余計な負担を脳に掛けるのもやめにし、手早く準備して風呂場へ向かうことにする。
だが、エンジェリアは俺についてきた。
「……何かご用事が?」
「ううん。ほっといたらバトレアスさん倒れちゃいそうだなって」
「……すみません、ご心配をおかけして」
「いやいや、無理もないよ今回のことは」
こうして心配をかけてしまうことでも、余計罪悪感が増す。それを改善するために休息が必要なのだが、それができれば苦労はしない。
そこへ、小さな光と共にエンジェリアの妖精体が現れた。
『大丈夫? 元気づけに一曲吹いてあげようか?』
「お気遣いありがとうございます。ですが、それには及びませんよ」
『むぅ……強がりさんだね』
妖精体は不貞腐れたように、トランペットを吹く。耳に優しく伝わる程度の音量で、ただ音を鳴らしてるだけだが、それでもトランペットの音色には元気づけられる気がした。
妖精体の奏でる音色には特別な力がある。それは、初めてドレミ界に来た時から身をもって知っているし、「浄化」と「依頼」に不可欠なのも理解していた。
その力を、俺なんかのために使ってもらうのは気が引けた。その力は俺以外の、本当に救われるべき誰かのために使ってほしい。
やがて風呂場の前につき、ドアを開ける前にノックする。十数秒経っても返事がないのを確認し、ドアをそっと開けてみるが、やはり誰もいない。脱衣籠に着替えの類が入っていたりもしない。誰が風呂に入ったかを示す札も俺以外裏向きだ。完全な無人を確認し、ほっとする。
「用心深いねぇ」
「当然です」
エンジェリアが肩を竦めて笑うが、これは死活問題だ。兎に角、見送ってくれたエンジェリアに感謝しつつ脱衣場に入り、入浴の準備に入る。
言うまでもなく、俺以外のドレミコードは全員女性だ。そんな環境での生活にあたり、一番気をつけるべきはこういう場所でトラブルを起こさないことだろう。
いくらお互いに大切な存在とはいえ、うっかり着替えや裸を見てしまえば、信頼関係など一瞬で壊れる。特にドレミ界は閉鎖されているから、そんなことが起きてしまえば居場所を失うも同然だ。
漫画やライトノベルの主人公は、そういうトラブルを起こしても鉄拳制裁、せいぜい異能力の八つ当たり程度で済んでいる。
だが、ここはデュエルモンスターの精霊界。世界の危機の種はゴロゴロ転がっているし、俺がネイロスに攻撃された時みたく、何がどう連鎖して事態が悪化するかは分からない。
事実、俺がマスカレーナ相手に「ミス」した結果、世界を破滅させかねないエグザムを賭けたデュエルにもつれ込んだ。運も味方し勝てたから良かったが、下手をすれば事態はより混沌としていただろう。最悪の場合は人類の全滅だ。
そんな綱渡りみたいな経験をしたからこそ、あんなことは二度とあってはならないと胸に刻んでいる。
命に関わる問題を考えつつ、服を脱いで風呂場に入る。
風呂はドレミコードの女性陣が全員一斉に入れるぐらいには広い。そんな風呂場にはやはり誰もおらず、ようやく安心できた。
だが、まだ懸念事項はあった。
それはやはり、俺が三日三晩満足に寝ていないこと。こんな状態で考え無しに風呂に入れば、冗談抜きに死ぬだろう。丸出しで死ぬわけにもいかないから、湯船には浸かれない。
しかし、女性と一緒に生活をしている以上、体臭にも気を付ける必要がある。誰かから「臭い」と言われた日には、心がベッコリ凹むこと請け合いだ。
故に、髪と身体を念入りに洗って、後は脚を湯船に浸すぐらいしかできない。元日本人として風呂に入れないのはもどかしいが、命には代えられなかった。
近くのシンクで蛇口をひねり、シャワーから出る温水を被る。それだけで少し疲れが和らいだ気がして、身も心も温まる。あまり気を緩めすぎるとこれだけで眠りかねないから、ほどほどにしてまずは――
「背中流しましょうか?」
「うわぁああああああああああああああ!?」
不意に、聞こえるはずのない声を掛けられて、情けなく大声を上げた。風呂場で俺の叫びが反響する。
