幾つかのコミカライズ作品でも本編でも、元は情熱があるまっとうなプロデューサーであった事が示唆されている黒井社長。
だからこそにその堕落は、家族を悲しませていたのです。
呆然とする黒井社長。
幼い頃、笑顔で自分と遊んでくれたパパのことを思うと、とても胸が痛んだ。
会議に玲音が乱入するのが合図。
呆然とする黒井社長がどうすることもできない間に。
役員全員の買収を終えていた玲音が音頭を取って。
文字通りの社内クーデターが実施された。
それによって、一瞬にして黒井社長は、元黒井社長となった。
途中、専務に悪態をついていた。
この専務が、いつも悲しそうにしていたことを、多分パパは知らないんだろうなと、詩花は思う。
部下達をイエスマンにして、会議を円滑に回す事しか考えていない様子だと玲音から実情を聞かされたとき。
思わず、その場で涙を拭った詩花である。
あまりにも簡単に買収が上手く行ったのも。
今の社長よりも、人望がある詩花に会社の経営権が回る方がマシ。
後ろ盾には玲音もいる。
そうなれば、961プロはまともになる。
役員の全員が、その考えに賛同したと言う事だ。
961プロを設立した直後くらいは、まだ部下の言う事にも耳を傾けたし。アイドルも相応に大事に扱っていたらしいパパ。
だけれども、その頃にはもうとっくに歪んでしまっていたらしく。
以降の評判は下がる一方だったそうだ。
専務には、詩花が直接話をしにいった。
パパは犬としか思っていないらしい専務は(事実詩花も、専務を犬と呼んでいるのを見た事がある)。実は創業当時からの古参部下で。パパが変わっていく様子を誰よりも間近で見て、心を痛めていた一人だった。
そんな周囲の哀しみも完全に無視して。
パパは好き勝手をしていた。
やはり、判断は間違っていなかったんだな。
そう、何もかもが終わり、完全に固まっているパパを見て。詩花は思うのだった。
やがて、役員投票が終わり。
黒井詩花新社長が誕生する。
更に株主総会の話も行われるが。
この辺りは全て事前に談合して決まっている。
要するにただそのまま、決まったことを流すだけだ。
こんな事は本来あってはならないのだけれども。
暴君と化し。
理想さえなかば失いかけているパパに目を覚まして貰うためには、仕方が無い事だった。
ほどなく、会議の全てが終わり。
役員達はパパを一瞥さえせずに、会議室を出て行った。
パパは完全に口から魂が出てしまっていた。
声を掛けようかと思ったが。
玲音に肩を叩かれる。
それで、決心がついて。
詩花は、会議室を出た。
溜息が出る。
外では、何人かの役員が待っていた。
「辛い思いをさせました新社長。 それに良く決断してくださいました」
「いいえ。 父には、後で話をします」
「人事に降格、というものですね。 いいのですか、退職にしなくて」
「父はアイドルを発掘する力に関しては衰えていません。 事実この間弊社を離れた亜夜さんだって、父が発掘してこなければ、今頃どこかでインディーズアイドルでもしていたでしょう」
専務はしばらく俯いていた。
きっと、パパと一緒に会社を作った頃の事を思い出しているのだろう。
玲音が咳払いすると、役員達は散って行く。
後は、やっておく事がある。
玲音のスタッフが、パパを連れ出す。
別室に殆ど抵抗せず連れ出されたパパに対して。詩花は書類を出して、順番に説明をしていった。
今後は人事に出向して貰う。
人事では、アイドルを抜擢する仕事だけは許すが。アイドルの育成関係は一切許さない。
会社資産の内、渡しているものは全て回収。
豪華な社宅からは、出ていって貰う。
既に新しい小さなアパートを用意している。私物は其方に移してある他、最低限の生活物資も其方にある。
だから、明日から其方で暮らすように。
目が完全に死んでいるパパだけれども。
同情はできない。
何人、この目で961プロを出ていったアイドルを見た事か。
みんな、パパが潰してしまったのだ。
パパの理想は孤高。
孤高にて絶対として君臨する最高。
それは別に良いと思う。
だけれども、どんな手段を使ってでもその高みに行こうとするのは間違っている。
