邪祓師の腹痛さん【富士見L文庫より書籍発売中】   作:深川我無

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山下邦夫の話⑪

 山下は使い古した黒い鞄の中にタオルで巻いた出刃包丁をそっと忍ばせた。妻を殺して何もかも終わりにしよう。それ以外のことは何も頭に思い浮かばなかった。ただ今から自分が何をすべきか、どう行動するべきかははっきりと分かった。

 

 あの女は必ず来るだろう。金にうるさい女だ。そのうえこちらから離婚に応じるとなれば願ってもないはずだ。山下は電車を乗り継いで件の廃ビルの前に到着した。見ると一台のタクシーが停まっていた。山下はタクシーに近づいて運転手に声をかけた。

 

「誰か待ってるのかい?」

 

「はい。お連れ様と待ち合わせだとか言って女の方を乗せてきたんですが、すぐに話は済むだろうから待っていてくれって頼まれましてね」

 

「私の連れです。しばらくかかると思うから行ってくれて構わないですよ」

 

「そうは言われましてもね。待つように言われてますから」

 

「早くいけぇえ!!」山下はそう言うと運転手に掴みかかった。運転手は山下のあまりの剣幕に、慌てて車を発進させた。

 

 山下はタクシーが走り去ったのを確認すると窓を見上げた。とにかくあの女はちゃんと来ているようだ。山下は鞄から出刃包丁を取り出すと、しっかりと後ろ手に柄を握りしめた。廃ビルに踏み込むと湿った空気が山下にまとわりついた。しかし不思議と悪い気はしない。まるで悪役の登場シーンを彩るスモークのようだ。廃ビルに立ち込める陰鬱な空気を纏って、山下は颯爽と待ち合わせの給湯室へと歩いた。

 

 扉を開けるとベッドに妻が腰掛けていた。いつも着ていたピンク色のブラウスが月明かりに見えた。年甲斐もなく茶髪にゆるいパーマを当てて、まるで娘と同じような恰好をしている妻の後ろ姿がそこにはあった。

 

 山下は小さなシンクの上にかけられた鏡に映る自分を見た。痩せこけた頬に、みすぼらしいスーツ姿の冴えない初老の男がこちらを見ている。その後ろには同じように冴えない男たちの行列が続き、それらが口々に山下の耳元で殺せと囁いていた。

 

 山下は妻のほうにゆっくりと歩いていった。

 

「お前来てたのか」

 

 山下が声をかけても女は振り向かない。

 

「待たせて悪かったな」

 

 山下はそう言って後ろ手に隠していた出刃包丁を頭上に構えて妻の肩に手をかけた。

 

 

「俺もすぐに行くから!!」

 

 そう言って出刃包丁を振り下ろそうとした時、肩を掴んでいた手を捻り上げられた。痛みで抵抗出来ない上に、足を蹴られて地面に組み伏せられてしまった。気が付くと女は自分の背中に跨っていて、出刃包丁を持つ手は膝で踏み押さえられていた。

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