そして振り向いて――
「!」
秒足らずで視線を前に戻す。ただし鏡は見ず、急所を全力で隠した。
そんな行動を誰が責められるだろう。
「そんな、お化けでも見たような反応はちょっと傷つくわ」
クーリアがバスタオル一枚で背後に立っていたら、誰だってそうするはずだ。
「……なぜ、クーリア様が」
「なぜって、お風呂に入る以外ないでしょう?」
鈍った思考回路でも数分前のことは思い出せる。
俺以外の全員が風呂に入ったのは札で確認した。しかし、部屋に俺を呼びに来たのは
「先に言っておくけど、エンジェリアにはちょっと協力してもらったのよ」
「は?」
「あなたを休ませるためにね」
指摘され、言葉が出なくなる。
「あなたが眠れなくて疲れてるのを、みんなが心配してる。それを何とかするために、私が一肌脱いであげましょうってこと」
あの日以来、ドレミコードのみんなに毎日不安そうな声をかけられていた。クーリアだって例外ではないし、プリモアも涙ながらに声をかけてくれた。
それでも俺は、みんなに「大丈夫」としか言えなかった。眠ろうとする度にあのデュエルを思い出し、眠れなくなるのは俺だけの問題だったから。
しかしその結果、クーリアはエンジェリアと結託してこんな強硬手段に出るまでになった。物理的に脱ぐとは俺も思っていなかったが、薬を盛られるよりマシと考えておく。
「ちなみに、ミューゼシア様の許可もあるわよ」
「わざわざ許可を……?」
「どんな手を使ってでも、と言われたけど、普段からこういうことはしないよう言われてるし」
俺の知らない間に、クーリアとミューゼシアの間でそういう取り決めがされていたらしい。俺がいる前でそんなやり取りをされるのも嫌だが。
というか、その理屈だとクーリアと俺が一緒に風呂に入るのは、エンジェリアだけでなくミューゼシアも知っていることになる。いや、もしかしたらドレミコード全員が知っているのか。そうなると、明日からどんな顔でみんなの前に出たらいいのだろう。
「で、どうする? お望みなら身体を洗ってあげるわよ?」
「……流石にそこまでしてもらわなくとも」
追い返す選択肢が最初からなく、この状況を受け入れるしかない。自分の身体は自分で洗う、という条件付きでだ。
しかしクーリアは、俺の隣に陣取ると、何の躊躇もなくタオルを取って全て曝け出した。何気なく見てしまっていたが、急いで視線を前に戻して無心で頭を洗う。
「そこまで必死にならなくていいのに……お互い繋がりあった仲じゃない」
「……それでも慣れたらダメな感じがするんです。というか、どんな仲でも目のやり場に困ります」
冷静になれと自分に言い聞かせながら答えると、クーリアは蛇口を捻って。
「むしろ私は、あなたにならもっと見てほしいかも」
気の利いた答えができなくて、一心不乱に頭を洗う。
こんな芸当ができるのも、多分「3回目」だからだ。でなければ、俺は色々とダメになっていたに違いない。
1回目は、クーリアと2人で、ミューゼシアの作った空間で過ごした時。しかしあの時は、俺も「タガが外れていた」。
そして2回目は、マスカレーナ相手に失敗した日の夜。俺はクーリアと2人きりでこの大浴場の風呂に入った。それはクーリアが決めた、俺がマスカレーナの裸を見たことへの「対抗措置」。こちらが100%悪かったから、断れなかった。
けれど、いくら俺がクーリアと一線を越えてすべてを見せ合った仲とは言え、何も思わないわけがない。
クーリアは非常に魅力的な容姿だ。そんな彼女と一緒に風呂に入りつつ平静を保て、というのは結構な無理難題。しかも、マスカレーナの記憶を上書きするように接近・接触するものだから、俺の理性は悲鳴を上げていた。それでも、鉄の意志と鋼の理性をもって、事なきを得たが。
確かに俺とクーリアは男女の仲だが、「そういうこと」はこういう場所でやるべきでないと思っている。この大浴場は、普段ドレミコードのみんなが「浄化」などで疲れた体を癒すための場所だ。そんな場所で不埒な行為に及ぶなど、罰当たりも甚だしい。