実際問題、この間のスターリットシーズンプロジェクトでは。最後に戦った765プロを中心としたユニットルミナスは。どうも互いの長所をそれぞれ取り込みあって高めあい。単独では上がれない所まで研磨して挑んできたらしい。
もしもバラバラな数だけのユニットだったら、それこそ玲音一人が蹴散らして終わりだった。
それが、幾ら詩花と亜夜さんにあわせて力を抑えていたとは言え。
玲音がいる事実上の最強ユニットディアマントに勝利したのだ。
結果が、パパの言う孤高に向かう道が間違っている事を証明しているとも言えた。
やがて。パパは何もかもを失った様子で、家に戻っていった。
ため息をつくと、詩花はその背中を見送る他なかった。
玲音が、静かに言う。
「もう賽は投げられた」
「はい、分かっています」
「明日からは記者会見だのなんだので忙しいよ。 アタシも可能な限り手助けはするけれど、以降はきちんとビジネスパートナーとして自立して貰うからね」
「はい」
玲音の言葉は厳しい。
詩花を認めていると同時に。
もしも社長としてやっていけないようなら、必要以上に助ける事はしないとも言っているのだ。
元々玲音が961プロにいるのは、日本での活動において、掣肘を設けないこと。
やりたい放題させてくれる、と言う事が理由だ。
そうでなければ、こんな事務所にはいないだろう。
実際パパのことはずっと昔から気に入らなかったようで。
「好き勝手させてくれる事は感謝している」とまで言っていた。
逆に言うと、それ以外は全てが気にくわなかったということで。
実際時々激高した玲音が黒井、とパパを呼び捨てにし。
それに対して、パパは青ざめるだけという光景を目にしている。
詩花に対しても、玲音はビジネスパートナーとして以降は接すると言っている。
アイドルとしての伸びも期待はしているだろう。
だが、もしも961プロが、玲音がやりたい放題することさえサポートできないようだったら。
容赦なく足切りをするとも言っているのだ。
厳しいな。
私の年が離れた友達は。
そう思うが。怖いとは思わない。
玲音はこう言う人だ。
強者をひたすらに求め、戦いに悦びを感じる。
たまたま女性に産まれてしまっただけで。古代の狂戦士と本質的には何も変わることがないだろう。
それは分かっているし。
何よりも、自分をそんな人が認めてくれていることが誇らしい。
だったら、期待に応えたい。
そもそも詩花を認めてくれていなければ。
こんなクーデターなんかに、手を貸してくれることなんかなかったのだから。
さっそく、どっさり書類が持ってこられる。
今までワンマンで回していた仕事だが。
どうもパパは決定権だけを所有して、後は部下に好きかってさせていたらしく。彼方此方にほころびが見つかっているという。
役員の再教育も必要だ。
そう、厳しい話を玲音が連れてきた。サングラスを掛けた黒服のスタッフが言う。
961プロは業界では精々中堅の上位くらいの事務所。
この程度の会社の運営ノウハウなんて。
それこそ玲音のスタッフには朝飯前なのだろう。
「役員は現状ではそのまま据え置きだけれども、教育をきちんとうけないような奴は首にする覚悟も必要だよ」
「分かっています。 ですが、そうならないように私が説得します」
「……」
「それに、敢えてパパを人事に残しています。 もしパパが社長に返り咲くことがあればと思うと……役員の皆様も、きっと真面目になってくださるでしょう」
ぷっと玲音が笑う。
意外にあくどいことを考えているものだなと、詩花の事を見直したのかも知れない。
たまに、詩花はとても厳しい自分がいる事に気付く。
これはきっとだけれども。
パパから受け継がれた部分なのだろうと思う。
これが歪みに歪みきったら。
今のパパみたいになる。
それだけは、絶対にならない。
ステラステージプロジェクトの時。765プロのトッププロデューサーに出会った。偶然に近かった。
あれは本当に良い出会いだったと思う。
あの人、飯島桜花プロデューサーは凄い人だ。
基礎スペックがとんでもないのは一発で分かったが。
何より凄いのは、誰も取りこぼさず面倒を見ていたアイドル達を至高の高みに押し上げたこと。
この間のスターリットシーズンプロジェクトでも、29人ものユニットを見事に管理しまとめ上げた。
文字通り、誰一人取りこぼさなかった。
この厳しい業界で、それがどれだけ超人的なことか何て、詩花だって言われなくても一発で分かる。
できるなら、ああいう人のようになりたい。
社長になったばかりの詩花の。
今の目標は、それだった。
本格的に仕事が始まったのは翌日である。
パパには人事の一角に部署を与えて。権限の全てを取りあげた。部署と言っても一人だけの場所。
人材発掘だけはしていい。
そういって、イントラネットにつながったPCと。スマホを充電するための電源だけを用意して。
事実上閉じ込めた。
パパはそれに対して、何も言わなかった。
どうやら、自分が負けた事を、素直に受け入れてくれているようだった。
ここからが、大変だ。
まず朝一に、緊急特番を組んでもらう。
961プロは玲音が所属していることもあって、中堅上位程度の実力の事務所としては注目度が高い。
故に、早い段階で。
マスコミが動く前に、先手を打っておく必要があると判断したのだ。
すぐに記者会見を行い。
詩花はいつものアイドルとして活動するときに着る、白を基調とした服のまま。記者会見に臨んだ。
兎に角黒をベースにしていた今までの961プロとは根本的に違う。
それを見せておかなければならなかった。
カメラの砲列が向く。
幸い、此処に呼んでいるのは基本的にまともなマスコミだけだ。
なんでも70年ほど前に世界大戦の危機があったらしく。その時には世界中の政治家の努力で、世界大戦は何とか回避されたという。
以降、社会の有り余ったリソースがアイドル業界に注がれて。
今の時代が作られている。
マスコミも比較的お行儀がいいが。
それは玲音いわく、利権が絡んでいないからというのが大きいらしい。
ひょっとしたら、70年前がターニングポイントで。
世界大戦が起きてしまっていたら、その時に世界そのものが滅んでしまったかも知れないし。
芸能界やマスコミ、アイドルという存在も。
今と全く違うものになってしまっていたのかも知れなかった。
いずれにしてもだ。
詩花はやらなければならない。
まずは、この記者会見からだ。
この間のスターリットシーズンプロジェクトのラストでは、十万を超える観客の前で全力でのライブを披露した詩花だ。
こんなカメラの砲列程度、それこそ何の問題も無く平常心を保てる。
そのまま、順番に社内クーデターの経緯について話をしていく。
誰も、横やりを入れるような事はなかった。
「……以上がクーデターの経緯となります。 何か質問はございますか?」
「よろしいでしょうか」
手を上げたのは、大手マスコミの記者の一人だ。
相応に注目度が高い961プロは、当然黒井「前」社長の悪辣さも有名である。
業界にいるなら当然知っているレベルの話で。
今までの話についても、当然把握していただろう。
「今後の方針について、前社長とは真逆の方向性で行くと言う事でしたが。 具体的なプランなどをお聞かせ願えますでしょうか」
「はい。 今後のアイドル育成プランについてですが……」
順番に説明をしていく。
昔のパパは。プロデューサーにアイドルの管理を任せるのでは無く、全員を自分で指導していた。
社長と兼任での仕事だったから、言う間でもなく激務だった筈だが。
それでも多分、やはり心の奥底では楽しかったのだろう。
何人かに証言を聞いているが。
厳しいながらも、何処か楽しそうだったというのを覚えているという。
結局961プロを離れてしまったアイドルにも話は聞いた。
それによると、961プロ時代は思い出したくもないけれど。
基礎的な部分は学ばせて貰ったと、感謝する気持ちも少しはあるのだそうだ。
近年は年齢による衰えもあって、パパはプロデューサーを置くようになったが。
基本的に自分のイエスマンしか置かない方針を続けていた。
これも再教育の対象だ。
いずれにしても精神論や根性論を廃し、科学的なレッスンを中心に個々の良さを伸ばし、メンタルケアにも力を入れる。
これらには、新しくスタッフを雇う。
また、尊敬している業界随一の豪腕と名高い、765プロのトッププロデューサーにもアドバイスを貰う予定だ。
順番に全てを説明すると、記者は納得したようだった。
「なるほど。 今までの黒井社長の方針とは真逆になりますね」