何より今、俺にはエニアクラフトとの繋がりが微かに残っている。深層心理の空間でそれを聞かされたから、理性を欠いた行動に出てはならない。
そんな経験と事情もあり、俺は理性を失うことなく身体と髪を洗い終えることができた。
そしてすぐに風呂場から去ろうとしたのだが、クーリアに手を取られ止められてしまう。
「疲れを取るために入浴は大事よ?」
「ええ、ですが今入ると……」
「わかってる。そのために、私がいる」
1人で風呂に入れば死ぬリスクが高まる。それを避けるため、かつ俺が疲れを取れるようにするために、クーリアはここまできた。ここは言うとおりにする他ない。
まずは、慣らすために脚を湯船に浸ける。そこでクーリアは、俺の隣に腰掛けて同じように脚を湯に浸した。タオルなど巻かずに。
いくら3回目でも、俺の理性が蝕まれるのは時間の問題だった。だから、ほどなくして慎重に半身浴の体勢に入る。一刻も早く疲れを取り、かつ「間違い」を起こさないように。
「大丈夫?」
「……どうにか」
大丈夫じゃない。どうにかなってしまいそうだ。
隣同士で湯につかるが、テレビの撮影みたいにタオルで身体を隠したりしていない。おかげで、本来隠すべき場所は全て見えるし、見えてしまっている。
こうなるのが初めてじゃなくても、あまりじろじろ女性の身体を見るものではない。だから首を固定して前に向けさせるが、悲しい男の性のせいで視線がクーリアの方に向こうとしてしまう。かといって目を瞑ればすぐに眠ってしまいそうだ。
こういう時は考え事をするに限る。それも、俺にとっては苦いことを。
「……今、あなたが私以外の何を考えているか、当ててみましょうか」
距離は詰めず、顔も向けず、クーリアが話しかけてきた。
びくりと肩が震える。
「ネイロス様に攻撃されたことでしょう?」
「……」
「具体的には、何か傷つくことを言われて、それについて考えている。違う?」
言葉が切られ、クーリアは俺の答えを待つ姿勢に入った。
水滴の音、お湯が揺れる音しか聞こえなくなり、沈黙が痛くなる。
その中で俺は、自分の意識を保つ意味も込めて、話すことにした。
「……ドレミコードの皆さんに認められても、クルヌギアス様から褒められても、エニアクラフトに信用されても……俺はこの精霊界の純粋な住民じゃありません。今は天使でも、元々は人間の余所者です」
クーリアは口を挟まない。
聞いているのは知っているから、続ける。
「ドレミ界に残り、皆さんを守るために戦うのは、俺が選んだことです。だけど、俺のような余所者、純粋な人間でも天使でもない俺を疎ましく思い、排除しようとする人がいる……それを目の当たりにして、悔しいんです」
俺がネイロスの言い分に激怒したのは、今の俺がいるのかまクーリアのおかげだからでもある。そんな俺を否定するのは、クーリアが覚悟と勇気をもって行動してくれたことをも否定するのと同じ。だから余計に苛立った。
だけど。
「今までの俺たちを知らずに、後になって指をさしてああだこうだと責め立て……終いには、殺されかける。そんなつらい現実に、圧し潰されそうで」
今までずっと、俺たちが危険な目に遭ってきたにもかかわらず、手助けをしてこなかった。そして事が済んだら、今度は元人間の俺の粗探し、排除だ。
俺がここにいるのを望んだとしても、悔しくて、悔しくて、仕方がない。
「どれだけ前を向こうとしても、あまりにも厚い壁が目の前にあるのが……悔しいんです」
「……そう」
クーリアが少しだけ距離を詰めたのが、音とお湯の波紋で分かる。だけど、まだ触れてきたりしない。
「それであなたは……どうするつもり?」
「……これまで通りにするしかない、と思っています」
問われるが、その答えは前から決まっていた。
ネイロスの示した自殺とか、誰かに泣きつくなんて道は、最初からない。逆に道を踏み外してやろうと思えるほど、俺もまだバカじゃない。
「皆さんを守るために戦う……自分で決めたそれを曲げるつもりはありません。ミューゼシア様が言ったように、ほんの少しだけ振り返ったり、立ち止まっても、前に進まなきゃいけないんですから」
「……うん」
「そしてその過程で、俺という存在が認められるように、正しくあり続ける……それだけです」
「ええ、それでいい」
答えと同時、ざぱっと音がしたと思ったら、俺は真正面からクーリアに抱きしめられた。衣服越しだったこれまでとは違う、本当に素肌同士。湯船の中でほぼ全身が触れ合うその状況があまりに突然で、脳が機能を一瞬停止する。
「けれど、今のあなたを見ていると悲しくなる」
それでもクーリアは、恥ずかしがる様子もなく語りかけてきた。
「あなたが、ミューゼシア様の言葉をちゃんと頭に留めて、それを実行している。今はそれで十分よ」
「……」
「確かにミューゼシア様は、何があっても前へ進み続けることが重要だと、言っていた」
愛おしそうに、クーリアが顔を寄せてきた。声がより近くで聞こえ、息遣いが伝わってくる。
「そしてクルヌギアス様が言った通り、あなたにはこれから先、今のように疲れることも、傷つくことも、たくさんあるかもしれない」
「……」
「けれど時には、休んでいい。自分を労っていい。無理を押し通せ、休むな、なんて絶対に言えないわ。だってそれは、私たちドレミコードの天使にもできないもの。不眠不休で『浄化』を続けるなんてね」
体勢が少し変わり、クーリアの首元に顔を押さえつけられた。
目の前にクーリアの鎖骨があって、首筋に柔らかい感触が広がる。
「あなたは今日まで、頑張った。傷ついて、苦しんで、そうして今を守ってくれた。だからこそ、身体を休めることも考えてほしい」
強く、強く、クーリアの身体に押さえつけられる。互いの心臓の鼓動が、伝わり合っている。
「……なんて、私が言う資格はないのかもしれない」
俺を抱きしめる腕の力が、少しだけ弱まった。
ゆっくりとしていた俺の思考が、一度止まる。
「あなたをその身体にしたのは、他でもない私だもの」
「……!」
「だから、どれだけあなたを想っていても、今こうしてあなたが苦しんでいるのは……私の――」
「それはダメです」
顔を上げ、剥き出しのクーリアの肩を掴む。
今この瞬間は、この言葉は、どうしてもクーリアの目を見て言わなければならない。
「言ったはずです。あなたが覚悟と勇気と、俺なんかへの想いをもって行動してくれたのは、とても嬉しいことだと。どうなろうとも、生きているだけで俺は十分だと」
俺は死にかけた身だが、クーリアに力を注ぎ込まれて今も生きている。
ネイロスに言った通り、俺の命はクーリアがつないでくれたものだ。
「多くの天使に認められないのは、確かに苦しいし、つらいです」
「……うん」
「でも、あなたの俺への想いまでは絶対に誰にも否定させない。無意味になんてさせたくない。だから……」
少しだけ目を閉じて、頭の中で言葉をまとめて、もう一度クーリアを見る。
「たとえどれだけ痛くても、あなたの想いに必ず報いる。そのために俺は、この先、正しくあり続けます」
アポロウーサをはじめとした天使たちは、俺を簡単には認めない。
それもこれも、俺が元々転生した人間という複雑な境遇にあって、それでも天使となり、その上で下界で問題を起こしたからだ。
だから、俺を天使に変えたクーリアまで傷つくなんて、冗談じゃない。
それなら、どれだけ時間がかかろうとも、アポロウーサたちに認めてもらえるようにする。そして、クーリアが「あの時のこと」に後ろめたい気持ちなんて抱かなくなるほどに、俺自身が強くなって成長するしかない。
「……うん」
やがてクーリアの目元から、汗ともお湯とも違う、温かい雫が零れ落ちた。
それを指先で拭って、クーリアは微笑む。
「……でも、少しは元気そうで安心したわ」
そしてクーリアは、湯船に視線を落とす。
どこを見ているのかは分かっていた。