「そうなります。 今までの方針では、多くのアイドルを取りこぼしてしまっていたのが事実です。 今後はその失敗を鑑みて、一人ずつを大切にして、未来のための人材となって貰います」
勿論記者達はすぐには信じてはいないだろう。
詩花はアイドルとして、今まで醜聞など一切無しに過ごしてきたつもりだが。
それでも今後は口だけでは無く、社長としての行動を見せていく必要がある。
他にも幾つか質問が飛んできたが。
どれも想定の範囲内だ。
全て的確にさばく。
それらを見て、記者達は少なくとも詩花が操り人形ではないと判断したのだろう。納得して、質問の時間が終わった。
その後は、まだまだやる事がある。
少し休憩を入れる。
甘いものを少し食べて。更に水を飲む。
玲音は、今単独で活動して五万人ほどはいる会場を満員にしている。
多分、至近にいる詩花が一皮剥けたのが面白くて、興奮状態にあるのだろう。
軽くスマホで画像を見てみたが、いつも以上にパフォーマンスの切れが鋭い。
リミッターを解除していると見て良さそうだ。
会場の興奮も凄まじい。
観客が冷えることは、これほどの規模の箱でも一切無さそうである。
頷くと、次だ。
すぐに連絡を入れる。秘書が手帳を見ているのは、時間が限られているからである。
連絡を入れたのは、敬愛している765プロのトッププロデューサー。
向こうは先にメールを入れておいた事もあって、すぐに応じてくれた。
「グリュースゴッド。 お久しぶりです、プロデューサーさん」
「久しぶりだ。 961プロで動きがある事は知っていたが、随分と大胆な行動に出たものだな」
「パパには……もうこれ以上歪んでほしくありませんでしたから」
「そうだな。 黒井社長はどうも理想を追い求めるあまり、それが途中からねじ曲がってしまった雰囲気を感じた。 この間酒の席で持論を聞いたが、理想はきちんとある人物ではあると私は思う」
765プロのトッププロデューサーにて、現在業界最高のプロデューサーとも言える彼女は、あらゆる全てがもの凄い。
今回連絡を入れたのは。
協力を仰ぐためだ。
彼女の信念は知っている。
「業界の熱量を上げること」。
一人だけ凄いアイドルがいても、決して業界の熱量そのものは上がらない。ライバルがいてこそ、星々は輝く。
一世代前には日高舞。少し前からは玲音というトップアイドルが存在しているこの世界だけれども。
しかしながら、結局それら規格外アイドルには、ライバルが出現しなかった。
故に熱量は、一人でできる範囲内だった。
日高舞は新曲を出す度に大きなビルが建ったという伝説が残されているが。
逆に言うと、その程度の力しか。
「時代」とまで言われたアイドルが生み出せなかったという事である。
更にもっとこの業界の熱量を上げ。
文字通りの文化として、最高の状態に仕上げたい。
そんな野心を、飯島桜花というこの怪物的プロデューサーは持っているらしい。
彼女はアイドル以外は何でもできるという才覚の持ち主だ。
更には、最初はアイドル志望でもあったらしい。
だから、夢をアイドル達に託している側面もあるらしいのだが。
それでも、現在の彼女の言っていることはまともだし。
何よりも、手腕はどこの大手事務所にいるプロデューサーより上だ。
「それで、私に連絡をしたのは何用か」
「パパのせいで弊社を出て行ってしまったアイドルに覚えがあると思います」
「ああ、うちにも三人いる」
「はい。 勿論プロジェクトフェアリーの三人を引き抜こうなんて思っていません。 パパが潰してしまって、弊社を出て行ったアイドルの内。 インディーズで細々と活動している人達や、活動を止めてしまった人達。 そういった人達を、再雇用しようと思っています」
ふむと、通話の向こうで765プロのトッププロデューサーは頷いたようだった。
どうやら、彼女とも利害は一致する。
恐らくは一致するだろうと詩花も思っていたのだが。
こればかりは話してみないと何とも言えない。故に、少しだけほっとした。
「私に求めるのは再教育のスターターか?」
「後は本当に申し訳ないのですが、引率もお願いしたく思います」
「分かった。 其方で声を掛けられそうな人材については任せる。 無理そうな者はリストを送ってくれ。 此方で説得する」