せっかく真剣な雰囲気で話しておいて何だが、お互いにこんな姿でここまでしてしまったので、「当たっている」し「当ててしまって」いる。こんな状況でも反応する自分が情けない。極度の疲労による生存本能もあるだろうが。
「……本当にすみません」
「いいのよ。むしろ、これでも何も感じてくれなかったら逆に心配しちゃうし」
くすくす笑うクーリア。
何とも気の抜けたやりとりだが、おかげで少しだけ緊張が解れたし、話したことで抱えていた不安もわずかに薄れたのを感じられた。
ともあれ、落ち着いて話をするためには一旦風呂から上がった方がいいだろう。こんな格好では流石に集中できない。
◇ ◇ ◆ ◇
風呂から上がり、着替えて、クーリアはバトレアスを自室に招いた。
男女の逢瀬を楽しむ、なんてつもりはない。バトレアスの体調が万全でないし、部屋に他のドレミコードが訪ねてこないとも限らない。残念だが我慢だ。
なので、単にココアをご馳走し、寝るまで穏やかに2人きりの時間を過ごすつもりだったのだが。
「……すー……すー……」
ココアを半分ほど飲んだところで、バトレアスは眠ってしまった。何の前触れもなく、テーブルに突っ伏して。
『完全に寝落ちしたわね……』
傍に現れたクーリアの妖精体が、物珍しそうにバトレアスの頭をつつく。かなり深い眠りなのか全く反応しない。
だけど、妖精体は悲観していないらしい。ヴァーディクト戦の後は深い悲しみに暮れていたが、今は眠っているだけなのが見て分かるからだ。
ただ、バトレアスをそのまま寝かせるわけにもいかない。
「しょ……っと」
だからクーリアは、バトレアスを抱きかかえて自分のベッドに寝かせる。隣で寝られるように、スペースを考えてだ。
傍で寝ることで、バトレアスの異変にいち早く気付ける。それに、明日は1日完全に休ませるようミューゼシアから言われていた。だから、彼が頑張りすぎないように留めることにもつながる。傍にいたいから、という理由だけではない。
「……最初にあなたと会った日みたいね」
穏やかな表情で寝息を立てるバトレアスを見て、思い出す。
ドレミ界にバトレアスがやってきた日。
彼は、ヴァーディクトの分離した意思からこの場所を守るために戦ってくれた。
あの時クーリアは、ドレミ界に戻ってすぐ、キューティアとファンシアが介抱していたバトレアスを、今みたいに自分の部屋に運んで寝かせたのだ。
あの日と比べて、バトレアスは大きく変わった。
そしてあの日が、「ドレミコードのみんなを守る」という今のバトレアスの使命に繋がっている。
『今日ぐらいは、ゆっくり休んでほしいわね』
「ええ、本当」
眠るバトレアスの頬をぺたぺた触る妖精体。労るようにも見える仕草だ。
その顔で目立つのが、目の下の隈。色濃いそれはネイロスの攻撃による後遺症。
またしても彼の心は折られかけ、命は脅かされた。
それでもバトレアスは、どんな思いで何を考えているのかを、今日クーリアが風呂に突撃するまで口にしなかった。それは、クーリアを含め他のドレミコードに迷惑を掛けさせまいとのことだったのは、深く考えなくても分かる。
「……あなたは、ひとりで抱え込みすぎよ」
明かりを消し、バトレアスの隣に寝転ぶ。妖精体もあくびを洩らし、「おやすみなさい」と言って姿を消した。
バトレアスは穏やかに眠っているが、そんな彼に向けて。
「もっと頼ってほしい。今日みたいにしなくても、弱音を私には吐いてほしい」
聞こえていようがいまいが、どっちでもよかった。
それは紛れもない、クーリアの本音だったから。
「愛してる、だけじゃまだ足りないのなら……」
起こしてしまうかもしれない、と思っても、クーリアは眠っているバトレアスを抱きしめる。
そしてその額に、キスをした。
「もっと、あなたにとっての『ただひとり』に、なりたい……」
それだけ告げて、クーリアもまた眠りに就いた。
一番愛している人のぬくもりと存在を、その近くに感じながら。
△ △ △
そこは教会のような場所だった。
明かりはないが、周囲の状況を把握できるぐらいには明るい。
そんな場所を、何かに導かれるように奥へ奥へと進んでいく。誰もいない、少しばかりの涼しさがあるこの場所は、神聖な雰囲気こそすれど、来るものを拒むような閉塞感はなかった。
やがて、開けた場所に出る。
「……すごいな」
コンサートホールのように、天井が高く横幅が広い場所。真正面の壁にはステンドグラスがはめ込まれ、色とりどりのガラスで絵が描かれていた。顔はぼかされていて見えないが、天使の周囲を様々な音楽記号が彩っている。耳をすませば聖歌も聞こえてきそうだ。
そして、そのステンドグラスを視界に収めた途端、天窓から光が差し込んでくる。温かさがだんだんと伝わってきた。
「バトレアス」
呼ばれて振り返る。
そこに立っていたのはクーリア。だけど、着ているのはグランドレミコード態のチューブドレス。妖精体は傍にいないが、代わりにその手にブーケがあった。
ピンク、黄色、水色、赤、紫、オレンジ、白、ベリー、灰、そして緑。カラフルな花々が咲き誇るそれは、さながらドレミコードのみんなをイメージした花のようだ。
「……私の想いを、受け取ってほしい」
傍に立ったクーリアが身体を向けてくる。
自然と俺も向きを合わせると、クーリアの着ているドレスが静かに光り輝く。
「私と――」
その言葉と共に、クーリアの装いは薄緑色のウエディングドレスへと変わった――
▽ ▽ ▽
そこで目が覚めた。
しかし、目に映るものはあまり変わっていない。
「……」
クーリアが寝息を立てている。現実らしい。
俺が最後に覚えているのは、クーリアの部屋でココアを飲んだこと。どうやら、いつの間にか寝てしまったようだ。
それよりも。
(……なんつー夢だ)
さっきまで見ていた夢はハッキリ覚えている。
前世だったら荒唐無稽と笑い飛ばせる夢だが、精霊界ではありえなくもないような内容。そして、俺が心のどこかで願っているようなもの。
そんな夢を、まさかクーリアが隣で眠るこのタイミングで見るとは。ネイロスの攻撃で眠れなかったり、悪夢を見るのよりは億万倍マシだが、神の見えざる手の介入も勘繰ってしまいそうになる。
(……よく、眠れたな)
そしてようやく、状況を理解する。
数日ぶりに、眠れた。
「……ふぅ」
眠ったのなら、後は起きるだけだ。
そう思い体を起こそうとしたが、動けない。クーリアががっちり俺をホールドした状態で、まだ眠っている。
首を動かしても、目に入る場所に時計がない。カーテンの隙間からわずかに光が見えて、、夜明け間近らしい。
(……ダメだ、眠い)
隣にクーリアがいて、人肌の温かさが眠気をまた刺激してくる。一晩眠ったからと言って、何日も満足に眠れなかった分は帳消しにできないらしい。
(……今日だけ)
クーリアの顔を見ながら、俺は精霊界に来て初めて二度寝をした。
◇ ◇ ◇ ◆
クルヌギアスの御殿は重苦しい雰囲気に包まれていた。御殿がある場所自体、冥界という年がら年中暗澹とした空間にあるのだが、今は平時以上だ。
「さて」
誰が聞いても不機嫌と分かるクルヌギアスの声が響く。
そんな彼女の目の前には、《夢魔鏡の魘魔-ネイロス》が跪いていた。
「
「……申し訳ござ――」
「どうなんだ」
ネイロスの謝罪を拒絶するクルヌギアス。
神の力によって呼び寄せられた時点で、ネイロスは嫌な予感がしていた。それがまさに的中したため、先んじて低い姿勢で歩み寄ろうとしたが、望んだ受け答えでなければクルヌギアスは気に入らないらしい。
「……その、通りでございます」
「そうか」
下手なおべっかで癪に障るより安全だと思い、ネイロスは自分の行いを認めた。
それでクルヌギアスの機嫌が上向きになるわけもない。むしろ、纏う雰囲気はより刺々しさを増した。壁だか柱だかに亀裂が入った音が聞こえる。
「魘魔ネイロス」
名前を呼ばれる。無視もできず視線を上げると。
「何故、バトレアスを殺そうとした? 言うてみよ」