「ありがとうございます、桜花プロデューサー」
うむ、と小さく頷くと。
それだけで相手は通話を切った。
すぐにメールでリストを送る。
秘書が視線を送ってきたので、詩花は立ち上がると。
すぐにタクシーを使って、さっきの話。
961プロを離れてしまったアイドル達との交渉に向かう。
一人だけでは無い。
玲音が貸してくれたスタッフも一緒だ。
秘書に、移動中に話を聞く。
「パパはどうしているかしら?」
「ふらふらと外を歩いておられるようです」
「……仕方が無いわ。 監視だけしてあげて」
「了解しました」
秘書は実の所、今回のクーデターにおける唯一の懸念事項だった。
パパが犬として育成しなかった珍しい人材だからだ。
何でも、流石に秘書はイエスマンとするわけにはいかなかったらしく。自分の知っているノウハウを叩き込んだらしい。
やり方は当然厳しかったそうだが。
しかしながら、この秘書自身はパパに感謝しているらしく。
玲音がそれを一度相談しにきた。
だが、詩花が話をしに行くと。
秘書はクーデターに驚くほどあっさり賛同して、協力的だった。
裏でパパに情報を流すのでは無いかと懸念したが、そんな事もなく。
どうやら、同じように。
パパがおかしくなっていく様子を間近で見て、何とかしたいと思っていたらしかった。
秘書はいったのだ。
黒井社長を首にしないことが、協力する条件だと。
詩花はそれを受けた。
だから、今も秘書は詩花の秘書をしてくれている。
「まずは此方ですね。 既にアポは取り付けてあります」
「ありがとう。 それではいきましょう」
頷くと、玲音の貸してくれたスタッフと一緒に降りる。タクシーの運転手は可哀想だ。助手席に乗っていたのはそのスタッフ。サングラスに黒スーツの、威圧的な人物なのだから。
玲音が日本がお気に入りだというのもよく分かる。
こんな風なスタッフを周囲に置かなければならないというのは。
それだけ、危険な国でも仕事をしていたと言う事なのだろうから。
今は殆ど戦争が起きている国なんてないとはいっても。
それでも危険な国は、やはり存在するのだ。
小さなカフェだ。
雰囲気はそこそこにいい。だけれども、待ち合わせをしていた元アイドルで。パパに潰されてしまった子は。窶れてしまっていた。
詩花が挨拶をすると、悲しそうに礼をする。
まず最初に、パパがしてしまった歪んだ接し方について頭を下げる。ぐっと唇を噛んでいた相手だが。
詩花に顔を上げてくださいと言うのだった。
「私、インディーズのアイドルとして、どんな仕事もしてきました。 今後は、それが変わると判断して良いんですか」
「勿論です。 もう二度と、歪んだ持論の押しつけはありません」
「……信じても、いいんですね」
「契約書です」
すっと契約書を出す。相手はそれを食い入るように見ていた。
普通、悪徳企業が出す契約書は殆どの場合細かい文字が大量に書き連ねられていて、契約者をだまくらかし。なおかつ自分にとって契約書が不利だった場合は、平気でそれを破棄もする。
アイドル業界だと滅多にないが、インディーズアイドルなどのかなり下の方になってくるとやはりいるらしい。
犯罪組織は現在も悲しい事に存在している。
オーストリアにもいた。
そういった犯罪組織が絡んでいる会社になると、よくあることだという。
需要があれば、供給を求められる。
人間性を放棄するような仕事をさせる会社は、だいたいの場合契約なども極めていい加減だ。
玲音が連れてきたスタッフは、その辺り非常にしっかりしている。
ちゃんとした契約書だと言う事を、どうやら弁護士でもあるらしいスタッフが順番に説明していく。勿論弁護士の登録ナンバーもしっかり見せる。
本当に良いスタッフを抱えているんだな。
詩花は感心するばかりである。
「分かりました。 どうやら信じて良さそうですね」
「此方でもレッスンやメンタルケアなどには最高のスタッフを用意します。 ただし、努力の方はできる範囲でしっかりしてください」
「はい」
窶れていた顔に、少しずつ生気が戻り始めている。
パパが滅茶苦茶にしてしまった人生を。
詩花が少しでも、取り戻させてあげなければならなかった。