クルヌギアスは、太陽のような笑顔だった。頭上に晴天が広がっていてもおかしくない、爽やかなもの。
だからこそ、ネイロスは恐怖した。全身に悪寒が広がり、骨が軋む。この場から逃げ出したいと身体が訴え、脚の筋肉が震え始める。
「お前や仲間が傷つけられたか? 或いは侮辱されたか? それとも、お前の住む夢魔鏡を攻撃したか?」
「……」
「正直に申してみよ。あやつが道理に悖る真似をしたのなら、妾もあやつに罰を与えてやる。
一言一言が、寿命を削り取るかのように重い。
自分がバトレアスを攻撃したのは、そんな理由ではない。それをクルヌギアスは分かっているからこそ、それだけの理由もなく攻撃した自分に憤っている。彼女にとっての「友」だから。
「……」
「黙っているだけでは分からんよ、ネイロス。何とか言ってみるがよい」
まるで信徒の罪を聞き入れる聖女のような、優しくて穏やかな言葉遣い。
脳が熱くなり、鼻血が垂れ始めた。
魘魔と天魔は表裏一体。天魔が見聞きしたもの、感じたことは魘魔にも共有されている。だから、この場で表に出ているのが魘魔の方でも、知らぬ存ぜぬは通じない。話すしかなかった。
「……人間だった彼が疑わしかった。天使になったとはいえ純粋ではない。それが下界で好き放だ――ッ!?」
話している途中で何かされたわけではない。
だけど、空気が実体を持つようにネイロスにのしかかってくる。どこかの窓ガラスが割れた音が響き、首が真下に向けられると、床の大理石に皹が入ったのが見えた。
「あいつが何を背にしているか、理解していないようだな」
さっきの優しい雰囲気は幻だったかのように、クルヌギアスの言葉は冷たい。顔を上げる勇気が今はなかった。
身体の中で、臓器が溶けてひとつに混じり合うような錯覚を覚える。
「エニアクラフトとは、人の罪を観測し、糾そうとしたものだ。あれはバトレアスが止めなければ、お前を含めすべての『人』を皆殺しにするつもりでいたぞ」
「……」
「あやつはそれを、命を賭けて止めた。どれだけ唆されようと、心を折られようと、決して屈しなかった。それを見たエニアクラフトは、考えを改めた」
クルヌギアスは、バトレアスとエニアクラフトとのデュエルで召喚されることはなかった。けれど、バトレアスに渡したカードを通してエニアクラフトを知り、どのような戦いをしたかも見ている。
だからこそ、バトレアスは何の苦労も苦痛もなくエニアクラフトと和解したのではない、と知っていた。エニアクラフトが力を与えたのは、間違いなく彼の尽力の結果であり、彼が可能性を示した結果だ。
「そうして認められたバトレアスが殺されればどうなるか。
それは、バトレアスが必死に回避させた未来にほかならない。クルヌギアスは一度瞳を閉じる。
「エニアクラフトは、また人に失望するだろう。そして、人の殲滅という目的を掲げて再起動し、今度は
「……」
「その可能性を考えたことはないのか、ネイロス?」
ごふ、と魘魔は口から血を流した。滴る赤い液体が大理石を汚し、亀裂の合間に流れていく。言葉そのものが質量を持っている。
バトレアスの夢に侵入して殺そうとしたのは、痕跡が残らないようにするためだ。ドレミコードたちには原因が掴めないから。
エニアクラフトは、裁判では世界の外側から罪を観測していると聞いていた。バトレアスの精神の最深部レベルに繋がりがあると知った時は多少焦ったが、魘魔は後戻りもできずに結局自分の感情を優先させ、天魔を戦わせた。
「分からないのか。貴様の取るに足らない感情と行動で、誰もが皆殺しにされるところだったのだぞ? ネイロス」
「……」
「しかも、あいつの犯した過ちは既に審判が下った。それを無視したこれは、エニアクラフトが『人』への見方を変えてしまう要因となったぞ。ネイロス!」
語気が荒くなる。視界が赤く滲んてきた。
「その上妾の御殿まで覗き込むとは、随分な礼儀をしておるな」
普段閉鎖されたドレミ界に住むバトレアスの夢に潜入できたのは、前にバトレアスがここにいるのを察知して、その精神を認識できたからだ。それを一度探知できれば、どこにいても侵入できる。あの日以降、バトレアスの精神にはプロテクトがかけられたようで、もう侵入はできないが。
クルヌギアスが憤っているのは、御殿を覗き見られたのもそうだが、バトレアスとのデュエルに夢中になっていたあまり、それに気づけなかった自分に対してなのもある。
「……と、まぁ色々言ってはみたが」
そこで、ほんのわずかにクルヌギアスの雰囲気が和らいだ。
少しだけネイロスの気が緩むが。
「よくも我が友に手をかけたな、ネイロス!!!」
文字通り、雷が落ちた。轟音と共に近くのシャンデリアが落下する。耳を劈く金属音、心に突き刺さるガラスの割れる音。まるで今のネイロスの心の状態を表しているかのようだ。
全身の骨に罅が入ったのを、頭の中に響く音で理解する。
血の塊が口からこぼれ落ちた。
「お前もだ、アポロウーサ」
すいっとクルヌギアスの視線が横に移る。
少し距離を置いた場所に、アポロウーサが控えていた。いくら天使族の長であろうとも、相手が悪魔族でも、神の呼び出しには背けない。そして、ネイロスが詰められ、目から口から鼻から血を流す姿を目の当たりにして、何もできなかった。
神の力を、目の当たりにしたのだから。
「確かお前は、天使族裁判でバトレアスに手を出さぬよう他の天使に通告していたな」
「……はい」
「だがこの通り、この魘魔を内側に宿す天魔はそれを破った。バトレアスを殺そうとした。なのにお前は、裁判を起こす余裕もやらず勝手に片付けたな。お前ほどの天使の言いつけを破ったにもかかわらず」
「……はい」
クルヌギアスが何を言いたいのかは、分かっていた。
「よく考えろ。バトレアスでなくとも、他所の世界の存在を勝手に殺そうとしたのだぞ? なのに、その程度のお咎めに留めた理由はなんだ?」
「……」
「よもや、あの男が死にかけたのを『いい気味だ』とでも思ったか?」
「いえ」
即座に、否定する。
そんなつもりはない。
「天魔の内部の魘魔が暴走するなど、前例がありませんでした……だから判断が難しく――」
「何のための裁判だ?」
心底呆れたようなクルヌギアスの言葉。
つん、と鼻の奥が痛んだかと思えば、鼻血が出てきたのをアポロウーサは理解した。
「上位天使だから穏便に済ませたのか。今まで暴走を起こしたことがないから、大目に見たと?」
「……」
「では、ネイロスが殺そうとしたバトレアスが、お前を含めて世界を二度も救ったのは塵芥程度の価値しかない、と」
自然に、アポロウーサは片膝をついていた。
脚に力が入らない。
「あいつらが体を張って、命を賭けて、世界の破滅を防ごうと戦っていた間、貴様らは何をしていた? ほんのわずかでも、あいつらに手を貸してやったか?」
「……」
「あいつらがこれまでに受けた苦痛も、その結果保たれた今の価値を少しも鑑みず、過程に問題があったからと後出しで裁判まで起こすとは。些か身内びいきが過ぎると思うぞ?」
天使族は高潔でなければならない。下界で問題を起こすなどもってのほか。似たような理由で裁判沙汰になり、天界から追放した天使もかつてはいた。
バトレアスが水際で危機を退けたのはわかっている。けれど、元人間の天使など今までいなかった。そして下界で問題を起こしたのも無視できなかった。
だから判断が難しく、裁判を行うことにしたのだが、改めてクルヌギアスに指摘されると、何も言い返せない。
「今の妾の言葉、どう受け取るも貴様らの自由だが……同じようなことをしてみろ。次はこの程度で済むと思うなよ」
そう告げて、クルヌギアスはアポロウーサと魘魔ネイロスを元いた世界に乱暴に突き帰した。
長生きする中でやっと見つけた友達への対応があまりにもひどすぎたのでブチギレた後方腕組友人枠の神・クルヌギアスの図
第二・五部、前半パート完です。
シリアスはほどほどに、次回からはリハビリパートです。